主は正義と公正を愛されます。 主の御心を汲んで 誰に対しても偏り見る事をせず、 相対するようにしたいものです。 そのような姿勢で生きておれば、 神の恵みが …
大阪市生野区にある イエス教長老会平安教会の牧師による デイリー・メッセージです。 毎日、更新しています。 近畿福音放送伝道協力会(近放伝)が ABCラジオでお送りしております 「福音の光」のラジオ牧師もしております。
罪を犯さずにはすまない 罪深い存在が 私たち人間であります。 その事に気付いた者は幸いです。 悔い改めることが出来るからです。 正しく生きようとしても 律法…
異民族の侵入によって 部族や民族が虐殺されたり 絶滅されたりするのが 当たり前であった 大陸の人間にとって、 災いとは 人を介して行われるものが 大半でした…
私たちキリスト者が 神から信仰を賜ったという事は、 私たちを通して 神が御業をなされるという事も 意味しているのだ。 つまり、私たちキリスト者の人生は 神に…
イエスの十字架での代償の死を 信じて告白する人は 教会に属している人であれば ある程度は信じているでしょう。 ですが、これだけでは不完全です。 というのは、…
「いくらなんでもそれは無理だ!」 そんなつぶやきをしてしまう私たち。 でも、よく考えてみると おかしなつぶやきです。 無理に思える事をも 可能としてくださる…
罪の代償は死です。 罪の赦しを得るためには 命を差し出すしか 手立てがないのです。 しかし、死んでしまっては 元も子もないですね。 そこで慈しみ深い神は 罪…
主はインマヌエルです。 インマヌエルとは 神が共におられるとの意。 あなたが順境の時も逆境の時も 主は共におられます。 恐れの最中にあっても 主が共におられ…
聖書で言うところの罪とは 悪事をはたらくことではなく、 神の御心を無視して 自分勝手に生きることを言います。 神は完全なお方であり、 神は人にも完全を求めら…
神は耐え得ない試練を キリスト者に負わせません。 それに試練は キリスト者の成長に不可欠です。 ちょうど筋力をアップさせるために バーベルなどを用いて 重い…
ダビデは主の家(宮)に住まうことを 請い願いましたが、 新約時代の生きる私たちは ダビデが望んだその状態を 味わいながら生きているのです。 なんと私たちの心…
イエスがこの世に勝利されたので イエス(みことば)と共に歩む 私たちキリスト者も 必ず勝利します。 但し、勝利の確信が必要です。 勝利の確信が即ち信仰です。…
私は何処から来て何処へ行くのか? エペソ書1章4節でパウロは 次のように述べています。 「神は私たちを 世界の基の置かれる前から 彼(イエス)にあって選び、…
キリスト者は因習に縛られず 自由に行動することができます。 ですが、自由という 権利を行使するためには、 果たさねばならない義務もあります。 それは、悪の口…
個性を押し殺して 無理して一つになろうとすると 人は病んでしまいます。 同調圧力に屈して 仕方なしに場の空気に合わせて 生活している現代人は 病まずにおる方…
神は私たちが求めるに先立って 私たちが幸せになるための 道を開いて導かれるお方です。 全て準備が整った状態で 私たちは神のコーチングに従って 共に歩み続けれ…
なぜ私たちキリスト者は 主に感謝するのでしょうか? 詩篇の記者はその理由を 次のように述べています。 「主はまことに慈しみ深い。」 「その恵みはとこしえまで…
主日礼拝がはじまる時に 招詞としてよく用いられるので ヨハネの福音書4章23節を ご存知の方も多いかと思います。 ここでイエスは 天の御父を礼拝するにあたっ…
人はいろんな夢を思い描く。 夢や希望は人を前進させる。 その夢や希望を与えたのは 私たちを創造された神。 神が夢や希望を与えられたので その実現の過程をも …
私たちの救いを阻害するものは 罪であることは分かるでしょう。 その罪は欲が熟すことで深まります。 どうしても罪は犯してしまうのが 私たち人間の悲しい性ではあ…
キリスト者が 一見、貧乏くじを引いてるような 生き方をしているのは、 別にそのような苦行が 救いに必要だからでもないし、 もちろんドMだからでもありません。…
神に選ばれて 私たちは信仰を賜ったのです。 選んだのが神ですから 神が最後まで責任を持って お導きくださいます。 その事に感謝して 生きて行くことが 大切な…
良い真珠はとは 他でもないあなたのことです。 あなたを救うために 天の御父は 御子イエスをも犠牲にしてでも あなたを買い戻されるのです。 あなたは神にとって…
