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簾満月のバスの助手席 https://blog.goo.ne.jp/sudare-m

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 日本のデンマーク(東海道歩き旅・三河の国)

    陽気の穏やかな時期を選んで、旧街道歩きを続けている。しかし気候は気ままで、時に予期せず気温が上がることがある。季節外れの夏を思わせる日差しの中、アスファルトの道は、思いのほか暑く余計に汗をかき、それだけにこまめな水分補給は欠かせない。近頃では歩く時は「MEDALIST」顆粒一袋を、500㎖の水に溶かし、折に触れそれを一口ずつ含み、1日に3本は飲むように心がけている。歩く上でやはりこの水分補給は欠かせない。今ではそんな水は、コンビニやスーパー、自動販売機などで簡単に調達する事が出来、これまでもこれで困ったことはない。東海道筋の岡崎から安城、豊田に掛かる岡崎平野一帯は、大正末期から昭和初期にかけて、「日本のデンマーク」と言われた時期があった。農業や酪農が盛んで、気候や風土も似ていることから、農業先進国のデンマークに...日本のデンマーク(東海道歩き旅・三河の国)

  • 助郷制度(東海道歩き旅・三河の国)

    「村社熊野神社」の境内前には、「鎌倉街道遺跡」、「尾崎の一里塚」などの案内板も建てられている。鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に63駅を定めた鎌倉街道が設置され、その古道がこの神社の森を通り抜けていたという。そこから数百メートルほど西進した宇頭町は、嘗て大浜茶屋村と呼ばれた地で、昔上り下りの立場が有った所だ。江戸(東京)行幸される明治天皇も、ここで休憩された。その先に、永安寺と言う寺院があり、境内に見事な松が見えたので、見学がてら、ここで水分補給の一休みをさせて頂くことにした。この村の庄屋であった柴田助太夫の旧宅跡に、草庵として建立され、彼の死後、本人とその妻の戒名から、「本然山永安寺」と名付けられ、曹洞宗に属したのがこのお寺だそうだ。松は県の天然記念物に指定された、樹齢350年の「雲龍の松」である。珍し...助郷制度(東海道歩き旅・三河の国)

  • 予科練の地(東海道歩き旅・三河の国)

    矢作橋を渡り暫く旧街道を歩いた後は、国道1号線に出て単調な国道歩きを続ける。左側を走る名鉄の宇頭駅を過ぎた先の尾崎東で、国道1号線を外れ右の旧道に入りこむ。道なりに暫く行くと右手に「村社熊野神社」の緑濃い森が見えてくる。街道沿いに常夜灯が立ち、それと並んで「予科練の碑」、「元第一岡崎海軍航空隊配置図」と書かれた案内板等が建っていた。それによると、戦局の芳しくない昭和19年2月、戦力の画期的な増強を目論見、海軍はこの地に練習航空隊を設置し、飛行予科訓練生の即戦力養成を行っていたと言う。訓練生の数はおよそ六千名に上った。全国各地から選別し集められた若者は、日夜の別なく厳しい訓練を受けた結果、各地の航空隊へ実務練習生として派遣されて行った。恐らく彼らはその地から、勝ち目のない戦の、特攻隊として玉砕すべく飛び立って行っ...予科練の地(東海道歩き旅・三河の国)

  • 小六と日吉の出合い (東海道歩き旅・三河の国)

    岡崎の宿場を外れ国道1号線に出て、そこに架かる矢作橋を渡る。流石に東海道ベルト地帯の幹線道、国道1号線を通る車は引っ切り無しだ。東海道本線や、東海道新幹線は遙か南を抜けていて、橋の上からは見通すことは出来ない。しかし、左手の名鉄の鉄橋では、時折赤と白の電車が「ガァーガァー」と騒々しい音を立てながら通り過ぎている。橋の西詰め右側に、「出合之像」と名付けられた大きな石造が見える。この付近を荒らし回っていた野武士の頭領、蜂須賀小六正勝が、日吉丸(後の豊臣秀吉)とこの橋で出会ったとの伝承に因んだものだ。物語などでは日吉丸が橋の上で寝ていると、そこを通り掛かった小六が、邪魔だと言って頭を蹴った事を、侘びろ、侘びないで押し問答になった。しかしこの説には異論もあるようだ。『天文二十一年の夏の頃には、まだまだこの地は、乱世乱麻...小六と日吉の出合い(東海道歩き旅・三河の国)

