悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられるこ...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(5)
命の問題 ケルビムが見られるすべての事例で問題となっているのは、命の問題です。永遠で、不滅の、死を征服する命です。再び創世記三章から始めることにします。そこでは、彼らは命の木の道を守るために置かれています。それは命の問題であり、誰がこの命によって生き、誰がこの無限の命の力で神に仕えるのかの問題です。 最初から命と奉仕は同行していることに注意してください。アダムは神の同労者と呼ばれており、神は被造物...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(4)
ケルビムが取る姿、その四つの顔について考えてみてください。人の顔、獅子の顔、雄牛の顔、鷹の顔です。獅子は統治、雄牛は奉仕、鷹は天的奥義、人は神の表現、「人の子」を表しています。キリストのこの四つの霊的特徴を見るのは難しくありません。彼は主権者です。「統治権は彼の肩にある」。天と地の権威が人の子である彼に与えられています。その奉仕といけにえはまったく明らかです。天的奥義についても同じです。「初めに...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(3)
ケルビムの意義 ケルビムの意義を理解するのは容易ではありません。それによって神秘の領域にもたらされるおそれがあります。ケルビムに関する多くの御言葉があります。まず、エデンの園の門で、命の木の道を守っています(創世記三・二二~二四)。次に、契約の箱のあわれみの座の上にいます(出エジプト二五・十八、三七・七)。それから、幕屋の幕に刺繡されています(出エジプト二六・一)。それから、イザヤ六・二、六の預言...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(2)
キリストを知ること これが私たちがここにいる目的であることについて、私は疑いや疑問をまったく心に抱いていません。神との私たちの関係のすべての領域と範囲に関して、すべてが、少しの例外もなく、御子イエス・キリストと結びついています。彼の外では神について知ることはできません。奉仕のために、生活のために、そして時と永遠におけるすべてのことのために、神について私たちが知る必要があることはすべてキリストの中に...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(1)
聖書朗読:二列王記二・十九~二二。創世記三・二二~二四。出エジプト記二五・十八、三七・七。黙示録二二・一~四。 とても初歩的かもしれませんが、それにもかかわらず、次のことはきわめて重要です。すなわち、主の民は、自分たちが主の民としてなんのためにここにいるのかを自覚して、明確にしっかりと心に留めなければならないのです。 大多数のクリスチャンに「なぜクリスチャンとしてこの地上にいるのですか」と尋ねたと...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(6)
私たちが自分自身の道を進むために戦っているかぎり、主と喧嘩しているかぎり、疑念を持っているかぎり、恐れてびくびくしているかぎり、主はなにもすることができません。勝利が事実上明らかになるのは依然として先のことでも、それにもかかわらず心の中で戦いをくぐり抜ける地点に私たちが達する時、主は望むことをなんでも行うための道を得て、神の救いを示してくださいます。主は主です。主は御座に着いておられます。主は勝...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(5)
バビロンのあの三人を主は火から救いませんでしたが、火の中で救われました。これは三人にとって実際に益になった、とあなたは思わないでしょうか?それは彼らにって大きな益になった、と私は確信しています。それは主権的行為でしたが、火の中に彼らが入らないようにするための主権的行為ではありませんでした。彼らを火の外に保つことよりも遥かに大きな問題がかかっていたのです。私たちは往々にして、主になにかを行ってくだ...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(4)
