分解 一 七つの封印を解くに足る者 1~5 二 前に殺された小羊 6~7 三 聖徒の祈り、四つの生き物および二四人の長老の讃美 8~10 四 天の讃美 11~12 五 万物の讃美 13 六 四つの生き物および長老の礼拝 14オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (2)
章の区切りは少し誤解を招きます。六一章にはこうあります、「主の霊が私の上にある。主が私を油塗られたゆえに。それは私が柔和な者に良い知らせをもたらすためである」。誰がこれを述べているのでしょう?私たちはよく知っています。預言してメシヤが述べておられるのです――キリスト、主イエスは、肉身を取っていた当時、まさにこの言葉は自分と関係しており、自分によって成就された、と話されました。話しているのは彼であり...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第八章 主の負担 (1)
「あなたたちはシオンに来ているのです……」。この言葉の豊かで完全な内容をもう一度見ることにします。今晩これを、シオンに関するこの最後のメッセージで、イザヤの預言書の六二章の最初の七つの節から見ることにします。「シオンのために私は黙っていない、エルサレムのために休まない、その義が輝きのようにあらわれいで、その救いが燃えるともしびのようになるまでは。諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (13)
そして最後に、シオンはサタンの王国全体を打ち倒すきっかけとなるものです。これが御言葉に啓示されていることです。シオンはエジプト、バビロン、アッシリア、ローマを打ち倒すきっかけでした。ローマはシオンに対して頭をもたげました(私は今、霊的な言語でシオンについて述べています)。すると、ローマに何が起きたでしょう?あの強力な鉄の帝国はどこにあるでしょう?打ち砕かれ、粉々にされ、散り散りになりました……塵に...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (12)
ですから神は、シオンを建て上げるために、シオンを得なければなりません。彼は事物を建て上げようとはされません、シオンを建て上げられます。そして、シオンは御子の豊かさに対する証し、生ける証しであって、その表現です。神は加えるために植え付けられます。神が植え付けられるのは、他のすべてのものに対する論拠を得るためです。驚くべきことです。これにより別の領域が開かれますが、それを探求する時間はありません。し...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (11)
神のいっそう大きくて偉大な目的の手段/ ですから、それが表しているもの、あの証し、主イエスのパースンと御業と神に定められた地位に対するあの全き証しが、心に対する啓示として、神の民の心に対する啓示として、諸国民の中に植え付けられなければなりません。植え付けられなければなりません。そこに植え付けられなければなりません。神の戦略は次の通りです。彼は一つの証しを植え付けられます。その証しは御心に適うもので...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (10)
これがイスラエルに実現しない限り、神は諸国民に触れませんでした。神はこの内的状況を、諸国民に触れるための基本的条件とされました。他の事はそれに続きます。確かに、昼が夜に自然に続くように、神がご自身の望んでいるものをご自身の民の中に得る時、他の事はそれに続きます。魂が救われるために特別な努力をする必要はありません。人々は絶えず静かに救われるでしょう。なにかが外に出て行って、生活に触れ続け、ますます...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (9)
リバイバルの原動力 一般的にリバイバルと呼ばれているものは、その目的・目標として、一つのことと関係しています。魂の救い・回心と関係しています。「リバイバル」という言葉に関する一般的観念を、ほぼ完全に要約してこう言えると思います。すなわち、大々的に人々が救われることである、と。まあ、私たちはこれに反対はしません、どうか主がこれを与えてくださいますように。しかし、リバイバルというこの問題は、教会の霊的...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (8)
自分たちは選ばれており、自分たちの働きこそ、あらゆる働きの中で神から与えられた唯一の働きである、と考えている個々人には、常に大きな制限と危険があります。そのようなものはなんであれ、原則に違反しており、確実に行き詰まることになります。私たちはこれを共有しているのです。つまり、神の御旨は一つの民、彼の教会と関係しているのです。彼の教会を真に表現しているもの、つまり、真の教会、天的からだの性格を帯びて...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (7)
集団的観念 つまり、シオンは主の民を全員一つに結びつけるものなのです。主の民は国家としての中心をシオンに見いだしました。シオンが彼らをまとめる力であり、彼らを一つにするものでした。もちろん、これは、彼らが所定の時に全員シオンに登って行った時は、当然文字通りその通りでした。すべての部族から人々がそこに来て、国民の一体性を祝い、享受しました。彼らは多くの場所で離れて生活しなければならず、その間の数ヵ月...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (6)
