おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (6)
諸国民 これについてはすでに一般論を述べましたが、もっと詳しく見ることにします。というのは、私は御言葉に従っているからです。御言葉の章節をすべて引用するつもりはありませんが、私は御言葉から逸脱していません。国内・国際情勢における動乱・激変・紛争・不安・失敗は、すべてこのシオンの証しと関係しています。これは途方もないことを表しています。 これらはみな、言い換えると、神のキリストの嗣業と関係しています...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (5)
シオンは何を象徴するのか? この大会で何度も述べてきましたが、再び述べることにしましょう。シオン(地上のシオン、文字通りのシオン、物質的シオン、一時的なシオン)は、結局のところ、結局のところ、せいぜい象徴であり、霊的な事柄を表すものにすぎません。こうした霊的な事柄を物質的な事柄の中に察知することができます。なぜなら、神の物質的事柄は、神の霊的事柄の要素を常に内包しているからです。ですから、シオンが...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (4)
時のしるし 私は預言に取りかかるつもりはありません。ですが、エルサレム、地上のエルサレムは常に時のしるしだったこと、そして依然としてそうであることは、はっきりと理解されていると思います。私たちは、「エルサレムを見なさい、そうすれば一日の何時かわかります。エルサレムを見なさい、そうすれば自分が経綸のどこにいるのかがわかります」と、ほとんど当たり前のように言うようになりました。時のしるしです。なぜでし...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (3)
これらのことが真実であり(歴史にもそう刻まれています)地上・現世のエルサレムと神の民に関して真実である以上、これはなおさら次のもの――結局のところ、地上のものはその絵図にすぎません――に関しても真実です。すなわち、パウロが「上なるエルサレム」と称しているもの、そして、へブル人への手紙のこの著者――それが誰であれ――が「あなたたちはシオンに来ているのです」と述べた時に言及したものに関しても事実なのです。こ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (2)
シオンの論争 御言葉からご存じのように、シオンとエルサレムは同義語であることがしばしばです。違いがあるとしたら、それはまさにこういうことです。すなわち、エルサレムが表現・包含すべきあらゆるものの内在的意義を、シオンは意味するのです。私たちはこの違いを理解して、心に留めておかなければなりません。なぜなら、シオンに来る特、私たちは高嶺に来ているからです。その高嶺とは、エルサレムが象徴するあらゆるものの...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第六章 シオンの論争 (1)
この大会の時、へブル人への手紙一二章二二節の「あなたたちはシオンに来ているのです」というささやかな句の今日的意義に集中してきました。 聖書の他の一つか二つの節を見ていただきたいと思います。一つ目は、イザヤの預言の三四章八節です。「それはエホバの報復の日、シオンの論争のために報いる年だからである」。三一章四節「主が私にこう語られたからである、『獅子、あるいは若獅子が、獲物に向かってほえる時、多くの...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (12)
最後の言葉、「主が諸々の民を記録される時、『この者はそこで生まれた』と数えられる。セラ……」について考えてみてください。これについて考えてみてください!「歌う者も踊る者も共に言う、『私の泉はすべて、あなたの中にある』」。シオンの市民には利用できる諸々の資源があります。それらについて他の人々はなにも知りません。シオンの市民には、自分たちを支えてくれる目に見えない諸々の手段があります。自分たちを支えて...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (11)
シオンの展望 すでに述べたように、シオンはたんなる場所や物ではなく、人々、神の御子との合一の中にある人々です。シオンの展望、この民の展望はいかなるものでしょう?ああ、来るべき代々の時代における教会について述べられていることを、もう一度よく考えてみてください。来るべき代々の時代における教会、何という所でしょう!何という使命でしょう!代々の時代に至るのです。また、その最後を飾る言葉として、「今……今、教...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (10)
彼はシオンの石や城壁を喜ばれます。確かに、彼はシオンを尊いもの、ご自身にとって尊いものと呼ばれます。「信じるあなたたちには尊いものです」。これは神にとってのシオンの尊さです。このように述べてもらうのは栄光ある事ではないでしょうか?親愛なる友よ、あなたたちはシオンに来ているのです。ここに、御父をまったく決定的かつ徹底的に喜ばせた主イエスがおられます。彼の人生のゆえに、彼の御業のゆえに、御父は大いに...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (9)
