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簾満月のバスの助手席 https://sudareshuji.hatenablog.com/

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 国道170号越え (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「枚方宿西の見附」から旧京街道(東海道五十七次)に戻り、カラー鋪装が施された道に導かれるように角を曲がり桜町に入ってきた。雑多な感がする町並で、軒の低い住宅が建ち並んでいる。所々に立てられた道端の石の道標には頻りに「水面回廊」への案内が見られる。 調べてみると「水面廻廊」と言うのは、「雨水路(幹線用水路)を整備して、人と生き物と自然が共存できる水辺の空間として造られた公園」を言うらし。旧道からは北に離れた通りで、桜町から出口地区に至る凡2㎞に及ぶ遊歩道のようで、桜の名所という。 この標識に気を取られていたわけではないが、実はこの先で道を間違えてしまった。国道170号線越を前にして桜町の外れで、…

  • 参勤交代 (チョット一息)

    江戸幕府は、幕藩体制を強化する目的で、寛永12(1635)年参勤交代を制度化した。全国の大名は一年ごとに江戸と領国を行き来する事、大名の妻子は言わば人質として江戸に住むことを義務付けた。 大名や妻子が住む為、幕府の官舎である大名屋敷、即ち上(かみ)・中(なか)・下(しも)の屋敷を与え、府内に住まわすことにした。 参勤交代は大名にとっては一大難事で、壮麗な行列を組んでの参勤は、度重なると出費も増え藩の財政を極度に圧迫したと言われている。幕府にとってはこれが狙いで、財政悪化による藩の弱体化、しいては幕府に対する反抗・反乱を未然に防止することに繋げようとした。 参勤交代のルートや、どこの宿場に泊まる…

  • 大名の序列(チョット一息)

    江戸幕府は、厳格に諸大名の格付けを行っていた。その最たるものは徳川将軍家との関係性による序列である。 最上位は家康の子供を始祖とする尾張、紀州、水戸の「御三家」だ。後の世には、八代将軍吉宗の子供と孫を始祖とする田安、一橋、清水の「御三卿」がこの次に列せられ、この大大名のみが徳川姓を名乗ることが出来た。 これに続くのが徳川家一門の大名「親藩」である。更に徳川家の家来筋に当る「譜代」大名と続き、最下層が嘗て豊臣秀吉の時代に徳川家と同列で、徳川の時世になって臣従した「外様」大名である。 一般的に「親藩」や「譜代」の大名は江戸城近辺に、また重要地とされる名古屋や大阪等に所領が与えられたが、「外様」は遠…

  • 枚方宿西の見附(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    鍵屋資料館を過ぎ、桜町交差点のところで淀川の堤防に出てみる。目の前に拡がるのは、河川敷に設けられた「淀川河川公園」で、上流は八幡の御幸橋辺りから、下流は河口に近い淀川大橋辺りまで展開する広大な河川敷公園である。 ここ枚方地区には、野球・サッカー場やバーベキュー広場、芝生広場などが整備されている。 枚方市は旧宿場町の保存に務め、それを生かした町づくりに挑んでいる。資源を生かし、観光客を受け入れるべく施設を整備する当地には、まだまだ見どころが沢山あった。 立ち寄れなかったが、本陣跡の近くには、日本で最初の「河川博物館」として昭和52(1977)年に開館した「淀川資料館」(入館無料)もある。町中には…

  • 鍵屋資料館(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    嘗て大阪は、「天下の台所」と言われ、大阪・天満の八軒屋浜を基点とする淀川の舟運は、経済活動の大動脈とされていた。 瀬戸内海から日本海へ、淀川から京・伏見、更に琵琶湖へと三十石船や二十石船、過書船(通行量免除の舟)などが行き来し、最盛期には1400艘もの舟が運航していたと伝えられている。 東海道を大阪に向かう旅人の多くは、京に向かいそこから淀川の舟運を利用するのが殆どで、半日ほどの行程であった。夜舟も出ていて舟中で寝ながら向かう者もいたらしい。 その為三十石船が行き交う淀川は賑わい、乗客に対し「餅くらわんか、酒くらわんか」と売りつける茶舟「くらわんか舟」が発達した。 一方、大阪から江戸に向う旅人…

  • ここにも曲尺手(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    その先に浄土真宗・西御坊の浄念寺があった。開基は、明応4(1495)年に、蓮如上人の弟子の石見入道浄念による寺である。枚方は元々浄土真宗が盛んな地であったが、天和年間に本願寺が東と西に分裂したため、浄念寺を西御坊、京阪踏切を挟んで反対側にある願生坊を東御坊と呼ぶ様になった。 寺の前の道は右へ曲ってすぐ左折するいわゆる「曲尺手(かねんて)」になっている。枚方宿には本陣を挟んで、東側には枚方橋と宗佐の辻、西側にはここ浄念寺と西見付に曲尺手が設けられていた。 これは大勢が一気に宿場内に雪崩れ込む事を防ぐ軍事的な目的の他、大名行列同士が宿場内でかち合わないようにする役割も持っていた。 この時代、大名が…

