道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
台湾では寺院がやけにきらびやかで、日本人からすると毎日がパーティナイトのようだ
台湾では寺院がやけにきらびやかで、日本人からすると毎日がパーティナイトのようだった。高雄で訪れた文武聖殿という寺院もやはり煌々と明るく、街に夜の帳が下りた後も関羽を主祭神とする道教寺院は不夜城のように輝いていた。
高雄の将来性を見込んだ浄土真宗本願寺派の法主大谷光瑞がこの地に農園を造り、その傍らに建てたのが逍遙園だ
高雄にある逍遙園は数少ない日本統治時代に建てられた「⽇式建築」と呼ばれる和⾵建築の建築物だ。浄土真宗本願寺派の法主・大谷光瑞が1940年に別邸として建てたもので、高雄の将来性を見込んだ大谷光瑞が自らの農園の傍らに建てた邸宅を復元したものだ。
台湾の漢字は中国大陸と違って繁体字で書かれているので日本人にはわかりやすいけれど、それが落とし穴だったりする
台湾の漢字は中国大陸と違って繁体字で書かれているので、日本人にはわかりやすい。日本ではあまり見かけない漢字もあったりするけれど、ほとんどは日本でも使われている漢字で、読めなくとも意味を想像できる。でもここに落とし穴がある。日本と台湾で同じ漢字を使っているからと言って、意味も同じとは限らないのだ。
爆竹の煙が充満する中で旗の付いた棒を手にした女性たちが踊っていた
大量の爆竹がなり、立ち込めた煙の中に現れたのは今まで踊っていた女性たちとは違って、黄色い衣装に身を包んだ男だった。たぶん神様なのだろう。爆音とともに現れた神様は、爆音とともに三鳳宮の中に消えていった。台湾の神様は随分と騒々のがお好きなようだ。
三鳳宮の提灯を眺めていると隙間なく並んでいる提灯が整列している人間に見えて、マスゲームしているように見えるのだった
三鳳宮はびっしり並んだ提灯で有名な寺院だ。等間隔に吊られた提灯を眺めていると、ふとマスゲームを連想してしまう。隙間なく並んでいる提灯が、寸分の違いもなく統制が取れた北朝鮮のマスゲームをしているように見えるのだ。
三鳳宮には道教の神様だけでなく、釈迦牟尼仏や観世音菩薩などの仏教の神様もいて、まるで神様のデパートのようだった
高雄で有名な三鳳宮には山門のようなものはなく、駐車場になっている広場を越えて階段を登ればもうそこは前殿だ。中庭を挟んで建っている正殿には主祭神である中壇元帥が祀られているだけではなく、上層階には他の道教の神様もいれば釈迦牟尼仏や観世音菩薩などの仏教の神様もいる。狭い境内の中に大勢の神様がいて、まるで神様のデパートのような様相を呈している。
住居に挟まれて、数階建てのビルのような寺院の中に中国道教における最高神である玉皇上帝が鎮座していた
歩いていて中国寺院を見つけると入ってしまうのは、住居に挟まれて、数階建てのビルのような寺院に鎮座している神様を拝んでみたくなるからだ。台湾の寺院は派手に装飾されているだけでなく、ひとつの建物の中にいくつもの祭壇が設けられていて、それぞれに神様が祀られている。日本の神社仏閣とは種類の違う神域なのだ。
安くて美味しい朝食を提供してくれるお店が街のあちこちで旅行者を待ち構えているから、台湾に行ったらホテルで朝食を摂るのはもったいない
台湾に行ったら、ホテルで朝食を摂るのはもったいない。日本と違って朝食も外食文化が盛んな台湾では安くて美味しい朝食を提供してくれるお店が街のあちこちで旅行者を待ち構えていて、バリエーションも豊富だ。そのようなお店で食べた方がいいと思うのだ。
基本的には道教の寺院のようだけれど、中にある祭壇には仏教の準提観音も祀られていた
台湾では道教寺院なのか仏教寺院なのか、よくわからないことが多い。このとき訪れた前金万興宮という寺院はどちらなのだろうと思って調べてみると、主祭神は清水祖師とのこと。日本では馴染のない神様で北宋時代に実在した禅僧なのだという。道教の寺院だ。でも別の祭壇には仏教の準提観音が祀られていたりして、台湾の寺院は奥が深い。
