chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
簾満月のバスの助手席 https://blog.goo.ne.jp/sudare-m

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
フォロー
住所
東区
出身
愛知県
ブログ村参加

2010/04/02

arrow_drop_down
  • 名奉行・大岡越前守忠相 (東海道歩き旅・三河の国)

    乙川は嘗て男川とも呼ばれていたらしく、その名称の名残はこの近くの名鉄の「男川駅」でも知ることが出来る。そんな乙川を越え、旧道に入り込むと大平町だ。何とはなく意外に思えるが、ここには大岡越前守忠相の邸宅跡が有る。大岡裁きで知られた忠相は、若干41歳で南町奉行に昇進し、八代将軍吉宗が進めた享保の改革を供に進めた人物である。その頃の町奉行は、通常60歳前後の旗本が就任していたから、彼は異例の出世である。「関東地方御用掛」(代官を支配する勘定奉行の職務)と言う、関東地方の農政支配の役目も兼務し、多忙な激務であったらしく、江戸の町の名奉行と言われた裁きは、一日に百件を超えたとも伝えられている。忠相は町奉行から、1万石を拝領した大名になった唯一の人物らしく、明治維新までこの三河の国に続いた西大平の地の初代藩主(陣屋)として...名奉行・大岡越前守忠相(東海道歩き旅・三河の国)

  • 横断歩道橋 (東海道歩き旅・三河の国)

    藤川宿を出て、国道などを歩くと、旧街道は乙川に突き当る。大屋川、大平川、或は男川とも言われ、三河の地名由来(諸説有り)となった三つの川(豊川、矢矧川、男川)の一つである。嘗てここには、四十弐間の土橋が架けられていたが、今橋はない。迂回して30mほど東の国道1号線に架かる大平橋を渡る。橋の途中から河原を見ると、馬が二頭静かに岸辺の草を食んでいた。足を止め、穏やかな表情の馬を眺め、しばし休息ていると何だか、足の痛さも、体の疲れもどこかに飛んで行ったように癒やされる。渡り終えたところで、直ぐに左の旧道に降り、その先の大原町東の歩道橋で国道1号線を越える。高度成長期の折、車が爆発的に発達し、歩行者、特に老人や子供の安全確保や、信号に代わる渋滞の緩和などの名目で、全国各地の主要な道路には多くの横断歩道橋が造られた。しかし...横断歩道橋(東海道歩き旅・三河の国)

  • 藤川の松並木 (東海道歩き旅・三河の国)

    再び十王堂のある街道に戻ってきた。その先で79番目の一里塚跡などを見て更に進むと、境松と言われるところが二股のY字路になっている。その奥には旅人を見守っているのか、観音様(妙見堂)が祀られている。その前の道路脇には、吉良道の道標が立っている。正面には「西尾平坂土呂吉良道」右の側面には「文化十一年甲戌五月吉日」と彫られてい、高さが150センチほどの四角柱である。ここが東海道と吉良道の分岐点、所謂追分けである。左に進めば、西尾から平坂土呂を経て吉良方面に通じる「吉良古道」と言われる道で、嘗ては塩の道として、三河湾沿岸の海産物の運搬で往来は大いに賑わったという。丁度この辺りの北側、名鉄の線路と国道1号線を越えた辺りに、むらさき麦の畑が広がっているようだが、流石に見に行く程の元気はない。東海道はこの追分けを右方向に取り...藤川の松並木(東海道歩き旅・三河の国)

  • 十王堂 (東海道歩き旅・三河の国)

    「ここも三河むらさき麦のかきつばた」宿場外れに、十王堂という小さなお堂がある。十王とは、死者の魂が集う冥土で亡者の罪を裁く10人の裁判官である仏の総称だ。その内の一人が良く知られた、あの嘘をついた人間の舌を抜くという閻魔王である。平安末期頃広まった信仰らしい。その境内の小さな切妻のお堂の右手に、芭蕉の句が残されている。この近辺の芭蕉句碑では最大級と言われる、人の背丈ほどもある花崗岩の自然石に刻まれていて、寛政五年に立てられたものらしい。その下にも古い小さな碑があって、同じ句が掘られているらしいが、文字は判読できず良く解らない。祭りスタッフのご婦人方が親切に、こう教えてくれた。「近くには一面の畑も有り、見応えがあるので是非見て帰って。道の駅でもイベントをしているから寄ると言い。食事も出来るし、むらさき麦を使ったお...十王堂(東海道歩き旅・三河の国)

  • むらさき麦 (東海道歩き旅・三河の国)