へブル人への手紙はこれをすべて集約して述べています、「こんなにも大きな証し人たちの雲に囲まれているのですから、走ろうではありませんか……」。「(彼らが走ったように)忍耐をもって競争を走ろうではありませんか」。あらゆる重荷と、いとも容易にまといつく罪をかなぐり捨てようではありませんか。この罪とは、文脈からわかるように、あの疑い、あの疑い――あの不信仰のことです。それをかなぐり捨てなさい……忍耐をもって走...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (5)
宿命 そして、御霊による生活、御霊による生活は、よく聞いてください、それに関する知能の成長、それに関する理解の成長を意味します。今や、それについての基本的意識があるだけでなく、それについての理解も成長します。そして、選ばれたこと、御旨にしたがって召されたことの意味に関する理解が成長するにつれて、人生はますます豊かな意味と価値と力を帯びるようになります。ますますこれを理解するようになるにつれて、それ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (4)
これは、ユダヤ人について常に言えたように、信仰による神の子供の誕生においても、とにかく、とにかく、明らかな現実・事実です。新生によってそのような結果が生じていないとしましょう。つまり、私が述べた言葉や形で述べることはできるものの、次のような感覚に欠けているとしましょう。すなわち、人生は始まったばかりであり、目的を得たばかりであり、使命感が生じたばかりである、という意識です。もし、これがあなたの回...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (3)
新生 イスラエル人は生まれつき、使命と宿命に対するこの感覚が、その血と性質の中にとても強く、とても強力に根付いていました。そうだったからには、これは神の子供の新生にも言えます。これが一つの大きな要素としてそこにあります。現存しています。しかし、これは誕生全般に言えます。私たちは新生をこのようには定義しません。新生を言葉でこのようには定義しません。しかし、こう言われると、確かに、これはまさに私たちが...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (2)
違いと使命、隔たりと目的、この二つは同行します。これが彼らの存在のまさに構成要素です。彼らにはどうしようもありません。それは必ず現れます。それに出会うことになります。時として、それは傲岸さ、独立心、優越感、他の多くの方法で現れますが、確かに存在します!彼らはそれを自覚しています。そこにはなにかがあって、目的・使命の性質的相違と関係しています。それは彼らの相続財産です。そして、この使命感が、これま...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第七章 シオンの宿命 (1)
この午後、へブル人への手紙一二章二二節の「あなたたちはシオンに来ているのです」というささやかな節の深さと豊かさの探索を続けることにします。 「へブル人への手紙」と称されているこの文書は、一つの経綸から別の経綸への移行を示していることは、一般的に知られています――一つの体制、体系、エコノミーから、全く異なるものへの移行です――イスラエルによる神の方法や神の手段という一時的・地的・物質的なすべてのものか...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (17)
もし務めそのもの(つまり、今の場合、公の務め)の問題だけを取り上げるなら、それはキリスト教全体の中で最大の争点であることがわかるでしょう。多くの問題が、他の何もの――講壇の務め――にもまして多くの問題が、「務め」をめぐって生じてきました。シオンでは、務めを行う権利を誰も持っていません。務めのための資格を誰も持っていません。主が望まれるなら、大いに気楽に、くつろいで、務めを何もしないでいることもできま...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (16)
次に、三番目に、シオンのこの務めはこの器における徹底的な深い働きによって建て上げられます。 この器における徹底的な働き、この器における深い働きです。これは、私たちの内になされたこと、神が私たちの内になしておられることから離れて、引き受けられるものではありません。神は私たちを台無しにし、粉々にし、剥ぎ取り、空にし、無にもたらして、そこから私たちとすべてをやり直されます。これがシオンとシオンの務めに...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (15)
シオンは神の主権的捕獲によって建て上げられます。次に、歴史の背後で働く神の主権的統治によって建て上げられます。 もちろん、これには多くの説明が必要です。これは使徒パウロが述べている次の言葉によって説明できます。「誕生の時から私を選び分けられた神は、喜んで御子を私の中に啓示してくださいました……」。彼はまさにこの点に触れます、「 私の誕生の時から!私の誕生……私の誕生の時から。私はユダヤ人家庭に生まれ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (14)
