婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたち...
前の章で、私たちは「神の都」の特徴をいくつか見ました。 1.天的性質を持つ霊的な民。「神が私たちの主キリスト・イエスの中で立てられた、永遠の御旨にしたがって」――エペソ三・十一。 2.神の民における神の栄光。ご自身の性質を一つの民において啓示し実現すること。「彼は、尊く、際立って偉大な約束を与えてくださっています。それは、これらの約束を通して、あなたたちが神聖な性質にあずかる者となるためです」――二...
この都には一本の通りしかありません。「都のその通り(the street、単数形)は純金であって、透明なガラスのようであった」(黙示録二一・二一)。これは主の民の交わりを物語っているのではないでしょうか?交わりの唯一の道……御言葉の中で道がいかに交わりを示しているのかを見てください。 「水晶のように輝く命の水の川」(黙示録二二・一)。これは絶対的に透明な命の証しです。透明さは内側から始まり、次に、そのような...
隠し事によって前進は阻まれる この都は、そのようないかなるものとも一緒に進むことはできません。中心にある川から周辺の城壁に至るまで、すべてが徹底的に透明でなければなりません。こうした分厚い私たちの天然の命と、私たちの魂的要素はみな、邪魔して混乱させます。霊の絶対的透明性がなければなりません。霧がやって来るのは、私たちが神と人の前で全く透明ではないからです。クリスチャンの交わりはこれによって破られま...
透明性は、一方において、徹底的なものであり、いかなる段階もありません。いかなる段階も真理にはありません。真理に至る道に段階があるだけで、ある人々は他の人々よりも真理に近づいています。しかし、真理は徹底的・決定的です。ですから透明性に関しては、もしその中に少しでも混ざり物があるなら、それは透明ではありません。透明性に至る道には様々な陰影を帯びた段階があるかもしれませんが、暗闇の影が一つでもあるなら...
あらゆる点で透明であること 透明性はこの都のとても顕著な特徴です―― 「エルサレム(中略)その光は水晶のように透明であった」(黙示録二一・十一)。 「その都は純金であって、輝く(透明な)ガラスのようであった」(黙示録二一・十八)。 「その都の通りは純金であって、ガラスのように透明であった」(黙示録二一・二一)。 「水晶のように輝く命の水の川」(黙示録二二・一)。 確かに、透明性はこの都の性質そのもの...
苦難と尊さ 門はまた尊さを物語ります。「門はみな一つの真珠でできていた」。真珠はどのように形成されるのでしょう?カキの殻の開口に刺さった小さな一片の砂粒によってです。これがカキを傷つけて刺さり、カキは血を流します。この血が他の諸々の要素によって作用して、真珠が形成されます。しかし、それはまさに自分自身の命を与えて、この価値あるもの――真珠――を生み出します。 神の御言葉では、「真珠」は偉大な愛に関して...
聖なる都、新エルサレムは、究極的に完成・成就・栄化された神ご自身の民の性質であることを、私たちは見ました。 彼は今、十字架を通して、永遠の御霊によって、この都を建造されつつあります。ご自身のかたちに、御子のかたちに、個々の構成員を形造られつつあります。このために私たちは定められました(ローマ八・二九)。神の民はキリストを明確に示すものです(二コリント三・四章)。都の門 黙示録二一章では、この都の...
主が求めておられる民は、地とその諸々の道から切り離されて、ご自身との関係の中にもたらされた民です。彼らの愛情は地上にあるものではなく、天にあるものに据えられていなければなりません。コロサイ三・一、二――「もしあなたたちがキリストと共に復活させられたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでキリストは神の右に座しておられます」。 復活と昇天は一つの行為であることを思い出してください。ヨハネ二〇・十七を...
パレスチナとシオン パレスチナは、神聖な事柄の中に侵入する人の天然的知性です。パレスチナの人々は御言葉の中では常に無割礼の者と呼ばれています。十字架から離れて、神聖な事柄を把握する、人の天然的知性です。バビロンに、私たちは天然の人の努力を見ます。パレスチナに、私たちは神の事柄を把握してその中に侵入する人の理性を見ます。 言葉の知恵による十字架の宣べ伝えがありますが、言葉の知恵はそれを無効化します(...