主の主権的行為は私たちにとって必ずしも道徳的価値があるとは限らないことを、覚えておく必要があります。あなたが大きな困難の中にあり、そこからどうしても抜け出せないとしましょう。あなたは主に叫んで、「主よ、この困難から私を助け出してください!」と言います。すると主は言われます、「よろしい、私の子よ、私はここにいます。あなたを救ってあげましょう」。そして、主は雑作なく御手を伸べてあなたを困難から助け出...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(3)
ここに、アンモン、モアブ、セイル山の人々、大群衆がいます。主の民は、自然に圧倒されるようなものに直面しました。ヨシャパテは言いました、「私たちを攻めて来るこの大軍の前に、私たちに力はありません」。当然のことながら、彼らに勝ち目はありませんでした。なにはともあれ、そういうことでした。天然的観点から見ると、勝ち目は完全に敵の側にありました。主の民は完全に不利であり、劣勢でした。状況的には、私たちに敵...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(2)
勝利の前の賛美 神の御言葉の中には、偉大な解放の後で会衆が歌った多くの事例があります。「そのときモーセとイスラエルの子らは歌った」(出エジプト十五・一)。これは紅海の向こう側でのことでした。与った解放や勝利のゆえに主を賛美することは、大いに良いことであり、大いに正しいことです。デボラも偉大な歌を歌いましたが、それは戦いから遠く離れた所でであり、勝利が得られた時のことでした。エリザベツは歌を歌いまし...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第一章 賛美の意義(1)
聖書朗読:二歴二〇・一~二五。 「だれでも感謝のいけにえをささげる者は、私に栄光を帰する。自分の道を正しくする者に、私は神の救いを示す。」詩篇五〇・二三。 しばらく前から強く何度も私の心に思い浮かぶ一つの言葉がありますが、それは主はご自身の民の賛美と協力して働かれることに関するものです。歴代誌第二の二〇章二二節、「彼らが歌って賛美を始めた時、主は伏兵を設けて、アンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲...
これらの城壁は、主の民の神聖な豊満の包括性・総括性を表すだけではありません。この贖われた群れの性格を表すだけではありません。排他性をも表しています。直ちに警告の言葉を発しなければならないのではないでしょうか?なぜなら、ここでは、外にあるもの、入ってはならないものについて、はっきりと述べられているからです。「汚れたもの、また忌むべきことと偽りを行う者は、決してそこに入ることはない。ただ小羊の命の書...
ですからこれらの石は、神が一つに混ぜ合わせて一体とされた多様性について、私たちに告げます。旧経綸に戻って、イスラエルの子らの十二部族の物語を読むと、その大部分は残念な物語です。ベニヤミン族についての物語のとても、とても暗い物語が思い出されます。それは聖書全体の中で最も恐ろしい物語です。それらの物語の一つは、今日、読むのに適さないという理由で、道徳的な人々が削除することを願っているものです。ああ!...
次の点は、これらの城壁は主の民の性格を示している、ということです。包括性の次は性格です。すでに述べたように、この都は神の民であり、城壁は主の民の性格を示しています。それらの城壁を見てください!碧玉、透明な輝くダイヤモンドがあります。幽玄な青色の美しいサファイヤ、暗深紅のざくろ石の玉髄、透明で純粋な緑がかったエメラルド、黒と白が混ざった縞瑪瑙、紅玉髄またの名をルビー、淡黄色の金色の石である貴かんら...
エペソ人への手紙三章十四、十六、十九節に再び戻ることにしましょう。「彼の栄光の豊富にしたがい(中略)あなたたちが満たされて、神の全豊満へと至るように」。聞いてください、「彼の栄光の豊富にしたがい、満たされて、神の全豊満へと至る」。これは大きな都です。エペソ三章の言葉は黙示録二一章の言葉と同じです――「その幅と長さと高さと深さ!」。壮大です!巨大です!満たされて神の全豊満へと至ることが必要です。それ...
聖書朗読:詩篇二四篇、黙示録二一・九~二一。 さて、神の都というこの象徴的表現が示している神の民のさらなる特徴について考えることにします。そうするとき、私たちは城壁と門によって示唆されているこれらの特徴・要素を前にすることになります。城壁と門 黙示録を読むと、この都の城壁と門についてなんと多く述べられているのかに気づきます。この「城壁」と「門」という二つの単語に下線を引くだけで、それらの占める地位...
