全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
ネヘミヤ三章では、この麗しい特徴が現れています。全員がこの証しに関して共に協力しあったのです。この章では、あるささやかな句が絶えず繰り返されていることに気づきます――「彼の隣で」「彼の隣で」「彼の隣で」というように。さて、これはある事実を繰り返したものにすぎませんが、聖書を読む時は、いつでも想像力を働かせてもかまいません。そうすることは常に良いことです。そのありのままの事実が述べられていますが、そ...
全員がこの証しに関して共に協力しあうこと そして、さらに、他のものはみな、この一事――この証し――と足並みを揃えるようになり、従うようになりました。私はこの素晴らしい動きに感銘を受けました――ネヘミヤ記を注意深く読み返すなら、あなたはこの素晴らしい動きに感銘を受けるだろうと思います。あらゆる商売、あらゆる天職、あらゆ職業、あらゆる地位の人々がいました。祭司たちがおり、金細工職人たちがおり、薬剤師たちがお...
使徒行伝に記されている偉大な動きの一つに次のようなものがあります。使徒たちはみな、エルサレムを「キリスト教」の本部にしようとしていました。エルサレムが世界のすべての中心になると思っていました。そこで、この中心が建て上げられて、エルサレムに集約されつつありました。聖霊は介入して言われました、「だめです――本部は天にあります。この地上にはありません」。そして、人々を一掃してエルサレムから追放されました...
御霊の御声 しかし、次に、ネヘミヤ記にはもう一つの要素があったことに気づきます。それはラッパでした。ラッパを持つ人をネヘミヤは配置しました。その時の言葉を思い出してください。「どこででも、あなたたちがラッパの音を聞いたなら、その所で、私たちのもとに集まってください」(ネヘミヤ四・二〇)。そのラッパが統括していました。このラッパは何でしょう?私が思うに、旧約聖書のラッパは常に聖霊の御声の型です。言い...
主なるキリストの統治 さて、それらの要素のいくつかを見ることにしましょう。第一に、皆がネヘミヤに服した様はとても印象的です。これは、エズラ記とネヘミヤ記をとても注意深く読まないかぎりわかりません。エズラ記を読むと、反抗的な人々や支配者たちや祭司たちが大勢いたことがわかります。彼らは状況に関する自分自身の考え、自分自身の意志と自分自身の方法を持っていました。エズラや彼の考えを受け入れようとはしません...
天からの動き 第一に、ネヘミヤ記と使徒行伝の二つの書を見ると、天からの動きがあった事実に気づきます。覆って、全く浸透する、神の霊が動いておられた事実に気づきます。ネヘミヤ記では、それはバビロンで始まりました。神の霊が動き出されました。まず、ペルシャのクロス王の霊を奮い立たせて、それを推進するための命令と備えをさせられました。天からの動きがありました。次に、それはこのネヘミヤという人の心の中に移って...
ネヘミヤ記と使徒行伝の対応関係 さて、私たちはさらに先に進まなければなりません。なぜなら、神はペンテコステの日にご自身の証しを完全に回復されたからです。ネヘミヤ記と使徒行伝の間にいかなる対応関係があるのかを見ると助けになります。証しが再び完全に興されました。主の証し、「イエスの証し」がペンテコステの日に完全かつ十分なものになりました。ネヘミヤ記の特徴がみな、使徒行伝の中に、特に最初の数章の中に見ら...
思い返すと、アブラハム――当時はアブラムでしたが――はバビロン・カルデア・それらが意味するところから分離されました。彼は「土台のある都を探していた」(ヘブル十一・十)と述べられています――その都はあの天の都、あの天のエルサレムの型です。それは最終的に完成されて、「天から出て神から下って来」ます。それは「神の栄光を持って」います(黙示録二一・二)。アブラハムが見た都は天のエルサレムの型でした。この二つの...
エルサレムの城壁はキリストの絵図である この城壁は何でしょう?エルサレムの城壁はキリストの絵図です――第一に、天の観点、天の光、天の眼から見たキリストの絵図です。天の観点から見たキリストの姿です。これが常に評価・判断の出発点です。城壁はまた、この世に対して表されるキリストの絵図でもあります。そして、サタンの王国、敵対勢力に対して表されるキリストの絵図でもあります。それは三つの外面的な意味――天に対する...