バビロンとシオン バビロンは、人の努力の産物であり、堕落した人の栄光です。「私たちは都を建てよう(中略)名を挙げよう」創世記十一・四。またダニエル四・二九~三〇「この大いなるバビロンは、私が自分の権力の力と、自分の権威の栄光とによって(中略)建てたものではないか?」。 ここに私たちは、天然的・宗教的な人の栄光を見ます。というのは、バビロンは常に宗教的であることを、私たちは知っているからです。黙示録...
エジプトとシオン ラハブは――エジプトです。天然の能力の象徴です。アブラハムは約束の地の中に入りました――そこは信仰による神の約束の地であり、信仰の最大の試練がそこで彼を待っていました。彼は異教徒がそこを占有しているのを見いだしました。彼らの偶像崇拝の祭壇が至る所にあり、その土地に大きな飢饉が起きました。そこで、彼は代わりにエジプトに向かいました。それは明らかに約束と矛盾することであり、約束を否定する...
特に教会のために書かれたエペソ書に移ることにしましょう。どれほどそれは「天上」について述べていることでしょう。エペソ一・三、二・六、四・十を参照。 主の民は、これが意味するところと代価を、なかなか受け入れません。私たちはあまりにも地上のものを欲しています。自分の労苦に対してすぐに見返りが得られる類のものを欲しています。感覚を満足させるもの、見えるものを欲しています。私たちを地から切り離して天的な...
黙示録二一・二二「私はその中に宮を見なかった」。なぜでしょう?この民は礼拝する民です――彼らが礼拝です。それは場所によらない霊的な礼拝です。 ヨハネ四・二〇「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたたち(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムであると言われます」。主は答えられました、「真の礼拝者たちが、霊の中で、また真理の中で、父を礼拝するようになります。そのような者たちを父は礼拝者として探...
第一の特徴は天的性質と霊性である それは「天から出て来」ます。それゆえそれは、天から出て来れるようになる前に、まず天の中にあったにちがいありません。 「彼らは天の都を探していました」。ヘブル十一・十「彼は土台のある都を探してしました。その建設者と作成者は神です」。 「私たちの国籍は天にあります」ピリピ三・二〇。 神の御言葉の中に、天の都のための材料について多く見いだされます。それが示唆するところは...
神の都は、私たちが行くことになる場所であるだけでなく、神の都でもあり、私たちはその一部です。 私たちは場所としての天に行くことになります。永遠に、無限の雲に行くわけではありません。むしろ、神の都、天の都、新エルサレムについて考えるとき、私たちは教会、キリストのからだについて考えようとしているのです。まさに、究極的事柄と関係しているあの都の性質と特徴を扱おうとしているのです。私たちは今、諸々の時や...
黙示録二一・九~十一「彼は私を御霊の中で、大きな高い山に連れて行き、聖なる都、新エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せたが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった。」黙示録二一・十八「その城壁は碧玉でできており、都は純金であって、透明なガラスのようであった。」黙示録二二・一「また彼は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。...