パウロはシオンの偉大な市民でした。彼は自分の先天的な相続財産をすべて見ました。彼の出自、彼の出自は、そうです、実にイスラエル人であり、へブル人の中のへブル人であり、ベニヤミン族の者であり、パリサイ人の中のパリサイ人……云々でした。彼はそれをみな正面から真剣に眺めて、他の人々がそれをどう思っているのか、また、自分自身どのようにそれをすべてとしていたのかを考えます。それは彼の命であり、彼の栄光であり、...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (8)
モーセはシオンの真の霊的市民でした。決して文字通り、文字通り、シオンに行ったことはありませんでしたが、彼は霊的にシオンの真の市民でした。彼は四十年間、エジプトを重んじ、エジプトをまとめあげ、エジプトの手段を用いました。四十年間、彼はエジプトの手段を用い、その後、慎重に計算してある結論に至りました。すなわち、こういったものをすべて持つよりは、キリストのそしりを受けた方がいい、という結論です。注意し...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (7)
この対比:シオン エジプト云々といったこの様々なものが何を物語っているのか、長々と述べる必要はないと思います。ご存じのように、エジプトはこの世の勢力を象徴します。バビロンはこの世の驕りです。ペリシテはこの世の僭越さです。ツロはこの世の商業的栄華です。エチオピヤはこの世の人心の暗愚さです。これと反対のもの、対照的なもの、天の観点から見て価値あるものがシオンです。 詩篇作者が言うには、ここにはエジプト...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (6)
さて、あなたは荒野にいるでしょうか、それとも門にいるでしょうか?依然として外をさまよっていて、訓練と逆境によってゆっくりと学んでいる民でしょうか、それとも、門の所で責任を担っている人でしょうか? 聖書を知っている人々は、もちろん、そうでない人々よりも、門と門での協議というこの問題に関してよくわかっていす。しかし、私は他の人々のためにそれについてヒントを与えましょう。聖書では、門という概念は次のこ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (5)
「ヤコブの諸々の天幕」――「シオンの諸々の門」。これがこの対比、最初の対比のもう一つの面です。これは今しがた述べたことの続きにほかなりません。というのは、これらの対句は同行するからです。互いに互いの一部なのです。ヤコブの諸々の住まい・天幕とシオンの諸々の門。 この二番目の対句、諸々の天幕と諸々の門は、何を表しているのでしょう?これを認めてもらえるなら、これらは二つの異なる絵図であることがわかります...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (4)
神のあわれみに対する十分な応答 これはさらにまさっています。シオンによって表されているものの中に入る時、神のあわれみに応答するもの、そのあわれみは無駄ではなかったと証言するものを見いだします。なんなら、言葉を「あわれみ」から「恵み」に変えてもかまいません。神の恵みは無駄ではありませんでした。神はひたすらあわれみ深くあり続ける必要はありませんでした……始終あわれむ必要はありませんでした。そうです、彼の...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (3)
神の素朴で純粋なあわれみ 私たちがヤコブという言葉に出くわす時はいつでも、それが当人のことであれ、あるいは、その名で通っている人々のことであれ、常に、必ず、神のあわれみが必要なものを前にします。 「押しのける者」を意味する「ヤコブ」という名前自体、神のあわれみがなければ、何の希望もありませんし、何の立場もありません。それでも、神のあわれみがヤコブに関して何と大いに表されることでしょう!預言書の中に...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (2)
さて、以上がささやかな序論です。この詩篇八七篇についての黙想にふさわしい背景・序論です。それを今日に適用すると、それはこれについて示しており、シオンとシオンの民について述べています。そして、新約聖書のこの個所では、「あなたたちはそれに来ているのです」と述べています。これは遠い昔、遥か彼方の、旧約聖書の中の事柄ではありません……今あなたのためにここにあるものです。それは現存しており、あなたはそれを知...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第五章 シオンの子ら (1)
今しがた歌った詩歌のもとになっている、神の御言葉の例の箇所を読むことにします。それは詩篇八七篇です。 「彼の土台は聖なる山々にある。主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンの諸々の門を愛される。ああ、神の都よ、栄光ある事があなたについて語られる。私はエジプトとバビロンを私を知る者として挙げる。見よ、ペリシテとツロをエチオピヤと共に。『この者はそこで生まれた』と言われる。実に、シオンについては...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (12)
