イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)ヨハネ福音書に基づいて講義する。〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。「誠に誠に汝らに告げん……...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(5)
命の問題 ケルビムが見られるすべての事例で問題となっているのは、命の問題です。永遠で、不滅の、死を征服する命です。再び創世記三章から始めることにします。そこでは、彼らは命の木の道を守るために置かれています。それは命の問題であり、誰がこの命によって生き、誰がこの無限の命の力で神に仕えるのかの問題です。 最初から命と奉仕は同行していることに注意してください。アダムは神の同労者と呼ばれており、神は被造物...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(4)
ケルビムが取る姿、その四つの顔について考えてみてください。人の顔、獅子の顔、雄牛の顔、鷹の顔です。獅子は統治、雄牛は奉仕、鷹は天的奥義、人は神の表現、「人の子」を表しています。キリストのこの四つの霊的特徴を見るのは難しくありません。彼は主権者です。「統治権は彼の肩にある」。天と地の権威が人の子である彼に与えられています。その奉仕といけにえはまったく明らかです。天的奥義についても同じです。「初めに...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(3)
ケルビムの意義 ケルビムの意義を理解するのは容易ではありません。それによって神秘の領域にもたらされるおそれがあります。ケルビムに関する多くの御言葉があります。まず、エデンの園の門で、命の木の道を守っています(創世記三・二二~二四)。次に、契約の箱のあわれみの座の上にいます(出エジプト二五・十八、三七・七)。それから、幕屋の幕に刺繡されています(出エジプト二六・一)。それから、イザヤ六・二、六の預言...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(2)
キリストを知ること これが私たちがここにいる目的であることについて、私は疑いや疑問をまったく心に抱いていません。神との私たちの関係のすべての領域と範囲に関して、すべてが、少しの例外もなく、御子イエス・キリストと結びついています。彼の外では神について知ることはできません。奉仕のために、生活のために、そして時と永遠におけるすべてのことのために、神について私たちが知る必要があることはすべてキリストの中に...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(1)
聖書朗読:二列王記二・十九~二二。創世記三・二二~二四。出エジプト記二五・十八、三七・七。黙示録二二・一~四。 とても初歩的かもしれませんが、それにもかかわらず、次のことはきわめて重要です。すなわち、主の民は、自分たちが主の民としてなんのためにここにいるのかを自覚して、明確にしっかりと心に留めなければならないのです。 大多数のクリスチャンに「なぜクリスチャンとしてこの地上にいるのですか」と尋ねたと...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(6)
私たちが自分自身の道を進むために戦っているかぎり、主と喧嘩しているかぎり、疑念を持っているかぎり、恐れてびくびくしているかぎり、主はなにもすることができません。勝利が事実上明らかになるのは依然として先のことでも、それにもかかわらず心の中で戦いをくぐり抜ける地点に私たちが達する時、主は望むことをなんでも行うための道を得て、神の救いを示してくださいます。主は主です。主は御座に着いておられます。主は勝...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(5)
バビロンのあの三人を主は火から救いませんでしたが、火の中で救われました。これは三人にとって実際に益になった、とあなたは思わないでしょうか?それは彼らにって大きな益になった、と私は確信しています。それは主権的行為でしたが、火の中に彼らが入らないようにするための主権的行為ではありませんでした。彼らを火の外に保つことよりも遥かに大きな問題がかかっていたのです。私たちは往々にして、主になにかを行ってくだ...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(4)