新しく完成した渋谷サクラステージは、その複雑さを反映したのかエスカレータのところも込み入った構造になっていた
町のあちこちで建設工事が行われていると、街が新しい時代に突入する息吹と同時に景気の好調さを感じる。しかしながら面白いことに渋谷駅付近の再開発を眺めてもあまりそう思えない。インドや中国を訪れたときに街中が工事中でこれから中国とインドの時代が来ると感じたのとは対照的に、渋谷の建設現場を眺めても、胸が踊らないのだ。
上野戦争や関東大震災、第二次世界大戦などの厄災を乗り越えて、1651年に改築した社殿が今でもどしんと待ち構えている上野東照宮は強運の神様としても信仰されている
上野戦争や関東大震災、第二次世界大戦などの厄災を乗り越えて、三代将軍である徳川家光が1651年に改築した社殿が今でもどしんと待ち構えている上野東照宮は、その来歴から強運の神様として、また祭神が徳川家康であることから出世、勝利、健康長寿の神様として信仰されている。さらに金ピカの社殿を眺めると金運もアップするような気もしてくる。
同じ格であるはずの大宮氷川神社と氷川女体神社にある格差のありようは大きさの異なる夫婦茶碗のようだ
大宮氷川神社と氷川女体神社および中山神社の三社を一体のものとして、武蔵国一宮としているようだけれど、その扱いは神社によって違っていて、大宮氷川神社が夫を祀る「男体社」で、氷川女体神社は「女体社」にあたるというものの、その格差のありようは大きさの異なる夫婦茶碗のようだ。
岩壁を掘って煉瓦で覆われた東京湾要塞の跡は現在もしっかり残っており、釣りやバーベキューというアクティビティよりもその要塞跡を散策する方が猿島の魅力を堪能できる気がする
岩壁を掘って煉瓦で覆われた東京湾要塞の跡は現在もしっかり残っており、釣りやバーベキューというアクティビティよりもその要塞跡を散策する方が猿島の魅力を堪能できると僕は思っている。
御手洗池の幻想的なイメージは現世利益を求める声にあっけなくかき消されてしまっていた
鹿島神宮の奥にある御手洗池は中央に鳥居もあって幻想的な趣がある池だ。昔は参拝の前にここで禊をしたのだという。今でも年始には200人もの人びとが大寒禊を行うという池の御神水は持ち帰ることも可能で、この日は池を眺める人だけでなく、この御神水を持ち帰ろうとする人で行列ができていた。
鹿島神宮の仮殿は徳川2代将軍秀忠が奉納したもので、建てられてから400年以上も経過しているのだから「仮」の字を外してもいいのではないか
鹿島神宮の仮殿は1618年に徳川2代将軍秀忠が奉納したもので、建てられてからすでに400年以上も経過しているのだから、いい加減「仮」の字を外してもいいのではないかと思う。
かつて江戸で唯一金貨を鋳造していた金座のあった本石町には今でも日本銀行の本店があって金融の大役を担い続けている
地名にその歴史を刻めなかった銀座と銭座と違って、かつて江戸で唯一金貨を鋳造していた金座のあった本石町には今でも日本銀行の本店があって、地名にその歴史を刻めなかったものの「物価の安定」と「金融システムの安定」という金融の大役を担い続けている。
目玉のような丸窓が見下してくる建物は一等馬見所と呼ばれるもので旧横浜競馬場の観客スタンドの残滓だ
高台に立地していた横浜競馬場は1942年に第二次世界大戦が始まると、横須賀の軍港が一望できるという理由から海軍省に接収されてしまう。そのまま終戦後は米軍に接収され、接収が解除された部分は根岸森林公園になっているものの、写真の旧一等馬見所の反対側は今でも在日米海軍横須賀基地司令部が管理しているエリアで一般人は入れないままだ。
段葛が石積みになったのは1961年から1962年にかけてのことで、桜が植えられたのは1917年のことだというから、昔からある段葛も実は地味にバージョンアップをし続けているのだ