生活と奉仕との関連におけるケルビムT. オースチン-スパークス目次第一章 賛美の意義第二章 ケルビムの意義第三章 車輪――神の熟慮と御旨第四章 教会と生き物オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
十字架と神の都T. オースチン-スパークス目次第一章 究極的な事柄に関する考察第二章 都の門第三章 力、堅固さ、光、主権第四章 光の都第五章 神の都オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (11) 完
最終的に、あなたはこれをこの大会のメッセージとして受け入れるでしょうか?主に「あなたの負担を私の心の上に置いてください」と求めなさい……「これがあなたの負担であることを私に示してください」と求めなさい。主が話しておられることがわかるでしょう。それでも主は、ご自身の民、ご自身の僕たち、彼らのとりなしに頼らずに、それをしようとはされません。主が開始して、「私、私は黙っていない、私は休まない」と言われる...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (10)
「あなたたち、主に思い出していただく者たちよ、自ら休んではならない、彼がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを讃美とされるまで、彼を休ませてはならない」 「主に思い出していただく……」。これはどういうことでしょう?主に思い出していただくには、まず、主が求めておられるものを知っていなければなりません。情報を得て、知っていなければなりません。知っていて初めて、なにかを主に持ち出して、「さあ主よ、さあ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (9)
「私はあなたの城壁の上に見張り人を立てた、ああ、エルサレムよ、彼らは決して昼も夜も黙していない」 「私はあなたの城壁の上に見張り人を立てた……」。これは何を意味するのでしょう?この見張り人たちはなんのためにそこにいるのでしょう?彼らがそこでこのように熱心に警戒しているのは、異質な要素、邪悪な要素の侵犯・侵入からこれを守るためです。見張り人たちは警戒しています。警戒しているのは、なにがあってもこれを邪...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (8)
「あなたはもはや『捨てられた』と言われず、あなたの地は『荒れ果てている』と言われない。むしろ、あなたは『ヘフジバ』と呼ばれ、あなたの地は『ベウラ』と呼ばれる」 ヘフジバと何でしょう?これは述べたばかりのことの続きにほかなりません。ヘフジバは「私は彼女を喜ぶ」を意味します。私は彼女を喜ぶ。ああ、これを期待するのは行き過ぎでしょうか?これはあまりにも高い基準でしょうか?これが実現するという希望の根拠は...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (7)
「あなたは、主の口が名づける新しい名をもって呼ばれる」 新しい名です。新しい名です。どんな名でしょう?名は名声を意味します。あなたがどう呼ばれるか、人々があなたをどう呼ぶかによって、通常、人々はあなたを評します。イスラエルの名は名誉に欠けるものになっていました。諸国民はイスラエルを、あまりほめられたものではない名で呼ぶことができました。そして、主はここでこう述べておられます、「今、私は黙っていない...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (6)
「諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見る」 これは何を意味するのでしょう?「私は黙っていない。私は休まない、シオンの影響力と証しが世界に再び確立されるまでは。シオンがその地位と影響力を取り戻して、その証しが諸国民の間で認知・感知されるようになるまでは」。主の負担は、その影響力と証しが世界に感知される民、真に感知される民を得ることです――世人はその民からなにかを感じるのです。 全般的に...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (5)
これの示唆するところがなんとかわかるでしょうか?あのささやかな書であるルツ記では、贖いの問題、嗣業の贖いがかかっていたことを、あなたは覚えておられるでしょう。嗣業を贖う責任、贖う近親者として振る舞う責任を、ボアズは引き受けるのでしょうか?ナオミはルツにこう言いました、「私の娘よ、じっとしていなさい。あの人は、この問題に決着がつくまでは、安息がないでしょうから」。この問題に決着がつくまで、彼は休み...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (4)
回復のともしび、贖いのともしび これは何でしょう?回復された彼らの義というともしびです。これが希望です。見てください、主が述べておられるような内面の霊的状態に関する限り、まったく希望はありません。なんの将来も、なんの見通しもありません。なんの解放も、なんの救いもなく、なんの証しもありません。なにもありません。それに続くものはみな宙ぶらりんです。主が御心に適う民を、シオンが霊的に真に意味するところの...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (3)
「その義が輝きのようにあらわれいでるまで」 主は常にここから開始されます。主が常にどこから開始されるのかを知ることは重要です、きわめて重要です。開始する方法が少し先に示されています。主は常に、ご自身の民の内側の状態から開始されます。すべてがそれにかかっており、すべてがそれに続きます。これ――彼が関わっておられる民の内側の状態――に直面しない限り、どうにもなりません。その義、その内側の状況――その内側の状...
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婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたち...
水腫を患える人癒される(ルカ一四1~6)パリサイ人はさも宗教家らしく熱心家らしくイエスを招いた。しかしながら、彼らがイエスを招いたのは心よりではない。「人々彼をうかがいたり」これはキリストを待ち望む精神ではなくて、キリストをうかがう精神である。そのような人は決して神の恵みを受けることはできない。〔2~4〕「彼ら黙然たり」学者、理屈を張る連中でしばしばこのようなことを演ずることがある。三歳の幼な子にも知...
