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  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (7)

    火には杯が必要である 「私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります……」「あなたたちは私が飲む杯を飲み、私がバプテスマされるそのバプテスマで、バプテスマされることができますか?」(マルコ一〇・三三)。主が実際に話されたのは、言い換えると、こういうことです、「私には飲むべき杯があります。そして、私がそれを飲むまでは、私が来た当の目的は果たされないままです。私が来たのは火を地にまき散らすためです」。...

  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (6)

    この杯の一体化する働き しかし、次にまた、この杯は主ご自身の民のための偉大な一体化の要素です。それは第一に、彼ご自身との一体化のための偉大な手段です。なぜなら、それにより私たちは共に主にあずかるからです。この杯は私たちを彼と結び付けます。それは私たちを彼のものとして、異なる者として、区別するだけでなく――象徴を用いると――まさに血縁関係と言える関係を告げ知らせます。第二に、それは主に結合されたすべての...

  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (5)

    この杯は区別を示す しかし、次に、この杯には別の点があります。この杯は、キリストとキリストに関係するあらゆるものの絶対的聖さと隔たりを物語るものであり、示すものなのです。一コリント一〇章は覚えておられるでしょう。「あなたたちは主の杯と悪鬼どもの杯の両方を飲むことはできません」(二一節)。あなたはそれらを一緒にすることはできません。そうすることは、二つの領域の徹底的隔たりを認識しそこなったことのしる...

  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (4)

    しかし次に私たちの道があります。私たちはこの杯にあずかるよう迎え入れられました。しかし、私たちの役割は別の領域にあります。それは彼のそしりにあずかることです。それは、私たちは彼の諸々の権利のために彼と共に立っているからです。主の諸々の権利は、この宇宙とこの世で、議論の的とされており、挑まれており、恐るべき攻撃の的となっています。それはまた、聖霊は主イエスの御性格に関して私たちの中で何事かをしてお...

  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (3)

    主の杯 主の杯は、教会生活にとって、また、クリスチャンである私たちの生活にとって、中心であり、基礎であることを、私たちはみな知っています。教会生活と信者の生活の両方にとって、それはまさに中心であり。まさに焦点です。神の御言葉はそれをそこに置いており、聖書はそれにその地位を与えています。それは神の民が会する中心であり、彼らの個人的・団体的生活の基礎です。しかし、その杯には、言わば二つの区分があります...

  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (2)

    見かけ上の矛盾 さて、ここで私たちは立ち止まって、この問題に関して常に私たちの思いを混乱させる困難、根本的矛盾・混乱を片付けなければなりません。一方において、クリスチャン生活は喜びによって、平安によって、安息によって、希望によって、命によって特徴づけられていなければなりません。他方において、この同じクリスチャン生活は――これとはいささかも矛盾していませんが――苦難によって特徴づけられる可能性があるだけ...

  • 「杯と火」第四章 火の試練 (8)

    クリスチャンの証し 次なる思索は私たちをクリスチャンの証しの領域に導きます。クリスチャンの証しの領域に働く火に導きます。とても有名な節に向かうことにします。 「しかし神に感謝します。この方はいつも私たちを、キリストにあって勝利の中で導き、彼を知る知識の香りを、至る所で私たちを通して現わされます。というのは、私たちは救われつつある者の中でも、滅びつつある者の中でも、神に対するキリストの香ばしいかおり...

  • 「杯と火」第一章 杯と火の関係 (1)

    聖書朗読:マルコ一〇・三五~三九、マタイ二六・二七、二八、三九、四二、ルカ二二・二〇、ヨハネ一八・一一、一コリント一〇・一六、一一・二六. 私が来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど圧迫されることでしょう!(ルカ一二・四九、五〇、改訂標準訳、欽定訳)。 新たに黙読したこれらの...

  • 「杯と火」目次

    杯と火T. オースチン-スパークス目次第一章 杯と火の関係第二章 世々にわたる戦い第三章 聖霊の積極的性質第四章 火の試練オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(7) 完

    神の臨在が水晶のように明らかな祈りの集会に出席したある時のことを、私は決して忘れません。突然、ある人が祈り始めました。彼は感情の洪水のような魂の勢いをもって祈りました――それはまさに汚れた流れが集会の中に注がれたかのようであり、私たちは厚く重たい空気に包まれました。 個人的解放のためだけでなく証しのためにも、神の命が解放されて私たち――霊、魂、体――を生かせるようになるために、どうすればこれらの「魂の...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(6)