「主権をもって」と言う時、これは神に属する、ということ以外の意味ではありません。主以外のいかなるものによっても説明できません。それに触れるとき、主に出会います。その間にいるとき、主に出会います。どういうわけか、主がこれのために、その存在のために責任を負っておられます。それが団体であれ個人であれ、それは神によって主権をもって興されたものです。何ものもこれを行えません、選択してこれを行うことはできま...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (13)
シオンの務めに関して もちろん、これには一つか二つの点が含まれます。すなわち、諸国民との戦いと、伝統や形式的キリスト教との戦いです。しかし、シオンの務めの問題になると、これは遥かに内面的なことになります……確かに、遥かに内面的なことになります。 この論争はあることにかかっています。親愛なる友よ、それを私たちは理解するよう努めなければなりません。それは、理解力を持つことについて私が最初に述べたことと、...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (12)
真理であると信じられている多くのもののために戦いがなされていますが、それは、結局のところ、真理の律法的解釈にすぎません。真理の意義を把握することに関して、多くの失敗があります。多くの失敗があります。到底無理です。ご存じのように、親愛なる友よ、御言葉が述べている真理と、その叙述についての神の意味との間には、大きな違いがあります。もしこの二つを区別できなければ、絶えず混乱することがわかります。これが...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (11)
もう一つの面は、それは知識なき熱心さの領域であるということです。そして、これは恐ろしい領域です。ご存じのように、恐ろしいことです。熱心なのですが、知識にしたがっていません――ある種の幽冥界のようであり、人々が木々のように歩いているように見えます……つまり、霊的にはっきりと理解できないのです。魂的キリスト教と霊的キリスト教を区別する力、能力、機能がないのです。すべてがごちゃ混ぜで混乱しています。 最初...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (10)
クリスチャンの専門職と伝統の領域 クリスチャンの名の下で、あるいはキリストの名の下で、天然の魂が王国を持っている領域についてです。言うのも恐ろしいことですが、次のことは大いに真実です。すなわち、クリスチャンの肩書を帯びているのに、結局のところ、人の魂の王国にすぎないものがあるのです。天然の命にすぎないものがあるのです。(悲しみをもって言いますが)クリスチャンの専門職の領域においても、この世にあるも...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (9)
さて、先に進みましょう。諸国民の中に一つの証しがなければなりません。その証しは、それに基づいて神が働けるものであり、諸国民に対する神の裁きを正当化するものであり、世界と諸国民に対する神の統治に意義を与えるものです。一つの証しが諸国民の中になければなりません。神が諸国民の間でねたむほどに慕う証しです。私たちはこの文脈で預言者の言葉をよく引用してきました、「私は大いなるねたみをもってイスラエルのため...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (8)
マタイ二四章に注目してください。時代の終わりのしるしがいくつか与えられています。戦争、戦争のうわさです。さて、ある人々のようにあなたは言うかもしれません、「まあ、これまで常に戦争がありましたし、これからも常に戦争があるでしょう。マタイ二四章に記されている戦争と他の戦争との間にどんな違いがあるのでしょう?」。まず初めに、あなたは近年の戦争の数を数えたことがあるでしょうか?この世界の歴史の昔のいかな...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (7)
バビロン……確かに、この民は主の期待を裏切って、バビロンに送られました。しかし、主はご自身の証しを見捨てず、諦めす、放棄されませんでした。どうしてでしょう……何と書いてあるでしょう?イザヤ四三章一四節を見ましょう、「主、あなたたちの贖い主はこう言われる……」。バビロンでも「あなたたちの贖い主」なのです。「イスラエルの聖なる方はこう言われる、『あなたたちのために私は人をバビロンに遣わした。あなたたちのた...
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分解 一 七つの封印を解くに足る者 1~5 二 前に殺された小羊 6~7 三 聖徒の祈り、四つの生き物および二四人の長老の讃美 8~10 四 天の讃美 11~12 五 万物の讃美 13 六 四つの生き物および長老の礼拝 14オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
〔8〕「六つの翼」セラピムには、六つの翼があった。六つの翼の内、二つは面をおおっていて、謙遜を現わす。二つは足をおおっていて、慎しみを現わす。さらに二つは飛ぶためで、迅速な服従をしめす。「その内外ことごとく目なり」「また前後ことごとく目なり」(6)目は聖霊、光、悟りを現わす。この四つの生き物は、真の知恵と真の光である。真に聖霊に満される時には、前後左右から悪魔を悟ってこれを防ぐことができる。翼の内外...
