(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
火には杯が必要である 「私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります……」「あなたたちは私が飲む杯を飲み、私がバプテスマされるそのバプテスマで、バプテスマされることができますか?」(マルコ一〇・三三)。主が実際に話されたのは、言い換えると、こういうことです、「私には飲むべき杯があります。そして、私がそれを飲むまでは、私が来た当の目的は果たされないままです。私が来たのは火を地にまき散らすためです」。...
この杯の一体化する働き しかし、次にまた、この杯は主ご自身の民のための偉大な一体化の要素です。それは第一に、彼ご自身との一体化のための偉大な手段です。なぜなら、それにより私たちは共に主にあずかるからです。この杯は私たちを彼と結び付けます。それは私たちを彼のものとして、異なる者として、区別するだけでなく――象徴を用いると――まさに血縁関係と言える関係を告げ知らせます。第二に、それは主に結合されたすべての...
この杯は区別を示す しかし、次に、この杯には別の点があります。この杯は、キリストとキリストに関係するあらゆるものの絶対的聖さと隔たりを物語るものであり、示すものなのです。一コリント一〇章は覚えておられるでしょう。「あなたたちは主の杯と悪鬼どもの杯の両方を飲むことはできません」(二一節)。あなたはそれらを一緒にすることはできません。そうすることは、二つの領域の徹底的隔たりを認識しそこなったことのしる...
しかし次に私たちの道があります。私たちはこの杯にあずかるよう迎え入れられました。しかし、私たちの役割は別の領域にあります。それは彼のそしりにあずかることです。それは、私たちは彼の諸々の権利のために彼と共に立っているからです。主の諸々の権利は、この宇宙とこの世で、議論の的とされており、挑まれており、恐るべき攻撃の的となっています。それはまた、聖霊は主イエスの御性格に関して私たちの中で何事かをしてお...
主の杯 主の杯は、教会生活にとって、また、クリスチャンである私たちの生活にとって、中心であり、基礎であることを、私たちはみな知っています。教会生活と信者の生活の両方にとって、それはまさに中心であり。まさに焦点です。神の御言葉はそれをそこに置いており、聖書はそれにその地位を与えています。それは神の民が会する中心であり、彼らの個人的・団体的生活の基礎です。しかし、その杯には、言わば二つの区分があります...
見かけ上の矛盾 さて、ここで私たちは立ち止まって、この問題に関して常に私たちの思いを混乱させる困難、根本的矛盾・混乱を片付けなければなりません。一方において、クリスチャン生活は喜びによって、平安によって、安息によって、希望によって、命によって特徴づけられていなければなりません。他方において、この同じクリスチャン生活は――これとはいささかも矛盾していませんが――苦難によって特徴づけられる可能性があるだけ...
クリスチャンの証し 次なる思索は私たちをクリスチャンの証しの領域に導きます。クリスチャンの証しの領域に働く火に導きます。とても有名な節に向かうことにします。 「しかし神に感謝します。この方はいつも私たちを、キリストにあって勝利の中で導き、彼を知る知識の香りを、至る所で私たちを通して現わされます。というのは、私たちは救われつつある者の中でも、滅びつつある者の中でも、神に対するキリストの香ばしいかおり...
聖書朗読:マルコ一〇・三五~三九、マタイ二六・二七、二八、三九、四二、ルカ二二・二〇、ヨハネ一八・一一、一コリント一〇・一六、一一・二六. 私が来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど圧迫されることでしょう!(ルカ一二・四九、五〇、改訂標準訳、欽定訳)。 新たに黙読したこれらの...
杯と火T. オースチン-スパークス目次第一章 杯と火の関係第二章 世々にわたる戦い第三章 聖霊の積極的性質第四章 火の試練オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
神の臨在が水晶のように明らかな祈りの集会に出席したある時のことを、私は決して忘れません。突然、ある人が祈り始めました。彼は感情の洪水のような魂の勢いをもって祈りました――それはまさに汚れた流れが集会の中に注がれたかのようであり、私たちは厚く重たい空気に包まれました。 個人的解放のためだけでなく証しのためにも、神の命が解放されて私たち――霊、魂、体――を生かせるようになるために、どうすればこれらの「魂の...