    この藤川宿に入り込んでからと言うもの、街道筋の彼方此方に紫色の「むらさき麦」と書かれた幟旗が立てられていたのが気になっていた。聞けばこの日藤川宿では「むらさき麦まつり」が開催されているという。消防団により規制された通りは歩行者天国になっていて、屋台が出て、フリーマーケットやスタンプラリー等も行われているらしく、大勢の人が賑やかに行き交っていた。当地では江戸時代より「むらさき麦」が栽培されていたが、何時の頃からか作られなくなり、幻の麦と言われていたらしい。近年になって県の農業試験場等の協力の下、試行錯誤を繰り返し、栽培を重ねた結果、平成6年に穂先まで紫色の麦の栽培に成功したと言う。資料館から10分ほど行くと右手に藤川小学校が有り、その体育館の横辺りに、宿の西棒鼻が復元されていた。ここが宿場の出口、西側の入口に当る...むらさき麦(東海道歩き旅・三河の国)

  • 宿場の風情(東海道歩き旅・三河の国)

    家並みの長さが凡1㎞にも及ぶ藤川宿の通りは、国道1号線とは切り離され、間に割り込むように名鉄の名古屋本線が走っている。従ってこの広い旧道に入り込む車は少なく、散策にはもってこいである。通りには、往時を偲ばす連子格子を嵌めた町屋造りの民家が何軒か残されている。殆どは、間口の広い平入りの二階建ての堂々とした家屋だ。屋根は低く抑えられ、通りに向けて庇を揃えて並び立っている。そんな中で代表的な建物が、旧野村家住宅(米屋)である。幾度か改修の手は加えられているらしいが、構造自体は古く、天保年間の建築らしい。岡崎市の「景観重要建造物」の指定を受けている。また通りで一際目立つのが、古いものではなさそうだが、三階建ての白亜の建物だ。城の櫓を思わす白壁で「粟生人形店」の店舗は通りで異彩を放っている。およそ800年も続いているとい...宿場の風情(東海道歩き旅・三河の国)

  • 女不足・嫁不足(東海道歩き旅・三河の国)

    江戸時代の貨幣価値は時代により変るが、一般的には一両は10万円程と言われている。(判断基準が複雑で、20万円等色々な説があり断定は出来ないようだ)従って銭一文は25円位となり、旅を続ける庶民に取って、藤川宿での飯盛り女の相場500文は決して安い金額では無かったようだ。この宿場も人口の内訳を見ると、女の方が100人程男を上回っている。当時の男女人口比を宿場内に限ってみれば、女が多い宿場はかなり有る。これは本陣や旅籠の女中、飯盛り女や遊女等、女の働き口が宿内には多くあったからであろう。遊女が多い吉田宿では、47:53と人口の半分以上を女が占めていた。全国の男女比がほぼ同数になるのは、幕末以降らしく、八代将軍の吉宗の時代辺りまでは、3:1位で圧倒的に男が多かったようだ。この事からも、宿内に集まった女の多さが際立ってい...女不足・嫁不足(東海道歩き旅・三河の国)

  • 藤川宿 (東海道歩き旅・三河の国)

    クランク状に曲がる道を「曲尺手」と書いて、「かねんて」と呼ぶ。どの宿場内にも何カ所か造られていた。幕府にとっての街道は、軍事的な目的のある道で、外敵が宿場に容易に侵入しない為、しいては江戸に向けて容易に侵攻させない目的があった。今なら車の為に可能な限り広く直線で、となるが当時は全く逆で、狭く何度も曲げてが当たり前であった。また、参勤交代が制度化されて以降は、行き交う大名同士が宿内で鉢合わせしないようにする工夫等とも言われている。出会えば格下の大名は駕籠を降り、頭を垂れ、道を譲らなければならない決まりで、こんなことになれば行列差配の藩士は、切腹もので有る。更に街道の距離を意図的に延ばし、人を多く住まわせる効果をも狙ったもの等、このクランクには様々な目的が推測も交え伝えられている。再現された東の棒鼻の左側に細い道が...藤川宿(東海道歩き旅・三河の国)

  • 傍示杭 (東海道歩き旅・三河の国)

    道路脇の緑地帯は、藤川宿の東の入口に当たる棒鼻、見附である。むかしはこの地を「宇治川の里」と呼んだ時期があったらしい。この辺りでは周りの藤の花が余りにも見事で綺麗なことから、何時しか藤川と呼ばれるようになったのだそうだ。「棒鼻」は「棒端」とも書き、「ぼうばな」「ぼうはな」等と読む。宿場の境界地に「是より○○宿」などと書かれ、立てられた木製の木杭で、榜示杭のことだ。元々は、駕籠のかき棒の先端のことを意味するが、大名行列などは宿場に入る直前に、この場所で先頭(棒先)の隊列を整えたことから、こう呼ばれるようになったそうだ。広重の描く東海道五十三次の画「藤川棒鼻ノ図」では、傍示杭の立てられた場所を、幕府から朝廷に寄進する、八朔(旧暦8月)の御馬進献の一行が差し掛かり、羽織袴を着用した村役人が下座して出迎える様子を描いて...傍示杭(東海道歩き旅・三河の国)