古都にあるものだから中世の昔から今と同じものがあったように思ってしまうけれど、段葛が現在の形になったのは2014年に改修工事が行われた結果だ。左右が土手だった段葛が石積みになったのは1961年から1962年にかけてのことで、桜が植えられたのは1917年のこと。昔から同じ形で存在し続けたわけではなく、実は地味にバージョンアップをし続けているのだった。
鶴岡八幡宮では厄除けの大祈祷という春の節分を迎えるにあたって新しい一年が福運に恵まれるように厄を落とす祈願が行われていた
僕の生活の中ではすっかり正月気分はなくなっていたけれど、鶴岡八幡宮にはまだ迎春の雰囲気が漂っていて、立春(=新年)を迎える厄除けの大祈祷という儀式が行われていた。この儀式は春の節分を迎えるにあたって新しい一年が福運に恵まれるように厄を落とす祈願のことだ。
トーハクに収蔵されている法隆寺献納宝物は、寺宝が散逸しないように皇室に一括献納した宝物と考えられている
奈良にある法隆寺の宝物が東京国立博物館にあるのはなぜだろうと不思議に思う人も多い。その原因となったのは明治時代になって吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐で、このままでは寺宝が散逸してしまう、という危機感を持った法隆寺が日本でもっとも安全確実な保管先である皇室に寺宝を一括献納して永久に伝えることにしたためと考えられている。
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道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
外を歩いているはずなのに、ふとした瞬間、屋内をさまよっているような気分になることがある。香港の湾仔で歩いていた路地も、まさにそんな場所だった。左右からせり出した色とりどりのテントが、空を覆っている。青や赤のビニール屋根が視界の上部を埋め尽くし、その下にはびっしりと並ぶ屋台。靴下、帽子、スマホのアクセ…
ムンバイを歩いていると、どこにも属さず、ただ道端に腰を下ろしている人びとをよく見かける。何かをしているわけでもない。ただそこにいて、通りを眺めたり、誰かと談笑したり、ときには黙って風に吹かれているだけ。日本ではあまり見かけない光景で、最初は何をしている人たちなのか分からず戸惑った。でも、そんな僕の思…
ハノイ旧市街を歩いていると、絶え間なくバイクの音が耳に届いてくる。クラクション、エンジンのうなり、時には叫び声。四方八方から押し寄せてくるバイクの波に、僕はしばし立ち尽くしてしまう。目の前を通り過ぎるのは、老若男女、二人乗り、三人乗り、買い物袋をいっぱいぶら下げた人、スマートフォンを片手に運転する人…
鹿港天后宮のような道教寺院を訪れるたびに、僕は少しだけ戸惑う。日本の寺に慣れ親しんだ身にとって、この空間はどこか異質で、けれどそれが不思議と心を惹きつけてやまないのだ。回廊には柱が並び、軒下には金色の飾りが揺れている。どこを見渡しても色彩が濃い。その中で人々は香を焚き、願いを込め、祈りを捧げている…
香港では、空がやけに狭く感じられる。高層ビルがぎっしりと並び立ち、視界のほとんどを覆ってしまうからだ。見上げても、わずかにのぞく青空があるだけで、それさえも四角く切り取られてしまっている。湾仔の露店が並ぶ通りを歩いていると、その感覚はいっそう強くなる。そんな通りの片隅で、ひとりの男性が店先の商品をじ…
ムンバイの街を歩いていると、突然、壁に向かって設えられた即席の鏡台と、ちょっと背の高い椅子が目に入った。青空の下、歩道にぽつんと構えられた床屋だ。ごく自然な様子で椅子に座っている男性と、真剣な眼差しで顔剃りをしている理容師。ふたりの間には、言葉にしない信頼のような空気が流れていた。こうした青空床屋の…
ハノイ旧市街の一角。通り沿いにずらりと並んだカラフルなおもちゃたちが、小さな玩具屋の前を賑やかに彩っていた。キャラクターのぬいぐるみ、ピカピカと光る剣、リアルに作られたミニカー。どれもが棚からこちらに手を伸ばしてくるようだった。その前に立っていたのは、小さな男の子。目を輝かせておもちゃを見つめる姿は…