ヘロデのたばかりと主の答え(ルカ一三31~35)ヘロデは自らの言葉を貫き、人の栄えを求めようとしてついに正しきヨハネの首を取った故に、良心に責められ、その心には平和がなかった(マルコ六26)。ここにイエスの名声を聞き、また彼が奇跡を行うのを見てヘロデの心は動揺し、ついにイエスをもってヨハネの死より甦れる者となすに至った(マルコ六16)。彼の心中に不安があるのは当然である。故に彼は、イエスを他のところに退け...
十八年病んだ女癒される(ルカ一三10~17)「女よ、汝はその病いより放さる……」この女は十八年病んだ、実に気の毒な女である。わたしたちは一日病んでも実に苦しい。しかしながら十八年とは実に長いことである。人間の側からは望みのないこの女が、キリストによって癒された。何という幸福なことであろう。「置きければ……」英訳には両手を置いたとある。その時「直ちに伸びて神を讃美せり」ハレルヤ。これを霊的に味うならば、わた...
実を結ばないいちじくの話(ルカ一三6~9)この譬話はユダヤ人を戒めるために、主が語り給うたのである。ぶどう園とは異邦人のことで、いちじくはユダヤ人を指す。「来りてこれを求むれども、得ざりければ」神は実を求めに来り給う。これは記憶すべきことである。ユダヤ人は、他の国民より栄えを現わさねばならない者であり、また造り主なる神を拝すべきものである。しかしながら、バアルやアシタロテや金の小牛に仕え、これを拝し...
神は私たちの必要を満たし給うこと(ルカ一一22~31)註釈はマタイ伝六章においてなしたのでこれを略し、ただ異なる点のみを言う。〔29〕今日、有形的側面において信者も未信者もほとんど違いのないことは、キリストの嘆き給うところである。魂の悪い時には神に願うが、金のない時また身体の病気の時には、異邦人と異なるところのないことは悲しむべきことである。「ただ神の国を求めよ……」これは、神の国には肉体の恵みも含むこと...
唖の悪魔追い出される(ルカ一一14~26)この奇跡は、マタイによる福音書九章三十二節と同じであると言う者と、同十二章二十二節と同じものであると言う人があるが、いづれであるか明らかでない。註解はマタイ伝の時になしたので略す。愚かな富める者の譬話(ルカ一二16~21)〔15〕真実の安心は所有の高さによるものではない。この御言葉は多くの場合、未信者に当てはめるが、今日信者、伝道者の内にもこのような人がたくさんいる...
ラザロ甦らさる(ヨハネ一一1~46)ラザロの住んだベタニヤは、聖書中にも神の恵みの現われたところである。またこの地は神の栄えが現われる機会のあったところである。なぜならば、そのところにはイエスを重んじ、イエスを信ずる三人の兄妹があったからである。第一、ルカによる福音書一○38~42には、イエスは真の教師として現われている。またマリアは学ぶ者として現われた。すなわちマリヤは善き方を選び、キリストに心を奪われ...
イエス、ヨルダンの向うに退き給う(ヨハネ一〇40~42)このヨハネがバプテスマを施したところは、イエスにとって記念すべきところである。実にこのところは厳かなまた静かな幸福なところであった。〔41、42〕これはヨハネにとって幸いなことである。なぜならば彼がこのところにおいて伝道した種は、今このところで芽生えたのである。ヨハネはすでに牢に死んだ。けれども、彼の労は空しくはならなかった。我らも我らの伝道が目前に...
宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...
イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御...
ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお...
善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題であ...
七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。〔19...
羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であ...
盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここで...
節の後の説教(ヨハネ八12~59)〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わた...
姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるなら...
イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの...
イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ぱしさが交互に混ると言うようなありさまであ...
次に、天が開かれました。天が再び介入し、次に地獄も介入しました。なぜなら、誘惑はバプテスマの一部だったからです。誘惑はそれだけのものではなかったのです。「その後、イエスは御霊に導かれて荒野に行かれた」。このバプテスマは過去と未来のすべてに影響を与えました。どのようにすべての義が主イエスのバプテスマによって予型的に成就されたのでしょう?それはまさにこういうことです――神は最小限の要件として罪なき完全...