私たちは生まれながらに 罪の性質(原罪)を宿して生まれ、 罪を犯しながら生活しています。 神は完全なお方であらせられるので 潜在的に罪を犯す存在である 私た…
未来に対する 漠然とした憂慮の大半は 起こりません。 起こりもしない未来に 戦々恐々とせず、 二度と戻ってこない 今という時間に 全力投球しましょう。 大変…
私たちの経験は 全て隣人たちに仕える時に 役だつものばかり。 キリスト者に偶然はない。 全ては神の摂理による必然。 私たちにはつらく思える事でさえ 神は必ず…
神は私たちの 心の癒しだけでなく 人生そのものを 祝福してくださいます。 そしてその祝福が 代を継いで継承されることを お喜びになられるのです。 神は私たち…
イエスは十字架で 死に渡されました。 彼は罪を犯して おられませんでしたが、 罪にまみれた 私たちの罪を背負い 罪の代償である 死を私たちに代わって 支払っ…
隣人を恨むのは止めた方が良い。 脳科学の発達により 明らかとなったことがある。 それは、脳が人称を 捉えないという発見であった。 人が誰かを恨んだ場合、 脳…
愛が神の本質であるが故、 愛することを知らぬ者は 神を知り得ない。 自称キリスト者は多いが、 キリスト・イエスに倣って 命懸けで隣人に尽くそうとする者は 多…
高慢になりたいと願っている人は おそらくいないでしょう。 ですが望んでもいないのに 私たちは高慢になりがちです。 小さな人間関係の中においては 主導権を握り…
私たちキリスト者が お仕えしているイエスは 神のみことばが受肉されたお方。 ですから主を喜ぶとは みことばを喜ぶこととなります。 みことばを喜ぶキリスト者の…
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主は正義と公正を愛されます。 主の御心を汲んで 誰に対しても偏り見る事をせず、 相対するようにしたいものです。 そのような姿勢で生きておれば、 神の恵みが …
神はみことばで悪を炙り出し、 みことばで私たちを 保護してくださいます。 神のみことばは サタンの攻撃に対して 鋭い攻めと鉄壁の防御で 私たちを護ってくださ…
ヨハネの福音章1章1節に 「初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。」と あるように、神はみことばです。 また14節では …
イエス様も間違いなく尊いお方です。 ですが、イエス様も聖霊様も 御父と同じ神であって 位格が違うだけなのです。 ですが、イエス様は目に見え、 人々の生活の真…
「信仰が大事なのであって 行いは二の次だ」と意味不明な 言葉を発するキリスト者がいます。 牧会者の中にもいたりします。 ですが、これはナンセンスです。 「救…
自分は何をやってもダメだと 自分に嫌悪感を覚えている人が 意外とたくさんいるようです。 また、中には、 自己卑下と謙遜を混同して、 やたらめったら自分を貶め…
みことばを喜び、 みことばを生きる者を 神は祝福します。 なぜなら、 みことばを生きる者が 不幸になると、 神の力が疑われるからです。 みことばを通しての約…
アンガー・マネジメントは 本当に大切です。 というのは、怒っている時、 あなたの心の中も頭の中も 神は不在に なってしまっているからです。 怒りの矛先となっ…
自分の弱さ、罪深さを知る者が 御子イエスの十字架での贖いを 必要とする。 罪の代償が死であることを 知らなければ、 イエスの代償の死の有難さを 理解できない…
人が出来る事は 人がやればよい。 だが人に無理なことがある。 その無理な事を 無理なく解決してくださる方が 神なのです。 ひょっとしたら 私たちが神に対して…
神は私たちを いつも護ってくださいます。 神は私たちに いつも恵みをくださっています。 神は私たちが 試練に直面した時、 共に解決に向けて歩んでくださいます…
信仰が大切だというのはその通り。 だが、だからと言って 行いは必要ないというわけではない。 キリスト者の行いは 信仰を賜って救っていただいた事への 感謝の表…
しきりに見て関心を持った事を 人は実現しようとします。 多くの場合、それらは 無意識のうちにやっているので、 自分でも気付かないうちに 神が喜ばれない行為を…
神の恵みは私たちには 計り知れないものです。 そんな計り知れない恵みが 主を恐れ、主に拠り頼む者に 与えられるのです。 その恵みは夢物語ではありません。 あ…
キリスト者も 未信者と同じように この世の栄華や成功を 得ることを願い、 あたかも神を利用しているのかのような 祈りをしてしまっているかもしれません。 神に…