鹿港の静かな通りの先に、威厳ある屋根の反りが姿を現した。媽祖を祀る鹿港天后宮だった。立派な装飾が施された屋根の下には、赤い幕が垂れ、香炉の煙がゆっくりと天へと立ちのぼっている。天后宮という名が示す通り、ここには海の守護神・媽祖が祀られている。かつて鹿港が港町として栄えていたころ、多くの船乗りたちがこ…
香港・湾仔の路地に小さな肉屋があった。間口は狭く、奥行きも深くない。店先にはローストされた鶏が無造作に吊るされている。冷蔵ケースなどは見当たらず、常温での陳列だ。生々しいが、どこか生活感があって、妙に惹きつけられる。店先では男が無言で作業を続けていた。大きな丸太のようなまな板の上で、手際よく鶏肉をさ…
ムンバイの道路脇にツートンカラーのクラシックなタクシーが停車していた。前席と後部座席のドアがどちらも大きく開け放たれて、歩道にまでせり出していた。その開き具合は、もはや歩行者の進路を遮っているようでもあったが、周囲の誰も気に留めていない様子だった。男の子はよけるでもなく、その隙間をすり抜けるように通…
旧市街の一角、封筒の束が山のように積まれた店先で、ひとりの男が小さなプラスチック椅子に腰を下ろしていた。彼が手にしているのはスマートフォンだが、その背後には、整然と束ねられた無数の茶封筒が静かに存在感を放っていた。日本ではすっかり電子化が進み、郵送という行為が年賀状くらいでしか思い浮かばなくなった今…
鹿港老街を歩いていると、ふと視界の端に色鮮やかな舞台が現れた。まるで絵本から飛び出したかのような極彩色の装飾が目を引く。龍や鳳凰、蓮の花などが勢いよく描かれたその舞台は、人形劇のための移動式ステージだった。「大自然掌中劇團」と書かれた看板が掲げられている。台湾の伝統芸能である布袋戲、つまり掌中劇の舞…
湾仔を歩いていたとき、ふと立ち止まった。目の前に現れたのは、赤々とした肉塊が無造作に吊るされた精肉店だった。まるで屋台のようなお店は小さいものの、店先にずらりと並んだ肉はまるでこの街の生命力そのものを象徴しているかのようだった。蛍光灯の赤い光が肉の色をいっそう濃く染め上げている。骨付きのまま吊るされ…
ムンバイの午後の陽射しは強く、空気の粒が光の中でじわじわと揺れているように見えた。そんな中、通りかかったバス停のベンチに座っていたひとりの女の子が、こちらを見てふっと微笑んだ。前髪がまっすぐに切り揃えられていて、その輪郭のくっきりとしたラインが、どこか昔の映画に出てくる少女のような印象を与える。左手…
ハノイの街を歩いていると、ふと立ち止まりたくなるような食堂に出くわす。銀色に鈍く光るステンレスのテーブル。プラスチックの椅子が無造作に並び、中央には箸が束になって立てられている。どのテーブルにも共通して置かれているのは、唐辛子入りの調味料の瓶、紙ナプキン、そして赤いプラスチック製の箸入れ。ベトナムで…
赤い提灯がゆらめき、線香の煙が天井へと昇ってゆく。鹿港天后宮の境内は、平日にもかかわらず参拝客でにぎわっていた。媽祖信仰の中心地として知られるこの廟は、鹿港の歴史そのものといっても過言ではない。鹿港はかつて、清朝時代に港町として隆盛を極めた。大陸からの船がこの地に寄港し、物資とともに文化も行き交った…
火龍果とは、ドラゴンフルーツのこと。果肉の白や赤に、黒いつぶつぶの種が無数にちりばめられた、どこか異世界の植物のような果物である。その派手な見た目に似合わず、味は意外と淡白だが、香港の市場では人気者だ。湾仔の街角に立ち並ぶ果物屋では、そんな火龍果が山のように積み上げられていた。赤紫色の果皮が照明を受…
ムンバイの通りを歩いていると、どこからともなく甘くて爽やかな香りが漂ってきた。香りの先を辿ると、そこには小さなジューススタンドがあった。派手な装飾もなく、看板には英語とマラーティー語が混じって並んでいる。だが、そんな飾り気のなさがかえって、街の空気とよく馴染んでいるように思えた。スタンドには何人もの…