キリストのバプテスマの普遍性 ベツレヘムからヨルダン川に移ることにします。ヨルダン川は主イエスの生涯における次の重要な出来事です。彼のバプテスマの普遍的な意義と内容を見ることにします。まず最初に、バプテスマのヨハネが登場します。彼の誕生には大天使が関係していました。聖霊も関与しておられました。なぜなら、彼は生まれた時から聖霊に満たされることになっていたからです。バプテスマのヨハネは、旧約聖書のすべ...
批判的にはなりたくありませんが、主が御心にかなうものを得られますように、という熱意で私は燃やされています。きわめて危険な傾向が生じています。それは組織的な方法で「キリストのための決意」を求める大衆運動です。あなたが大衆的な方法で福音を説き、例話や物語や説明を持ち込み、感情を掻き立てるように計算されたものを持ち込む時、そして次に、なんらかの行動を求める時、それによって大衆が押し寄せて、その時から、...
その範囲と内容と豊かさを認識することがなんと重要でしょう。私たちは、主イエスと新生の意味について、その豊かさの中に細部に至るまで入り込まなければなりません。「私は再生されました」と言うだけでは不十分です。主は私たちを導いて、新生とは何か、その本質と現実を見せることを願っておられます。私は確信していますが、キリスト教の問題・弱さ・敗北のほとんどは、クリスチャンがキリスト教の意味を認識していないから...
新生の普遍性 主イエスの誕生とその普遍性についてはすでに述べました。それはたんなる「受肉」と称されている出来事ではないことを、私たちは見ました。それはそうではあるのですが、ただそれだけではありませんでした。私たちが御霊から生まれる時、上から生まれたがゆえに霊的な意味で上から下って来る時(とはいえ、私たちの新生と主イエスの誕生との間には大きな違いがあります)、それは聖霊の結果であり、そして新生によっ...
神が目指しておられる目標は、主イエスの普遍的主権です。しかし、主イエスはひとりの御方であるだけでなく、天的体系の代表者でもあられます。主イエスはひとりの御方として現わされただけではありません。彼はひとりの御方として啓示されましたが、それだけでなく天の体系の代表者としても啓示されました。昔の幕屋はそのすべてが主イエスを示すものだったがゆえに、包括的な体系でした。昔の宮は主イエスを予型的に示すもので...
コリント人たちを大いに悩ませた原因は、「あなたたちはみな、私はアポロにつく、私はケパにつく、と言って」いたことでした。自分たちが好む人々の選択を制限していたのです。彼らが人々の周囲を巡っていたので、パウロは「私はあなたたちに、霊の人に対するように書き送ることができませんでした。むしろ、肉の人に対するように書き送りました」と記しました。これは強力な原理の働きであり、こうしたものが入って来ると主は出...
天と、天の霊的な体系に属するものには、局所的なものにすぎないものはなにもありません。ここにあるもので神に適っているものはみな、神の御思いによると、普遍的なつながりがあります。私たちは、神に属するすべてのものが有している普遍性を見なければなりません。 パウロは偉大な例です。彼は特に天と関係していました。ダマスコ路の途上、天が開けて、彼は主の御声を聞きました。後に彼は再び天の啓示を受けました。その後...
ここで、子たる身分という問題の全容が見えてきます。子たる身分は常に復活と関係しています。主イエスの場合、彼は特に復活という根拠に基づいて神の子と定められました。これは、その前は彼は神の子ではなかった、という意味ではありません。子たる身分はこの根拠に基づきます。これはヨルダン川での出来事に象徴されています――予型としての復活という根拠に基づいて、御父の声が御子を証ししました。「あなたはわたしの子、今...
「天」の意味 「天の支配」について述べるとき、「天」という言葉が最も大事な思想です。私たちは聖書における天の象徴的意味を理解したいと思います。聖書の中で天が示す最初のことは普遍性です。聖書全体を辿っていくと、天は普遍性を表していることを常に見いだします――すべてに浸透し、すべてを包み、すべてを含む、天の普遍性を示しています。天はすべてを束ねます。存在するものはみな、天の内側にあります――どんな惑星を訪...
今日、天の支配が大いに必要です。しかし、聖霊がそれを行わなければなりません。組織的キリスト教の中に見られるものはそれではない、という事実を私たちは認識するようにならなければなりません。霊的な神の民は、キリスト教や教会や教会制度の古い体系から分離されていると、ますます感じるようになりつつあります。人々は、これまで長いあいだ支配してきたものに、深い不満を覚えるようになりつつあります。霊的実際を求める...