最初であり最後である主が あなたと共にいてくださいます。 飢え渇いたあなたの心は みことばによって 潤されるでしょう。 命を生かす みことばの水を飲んでます…
自ら積極的に 神から遠ざかろうとしない限り、 神は私たちを 神の御心に適った生き方を 選択できるように導かれます。 それほどに慈愛に満ちたお方なのです。 そ…
イエスは想像を絶するような 侮辱、冒涜、拷問の末に、 皆に捨てられて ぼろ雑巾のように 人々にも、弟子たちにも、 最後は御父からも捨てられました。 なぜ、こ…
この世の知恵は 多かれ少なかれ 見せかけのものが含まれる。 一方で、神がくださる知恵は えこひいきや見せかけのような 人との比較が介在せず、 神の御心に適い…
ある人が冗談で言っていました。 その人が言うには、 神にもできない事があるそうです。 皆さんはそれが なんだと思いますか? 私も初めてそれを聞いた時には 笑…
学ぶの語源が「真似ぶ」であると 聞いたことがあるかもしれません。 何事も模倣からはじまります。 これは信仰生活も例外ではありません。 信仰の先輩方の生き方に…
妻は夫に従うように との部分ばかりが強調されているが、 夫は妻を命懸けで守れと 聖書は教えていいる。 イエスが教会へと呼び集められた 私たちキリスト者を救う…
主の力を信じられないから 浮足立ってこの世の方法で 問題を解決しようとしてしまう。 焦るな! 主に委ねよ! みことばと向き合え! そうすれば今すべきことが分…
同信の先輩方に倣って 私たちも忍耐でもって みことばを生きましょう。 聖書において忍耐は 試練に喜んで立ち向かうという ニュアンスで使われています。 勝利さ…
神の御心に適ったものを イエスの御名で求めれば その望みは成就するとの 約束がある。 知らぬキリスト者はいない。 だが、適ったらラッキー という程度に思って…
イエスの命と引き換えに 神に買い取られたのが キリスト者となった私たち。 その有難さを忘れてはいけない。 それを忘れるから肉が働く。 神の目にあなたは 御子…
キリスト者がお互いに 憐れみと平安と愛で 満ち溢れるようにと 祈り合えるようになれば、 教会の成長は 難しくはないだろう。 自分の事ばかりでなく 同信の兄弟…
イエスはみことばが 受肉されたお方。 なので私たちキリスト者は みことばという木に つながる枝ということだ。 みことばにつながっておれば 多くの実を結ぶで…
人である以上 キリスト者であっても 心の片隅で見返りを 求めてしまいます。 それは致し方ない事です。 それはそれで認めることが 必要です。 そのような弱さを…
キリスト・イエスのように 命を捨てる覚悟で 隣人に仕える事を愛という。 その愛でもって 互いに仕え合えと イエスは教えられた。 その教え(福音)通りに 私た…
言葉はもういい。 生き様で みことばの素晴らしさを 証ししていこう。 我が国の福音宣教は 元来、そうであったはず。 教勢と信徒数が伸びない事に 頭を抱えた一…
神を愛するキリスト者は 神の似姿として造られた 隣人をも愛するのが筋だ。 だが、昔から変わらないのは 神への愛は語りながらも 隣人は目に入らない。 しかし、…
キリスト者は イエスの命と引き換えに 神に買い取られた存在です。 罪の代償は死であったので、 イエスがその代償を 償ってくださったのです。 罪が赦された今、…
三位一体の位格の一つである 聖霊が篤信のキリスト者の 心の内にお住まいである事は 本当に有難い事であります。 これこそ正に、インマヌエル、 神が共におられる…
神の御心を無視して 自分勝手な生き方をして 自他ともに苦しめてきた 自らの罪に気付かせていただき、 その罪を赦していただいたのが 私たちキリスト者で あった…
神を知っている者は 神のご性質に倣って 愛し合うようになる。 その愛とは、 キリスト・イエスに見られる 無私の愛だ。 あなたは如何であろうか? キリスト教と…
福音宣教と聞くと ことばで伝えるというイメージが 強くなるが、 福音を生きるキリスト者の 生き様を目撃した者が、 その素晴さに感銘を受けて 原因を聞いてくる…
みことばを生きておれば みことば通りに生きる自分を みことばの約束通りに 護ってほしいと 神に祈ることが出来る。 神の御力はみことばを生きる者に 働くわけだ…
鹿は喉が渇くと 舌が貼りついて 呼吸困難になるとか。 鹿にとって 喉を潤すことは 死活問題なのです。 それと同じように 私たちも主のみことばで 心が渇いたま…
バプテスマの預言者は 旧約時代を締めくくる 最後の預言者だと言われています。 預言は予言と違って 神のみことばは成就する事を 証しする事を言います。 旧約は…