神聖な統治の都 黙示録二一章は、人における神聖な統治のまさに現われです。この章の内容はみな、なんらかのかたちで数字の十二について述べています!十二は統治を示す聖書の数であり、完全な統治を意味します。この都はそれであり、統治・主権にあずかります。 ここには、中心から周辺まで、御座の権威があることがわかります。これにより、この都は主権の都に構成されます。「また彼は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せ...
勝利して突き進む力を十分に与えることができるのは、私たちの中におられる聖霊の啓示だけです――しかし、この啓示にはできます!それは人の霊の内側における啓示であって、真理についての――たとえそれが神に関する真理だとしても――知的理解ではありません。ああ、「私は知っています」と言えることにはなんという力があることでしょう。聞いたことがあるとか、読んだことがあるとかではなく、「私は知っている」と言えることです...
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、彼を知る全き知識を得させ、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、あなたたちの心の目が照らされ、神の召しの望みがどんなものであるかを、あなたたちが知るように。また聖徒たちの中にある神の嗣業の栄光が、どんなに豊富であるかを知るように。 また神の力強い大能の活動にしたがって、信じる私たちに働く彼の力が、どんなに超越して偉大であるかを知るように」エペソ...
神の都が建造されつつあります。そして、まさにその性質は永遠の命、不滅の命であり、私たちが挫折する時、私たちを支えてくれます。彼は忠信であり続けます。彼はなおも支えてくださいます。彼は永遠・不変だからです。これが私たちと共にあって、私たちは持ちこたえ、切り抜けます。「これらすべての事柄において、私たちを愛してくださった方を通して、私たちは勝ち得て余りがあります」――ローマ八・三七。これは奉仕でも同じ...
地上で私たちは試練、逆境、悲しみ、苦難を通っており、「主は自分を見捨てられた」と思うよう誘惑されています。敵は四方から、訴え、罪定め、疑問、疑念、恐れをもって押し迫っています。「堅く立って、動かされることなく」、なぜなら愛する人よ、これは確立する原理の働きであり、私たちの信仰の訓練だからです。私たちは苦悩、労苦を経験します。覚えておいてください、この確立する働きがなされるのは、私たちの目が彼に向...
敵が神の民にキリストにある自分の立場について疑いや疑問を抱かせる時、彼らは戦う力を奪われます。神はご自身の都をしっかりと建てなければなりません。そして、私たちは信仰の全き確信の中に立たなければなりません。 「都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた」――黙示録二一・十九。 「あなたたちの信仰が試されることは、金が火によって試されることよりも遥かに尊いのであって、イエス・キリストの出現の時に、賛...
疑念はサタンの主要な武器である 信仰の確信を妨げることがサタンの働きであり、彼の狙いは主の民に疑念を抱かせることです。疑いは、彼の働きの最も巧妙な手段です。最初の時もそうでした、「神はそう言われたのですか?」――創世記三・一。そして、これが依然として彼の方法です。これを阻止する方法、唯一の方法は、信仰の中に確立されることによります、使徒十六・五、コロサイ二・七。「信仰の中に堅く立ちなさい」―― 一コリ...
「確立する」という言葉を聖書全体にわたって辿ることにしましょう。「いと高き方ご自身が、それを確立される」――詩篇八七・五。 「彼は私を恐ろしい穴(ヘブル語では滅びの穴)から引き上げられた。彼は私の足を岩の上に置き、私の歩みを確立された」――詩篇四〇・二。 「シオンの山は、麗しい場所にあり(麗しい高みにあり、アメリカ改訂訳)、全地の喜びである(中略)偉大な王の都(中略)神はそれを永遠に確立される」――詩...
力、堅固さ、光、主権 この都、この神の民の土台は、とても堅固です。この土台は試みを経た石であり、その城壁は大きくて高いです。これはみな力と堅固さを物語ります。 御座は中心であり、弱さにおける神の力の現われです――御座の中央の「小さな小羊」は地獄と罪のすべての力よりも偉大です。小羊は勝利されました。御座の中央の小羊は、すべての領域で、あらゆる範囲・深さに及ぶ死に打ち勝った命です。弱さから発した力、永遠...
