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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

いながさとし
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2010/06/24

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  • 北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

    雍和宮打鬼第七節風俗習慣と日常生活上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。風俗習慣清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。...北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

  • 北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

    第六節北京の園林と廟宇西苑清朝が北京を都に定めて後、城池(城壁と堀の意から都市のこと)と宮殿の規模は相変わらず明朝に基づき、ただ戦乱で破壊された部分にのみ補修を加え、城門や宮殿の名称も多少改変した。紫禁城の西の「太液池」は、中、南、北海と分けて呼んだ。ここは金、元以来の宮廷の御苑の景勝地であった。清朝前期に拡張され、これを西苑とした。西苑の中は、楼台(高楼)が聳え立ち、彫刻や装飾が精緻で美しく、大小の修築された物の数が合わせて百を数えた。そのうち中南海の部分がしばしば「臣工を引見、応対し、重要な事務を総理し、王公、卿士を饗宴したり、或いは外潘を接見、朝見し、遠征軍の指揮官の帰還をねぎらい、武官が技を競う」(『日下旧聞考』巻21)ために使われ、「勤政殿」、「灜台」などがあった。康熙、乾隆の時代には、しばしば...北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

  • 北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

    万斯同第五節清前期の北京の学術と文芸活動北京の学者や文士北京は清朝の首都になり、全国各地の学者、文士がこの地に集まった。彼らはある者は科挙の試験に合格し、翰林院に入った。ある者は或いは招聘を受け、或いは遊学のため、北京に来た。こうした学者たちは互いに親しくなり、議論を戦わせ、北京の文化的繁栄や学術の発展に重要な影響をもたらせた。康熙帝は三藩の平定(1681年。清朝の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)を滅ぼした)後、学問を重んじ、学識のある名士が争って都、北京に集まってきた。平民階級で、徐元文の招聘に応じて北京で主に『明史』を編纂した万斯同(ばんしどう)は、毎回講義の度に、翰林、部郎、処士が4、50人を率いて、車座...北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

  • 北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

    林清天理教の蜂起、林清の紫禁城攻撃1813年(嘉慶18年)、林清の率いる天理教徒が紫禁城を攻撃したのは、歴史上前例のない反乱活動であった。それは黄巣や李自成のように数十万の農民蜂起軍を率いて京城を攻撃したのではなく、百人、二百人の教徒が紫禁城に乱入し、宮殿の守備兵らと死闘を展開した。天理教は白蓮教の一派で、その組織は八卦に基づき編成され、それゆえ八卦教とも呼ばれる。天理教の派別は様々で、北京で組織されたものの多くは「龍華会」に属し、その中には更に紅陽派と白陽派の区分があった。この秘密の宗教教団は、北京、直隷、河南、山東、山西一帯で活動していた。彼らは「無生老母」を信奉し、「真空家郷、無生父母」の八字の口訣(信者に覚えやすいように口調よくまとめた語句)を伝授した。天理教のこの組織は、最初から清朝の政治権力を...北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

  • 北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

    順天府衙署第四節清朝の政治体制と民衆の蜂起清朝の北京での地方行政組織清代の北京の地方行政組織は、互いに独立した三つの部分で成り立っていた。すなわち、民政を管理する順天府、主に警備の責任を負う九門提督、治安の掌握を主とする五城御史である。順天府清は明に倣い、依然順天府を北京に置いた。衙署(役所)は地安門外にあり、鼓楼の東、すなわち明代の順天府旧址であった。大興、宛平の両県を管轄した。順天府尹(知事)は正三品官(一般の知府は従四品)であった。府尹の下属官には府丞、治中、通判、経歴などがあった。順天府の職権は「京畿治理」(北京首都圏の治安維持)、「刑名銭谷」(刑事訴訟、地租や税金の徴収)などの事務の掌握であった。清の統治者は毎月1、15日に、全国各州、府、県は、郷約(郷里で皆が遵守すべき規約)により人々全般に康...北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

  • 北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

    清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)官営手工業の衰退と民営工房の発達農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色...北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

  • 北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

    清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制清初、統治者が踏みにじった手工業と商業土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持す...北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

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