〔4〕「二四人の長老」諸説がある。一説にはイスラエルの十二の族と新約の十二使徒であって、旧約の子を代表していると。一説には、二四は神の前における全き数を現わしている。祭司の組は(歴代上二四18)二四に分かれていた。「長老」先立つ者。年齢も恵みも、経験も人に先立つ者。教会の長子を現わす。私たちを代表する者。聖徒中でも信仰において、恵みにおいて高い人。「白き衣」(三5)長老の一特色、目を射るばかり輝く栄光...
〔1〕「天に門開けありたり」教会時代のことは、三章までに終り、四章からは主の空中再臨の時が来る。教会時代の終りにおいては天の門が開け、霊的にはキリストのあがないにより成就したが、再臨の時には具体的に成就して、私たちの肉体も天国に入ることが出来るのである。罪のために閉された天の門はキリストの血の力と十字架の功によって、霊のためだけでなく、肉体のためにも開かれた。「ラッパの如き声」全世界に響き渡る大き...
参考 四章以下については、人によって大いにその解釈が異っている。しかし、結局次の三説に帰するようである。 (1)ヨハネ当時のこととして解釈する (2)今日までの歴史に照して解釈する (3)将来のこととして解釈する(再臨の光をもつ人の解釈である)分解 一 開けた天と携挙 1 二 御座とその上に座す者 2~3 三 二四人の長老 4 四 神の威厳と七つの灯火 5 五 四つの生き物とその讃美 6~9 六 二四人...
〔17〕信仰の温かさは、自分の姿の判然としているためである。「自ら我は富かつ豊かになり、乏しきところなし」自分では恵まれているつもりで、教理を知り、経験もあり、恵みも味わっていて、一見富んでかつ豊かで、乏しいところがない。「悩めるもの」主との交わりを断ち心の内で悩んでいるもの。「憐むべき者」心に悩みのある者は、あわれな状態にあるのである。「貧しく」愛、信仰、忍耐その他のものに欠乏している。「盲い」神...
ラオデキヤ教会に贈る書 14~21〔14〕「ラオデキヤ」民を喜ばすとの意である。使徒パウロが以前伝道した地であると思われる(コロサイ四15・16)。ニコライ宗に反対して、民が主となり、共和政体によって世論をもって教会の政治を行い、その結果人心腐敗した。ラオデキヤは、当時繁栄した都会であって、産物として羊毛が多く、物質的に富んでいた。しかし、一面において心霊的に貧弱で次第に信仰が冷やかになった。貧乏したが、信...
〔10〕この予言のように、この教会はこの後において大きな迫害にあった。しかし、神の保護の手は、その上に加えられて勝利を得た。これはただ一つの型であって、患難の時代に聖徒は、これから逃れることを意味している。「我が言を守るによりて、我れもまた汝を守りて」神の保護をうけて、患難の時代に患難を逃れようと願うならば、先ずこの世において神の言を信じて、これを守り忍耐しなければならない。そうでないならば、神の保...
ヒラデルヒヤの教会 7~13〔7〕兄弟の愛と言う意味である。その教会は、小さい教会であったが、忠実に愛によりて満ちた教会であった。ユダヤ人が来て、この教会を擾乱しようとしたが、信者は皆な堅固であって敵の乗ずるいとまもなく、ついに敵であるユダヤ人は、悔改するに至った。迫害中にあって勝利を得た教会であった。ゆえに主は、少しもお責めにならなかった。これが模範的な教会である。「聖きもの」キリストのことであって...
サルデス教会 1~6〔1〕「サルデス」残りの者、当時サルデス教会は、霊的生命が充実していて、生きた教会である言われて名高った。しかし、神の前においては、それは外的な活動のみであって、内実の生命がなかった。時代的に理解すればルーテル以来の改革時代にあたる。その改革運動によって新教の旗色鮮明となったが、これはただ一時的であって、その実が挙らず、カトリックは漸次にその勢力を恢復して来た。「七の霊」教会内の...
分解一、サルデスの教会に贈る書 1~6 イ 七つの霊と七つの星を持つキリスト 1上 ロ 責められる点 1下 ハ 勧告と警戒 2~3 ニ 潔い数人 4 ホ 勝ちを得る者の報奨 5 へ 勧め 6二、ヒラデルヒア教会に贈る書 7~13 イ 聖く誠にして鍵を持つキリスト 7 ロ 長所 8 ハ 勝利と保護の約束 9~10 ニ 警戒 11 ホ 勝利を得る者の報奨 12 へ 勧告 13三、ラオデキヤ教会に贈る書 14~22 イ アァメン...