主の主権的行為は私たちにとって必ずしも道徳的価値があるとは限らないことを、覚えておく必要があります。あなたが大きな困難の中にあり、そこからどうしても抜け出せないとしましょう。あなたは主に叫んで、「主よ、この困難から私を助け出してください!」と言います。すると主は言われます、「よろしい、私の子よ、私はここにいます。あなたを救ってあげましょう」。そして、主は雑作なく御手を伸べてあなたを困難から助け出...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(3)
ここに、アンモン、モアブ、セイル山の人々、大群衆がいます。主の民は、自然に圧倒されるようなものに直面しました。ヨシャパテは言いました、「私たちを攻めて来るこの大軍の前に、私たちに力はありません」。当然のことながら、彼らに勝ち目はありませんでした。なにはともあれ、そういうことでした。天然的観点から見ると、勝ち目は完全に敵の側にありました。主の民は完全に不利であり、劣勢でした。状況的には、私たちに敵...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(2)
勝利の前の賛美 神の御言葉の中には、偉大な解放の後で会衆が歌った多くの事例があります。「そのときモーセとイスラエルの子らは歌った」(出エジプト十五・一)。これは紅海の向こう側でのことでした。与った解放や勝利のゆえに主を賛美することは、大いに良いことであり、大いに正しいことです。デボラも偉大な歌を歌いましたが、それは戦いから遠く離れた所でであり、勝利が得られた時のことでした。エリザベツは歌を歌いまし...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(1)
聖書朗読:二歴二〇・一~二五。 「だれでも感謝のいけにえをささげる者は、私に栄光を帰する。自分の道を正しくする者に、私は神の救いを示す。」詩篇五〇・二三。 しばらく前から強く何度も私の心に思い浮かぶ一つの言葉がありますが、それは主はご自身の民の賛美と協力して働かれることに関するものです。歴代誌第二の二〇章二二節、「彼らが歌って賛美を始めた時、主は伏兵を設けて、アンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲...
これらの城壁は、主の民の神聖な豊満の包括性・総括性を表すだけではありません。この贖われた群れの性格を表すだけではありません。排他性をも表しています。直ちに警告の言葉を発しなければならないのではないでしょうか?なぜなら、ここでは、外にあるもの、入ってはならないものについて、はっきりと述べられているからです。「汚れたもの、また忌むべきことと偽りを行う者は、決してそこに入ることはない。ただ小羊の命の書...
ですからこれらの石は、神が一つに混ぜ合わせて一体とされた多様性について、私たちに告げます。旧経綸に戻って、イスラエルの子らの十二部族の物語を読むと、その大部分は残念な物語です。ベニヤミン族についての物語のとても、とても暗い物語が思い出されます。それは聖書全体の中で最も恐ろしい物語です。それらの物語の一つは、今日、読むのに適さないという理由で、道徳的な人々が削除することを願っているものです。ああ!...
次の点は、これらの城壁は主の民の性格を示している、ということです。包括性の次は性格です。すでに述べたように、この都は神の民であり、城壁は主の民の性格を示しています。それらの城壁を見てください!碧玉、透明な輝くダイヤモンドがあります。幽玄な青色の美しいサファイヤ、暗深紅のざくろ石の玉髄、透明で純粋な緑がかったエメラルド、黒と白が混ざった縞瑪瑙、紅玉髄またの名をルビー、淡黄色の金色の石である貴かんら...
エペソ人への手紙三章十四、十六、十九節に再び戻ることにしましょう。「彼の栄光の豊富にしたがい(中略)あなたたちが満たされて、神の全豊満へと至るように」。聞いてください、「彼の栄光の豊富にしたがい、満たされて、神の全豊満へと至る」。これは大きな都です。エペソ三章の言葉は黙示録二一章の言葉と同じです――「その幅と長さと高さと深さ!」。壮大です!巨大です!満たされて神の全豊満へと至ることが必要です。それ...
聖書朗読:詩篇二四篇、黙示録二一・九~二一。 さて、神の都というこの象徴的表現が示している神の民のさらなる特徴について考えることにします。そうするとき、私たちは城壁と門によって示唆されているこれらの特徴・要素を前にすることになります。城壁と門 黙示録を読むと、この都の城壁と門についてなんと多く述べられているのかに気づきます。この「城壁」と「門」という二つの単語に下線を引くだけで、それらの占める地位...
神聖な統治の都 黙示録二一章は、人における神聖な統治のまさに現われです。この章の内容はみな、なんらかのかたちで数字の十二について述べています!十二は統治を示す聖書の数であり、完全な統治を意味します。この都はそれであり、統治・主権にあずかります。 ここには、中心から周辺まで、御座の権威があることがわかります。これにより、この都は主権の都に構成されます。「また彼は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せ...