神に仕えようとする「天然の人」 神の民が経過しなければならない苦難の多くは、これらの天然の力のためです。というのは、もし私たちが神の命の純粋な流れを本当に願っているなら、これらの力は十字架で対処されなければならないからです。私たちのクリスチャン経験の初期の頃の問題は「罪に対する勝利」と「肉」でした。罪を憎むべきことについては、私たち全員が同意します。しかし、神と共に進んで、彼の御用のための道具とな...
さて、人が「肉」の支配から逃れるのを見いだす時、敵の大きな狙いは、天然の魂の力を完全に活動させ続けることです。なぜなら、敵は次のことを知っているからです。すなわち、肉の罪の中に導くことによるのと同じくらい効率的に、人自身のエネルギーや力を通して、敵は神の御業を妨げることができるのです。 この魂の命をどうすればいいのでしょう?第一に、あなた自身の命、天然の古いアダムの命は、堕落によって汚染されてい...
「霊の人」 この絵図から、遥かに心地よい主題である霊の人に移ることにします。何が人を「霊の人」にするのでしょう?すべての人が霊を持っています。すなわち、神のための能力を持っています。しかし、再生されていない人においては、それは暗くされています。ですから、人には新生が必要です。(1)「御霊から生まれる」こと、(2)聖霊を受けることが必要です。エゼキエル三六・二六の二つの約束を覚えておられるでしょう。...
「天然の人」 信者は肉的か霊的かのいずれかであり、それはその信者の命の中で支配的な要素によります。もし肉的な又は肉の命――これには魂の力(たとえば、知性、愛情、感情など)が含まれます)――が支配的なら、たとえ再生されていて、その人の霊の中に聖霊が住んでおられたとしても、神の御言葉はその人のことを「依然として肉的」(一コリント三・三、改訂訳)と呼んでいます。「天然の人」は、パウロが言うには、神の霊の事柄...
「御霊から生まれた」後、その人がすっかり刷新されるこの完全な刷新の道に立ちはだかるものは何でしょう?それは、まだ完全には神の霊の支配に服していない「天然の命」の活動です。昔のクエーカーらは、よくこれを「被造物的活動」と称していました。魂は、言わば、霊と体を結ぶ絆です。そして、魂の天然の力はことごとく、あなたの霊の中にある神の命があなたの全存在に満ち溢れて新しくするのを妨げています。 天然の知性の...
個々の信者と教会が恐れるべき最も大きな危険は、「思いや意志の力による、魂の過度の活動」です。アンドリュー・マーレー博士のこの発言は、クリスチャン生活や奉仕における多くの「失敗」の根底に横たわる深い理由の一つに触れます。神が人を「生ける魂」に創造された時、人の人格と意識の座である魂は「一方において、体を通して外側の世界とつながり、他方において、霊を通して目に見えない神聖な世界とつながった。魂は自分...
キリストのとりなし 二六節の御霊の「うめくとりなし」の後で、キリストのとりなしについて三四節に記されています。「キリスト・イエスは死んで、さらに死者の中から復活させられ、神の右で、私たちのためにとりなしておられます」。へブル四・一五にはこうあります、「私たちの大祭司は、私たちの弱さ(ギリシャ語では道徳的・肉体的弱さ)に同情することのできない方ではなく、あらゆる点で私たちと同じように試みられた方なの...
御霊のうめく叫び 自分の祈りの生活の中で、この違いを述べることができるでしょうか?祈りは、私たちの存在の最も内奥から発する流れでしょうか――霊の中の御霊のうめき、叫びでしょうか?時としてそれは思いに届くかもしれませんが、常にそうだとは限りません。それは「思い」から発した祈りでしょうか、それとも、「主よ、何を求めればいいのか私に教えてください」という叫びが霊の中にあるでしょうか?この御言葉によると、聖...