〔24〕「この他テアテラ人」イゼベルの教えをうけいれない人々。「サタンの奥義」前にイゼベルの教えと呼んだが、今はサタンの奥義といわれる。ある人々のように哲学の理論をもって教えるものは、自ら神の奥義を知っていると称するが、これはサタンの奥義に通じているのである。「他の任を汝らに負わせじ」重荷、すなわち主の福音以外の命令から来る重荷をいう。〔25〕「持つところの者」初め単純に信じたところの福音を持つ者。「...
テアテラの教会 18~28〔18〕女性の圧制の意である。この教会の起源は、ヨーロッパ最初の悔改者ルデヤの出身であって、教会が女より始まったように(使一六14)、女が教会内に勢力をもつものとなり、最初は善い勢力であったが、後になって悪しき勢力となるに至った。「目は炎の如く」輝き探る恐ろしい力ある眼(23対照)。「神の子」キリストは、神の子として現われその権能は27の如くであった(詩二7、9参照)。「その足は真鍮の...
ペルガモ教会に送る書 12~17〔12〕「ペルガモ」大きな図書館のあることで有名である。ゆえに知識の進歩したところである。またエスカラビヤ(蛇の像)となり偶像のあることでも有名である。一方においては、知識、他方においては偶像の勢力の盛大なことによって、信者は非常に迫害されたと言われている。ペルガモという字義は、塔という意であって、これは傲慢を示し、また婚姻という意味もあって、これは更に姦淫をも示している...
スミルナ教会に送る書 8~11〔8〕「スミルナ」エペソからわずかに離れた地にある小都会。この名の字義は没薬と言う意味である。当時のこの教会は、迫害中にあって、大いに苦しんでいたので、主の責められるところが少しもなく、七つの教会中このようなものは、他にフィラデルフィアあるのみであった。「いや先、いや果てのもの」永遠にあるものの意。「死にてまた生きたるもの」この世で一度死んだ者、死に勝たれて今現に生きてお...
〔5〕聖霊の厳かな勧告と警戒。「いずこより落ちしかを思い」どのように高い所からどのように低いところに落ちたか、以前には恵みの高い標準にあったのが、今は低いところに落ちたと諭している。「思い」その原因を考えて、あることのため、ある人のために誘われて、神の恵みから落たのではないかを思い出すことである。「初めのわざを行へ」ただ表面ばかりの活動ではなく愛から出る働きをなすべきこと。パウロがテサロニケ前一3に...
エペソ教会に送る書 1~7〔1〕「エペソ」当時非常に盛大な都会であってアジアの光、アジア第一の都会と呼ばれていた。パウロは、この地の伝道に力を尽しこの付近で三年間働いた(使徒二〇31)。その後テモテが、この教会の監督となった。「使者」教会全体を代表する伝道者。「七つの星を執り、また七つの金の灯台の間を歩む者」これはエペソ教会に対して現われなさったキリストの御姿である。「右の手に七つの星を執り」執りとは...
分解一、エペソ教会に送る書 1~7 イ 七つの教会の間を歩むキリスト 1 ロ エペソ教会の長所 2~3 ハ 責められる点 4 ニ 悔改のすすめと警告 5 ホ 是認された点 6 へ 生命の木の約束 7二、スミルナ教会に送る書 8~11 イ 死んで、生き返ったキリスト 8 ロ スミルナ教会の長所 9 ハ 迫害の預言と奨励 10 ニ 報奨 11三、ペルガモ教会に送る書 12~17 イ 両刃の剣をもつキリスト 12 ロ 長所 13...
〔17〕かかる姿でキリストが現われたときに、ヨハネは、死んだ者のようになった(ダニエル十7、8、16、17参照)。イザヤが、神を見たときのようである。このように血肉が全く死んだときに、キリストは右の手をあてて彼を甦らせなさった。このようにして彼は、初めて生きたキリストを見たのである。黙示を受けようとするためには、このような態度を通らなければならない。倒れて後に起されるのである(民二四4)。「我はいや先なり...
〔12〕「声を見んとて」声を聞こうとしたのはもちろんのこと、その声を発している者をなんとか見ようとしたのである。このように記者の目と耳とが、主に向って働いたことは、その全注意力を主に注いだことをあらわしている。主は、そのような態度を、私たちにも要求しておられる。「金の七つの灯台」これは、教会のことである。教会は、このような者として置かれたのである。「金」は、神性を示す。「灯台」は、光を示す。この世の...