勝利して突き進む力を十分に与えることができるのは、私たちの中におられる聖霊の啓示だけです――しかし、この啓示にはできます!それは人の霊の内側における啓示であって、真理についての――たとえそれが神に関する真理だとしても――知的理解ではありません。ああ、「私は知っています」と言えることにはなんという力があることでしょう。聞いたことがあるとか、読んだことがあるとかではなく、「私は知っている」と言えることです...
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、彼を知る全き知識を得させ、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、あなたたちの心の目が照らされ、神の召しの望みがどんなものであるかを、あなたたちが知るように。また聖徒たちの中にある神の嗣業の栄光が、どんなに豊富であるかを知るように。 また神の力強い大能の活動にしたがって、信じる私たちに働く彼の力が、どんなに超越して偉大であるかを知るように」エペソ...
神の都が建造されつつあります。そして、まさにその性質は永遠の命、不滅の命であり、私たちが挫折する時、私たちを支えてくれます。彼は忠信であり続けます。彼はなおも支えてくださいます。彼は永遠・不変だからです。これが私たちと共にあって、私たちは持ちこたえ、切り抜けます。「これらすべての事柄において、私たちを愛してくださった方を通して、私たちは勝ち得て余りがあります」――ローマ八・三七。これは奉仕でも同じ...
地上で私たちは試練、逆境、悲しみ、苦難を通っており、「主は自分を見捨てられた」と思うよう誘惑されています。敵は四方から、訴え、罪定め、疑問、疑念、恐れをもって押し迫っています。「堅く立って、動かされることなく」、なぜなら愛する人よ、これは確立する原理の働きであり、私たちの信仰の訓練だからです。私たちは苦悩、労苦を経験します。覚えておいてください、この確立する働きがなされるのは、私たちの目が彼に向...
敵が神の民にキリストにある自分の立場について疑いや疑問を抱かせる時、彼らは戦う力を奪われます。神はご自身の都をしっかりと建てなければなりません。そして、私たちは信仰の全き確信の中に立たなければなりません。 「都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた」――黙示録二一・十九。 「あなたたちの信仰が試されることは、金が火によって試されることよりも遥かに尊いのであって、イエス・キリストの出現の時に、賛...
疑念はサタンの主要な武器である 信仰の確信を妨げることがサタンの働きであり、彼の狙いは主の民に疑念を抱かせることです。疑いは、彼の働きの最も巧妙な手段です。最初の時もそうでした、「神はそう言われたのですか?」――創世記三・一。そして、これが依然として彼の方法です。これを阻止する方法、唯一の方法は、信仰の中に確立されることによります、使徒十六・五、コロサイ二・七。「信仰の中に堅く立ちなさい」―― 一コリ...
「確立する」という言葉を聖書全体にわたって辿ることにしましょう。「いと高き方ご自身が、それを確立される」――詩篇八七・五。 「彼は私を恐ろしい穴(ヘブル語では滅びの穴)から引き上げられた。彼は私の足を岩の上に置き、私の歩みを確立された」――詩篇四〇・二。 「シオンの山は、麗しい場所にあり(麗しい高みにあり、アメリカ改訂訳)、全地の喜びである(中略)偉大な王の都(中略)神はそれを永遠に確立される」――詩...
力、堅固さ、光、主権 この都、この神の民の土台は、とても堅固です。この土台は試みを経た石であり、その城壁は大きくて高いです。これはみな力と堅固さを物語ります。 御座は中心であり、弱さにおける神の力の現われです――御座の中央の「小さな小羊」は地獄と罪のすべての力よりも偉大です。小羊は勝利されました。御座の中央の小羊は、すべての領域で、あらゆる範囲・深さに及ぶ死に打ち勝った命です。弱さから発した力、永遠...
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イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)ヨハネ福音書に基づいて講義する。〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。「誠に誠に汝らに告げん……...
イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...
イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...
ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...
祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...
〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...
羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...
財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...
〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...
十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...
〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...
イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
栄光は喜び、平安、満足の事柄である どちらの場合も、その始まりは栄光に包まれていました。間違いなく、神の開始、神ご自身の開始は、常に栄光に包まれています。そして栄光は、それを分解するなら、それをプリズムを通して見るなら、喜びの問題です。それはたんに外的な光の輝きではありません。喜びです、奇妙な、しばしば説明のつかない喜びです。それは平安です。不和はやみ、緊張はなくなり、すべては良好であるという素晴...
神聖な開始における栄光 さて、この三つのうちの一つ目である「神聖な開始における栄光」に取り組むことにします。二つの顕著な事例を挙げて、十分な指標とすることができると思います。主イエスの誕生と、次に教会の誕生です。聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも、他にも多くの開始があります。聖徒の数だけ神聖な開始がある、と言えるかもしれません。それらはみな栄光を伴っていることがわかります。 ここではこの二つを紹介...
そしてまた、それは使徒行伝と共に始まる第二区分で使徒たち全員が抱いている支配的考えです。栄光の霊が使徒行伝の二章で登場します。栄光を受けた方の御霊が、栄光の中で来臨されます。教会は栄光で満たされました。教会は栄光の中にもたらされました。キリストが栄光を受けられたからです。そして、これが教会と宣べ伝えの基調、勝利の基調でした。人々が十字架につけたこの御方に、神は栄光をお与えになりました。使徒たちの...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。 私たちは、これまでのメッセージの中で、シオンを巡り歩いて、この天的・霊的裔――キリストとその民――の面をいくつか考えてきま...
見て理解して知的に解決できない時、なにも感じず、まったくなんの感覚もない時、あるいはとても悪い感覚がする時――それは一つの領域の事であり、あなたがどうであるかにすぎません。キリストはそうではありません。そのような時、私たちは、「主よ、これは私の弱さであり、これが私の有様ですが、あなたはそうではありません。私は自分の信仰を自分自身から、これらの事柄から、あなたに移します」と言わなければなりません。キ...
キリスト教は魂の命の事柄ではない 次に、土台であるキリストについてのパウロの言葉のこの文脈の中で、彼は、その土台の上に多くのくずや、多くの混ぜ物をもって建造している人々がいる、と述べています。調べてみるなら、そのくずが何なのかを見い出すためにあまり遠くを見る必要はありません。「金、銀、宝石、木、草、刈り株」というこの様々な材料でパウロが何を言わんとしているのかに関して、列挙する必要はありません。彼...
ペテロの言葉は、あらゆる点(それがなんであれ、私たちに欠けているので彼にその欠け目をご自身でもって満たしていただく必要があるもの)を網羅しています、「わたしはシオンに、選ばれた尊い隅のかしら石を据える。彼を信じる者は辱められることがない」。自分自身を見てください、もし放っておかれたなら、どんな結末になるでしょう?間違いなく――私たちにはその結末がわかります――恥と失敗です。もし放っておかれるなら、結...
「信じるあなたたちには尊いものです」。キリストに言えることがすべてここに記されています。このようにヨハネの福音書をもう一度読んでみてください。自分はこれである、と彼が述べておられることがすべて記されています。「わたしは命のパンである」(ヨハネ六・三五)。「わたしは世の光である」(ヨハネ八・十二)。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ十・十四)。「わたしはまことのぶどうの木である」(ヨハネ十五・一...
キリストの栄光を見るのです。なにものにもまして主イエスを現わしたいという熱い志を私たちの中に生み出してくださるよう、主に求めましょう。偉大な真理を説くこと、説教者や教師などになることではなく、主イエスを、彼ご自身から出ているものを、彼ご自身の臨在を、彼ご自身の尺度を、彼ご自身の性質を現わすことを求めましょう。宣べ伝えの機会が訪れるのは――そもそも私たちに宣べ伝える気があればの話ですが――私たちが話せ...
キリストの尊さは信仰を通して私たちのものになる 私たちは「尊さ」という言葉を取り上げて、これを土台として、神ご自身の性質とその神聖な聖なる要求をすべて満たすキリストは信仰を通して私たちのものとなる、と述べているのです。「信じるあなたたちには尊いものです」。この尊さとは、主イエスの麗しさと栄光の現れです。ああ、これはある種の主題に関する話である、と思わないでください。これは集会や、大会や、御言葉の学...