ビジョンと情熱を持つ器 しかし、そのような器は、それが個人的なものであれ団体的なものであれ、常に神のビジョンを持っていました。そのような器は、主を見、神の御心を見、神の御旨を見て、神が永遠の過去から意図してこられたものに捕らえられ、魅了されました。それを他の人々よりも遥かによく見ていたのです。見るだけではありません、原理的に神の御心・御意志・御旨の「先見者」であるだけではありません。それに対する神...
そして、神の新たな動きにはどれも、二つの特徴があります。 第一に、内在的完全性です。つまり、さしあたっては部分的なものにすぎないかもしれませんが、その中には内在的価値があるのです。それは、全体の可能性をすべて持っているものです。なぜなら、神が行われることはみな、それがさしあたってどれほど小さなものだったとしても、神の御心がその中に、またその背後にあるからです。神は、断片が全体であるかのように、断...
へブル人への手紙の著者が多くのことを述べた時、彼は、「そのすべてを一つの明確で正確な声明にまとめる必要がある」と確かに感じていたので、「今、私たちが語っている事の要点はこうです」と書き記しました。欄外では、「今、私たちが語っていることを要約すると……」となっています。今、そのような必要が私たちにもありますので、これまで述べてきたことをまとめて、焦点をあてることにしましょう。神の反応 神の働きの歴史...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (9)
十分の一税の回復 もう一点述べて終わることにします――十分の一税の不履行についてです。当時の状況を描写したマラキは、主の十分の一税の件に関してこの民が怠っていることを非難しています。彼は、神からの言葉を語って言いました、「あなたたちと全国民は、わたしのものを盗んでいる」「しかもあなたたちは言う、『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのですか?』。十分の一とささげ物によってである」(マラキ三・...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (8)
血統の純粋性の回復 さしあたってもう一点――混合の状況が存在していたことについて。この民の子供たちはヘブル語で話せなかったと述べられています。半分は一つの言語で、半分は別の言語で話していました。次に、外の諸国民との異種族間結婚について記されています――多くの男性が外国人の妻を持っていました。このように、主の民の中に混合の要素や特徴がありました。そこで、ネヘミヤはそれを一掃する働きに取りかかりました。彼...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (7)
回復された安息日 さて、次の点は――安息日です。ネヘミヤ記では安息日に十四回言及されています。安息日が無効化されていました。その証拠が欲しければ、ネヘミヤと同時代のマラキを見てみるといいでしょう。彼がそれについて何を述べているのかがわかります。しかし、このネヘミヤ記では、安息日について十四回言及されており、したがって、実に大きな地位を占めています。ご存じのように、この人々は無効化された安息日を表して...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (6)
天のエルサレムの特権 次に、この城壁はエルサレムの城壁であり、別のエルサレム・霊的な天のエルサレムを指し示すものであって、天的特権、天のエルサレム・天の自由人の特権を物語っています。 ある出来事を思い出してください。使徒パウロが囚われの身となった時のことです。彼はローマの百人隊長の所に連れて行かれ、鞭打ちによって取り調べられることになりました。つまり、人々は問題がいったい何なのかを彼から聞き出すた...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (5)
負債は完済された この城壁は、次に、負債は完済されたこと、また恵みが豊かに与えられたことを物語ります。これは単純な基本的福音ですが、素晴らしいです。負債は完済されて、債権者は満足しました。主イエスが私たちのために十字架でこれをなしてくださいました。律法に対する負債をすべて支払い、律法を満たし、債権者を追い払ってくださいました。私たちを債権者――律法――から解放してくださいました。私たちをすべての負債か...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (4)
ですから、この城壁は恐怖に対する防波堤を表し、物語るものです。どんな都の城壁もこれを意味します。もしその名にふさわしいものなら、これこそがその目的です。よく聞いてください、当時、人々は城壁をとてもしっかりととても頑丈に築いたものでした。トビヤがなんと言おうと、「一匹の狐が上っても、崩してしまうだろう」(ネヘミヤ四・三)というような、一時しのぎの間に合わせではありませんでした。造られた狐をすべてこ...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (3)
では、この城壁は何でしょう?それが壊れている状態は、死をもたらすなにかが起きたことを意味します。そのなにかとは、満たせなかった律法の支配です。この債権者を宥めることも、満足させることもできませんでした。律法は債権者でした。律法を破るなら、束縛の中に、隷属の中に陥ります。律法という恐ろしい重荷を背負うことは死です、すべて死です、生きている間に経験する死です。ですから、城壁の再建は、なんらかの形で証...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (2)
再建された城壁は恐れから守るものである あなたは、列王記第二の四章に記録されている、預言者エリシャの人生における別の出来事を思い出すでしょう。その物語はご存じでしょうが、ごくわずかな文章にまとめるとこうなります。死が訪れました。債権者が来て、返済不能な金額を要求しました。律法が扉の前で、束縛すると威嚇しており、恐怖に憑りつかれています。この状況にエリシャが立ち向かいます。この人は、ご存じのように、...