  • 旧三矢村 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    人混みに混じり、宗左の辻近くで簡単に昼食を済ませ、岡本町公園に立ち寄り少し身体を休めたが、ここで時間を掛けすぎたようで、再度街道に出て歩き始める。 その先の道路を越えると、道幅が若干狭くなり電線・電柱が地中化された、町並保存地区のような道が西に延びていた。 街道は観光通りらしく、多くは近年オープンしたのか、お洒落なカフェや店舗、ギヤラリー等が軒を連ねている。また旧道らしい虫籠窓を備えた白漆喰塗りの軒の低い平入り商家も幾らか目にすることも出来、そんな店舗や町家等を覗き歩く観光らしい人達も多く見られる。 途中に「妙見宮常夜灯石灯篭」が立っていた。嘉永7(1854)年に奉納された花崗岩製の石灯籠で、…

  • 枚方岡本町公園辺り(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    枚方宿を貫く街道は一度「枚方ノ橋」の有る岡本町で南に折れ、その先の宗左の辻で今度はほぼ直角に曲がり西に進路を向ける。宿内の守りを固める所謂「曲尺手」である。 それを抜け府道139号に出ると、道を隔てた向こう側に商業施設「ビオルネ」が見える。ショッピングセンターとマンションから構成される複合商業施設だ。平成2(1990)年に市街地再開発事業の一環でオープンした。 地上15階、地下2階建ての北館は、地下1階から6階まではショッピングセンター、その上の階はマンションになっている。 一方地上10階・地下2階建ての南館は、4階以上がマンションになっているが、通りに面して商業施設が店舗を構え、2階部分が京…

  • 宗左の辻 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    京阪の枚方市駅を見通す駅前の通りを過ぎるが、この辺りが市の中心的な場所らしく随分と賑わっている。そこを過ぎ左に緩くカーブしながら町並を抜ける。と右手に「枚方橋跡」の案内があり、その親柱がここに残されていた。今は暗渠だが古くは安居川(中川)が流れ「枚方ノ橋」と呼ばれる土橋が架かっていた。 宿内には、出格子、虫籠窓、漆喰壁で袖卯建の上がった平入りの旧家が幾らか残されている。町屋は間口2間半から4間のものが多いらしく、3室の居室を縦1列に並べ、その片側に通り庭を配するのが基本形式で、カマヤ(炊事場)は裏手に設けるのが特徴という。 嘗て街道筋には旅籠屋や煮売屋の他、古道具屋、醤油屋、荒物屋など、様々な…

  • 枚方宿(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「マイカタちゃいます、ひらかたです。」「枚方の地名の由来はわかりませんが、奈良時代に成立した『日本書紀』には、「ひらかたゆ笛吹き上る近江のや毛野の稚子い笛吹き上る」という歌がみえます。(枚方市HP)」 枚方市は大阪府北東部、北河内地域に位置する市で、京都府と奈良県に接している。東の生駒山と西の淀川に挟まれ、人口は40万人弱、世帯数は凡20万世帯余だ。 戦後大規模な住宅団地が開発され現代では高層マンション等が増え、京阪神間の中核的なベッドタウンと位置付けられている。 豊臣秀吉が大阪の石山本願寺跡の上町台地北端に大阪城を築き、西側に城下町を開くと、京と大坂城を結ぶ新たな街道の整備が必要となった。更…

  • 町屋の鮒ミイラ (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    東見附を後に、カラー舗装に導かれ、枚方宿の中心部に向う。見附の300m程先が中心部となり、左側には京阪の枚方駅が有る。枚方宿は更に先に延びその長さ1.3㎞に及ぶ、可成り規模の大きな宿場であったようだ。 新町で最初に目にする平入り平屋建ての旧家は、「旧枚方宿問屋役人 小野平右衛門家(八幡屋)」の建物で、家業は豪農、醤油業を経営し村年寄りを兼ねていた。問屋は宿の業務を指揮監督する最高責任者で、村の庄屋が兼務していた。 説明によると当家には正徳6(1716)年建築の古図と鬼瓦があるが、現在の建物は間口8間(14.5m)、梁行六間(10.9m)もあり、居室は2列に6室が配されている。厨子二階、起屋根、…

  • 枚方宿東見附跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「天之川町」の旧道を抜け、天野川の土手の行き止まりを右折して、凡50m程で府道に出て左折、現在の鵲橋を渡る。嘗てこの川には木橋が架けられていたが明治に入ると京街道が国道格上げされた事により、架け替えられた。 更に昭和に入り旧道より少し下流に新国道が開通すると、木橋はコンクリート製に改修されている。現在の鋼鉄製の永代橋が完成するのは、平成8(1996)年3月の事だ。橋の袂には旧橋の親柱が保存、残されている。 広々とした近代橋を渡り終え、直ぐに左折するすると角に、「歴史街道」「←枚方宿東見附跡」の石碑が建っている。ここが宿場の東側の入口らしい。ベージュにカラー舗装された土手沿いの道が延びていて、そ…

  • 鵲(かささぎ)橋 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「これやこの 七夕つめの 恋渡る あまの川原の かささぎのはし」 天野川は、奈良県の生駒山地に水源をもつ一級河川で、交野から枚方を経て、枚方から700m程西で淀川に合流し、大阪湾に注いでいる。 民家の詰まった「天之川町」の旧道を350m程進むと、その天野川の土手に突き当たる。江戸時代ここには「鵲(かささぎ)橋」という、長さ17間、幅3間1尺の木橋(板橋)が架けられていた。 元文2(1737)年に発行された「岡新町村明細帳」や「河内名所図会」には「天川(あまのかわ)」の鵲橋が紹介されているが、本来幕府はこの川への架橋は禁じていたらしい。 ところが御三家の一つ、紀州家の参勤交代の折に限っては、仮橋…

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