何らかの方法で次のことが起きるでしょう。すなわち、もし私たちが神と共なる生活を送っておらず、主を知らないなら、状況がいかなるものであれ、それは私たちを救わないし、私たちの助けにもならないし、十分ではない、ということです。私たちは圧迫されてこうなるでしょう。すなわち、主を知る霊的な男女になるでしょう。これがその結果です。神はそれを得るためになんでも覆されるでしょう。その伝統がどれほど長いのか、神が...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (11)
さて、再び言わせてください。神が主権的に用いてこられたもの――用いておられるもの――を一瞬たりとも過小評価してはなりません。しかし、私たちは知っています!今、今日、私たちは自分の人生をまだ終えておらず、うまくやっているかもしれませんが、これまで生きてきて目にしているのは、もはやそれをこのような方法ですることはできない、ということです。今日、宣教士たちに中国に行くようお願いして何の役に立つでしょう?そ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (10)
「あなたたちはシオンに来ているのです(中略)見よ、私はシオンに隅のかしら石を据える」。隅のかしら石とは、もちろん、建築的には、すべての起点・終点を意味します。それはこれから起こり、これから上に向かって進みます。そして、それはみな遡って建造物全体と関係しています。隅のかしら石、隅のかしら石は、すべてが、すべてがそれと関係していることを意味します。「私はシオンにこれを据える、試金石となる何かを据える...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (9)
御子の霊的度量 これが実際のところ、このペテロの言葉の内在的意味です。「私はシオンに、シオンに隅のかしら石を据える(中略)ですから、みなこの基準を満たしなさい」。信じるあなたには尊いのですが、信じない者にはどうでしょうか?なんとまあ、何という恐ろしい効力が、定規としての、霊性の定規――キリストの度量――としてのこの隅の石にあるのでしょう。真の霊性を生み出さないなにものにも神は興味を持たれないことがわか...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (8)
ここで挿話として、最近読んだ話を紹介しようかと思います……それはある少女の夢の話でした。彼女は「自分は夢を見た」と言いました。そして、その夢の中で彼女は輝かしい天使が座っているのを見ました……その天使は彼女の家があった村の草地に座っていました。そして天使の手には大きな物差しがあって、その物差しを天使は手にもって自分の横に立てていました。彼女がその物差しを見ると、「キリスト、キリスト」と記されているの...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (7)
さて、この手紙に注目してください。ああ、イスラエルと未来の出来事に関して、多くのことが前もって告げられていましたし、前もって知らされていました。主イエスは、比喩的な方法で、いちじくの木について述べ、それに対して行動されました。根元から萎れたこのいちじくの木は、イスラエルが脇にやられることの象徴でした。ああ、この問題に関する預言をすべて調べるつもりはありませんが、これがそこにありました。しかし、こ...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (6)
過ぎ去ろうとしていたあの組織、へブル人への手紙が書かれた時に差し迫っていたあの経綸の転機、あの組織はもはや時間の問題でした。私たちが過去や未来のイスラエルについてどれほど多く述べたとしても、それは一時的なものにすぎません。イスラエルに未来があったとしても(これに異議を唱える人もいますが、大部分の人はそう信じています。これについては論じないことにします)、それは一時にすぎません。それはみな永遠の時...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (5)
神が用いてこられた諸々の道具を私がとても重んじていることがわかるでしょう。このように述べる時、神が主権的に用いられた諸々の道具を私が蔑んだり過小評価している、とは一瞬たりとも思わないでください。なぜなら、神は宣教団、宣教組織、そういった多くのものを用いてこられたからです。彼はそれらを用いて祝福してこられました。そして、それらは、それらの多くは、神に満ちていました。しかし、しかし……時がたつにつれて...
「あなたたちはシオンに来ているのです」 第四章 神の標準 (4)
へブル人への手紙では、この判決の執行、この決定の遂行を予期しています。それが六九年に書かれたのだとすると、そのたった一年後に、震われうるものについてここに記されているすべてのものが震われることになり、しかも、震われるどころではなかったのです。地に打ち倒されたのです。次に、これがなされたのは、震われえないものが残るためだった、とそれは私たちに告げます。この手紙全体は、ご覧のように、次のことと関係し...
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おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...