繰り返しになりますが、これは、本質的に神に属する事柄の中に入ろうとしているすべての人に必要なことを示しています。神から出ているものに不可欠なことは何でしょう?上からその中に入らなければならないことです。水平的に物事の中に入ることもできます!――大学である程度準備することにより、あるいは、そのための他の準備によってです。そして、「務め」と称されている、この地上の物事の中に入ることができます。あるいは...
事実はこうです。天的な体系があって、それは全く霊的であり、一瞬たりとも天然の感覚では理解できないものなのですが、神はそれを型や絵図や様々な方法で描写してこられたのです。しかし、神の御旨は、人が型にすぎないものを握って永続させることではなく、それらすべての背後には、人がその中に入ることを神が望んでおられる霊的体系があることを認識するようになることでした。私たちはこれをある意味で知っていますが、適切...
「天が支配していることをことを知った後、あなたの王国はあなたに確保されるでしょう。」(ダニエル四・二六)。「神の見えない永遠の力と神性の特徴は、世界が創造されて以来、明らかに見られており、造られた物において認められているので、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ一・二〇)。「しかし、キリストが来て、来たるべき良い事柄の大祭司となられ、手で造られたのではない、すなわち、この創造に属するものでは...
ルカによる福音書でも、この同じ事実が示されています。すなわち、天の支配は主の家――彼の教会――と結びついている、という事実です。このように、天の主権の行政上の手段としての教会が強調されています。「七十人は喜んで帰って来て言った、『主よ、悪鬼どもでさえ、あなたの御名の中で私たちに服従します」。「彼は彼らに言われた、『見よ、わたしは敵のすべての力を踏みつける権威をあなたたちに与えた。なにものもあなたたち...
これらの天の要素はみな、主イエスと、諸国民の間における彼の主権に浴している彼の教会とに、関係しています。この主権の中に、私たちは生き生きとした関係と経験によって導き入れられたのです。神の秩序は決して孤立した構成単位から成ってはいません。彼は弟子たちを二人ずつ召して遣わされました。この二人というのは、代表を表す人数であり、教会に対する証しです。私たちは「からだ」の原則を認識し、神ご自身の秩序を霊的...
3.御使いたち この福音書のもう一つの天の面を見てみましょう。十七回「御使い」がこの書に登場します。御使いたちは、「救いの相続人」(ヘブル一・十三~十四)に関する神の行政上の統治と関係しています。「ひとりの主の御使いが天から降りて来て、その石を転がし、その上に座った」(マタイ二八・一)。復活の主権を帯びたひとりの天使です。ひとりの御使いだけで、この世の諸々の政府や地獄の全勢力・たくらみに対するのに...
2.天 七十五回「天」がマタイによる福音書で言及されています。マタイによる福音書は天の王国――天の支配・主権――の福音書です。 栄光の主が誕生された時、天が支配していたことがわかります。東方で見えた星は、当時の天を支配していた一つの星であり、地上の物事を支配していました。東から賢者を連れて来て、ベツレヘムの赤子だった主イエスの足下で礼拝させました。天が、御子の来臨に関連して、主権的に支配していました。...
ルカはエルサレムから始めます。ステパノが殺されるまでは、エルサレムで恵みが継続しました。ステパノを殺した時、彼らは聖霊に対して罪を犯し、主はエルサレムから出て異邦人すなわち諸国民に向かわれました。しかし、まず彼は、すべての諸国民と関係しているペンテコステのときに、エルサレムから一団の人々を獲得されました。彼を十字架につけた人々に対する素晴らしい恵みです。彼は彼らを追い出すこともできましたが、そう...
霊的優位性を示す象徴1.山々 山々はマタイによる福音書において重要な地位にあります。教会を導入している福音書でそうであることは意義深いです。なぜなら、教会は霊的高みになければならないからであり、霊の中でこの世の外になければならず、自発的にこの世と関わったりしてはならないからです。教会の真の姿を見るには、「キリストと共に、すべてを遥かに超えた」高い観点から見なければなりません。神は教会をこのように見...