神と小羊の御座T. オースチン-スパークス目次第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト第二章 神の七つの霊第三章 王国と小羊第四章 教会と小羊第五章 小羊の七つの目と七つの角オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
ピリピ書――十字架と聖徒たちの交わり ピリピ書:――そうです、今や私たちは教会の中にあります。ローマ書やコリント書のようにもはやたんなる個々の個人的問題ではありません。今や集団的問題です。あなたが教会の中に入る時、交わりの問題が生じます。間もなく、クリスチャンたちの間に交わりの問題が生じます。ユウオデヤとスントケの間に目的の不一致が生じます。どうやって交わりを顧みて、同じ会衆のクリスチャンたちの間の不...
ガラテヤ書――十字架と霊的豊かさ 思い出していただきたいのですが、これらの手紙を読み進んで行くと、次にガラテヤ書に、それからエペソ書、ピリピ書、コロサイ書に至りますが、そこであなたは十字架を物事の様々な面に関して取り上げて、物事を正し、あるべき領域の中に入れることになります。あなたは常に前進することになります。第一に立場が対処され、次に歩みが、その後で務めが対処されます。その後、ガラテヤ書に来ると、...
「キリストの愛がわたしたちを縛っています。なぜなら私たちはこう判断するからです。一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。そして、彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。ですから私たちは、今から後、だれをも肉にしたがって知ろうとはしません。たとえキリストを肉にしたがって知っていたと...
二コリント――十字架と務め コリント人への第二の手紙に移ることにします。この第二の手紙で私たちは新しい局面を迎えます。この手紙を読み始めると、私たちはまだ第一の手紙から抜け出したわけではなく、むしろ第一の手紙から生じた苦悩、苦しみ、悲しみ、痛みの中にあることがすぐにわかります。敬虔な慰めを私たちにもたらす敬虔な悲しみのゆえに、神に感謝します。十字架が歩みを対処し、振る舞いを対処し、肉性を対処する時、...
この問題はどのような方法で対処されるのでしょう。そう、まさに同じ手段によってです。十字架が導入されます。この手紙の基礎となる大きな基調は、「イエス・キリスト、十字架につけられた方」です。十字架につけられたキリスト、これがこの状況を対処するための基調であり、基礎であり、手段です。これは常に同じです。信者たちは依然としてこうしたことをしでかす可能性があります。しかし、真に十字架を理解するとき、たとえ...
一コリント――十字架とクリスチャンの歩み コリント人への第一の手紙に移って、別の文脈における十字架を見ることにします。しかし、もう一度序文に注目してください。 「神のみこころを通して召されたキリスト・イエスの使徒パウロ(中略)コリントに在る神の教会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別され、召された聖徒たち、それと共に、私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人へ。彼は彼ら...
さて、ここできわめて馴染み深い御言葉が思い出されます。というのは、十字架がここで導入されているのは、いま私たちを確立するためだからです。私たちが神の子供になるためではなく、神の子供として十字架によって確立されるためなのです。十字架によってでなければ決して神の子供になれないことは承知していますが、それはここでの論点ではありません。このローマ人への手紙は、未信者に宛てて彼らを救うために送られたのでは...
さて、私たちの見るところ状況はこのとおりだから、神はそれを容認される、と言うつもりはありません。神はこの状況を取り扱うためのある手段を用意されました。しかし、もしあなたや私が神の手段を用いないなら、私たちがどれほど真に主のものだったとしても、私たちはこのひどくぐらついた人生を送ることになるでしょう。決して真っすぐ進めないでしょうし、いつまでたっても決して堅固で頼りになる人にはなれないでしょう。で...
ローマ書――十字架とクリスチャンの立場 聖霊の主権的御手の下で配置された手紙の順序は、霊的な年代順です。まずはローマ書から始まります。その冒頭にこう記されています―― 「イエス・キリストの僕、召された使徒、神の福音へと選び分けられたパウロ。この福音は、神が彼の預言者たちを通して、聖書の中であらかじめ約束されたものであって、御子に関するものです。この方は、肉によればダビデの子孫より生まれ、聖別の霊によれ...