「主の証しの全き回復」第五章 城壁は何を物語っているのか (1)
聖書朗読:ネヘミヤ五・二~六、ルカ四・十四~二一、二列王四・一~四。 この一連のメッセージでは、旧経綸における主の偉大な僕であるネヘミヤが、主の証しの完全な回復について、私たちに説明し、導いてくれています。ネヘミヤは、自分は「大きな働きをしている」のであり、神がそれを自分の心の中に置かれたのである、と述べました。私たちが関心を寄せているのは、この大きな働きです。それは、ネヘミヤがエルサレムの城壁を...
神は、物事の枠組以上のこのなにかを求めておられます。それは名状しがたいものです。時々、あなたは蓄音機のレコードに記録された詩歌――見事な美しい詩歌――を耳にすることがあるでしょう。これらの詩歌は、二つの異なる種類の人々によって歌われるかもしれません。ある詩歌は、とても有能でとても芸術的な合唱団によって、完璧な技術と見事な芸術性、そして素晴らしい声とハーモニーで歌われるかもしれません。他方、他の詩歌は...
旧約聖書における絵図 この絵図が旧約聖書の中にあります。エリシャとエリコの人々の例があります。ある日のこと、エリコの人々がエリシャの所に来て言いました、「この町の状況は良好です――見通しは良好です――しかし、水が悪く、この地は不毛なのです」(二列王二・十九)――これは死の印です。もちろん、その原因をあなたはご存じでしょう。エリコが滅ぼされた時、その上に呪いが宣告されたことは、覚えておられるでしょう。ヨシ...
「塩は制限なく与えよ」。これはネヘミヤの回復の証しの中にもありました。つまり、より豊かな命です。豊かな命です。これが、この生命力に満ちた要素が、主が求めておられる証しです。「あなたたちは地の塩です」。別の言い方をすると、あなたたちはこの死んだ世界でまさに命である、ということです。この地上にあるものはみな死んでいます――神に関するかぎりすべてが死んでいます――クリスチャンだけがこれを知っています。確か...
すべては命で充満される さて、一般的に命と称されているものと、神が意味されるところの命との間には、かなりの違いがあります。これが塩に関する節を読んだ理由です。私たちが話している命の中には、ある要素があります。用いる言葉を「命」から「生命力」に変えたとしても、それは表現を変えたにすぎません。それは表現の異なる同じ言葉ですが、ここでは有用です。この命の中には生命力に満ちた要素があります。そこにはなにか...
復活は神の専権事項である これまでたびたび述べてきましたが、復活は神の専権事項です。私たちは、蘇生術の人工呼吸については多くのことができますが、復活についてはなにもできません。ひとたび死が訪れるなら、人の力も希望もすべて終わり、あとは神が行動されるか、あるいは無かです。神は復活の神です――それは彼だけの特権です。ですから、真に神の御業であるものはみな、不滅で不朽の命以外には説明のつかないこの印を帯び...
死に対する天のエルサレムの全き勝利 地のものから天のものに移る時、旧経綸――パウロがこの地上に「今ある」と述べている、あのエルサレムの経綸――を離れて、使徒が天にある「上なるエルサレム」(ガラテヤ四・二五、二六)と述べている別のエルサレムに、あるいはヘブル十二・二二によると私たちが今いるあのエルサレムに、あるいは最後に全き栄光の中で現れるエルサレム(黙示録二一・十)に移る時、私たちは何に移るのでしょう...
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全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...