    神に仕えようとする「天然の人」 神の民が経過しなければならない苦難の多くは、これらの天然の力のためです。というのは、もし私たちが神の命の純粋な流れを本当に願っているなら、これらの力は十字架で対処されなければならないからです。私たちのクリスチャン経験の初期の頃の問題は「罪に対する勝利」と「肉」でした。罪を憎むべきことについては、私たち全員が同意します。しかし、神と共に進んで、彼の御用のための道具とな...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(5)

    さて、人が「肉」の支配から逃れるのを見いだす時、敵の大きな狙いは、天然の魂の力を完全に活動させ続けることです。なぜなら、敵は次のことを知っているからです。すなわち、肉の罪の中に導くことによるのと同じくらい効率的に、人自身のエネルギーや力を通して、敵は神の御業を妨げることができるのです。 この魂の命をどうすればいいのでしょう?第一に、あなた自身の命、天然の古いアダムの命は、堕落によって汚染されてい...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(4)

    「霊の人」 この絵図から、遥かに心地よい主題である霊の人に移ることにします。何が人を「霊の人」にするのでしょう?すべての人が霊を持っています。すなわち、神のための能力を持っています。しかし、再生されていない人においては、それは暗くされています。ですから、人には新生が必要です。(1)「御霊から生まれる」こと、(2)聖霊を受けることが必要です。エゼキエル三六・二六の二つの約束を覚えておられるでしょう。...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(3)

    「天然の人」 信者は肉的か霊的かのいずれかであり、それはその信者の命の中で支配的な要素によります。もし肉的な又は肉の命――これには魂の力(たとえば、知性、愛情、感情など)が含まれます)――が支配的なら、たとえ再生されていて、その人の霊の中に聖霊が住んでおられたとしても、神の御言葉はその人のことを「依然として肉的」(一コリント三・三、改訂訳)と呼んでいます。「天然の人」は、パウロが言うには、神の霊の事柄...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(2)

    「御霊から生まれた」後、その人がすっかり刷新されるこの完全な刷新の道に立ちはだかるものは何でしょう?それは、まだ完全には神の霊の支配に服していない「天然の命」の活動です。昔のクエーカーらは、よくこれを「被造物的活動」と称していました。魂は、言わば、霊と体を結ぶ絆です。そして、魂の天然の力はことごとく、あなたの霊の中にある神の命があなたの全存在に満ち溢れて新しくするのを妨げています。 天然の知性の...

  • 「神との交わり」三.神と共に働く(1)

    個々の信者と教会が恐れるべき最も大きな危険は、「思いや意志の力による、魂の過度の活動」です。アンドリュー・マーレー博士のこの発言は、クリスチャン生活や奉仕における多くの「失敗」の根底に横たわる深い理由の一つに触れます。神が人を「生ける魂」に創造された時、人の人格と意識の座である魂は「一方において、体を通して外側の世界とつながり、他方において、霊を通して目に見えない神聖な世界とつながった。魂は自分...

  • 「神との交わり」二.神の霊と共に祈る(5)

    キリストのとりなし 二六節の御霊の「うめくとりなし」の後で、キリストのとりなしについて三四節に記されています。「キリスト・イエスは死んで、さらに死者の中から復活させられ、神の右で、私たちのためにとりなしておられます」。へブル四・一五にはこうあります、「私たちの大祭司は、私たちの弱さ(ギリシャ語では道徳的・肉体的弱さ)に同情することのできない方ではなく、あらゆる点で私たちと同じように試みられた方なの...

  • 「神との交わり」二.神の霊と共に祈る(4)

    御霊のうめく叫び 自分の祈りの生活の中で、この違いを述べることができるでしょうか?祈りは、私たちの存在の最も内奥から発する流れでしょうか――霊の中の御霊のうめき、叫びでしょうか?時としてそれは思いに届くかもしれませんが、常にそうだとは限りません。それは「思い」から発した祈りでしょうか、それとも、「主よ、何を求めればいいのか私に教えてください」という叫びが霊の中にあるでしょうか?この御言葉によると、聖...

  • 「神との交わり」二.神の霊と共に祈る(3)

    祈りを妨げる隠れた漏損 多くのクリスチャンは、霊の命の力を漏出させる隠れた妨げを抱えています。聖霊は彼らの中で導き、行動し、教え、働いておられます。しかし、下からの何かが彼らを下の方に引っ張り、弱らせて、しょっちょう彼らを低い領域に引きずり込みます。日々の生活の中で御霊の力を経験しない限り、彼らは霊の命による御霊のとりなしも、彼による祈りの励ましも経験できません。 一瞬一瞬、霊の命のすべての漏損を...