(b)警告の言葉 二番目に出くわすのは、霊的に成長して霊的完成という目標に至ることに関する、警告・戒め・勧めの言葉です。警告の中にはとても恐ろしい警告もあります。それらの警告を見ていくつもりはありません。しかし、荒野で滅んだイスラエルといった警告が、二つの手紙の別の場面で使われていることを、あなたは思い出すでしょう。あの素晴らしい使徒時代のクリスチャンたちが警告を受ける必要があったのです。しかも、...
朗読: 黙示録五章、七章。 この黙想では、新約聖書の様々な文脈における十字架について見ていくことにします。 使徒時代のクリスチャンについて知ることのできるすべての資料、すなわち、新約聖書の数々の手紙を取り上げると、主に三つのことに出くわすように思われます。使徒時代後期に関して見られる三つの点(a)驚くべき特徴 最初に出くわすのは――これはかなり驚くべきことですが――ほぼ至る所に霊的失敗が見られることで...
さて、十字架の主観的適用、力としての十字架、道具としての十字架、私たちの経験の中に働くものとしての十字架について、これまで述べてきましたが、私はあなたたちに思い出させなければなりません。これは私たちが受け入れられているかどうかや、私たちの立場や地位とは何の関係もありません。それは、私たちがキリストを受け入れる時、信仰に対して保証されます。これは私たちにおける神の御旨の働きにほかなりません。しかし...
聖霊は新しい機能を与えてくださる しかし、この命、この命の御霊は、聖霊によって私たちの霊の中に新しい霊的能力、新しい霊的機能が与えられたことを意味します。天然の状態では能力がなくて無理でしたが、今では神の霊の事柄を知ることができます。神の霊の事柄を受けることができます。閉ざされていた領域の中を、聡く賢明に進むことができます。この違いは実に巨大です。しかしこれは――言わば――かなり微妙な違いです。説明し...
新創造の性質――聖霊と新生した人の霊との結合 十字架の積極的な面は、再生されたもの、すなわち信者の新生した霊の中に聖霊が入って来られることです。神の霊の人の霊との結合によって、これまで被造物の中にはなかったような新しいタイプの存在が生じます。ああ、確かに、旧約聖書でも、聖霊が人の上に臨んで内側で働かれましたが、神の霊の人の霊との結合はそれまで一度もありませんでした。これこそアダムが得そこなったもので...
十字架と御霊 一つの例として使徒行伝十九・一~五を取り上げましょう。パウロは、ある地域を通過してエペソに来ましたが、そこである弟子たちを見つけて、「あなたたちは信じた時に聖霊を受けましたか?」と彼らに尋ねました。ある異常のゆえに、異常な又は正常でない事態のゆえに、奇妙な事態のゆえに、彼は明らかに困惑していました。ここに、自分はクリスチャンであり主イエスの弟子であると自称している人々がいました。しか...
(b)積極的な面 神の十字架の積極的な面とは何でしょう?それは、十字架が、神聖な事柄のための適性・能力・才能をすべて備えた有能な人のために、場所を設けることです。まさにこのとき、聖霊の意義と真価がすべて入ってきます。十字架が現実とならないかぎり、私たちは決して聖霊を知ることはできません。型においてであれ、本体においてであれ、屠られないかぎり、油塗りには至れません。ですから、パウロはコリント人たちに...
これは消極的な面です。もちろん、その内容は無数にあります。しかし、これは万事につけ次のことを意味します。すなわち、あなたと私に偏見や先入観はないということ、どんな点についても最終的立場に至っていないということです。それは、ある事柄について、私たちは依然として自分の立場をすっかり変えなければならないかもしれないことを意味します。確信しきっている事柄でも、依然として放棄しなければなりません。私たちは...
この他にも、取り上げようと思っても取り上げられない事がたくさんあります。例えば、私たちはそれぞれの人生に対する神の御旨を知りません。神の御旨は一人一人に異なる形で触れます。神の主権的選びがあり、私たち一人一人のための場所と、私たち一人一人のための働きがあります。それは関連していて、全体の一部である一方で、それでも、神の都というあの偉大な宝石の一つの面です。神は私たちを取り扱って特別な形でご自身に...
朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。消極的な面 私たちは、霊的生活、霊的成長、霊的進歩の問題に関心を持っています。私たちは深く心を痛めています。長い年月を経てもなお、神の多くの子供たちは狭量さ、制限、弱さを抱えているからです。私たちは悩んでいます。回心者たちは前進せず、信者たちは成長していないからです。また、責任を負うことができ、常に「見守り」続けてもらう必要のない人がほとんどいないからです...