  • 山中八幡宮 (東海道歩き旅・三河の国)

    赤坂宿の陣屋跡を過ぎ西見附を出ると、街道は2里9町(凡そ8.8㎞)先の藤川宿へと向かう。ここから先は、旧東海道、国道1号線、名古屋鉄道名古屋本線、東名高速道路が、付かず離れずの関係で寄り添い、狭い平地を縺れるように西に向けて進んでいく。山綱川に架かる舞木橋を渡り、国道1号線に合流する辺りでは山中八幡宮を遙拝する。左手にこんもりとした小高い円山が見え、麓に赤い鳥居が立っている。社領150石の舞木八幡宮、現在の山中八幡宮で、徳川家康の父・広忠が焼失後再建したという、家康にも所縁の宮である。家康は永禄6(1563)年、三河一向一揆の戦いで敗れて逃走中、この神社の洞窟に隠れた。追っ手の兵がこの前に来ると、洞窟から二羽の白鳩が飛び立った。「人のいるところから鳩は飛ばない」と判断した兵は、中を調べることもなく立ち去り、家康...山中八幡宮(東海道歩き旅・三河の国)

  • お正月・松飾り

    子供の頃を過ごした名古屋では、「正月は、年神様をお迎えするから、門口に目印の松飾りをするのだ」と教えられていた。当時は、熨斗紙で巻いた小松を玄関など門口に釘で打ち付け、正月の準備をしたものだが、後年移り住んだ岡山には、そういった「松飾り」の習慣は無かった。嘗てはお正月ともなると、会社や工場、商店の玄関先には、大きさを競うように「門松」を飾り立てていた。取分けパチンコ屋の店先のものは目を見張るほど、群を抜いていたように記憶している。この「門松」も「松飾り」と同じ意味が込められているが、近頃では見かける機会も少なくなった様に思う。そんな折、三年程前の年末、お向いさんから「門松」を頂いた。「知人に教えられて手作りしたもので、良かったら飾って・」との事だ。思いがけなく「門松」が飾られて、玄関先が華やいだ。以来、年末には...お正月・松飾り

  • お正月・丸餅と角餅

    近頃は、お正月だからと言って格段の事をするわけでもなくなった。それでも、年末の掃除ぐらいは一年の埃を落とそうと、普段よりはやや丁寧に・・、その程度を目指し何とか頑張って精を出したりはしている。掃除を終えれば、注連飾りや鏡餅を細やかに飾り、お正月を迎える習慣は今も昔も変わりなく続いているが、その中身はと言うと、昔とは大きく様変わりしている。近頃では、玄関先に注連飾りを飾らないお宅が確実に増えているようだ。嘗ては神様が宿る場所に注連飾りを飾り、そこに神様が留まって欲しいとの願いを込めたものだが、何時しかそんな思いは薄らいでいる。一頃は、マイカーにまで下げたものだが、今では殆ど見なくなった。竈なら火の神様をお迎えするのだが、IHにはどうもそぐわない。我が家でも何時の頃からか注連飾りは、僅かに玄関だけになっている。カビ...お正月・丸餅と角餅

  • お正月・迎春準備

    「めでたさも中ぐらいなりおらが春」(一茶)お正月を迎えても、一向に嬉しさを感じなくなって、既に久しい。新年であっても、ごく普通に、何時もと変らぬ朝を迎えている。とは言え、兎にも角にも、こうして大過なく息災で迎えられて嬉しくない筈はないが、それでもお正月だから特別に「めでたい」という感覚はなくなっている。遠い子供の頃の記憶を辿ってみる。元々年末に餅を搗く習慣はなかったが、それでも近所の菓子屋に注文をして搗いて貰った鏡餅に、裏白や昆布、干し柿、橙などを添え三方に乗せ床に飾っていた。同時に届けられる平たく伸ばした「のし餅」を、硬くならないうちに四角い「角餅」に切り分けるのは子供の仕事であった。年末に行われる恒例の「煤払い」は、古来より宮中で行われる大掃除である。12月の13日に行われることが多く、この日を「正月の事始...お正月・迎春準備

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、修ちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
修ちゃんさん
ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
フォロー
簾満月のバスの助手席

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用