祈りを妨げる隠れた漏損 多くのクリスチャンは、霊の命の力を漏出させる隠れた妨げを抱えています。聖霊は彼らの中で導き、行動し、教え、働いておられます。しかし、下からの何かが彼らを下の方に引っ張り、弱らせて、しょっちょう彼らを低い領域に引きずり込みます。日々の生活の中で御霊の力を経験しない限り、彼らは霊の命による御霊のとりなしも、彼による祈りの励ましも経験できません。 一瞬一瞬、霊の命のすべての漏損を...
祈りのための条件 二六と二七節に描写されている御霊による祈りの生活を十分に知るには、まず、一二~一七節の霊的条件を個人的に満たす必要があります。 二六節の祈りの生活へと導く最初の条件は、一三節に見いだされます。「もし肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ななければなりません。しかし、御霊によって体の行いを死に渡すなら、あなたたちは生きます。なぜなら、神の霊によって導かれている者はみな、神の子らで...
祈りには途方もない力があります。ただしそれは、私たち全員がその使い方を知っていればの話です。ローマ八・二六、二七は、祈りにおける聖霊の役割について私たちに示しています。「御霊もまた私たちの弱さを助けてくださいます」――ギリシャ語ではこれは私たちの身体的・道徳的弱さのことです――「なぜなら、私たちはどのように祈ったらよいのかわからないからです」。つまり、彼の助けがなければ、私たちは自分のために、あるい...
8.誘惑は罪ではないことを覚えておかなければなりません。 敵は、人と主との間のやりとりを断ち切ることを、なりわいとしています。敵は自分の戦術を、攻撃中の相手に適したものにします。そして、敏感な人々を、想像上の「不従順」や「明け渡し不足」に関する絶えざる罪定め(敵の根拠については一ヨハネ三・二一、二二を見よ)の中にとどめようとすることによって、苦しめます。何らかの従順な歩みが示されたにもかかわらず、...
7.全く光に従順に歩まなければなりません。 主との交わりの中を歩むつもりなら、当然、彼は私たちに次のことを期待されます。すなわち、彼が私たちに与えてくださる光にことごとく従うこと、そして、従うことを可能ならしめる従順の霊を私たちが彼から得ることです(エゼキエル三六・二七)。「私があなたたちに命じることをあなたたちが行うなら、あなたたちは私の友人です」と彼は弟子たちに言われました。イエスとの友情は、...
こう言う人もいるかもしれません、「はい、自分の過ちに気づいたら、私は直ちに神に立ち返って告白します。しかし、平安と交わりの感覚はすぐには回復されません」。 これには一、二の理由があるかもしれません。 (a)私たちに確かな平安を与える貴い血の効力をわかっていないため。無意識のうちに、聖霊による神の働きよりも自分の告白に信頼するおそれもありえます。 告白ではなく、聖霊による清めの血の適用こそが、破れ...
6.「失敗」を予期してはなりません。 同じ罪に何度も何度も陥ることを予期してはなりません。なぜなら、生ける主(へブル七・二五)は私たちをつまずきから守ることができるからです(ユダ二四)。交わりの途絶は、その人が神の「守る」力の外にあることを示します。主に回復を求める時は、御前で待ってその違反――おそらくは神の御旨ではない何らかの歩み――の理由を理解しなければなりません。なぜなら、御旨の道にあるときだけ...
5.直ちに「失敗」を対処しなければなりません。 失敗を意識する時、直ちに神のもとに行くのは容易ではありません。事実、戦いはこの点に最もかかっています。直ちに行くなら、行くことによって私たちは救われます!悪魔、私たちの良心、私たちの羞恥心、私たちの後悔、これらがみな一緒になって私たちを遠ざけようとします。まず二、三時間「惨め」に過ごさなければならない、という一種の感覚を抱いてしまうのです!思い切って...
3.一瞬一瞬生きることを学ばなければなりません。 すでに見たように、神との交わりは呼吸によく似ています。それは一度にひと時しか維持できません。たとえ敵がそうするよう私たちを大いに誘惑したとしても、過去を振り返ったり将来を眺めたりすることを拒絶しなければなりません。過去に対する空しい後悔や、未来に対するぼんやりした恐れは、私たちの心を悩ませて、神との私たちの交わりを破るのに十分です。 心は一度に二つ...
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(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...