ハノイ旧市街の路地を歩いていると、ひときわ目を引くのが行商人の姿だ。観光地の中心にありながら、そこには不思議と生活の匂いが残っている。行商人の多くは、手押しのワゴンや肩にかけた籠で、静かに街を巡っている。売っているものは華やかさよりも実用性が重視され、地元の人々の台所に直結するような品ばかりだ。この…
理由はわからないけれど野木神社の12座あった舞のうち、五行の舞だけが100年ほど前から行われていなかったところ、1999年に隣接する小山市の神社で行われているものを元に復元されて再び奉納されるようになったのだという。100年前に途絶えていたのだから、写真記録はおろか、動画を記録したものもほとんどないに違いない。そのような中、復活させるのは大変な作業だっただろう。
円形劇場とは古代ローマにおいて剣闘士競技などの見世物が行われた施設のこと。つまり剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられたところを指す。WIKIPEDIAによると東京オペラシティのサンクンガーデンはその円形劇場を模しているという。本来は血なまぐさい場所に、表情のない巨人が立っていては尋常ならざる雰囲気を感じてしまっても仕方がない。
東京オペラシティアートギャラリーに「寺田コレクション」を残している寺田小太郎という人物は、メディアに登場するような有名人ではないけれど、500年続く名家の人間で東京オペラシティ辺りの大地主だったという。メディアに登場しなくとも、由緒あるお金持ちって存在しているのだと思わされる話だ。
「町中華」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは分かったような、分からないような曖昧なものだったけれど、藤沢駅近くにある老舗中華料理店「味の古久家」を訪れたら、その曖昧模糊としたイメージが少しだけハッキリしたような気がした。
1929年に竣工した日本橋室町に建つ三井本館は、当時の社長の「関東大震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」との命で、当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコストを掛けて建設されているという。コリント式のオーダーが乗る列柱が整然と並ぶファサードはまるでロンドンかニューヨークに建っているビルのようだ。
由来を考えると歴史のありそうな静岡市葵区は意外なことにその歴史は浅い。誕生したのは2005年4月1日だから、まだ20年も経過していないのだ。その名前の重さに歴史がある名称だと思っている人は多いだろう。これと同じように新しいくせに古株のような顔をしているものは、世の中に結構多い。
登呂遺跡は弥生時代の水田遺構が日本で初めて確認された遺跡で、弥生時代=水田稲作というイメージが定着する契機ともなった遺跡だ。だから教科書にも載っていて、僕も耳にしたことがあったのだ。8万平方メートルを超える水田跡が発掘された登呂遺跡は、今では公園として整備され、復元された水田と建物群が往時の様子を今に伝えている。でも建物の用途はどうやって判定しているのだろう。
久能山東照宮で拝観料を払って進むと、朱塗りの大きな門が現れる。この楼門には後水尾天皇の宸筆の扁額が掲げられており、由緒あるものだ。鎌倉の英勝寺と同じように久能山東照宮は徳川家と縁が深く、そのため天皇や上皇に扁額を依頼することができたのだろう。
公式サイトによると、久能山東照宮の登山に要する時間はたった20分程度。でも実際に歩くと長く感じる。登山道の作られている斜面は傾斜が急で、道はつづら折りになっていた。少し進むと踵を返して方向転換する。教科書に載せたくなるような見事なつづら折りだった。