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悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられるこ...
二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...
イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...
若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は...
イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んで...
パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人...
ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わ...
神の国に関する説教(ルカ一七20~37)ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を...
十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである...
富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は...
しかし、あなたと私が共有している命には、この宇宙のあらゆる破壊的な勢力を遥かに上回るなにかがあります。それらの勢力は主イエスの十字架に集中しました。破壊し、崩壊させ、分裂させ、散らそうとしていました。彼の復活において、この命はこれらすべての破壊的な勢力を遥かに上回ることが証明されました。ペンテコステの日に、その命が何を行ったのかを見ることができます。主が裏切られた夜、彼らはみな散らされました。ペ...
神はこの家族の上に建造される 土台に関しては、神は何の上に建造されるのでしょう?何の上にしか建造できないのでしょう?その答えは大いに明確です。神は命の上にしか建造できません。命の上にしか家族を築けません。私が思うに、神の御言葉、神聖な真理の中で、とても尊い点の一つは、まさに次のことです。すなわち、神の土台の霊的本質はこの家族である、ということです。私たちは、多くの事柄によって、またそれらの上に、建...
私は、詩篇四八篇の最後の句「この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる」が正確な訳ではないことに気づいて興味を持ちました。正確な訳は、「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。さて、「シオンを回り」、最後は「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。死に至るまでではなく、死を超え、死を渡らせ、死の向こう側に導いてくださるのです...
死に勝利する命によって構成された家族 さて、この土台の別の面に移ることにします。というのは、この土台自体は一つですが、多様だからです。黙示録から、この土台がいかに多様かわかります。土台にはあらゆる種類の宝石が使われています。次に、土台に関して少しのあいだ考えてみたいのは、この土台は命によって構成される家族の問題であり、その命は死を征服した命であることです。これは漠然とした言葉であることは承知してい...
「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・十二~十四)「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)「なぜなら、据えられている土台...
イエス・キリストの霊とは何でしょう?第一に、堅固さの霊です。それは私たちの堅固さではないことを、神はご存じです。もし私たちに任されていたなら、私たちはとっくに流されていて、ここにはいなかったでしょう。私たちは学びつつあります、そうです、往々にして自分自身の失敗によって、挫折、失敗によってであり、試練や攻撃の下でです。私たちはキリストを学んでいるところであり、キリストを発見しているところであり、「...
キリストの堅固さを御霊によって自分のものとする必要性 もし主イエスが土台だとするなら、どのようにして彼は土台なのでしょうか?もし、これが彼の土台に言えて、それが私たちにも言えるようにならなければならないのだとすると――どのようにしてでしょう?私たちはあまりにも皮相的でした。私たちは、確かに、「据えられている土台以外のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台は、イエス・キリストです」と...
キリストの堅固さの秘訣 しかし、その秘訣は何だったのでしょう?それはたんなる人間的落ち着きや、偉大な魂の強さ、偉大な意志の強さではありませんでした。ある秘訣があったのです。彼の生活は、天におられる彼の父に深く根差していました。彼のお気に入りの言葉は――「天におられる父」でした。彼の生活はことごとく、天におられる彼の父に深く根差していました。あるいは、いつもの比喩を用いると、天におられる彼の父に基礎づ...
土台であるキリストの堅固さ ここで一つ、これまで述べてきたことと関連してすぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じ...
土台の重要性 土台はきわめて重要なものです。遅かれ早かれ、すべてのものの真価は土台によって決まります。私たちがこの土台に決着をつけることは決してない、という感覚があります。もちろん、土台は一度かぎり永遠に据えられており、私たちは戻って土台を何度も何度も据えなおすべきではない、という感覚もあります。しかし、たとえ土台は据えられていても、私たちが土台に決着をつけることは決してない、という感覚もあります...