  • 矢作橋 (東海道歩き旅・三河の国)

    「豊川矢矧川おほや川(男川)とて三つの川有れば三河の国というなん」これが「三河」の国名の由来とも言われているが、定説にはなっていないそうだ。しかしこのように名前が挙げられている事から考えても、岡崎宿の西を流れる矢作川は、古来より三河を代表する川であることに違いは無いようだ。江戸幕府は街道の整備を進める一方、治安上の理由から東海道筋の大川に橋を架けることを厳しく制限していた。僅かに「六ごうの橋、よしだの大橋、やはぎの橋、せたのから橋」位で、その他の川は、基本は人力による徒渡しである。ただ小さな川には、粗末な木橋や土橋は架けられていたようだ。しかし「神君家康公」の生誕地岡崎は例外らしく、慶長6(1601)年には土橋が架けられている。長さ二百八間(凡そ380m)、橋杭70柱と言う、堂々とした作りで、当時は日本一の長さ...矢作橋(東海道歩き旅・三河の国)

  • 八丁味噌の郷 (東海道歩き旅・三河の国)

    いい加減、うんざりする程に曲折を重ねて来た「岡崎二十七曲がり」の、ようやくの終点が八丁の交差点である。岡崎城から八丁(およそ870m)離れていて、それが地名の由来だという。そこは「八丁味噌の郷」と言われる地で、八丁味噌の老舗、「カクキュー」と「まるや」が旧街道沿いに蔵を並べている。ここでは土鍋で生麺から煮込む「味噌煮込みうどん」が食べられるが、残念ながら営業時間が終わっている。懐かしい味を期待してきたが、今日は悉く食べ物にも見放されている。老舗の味噌蔵が幾つも並ぶ通りは、そんな味噌の良い香りを漂わせながら、旧道らしい雰囲気を醸し出している。八丁味噌は矢作川の伏流水により大豆と塩のみを使い、大きな木桶に仕込み、長年使い続ける川石を重しにし、大豆の旨味を凝縮させるため、二夏二冬以上じっくりと人の手を入れることなく熟...八丁味噌の郷(東海道歩き旅・三河の国)

  • 岡崎城・遠望 (東海道歩き旅・三河の国)

    何十年振りかの岡崎城下であるが、足の痛さもあり寄り道は出来ず、それでも道中の写真だけは何とか撮り続けて来た。案内柱の「いろは」ばかりに気を取られ、今となってはどんな町並で、何があったのか、殆ど印象に残っていない。宿場の名物、淡雪豆腐(あんかけ豆腐)を模した、銘菓すら味わうこと無くやり過ごしてきた。城下を抜ける二十七曲街道で、うんざりする程幾つかの曲がりを重ね、ようやく伊賀川に架かる三清橋にさしかかる。この辺りまで来ると、前方の緑の森の中に岡崎城を見通す事が出来る。「いろは」の案内柱は「る」となっている。折角のお城だが、手前のビルや深い緑の森に阻まれて、全貌を伺い知ることは出来ない。ここは江戸幕府の譜代の臣が代々城主を務め、権威を誇った城であるが、明治維新により建物は全てが取り壊されている。戦後になった昭和34年...岡崎城・遠望(東海道歩き旅・三河の国)

  • 懐かしい町・岡崎 (東海道歩き旅・三河の国)

    岡崎は名古屋に住んでいた折、小学校の頃の遠足や子供会の行事などで何度も訪れた懐かしい町である。とは言っても、知っているのは岡崎公園とお城ぐらいのごく限られた一画だけで、記憶としても殆ど何も残ってはいない。二十七曲がりと言われる街道筋を歩くのもこれが初めてである。岡崎の銘菓と言えば、創業が天明二年の備前屋「岡崎名物あわ雪」だ。当地を訪れた際の定番土産は、これと赤だし味噌である。その店舗を町中で目にしたが、珍しく立寄ることも無くやり過ごした。理由は簡単で、肉刺が潰れた足が痛み、回り道も寄り道もする気にはなれず、早く宿に入りたい一心で、只ひたすら前に進み続けてきたからだ。吉良道の追分けを示す石柱等を見ながら、お城を遠巻きに、何度も曲がりを重ねる街道を、些か食傷気味に歩いて来た。途中には気になるところも沢山有ったが、足...懐かしい町・岡崎(東海道歩き旅・三河の国)

