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マラナ・タ https://blog.goo.ne.jp/malanata

私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ハレルヤおじさん
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垂水区
出身
姫路市
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2009/07/20

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  • 私にしたことです。

    すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』マタイ25章40節王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。そして、イエスは、ここに出てくる人々を「わたしの兄弟たち」と言われています。とても感謝なことです。初めてこの日本を訪れたマザー・テレサの言葉を今でもはっきりと...私にしたことです。

  • 選ばれた者。

    「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」ルカ6章12~13節ルカのいう「使徒」はパウロのいう「使徒」とは少し意味合いが異なります。パウロの言う「使徒」は個別的意味合いが強いのですが、ルカの言う「使徒」とはあくまでも12弟子による共同体的・教会的「使徒」を意味しています。私たちはとかく、「自分」がいて、そして「聖書」があって、そしてそこに書かれてある教えを自分に当てはめようとする自己修養を目的とします。そして、ここに書いてあることができていないといって自分を責めたり、また自分が何か活動をしているから自分は立派なクリスチャンだと思いこみます。そういった自己修練でも、自己実現の場でもないのです。...選ばれた者。

  • 裁くな。

    「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」マタイ7章1節人のあら探しをしたり、必要以上に批判的になる事です。この場合、人の言っていること、行っていることの動機までを裁きます。けれども、はっきりと目に見えるかたちで罪を犯しているのとは違って、人が心の中で犯している罪を私たちは裁くことができません。人の心の態度や隠れて行っていることは、神のみが知っておられることであり、神のみが正しく裁くことができるのです。したがってイエスは、「さばいてはいけません。」と言われました。その理由として、「裁かれないためです。」とあります。上司の悪口を言いながら飲むお酒のうまさは格別だといいます。また、私の知人で、どうしても親しめない二人がいました。ある時共通の友達の悪口を語るうちに、この二人は急速に接近して、無二の親...裁くな。

  • 主なる神

    「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」詩篇82扁1節古代オリエントでは、神々がそれぞれの地を統治し、主なる神がその神々の上に立つという神話があった。その神話の形式に則り、神々を裁かれる主を描いています。メソポタミヤ神話ではしばしば「神々の集い」が登場する。旧約聖書もその影響を受け(旧約聖書が最終的に編集されたのはメソポタミヤのバビロンの地です。)、申命記やヨブ記等にその痕跡を残している。ただし、聖書には何度も何度も、「わたしだけが神である。」という宣言に満ちています。この神のみがまことの神です。しかし異教では、人が神になることを教えています。神はもしかしたら、そうしたことも皮肉を込めて、彼らのことを神々と呼ばれているのかもしれません。このみ言葉は二つの解釈ができます。第一は、地上の姿とするもの...主なる神

  • 赦された罪人

    『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9章13節主が来られたのは、病人のためであるということ。それは、罪人を招くためということを喩えるためです。つまり、全ての人、それぞれが、自分の罪を認識しなければ、イエスがその人に近づいて、触れることはできないということです。イエスを私たちから追い出す最も効果的な方法は、自分が正しいとすることです。自分を正しくしようとすることです。これは、イエスの心を大きく大きく損なうことです。なぜなら、ここでイエスがホセアの預言を引用されているように、神の喜びとしておられるのは、いけにえ以上に真実な愛、あるいは憐れみなのです。パリサイ派は、自分がどのように行うべ...赦された罪人

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