シオンの土台 さて、私たちが読んだ他の節は、エルサレムとシオンに関する問題の一つの面に言及しています――つまり、その土台に言及しています。アブラハムについて述べているへブル十一章のこの節は、彼は土台のある都を求めていた、と述べています。次に使徒パウロは、唯一の土台はイエス・キリストであり、他の土台はない、と述べています。また、詩篇作者は「彼の土台は聖なる山々にある」と述べています。神の土台は聖なる山...
「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきである。シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである(中略)シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私た...
シオンの特徴T. オースチン-スパークス目次第一章 キリストの堅固さ第二章 キリストの勝利の命における合一第三章 キリストの命の不滅性第四章 キリストの尊さ第五章 神聖な開始における栄光第六章 隠れた働きにおける栄光第七章 最終的顕現における栄光オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
私たちは、私たちを対処する神の御手の下に来ているのではないでしょうか?主がある時になさりたいことを感じ取るために狭い道に入りつつあるのではないでしょうか?主が望んでおられることや望んでおられないことを、あなたは心の中で知ります。それを主が望んでおられる時を知ります。それは御霊によってあなたに臨んだのです。それは霊的識別力であり、霊的知識たる霊性です。しかし、私たちは自分の頭で物事を考え、神聖な知...
霊的知識の性質と力 知識の問題を考えてみましょう。人は「知識は力なり」と言いますが、それは天然的な知識のことです。知的な知識のことです。人々の間では、それは力かもしれませんが、天然的知識よりも遥かに強力な霊的知識があります。パウロは、この世の知識は命の主を十字架につけたほど愚かなものである、と再度述べています。それは、最高度に発達したこの世の知識です。支配者たちはこれを行いましたし、賢い人々もそう...
霊性の証明は、全く証拠がない時でも神と共に歩めることです。神がご自身を隠される時、信仰のみで歩まなければならない時でも、そうすることです。アブラハムのように、すべてが神を否定しているように思われる時でも、神を実証するものを求めないことです。神は、ご自分の子供たちを、ご自身の臨在を感覚的に示す多くの証拠がなくても、信仰によってご自身と共に歩むことができる、と信用できる地点に導こうとしておられます。...
霊性とは何か 霊性とは、天が意味するところのものであり、統治するものです。霊性の度合いが、神の観点から見た終局性・確実性・確定性・力の度合いです。 霊性とは何を意味するのでしょう?霊的であることについて話す人のことを、この世離れした空想的で夢想的な人物と思う、大勢の人と私たちは会ってきました。彼らは、そのような人物のことを、抽象的になってしまって、実際的なものをすっかりなくした人と思うのです。そう...
神の中心的関心事 この「新しい人」に神は関心を寄せておられます。神の関心はすべてそれにあります。神が追い求めておられるのは、それを成長させて、成熟した状態にもたらすことです。それによりその人の残りの部分を取り扱うことができることを、彼はご存じです。魂と体は、主イエスにある贖いにおいてそれなりの役割がありますが、神は霊すなわち新創造の人から始めて、それを通してその人の残りの部分に働きかけて、その天然...
主の子供である私たちですら、その観念、判断、評価、物事の受け止め方や評価法は、非常に物質的です。私たちは、自分のこうした魂的感覚によって大いに支配されており、影響を受けています。物事が他人にどのような影響や印象を自然に及ぼすことになるのか、それらに対する彼らの反応がどのようなものか、それが人々の間でどれだけ重んじられるのか、ということによって、支配されているのです。大事なのはただ、それが世人に与...
聖書朗読:一コリント二・六~十五。「律法が肉のゆえに弱くて、なし得なかったので、神は、ご自身の御子を罪深い肉の様で、罪のために遣わし、肉において罪を罪定めされました。それは律法の規定が、肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩く私たちにおいて、満たされるためです。なぜなら、肉にしたがっている者は、肉の事柄を思い、御霊にしたがっている者は、御霊の事柄を思うからです。肉の思いは死ですが、御霊の思いは...