天満宮はもともと、怨霊と化した菅原道真の魂を鎮めるための神社であったはずなのに、今ではそのイメージは薄い。現在では学問の神様として広く信仰されていて、受験シーズン前に合格祈願に訪れたことのある人も多いだろう。実際、菅原道真は優れた学者であったという。そのため「怨霊」というよりイメージが薄まるにつれ、「学問の神様」としての信仰が根付いただろう。
経ヶ峯公園には仙台藩祖・伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿をはじめ、2代忠宗の感仙殿、3代綱宗の善応殿、9代周宗や11代斉義の墓がある。また、斉義の妻の墓や、5代吉村以降の藩主の夭折した子女の墓もある。経ヶ峯公園一帯は伊達家の重要な墓所なのだ。いくつもある霊廟の中でも、伊達政宗の瑞鳳殿は特別な存在で、他の霊廟とは異なり涅槃門と拝殿が設けられていて、別格の扱いなのだ。
広瀬川を渡ると住宅街が広がり、その先に伊達政宗の墓所である瑞鳳殿がある。瑞鳳殿は仙台市の中心部から少し離れており、1945年の仙台空襲で焼失したが、戦後に再建された。再建された建物は色鮮やかで、黒を基調とした美しい文様が特徴である。400年近くも保存されていたオリジナルだったら、これほど鮮やかではないだろう。
仙台にある「せんだいメディアテーク」は建築家・伊東豊雄の代表作で、フランスのル・モンド紙でも紹介されたほどの知名度を持つ。全面ガラス張りの開放的なデザインが特徴で、6枚の床と13本のチューブという独特の構造を持つ。この建物には仙台市民図書館やイベントスペース、ギャラリー、スタジオがあり、市民に開放的な空間を提供している。特に開放的な図書館で行う読書は心地よいだろう。普段なら読んでも理解できないものも、ここなら理解できるかもしれない。
仙台の輪王寺は戦国大名伊達氏と縁のある寺院だ。明治維新後に一時没落したものの、1910年代に復興され、池の中心に三重塔が映える禅庭園もその際に作られた。でも僕が惹かれたのは山門から本堂へ伸びる参道だった。新緑に覆われていた道を歩くと緑のトンネルの中を進んでいるような気分に浸れ、俗世から聖域へと足を踏み入れる感覚を与えてくれる。
日枝神社がこの地に遷座したのは1659年で、それ以前は松平忠房の邸宅であり、さらに遡ると星ヶ岡城という城郭があった。城郭の名残はほとんど残っていないが、地図を見るとその地形が城郭に適していることがわかる。日枝神社の北側には土塁と思しき遺構も残っているとはいえ、城郭だった名残はほとんど残っておらず、記録も乏しい。星ヶ岡城は謎に包まれた城郭なのだ。
都内にある国宝の建造物は少なく、東村山の正福寺地蔵堂と赤坂迎賓館の2つだけだ。そのひとつである赤坂迎賓館は1909年に建てられ、バッキンガム宮殿やヴェルサイユ宮殿を参考にした西洋風の建物である。日本風の意匠も混じっているが、外観は西洋式で統一されている。広々とした前庭の石畳はヨーロッパの旧市街を思わせ、日本にいることを忘れさせる。訪れても面白いと思う。
手賀ハリストス正教会は、茅葺屋根の古民家風外観ながらも、内部はイコンが掲げられた聖堂だ。1879年に建立され、関東でも有数の歴史を誇る聖堂を訪れれば、その外観と内部のギャップに訪れる人々は驚くに違いない。
東京にある庭園には高低差のあるところが多いのは、そのような地形が庭園造りに好まれたからとされる。高低差があると、眺望も良いし、滝も作りやすいなのだという。国分寺崖線沿いに作られた殿ヶ谷戸公園にもやはり庭園内にかなりの高低差があった。
買ってきた生竹の節を切り取って大勢で流しそうめんを楽しんだこともあるけれど、竹の種類についてよくわからない。自分の竹リテラシーの低さを思い知らされたのだった。
印刷工場は郊外に移転したものの、市谷工場の表玄関だった「時計台」がDNP本社ビルの脇に復元されていて、中には印刷工場の一部が再現されている。そこでは活版印刷の流れを体験できるようになっている。