  • 「神との交わり」二.神の霊と共に祈る(2)

    祈りのための条件 二六と二七節に描写されている御霊による祈りの生活を十分に知るには、まず、一二~一七節の霊的条件を個人的に満たす必要があります。 二六節の祈りの生活へと導く最初の条件は、一三節に見いだされます。「もし肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死ななければなりません。しかし、御霊によって体の行いを死に渡すなら、あなたたちは生きます。なぜなら、神の霊によって導かれている者はみな、神の子らで...

  • 「神との交わり」二.神の霊と共に祈る(1)

    祈りには途方もない力があります。ただしそれは、私たち全員がその使い方を知っていればの話です。ローマ八・二六、二七は、祈りにおける聖霊の役割について私たちに示しています。「御霊もまた私たちの弱さを助けてくださいます」――ギリシャ語ではこれは私たちの身体的・道徳的弱さのことです――「なぜなら、私たちはどのように祈ったらよいのかわからないからです」。つまり、彼の助けがなければ、私たちは自分のために、あるい...

  • 「神との交わり」一.神との交わり(10)

    8.誘惑は罪ではないことを覚えておかなければなりません。 敵は、人と主との間のやりとりを断ち切ることを、なりわいとしています。敵は自分の戦術を、攻撃中の相手に適したものにします。そして、敏感な人々を、想像上の「不従順」や「明け渡し不足」に関する絶えざる罪定め(敵の根拠については一ヨハネ三・二一、二二を見よ)の中にとどめようとすることによって、苦しめます。何らかの従順な歩みが示されたにもかかわらず、...

  • 「神との交わり」一.神との交わり(9)

    7.全く光に従順に歩まなければなりません。 主との交わりの中を歩むつもりなら、当然、彼は私たちに次のことを期待されます。すなわち、彼が私たちに与えてくださる光にことごとく従うこと、そして、従うことを可能ならしめる従順の霊を私たちが彼から得ることです(エゼキエル三六・二七)。「私があなたたちに命じることをあなたたちが行うなら、あなたたちは私の友人です」と彼は弟子たちに言われました。イエスとの友情は、...

  • 「神との交わり」一.神との交わり(8)

    こう言う人もいるかもしれません、「はい、自分の過ちに気づいたら、私は直ちに神に立ち返って告白します。しかし、平安と交わりの感覚はすぐには回復されません」。 これには一、二の理由があるかもしれません。 (a)私たちに確かな平安を与える貴い血の効力をわかっていないため。無意識のうちに、聖霊による神の働きよりも自分の告白に信頼するおそれもありえます。 告白ではなく、聖霊による清めの血の適用こそが、破れ...

  • 「神との交わり」一.神との交わり(7)

    6.「失敗」を予期してはなりません。 同じ罪に何度も何度も陥ることを予期してはなりません。なぜなら、生ける主(へブル七・二五)は私たちをつまずきから守ることができるからです(ユダ二四)。交わりの途絶は、その人が神の「守る」力の外にあることを示します。主に回復を求める時は、御前で待ってその違反――おそらくは神の御旨ではない何らかの歩み――の理由を理解しなければなりません。なぜなら、御旨の道にあるときだけ...

  • 「神との交わり」一.神との交わり(6)

    5.直ちに「失敗」を対処しなければなりません。 失敗を意識する時、直ちに神のもとに行くのは容易ではありません。事実、戦いはこの点に最もかかっています。直ちに行くなら、行くことによって私たちは救われます!悪魔、私たちの良心、私たちの羞恥心、私たちの後悔、これらがみな一緒になって私たちを遠ざけようとします。まず二、三時間「惨め」に過ごさなければならない、という一種の感覚を抱いてしまうのです!思い切って...

  • 「神との交わり」一.神との交わり(5)

    3.一瞬一瞬生きることを学ばなければなりません。 すでに見たように、神との交わりは呼吸によく似ています。それは一度にひと時しか維持できません。たとえ敵がそうするよう私たちを大いに誘惑したとしても、過去を振り返ったり将来を眺めたりすることを拒絶しなければなりません。過去に対する空しい後悔や、未来に対するぼんやりした恐れは、私たちの心を悩ませて、神との私たちの交わりを破るのに十分です。 心は一度に二つ...

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