御父に対するキリストの尊さ さて、この尊さとは、第一に、御父にとっての尊さです。「見よ、わたし(つまり神の語りかけです)はシオンに、選ばれた尊い隅の石を据える」(一ペテロ二・六)。神に対するキリストの尊さを調べるなら、当然、次のような明確な結論に達するはずです。すなわち、神にとって尊いものとは、神ご自身の性質に応えるものであり、それなしでは神はことをなせないものであり、神にとって持たないわけにはい...
もしあなたや私が、より多くの光、より多くの啓示を持っている、と主張するなら――そのような主張をすることを神は断じてお許しになりません!――しかし、もしそう思っているなら、その証拠・真価は――人々は私たちの中に他の人々よりもキリストを多く見ているのか?ということです。なぜなら、神は決して御子を超えて進んだりはされませんし、理論や教えや教理やいわゆる啓示に向かって進んだりもされないからです。ただ、生ける御...
クリスチャンの目的は地上でキリストを示すことである 私の見るところ、このような問いに対する神の御言葉の答えはただ一つです。それはイエス・キリストを示すこと、表すことです。主イエスを見えるようにすること、表すこと、実際に地上におられるようにすることです。それは、すべての人が彼を見ることができるようになり、すべての人が彼を知ることができるようになるためです。あなたたちはこう言うかもしれません、「そんな...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。「……愛する者の中で、神が私たちに無代価で授けてくださった、恵みの賛美となるためです」(エペソ一・六)。「……キリストの中で...
「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら、それぞれの働きはあらわになります。なぜ...
勝利のうちに生き残るという私たちの確信を罪は弱める 私は、この確信を弱めるものを知っています。それを述べなければ、とても大事な点を見落とすことになります。生き残って、いずれあるいは最後には無事に切り抜ける、という私たちの確信を弱めるものは、自分自身の罪、自分自身の罪深さ、クリスチャンである自分自身の失敗に対する感覚もしくは自覚です。そうです、私たちはクリスチャンなのに罪を犯します。それを他の名で呼...
イザヤとエゼキエルの預言書を見ると、エルサレムは荒廃しています。エルサレムは荒れ果てています。ネヘミヤ記とエズラ記では、それはこの状況にあります。荒れ果て、荒廃し、その土地の人々は追放されています。これがエルサレムの有様であり、シオンの有様であり、イスラエルの有様です。エルサレムとシオンという言葉は、多くの場合、場所ではなく民に対して使われていることを、常に覚えておいてください。シオンの娘、エル...
キリストと正しい関係にあるものは勝利して生き残る さて、もう一言述べることにします。それは次のことです。すなわち、これらの土台は、もしくは、この土台――キリスト――と正しい関係にあるものは、勝利して生き残るのです。型・絵図であるエルサレムを見ると、それはとても良い例であり絵図です。ああ、この都にはなんという歴史があることでしょう。包囲され、攻撃され、蹂躙・破壊されてきましたが、それにもかかわらず、なん...
勝利の命の統合する力 次に、私たちは土台の統合する性質に、死に勝利する命の力によって統合する性質に進みました。ここでも私は追加の言葉を述べることにします。なぜなら、多くの啓示や多くの光・真理との不一致がこの方面で見られることがよくあるからです。私の時間の大半は、より多くの光を得た人々が他のクリスチャンたちに関して引き起こした混乱を解決することに費やされています。彼らは、からだに関する光、からだ・教...
キリストの堅固さ 第一章では、キリストは土台であり、堅固さの大きな要因であることを見ました。私たち全員にとって次のことは大いに明らかです。すなわち、もし私たちに真の霊的堅固さがないなら、もし私たちが堅固さと確信を持ち、霊的に頼りになる霊的にしっかりとした人々でないなら、もし私たちが一つ思いではなくて動揺している人々なら、私たちの土台、キリスト理解、キリストとの関係にはなにか大きな問題があるのです。...