  • 宿場町・岡崎 (東海道歩き旅・三河の国)

    岡崎城主・田中吉政による城下の整備と「岡崎二十七曲がり」と言われる街道の付け替えで、宿場は整備され家屋や人口も増え、町は繁栄し大層な賑わいを見せるようになった。それは「その賑わい、駿府に次ぐべし」と言われる程の繁栄ぶりが伝えられている。宿場は本陣と脇本陣が各3軒あり、旅籠の数は112軒を数え、城下の戸数は1,565軒もあり、人口は6,500人ほどの規模であったと言う。当地は「家康と三河武士のふるさと」と言われるように、神君家康公出生の地であり、家康が浜松城に移るまでの本拠地であり、無骨な三河武士の故郷である城下町だ。しかし昔から「岡崎女郎衆はよい女郎衆」と唄われ、「昔より、遊女の名高く・・・」と言い、「妓百余人有り」と当時の道中案内では伝えられている様に、「岡崎女郎衆」がとみに知られた土地でもある。家康所縁の城...宿場町・岡崎(東海道歩き旅・三河の国)

  • 城下町・岡崎 (東海道歩き旅・三河の国)

    「五万石でも岡崎様は、御城下まで舟がつく」岡崎城下は、昔から俗謡でこのように謳われている。徳川家康が生まれた地、神君出生の地であり、その後の度重なる苦難と忍従を重ねた地でもある。徳川幕府発祥の礎の地であり、更に東海道の要衝の地でも有った。石高こそ低いものの、代々徳川譜代大名が城主を務め、その藩主の多くが幕閣の要職を務めるほどの勢威を振るっていた。岡崎には中世の頃から、竜ケ城と言う城が築かれている。時を経て後世、家康が浜松城に移るまでの間の本拠でもあるが、岡崎発展の礎を築いたのは、岡崎五万七千石の城主となった田中吉政である。天正18(1590)年、徳川家康が駿府城から江戸に入った時を同じくしてここに入城し、ただちに城下の整備に着手している。城を近世城郭に整備すると同時に、城下を七つの町割りの整備を進め、町を囲む田...城下町・岡崎(東海道歩き旅・三河の国)

  • 「いろは」を辿る道しるべ (東海道歩き旅・三河の国)

    岡崎城下に入り、これから難関な宿場町を抜けることになる。若宮町の小さな緑地に建つ、「岡崎二十七曲がり」の石碑がスタート地点となる。まず手始めに、ここを右折し100m程先の、「岡崎げんき館」を目指す。その角には、モニュメントを配した小さな緑地がある。岡崎城下を抜けるこの道は、昔の旅人は迷うこと無く、無事通り抜けが出来たであろうか、などと心配になるほど角を幾つも曲がる。しかし、これは心配無用である。当時の城下町筋で賑わいを見せるのは、基本的には店が並んだ表通りの街道筋だけなので、それを辿れば、裏道に入り込まない限り迷うことも無く、城下の通りぬけは出来たようだ。但し町並が線から面へと広がり、賑わいが表通りだけとは限らない、当時とは比べものにならない程、都会となった現在の町中の旧街道を辿るのはそう簡単ではなさそうだ。道...「いろは」を辿る道しるべ(東海道歩き旅・三河の国)

  • 岡崎の二十七曲がり (東海道歩き旅・三河の国)

    五間の土橋が架けられていたと言う、筋違橋の東で右の旧道に入ると立場のあった欠町で、岡崎城下はいよいよ近づいてくる。家康公の城下入りを前に、この立場にやって来た旅人は、暫し足を留め、茶をすすり一息ついていたのであろう。住宅地の中を暫く道なりに行くと、四叉路の角に冠木門が復元された緑地がある。そこには「岡崎二十七曲がり」と書かれた石碑が建っている。ここが世に知られた、東海道一の曲がりくねった街道、「岡崎二十七曲がり」のスタート地点である。この先の東海道は、岡崎の城下を幾度も折れ曲がり、凡一里の道を行くことになる。元々東海道は、岡崎の町中を流れる乙川の南を通り抜けていたと言う。しかし城は川の北側に建ち、城下の町並もその足元に広がっていたので、このままでは旅人は、わざわざ川を渡って城下を訪れる事も無く素通りしてしまい、...岡崎の二十七曲がり(東海道歩き旅・三河の国)

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