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2009/04/07

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  • 「向島百花園」虫ききの会。8月28日夜。

    初めて参加しました。8月28日(日)18:00~。昼頃は、雨が時折降るような空模様でしたが、夕方からは、晴れてきました。心地よい、涼しい風も吹いてきて。「百花園」。ふだん、夜は開放していませんが、このときは、夜9時まで開園しています。三々五々、人々が。浴衣姿のご婦人たちも。暮れなずむ園内。虫かごのムシたち。マツムシ。鉢植えの草花の展示。スカイツリー。刻々変化するスカイツリー。行灯や雪洞が灯され、草むらからコオロギ、スズムシなどの声が響く。袖ふれて一期一会の虫の声ハギのトンネル。お休み処。「御成座敷(おなりざしき)」に灯りが点り、お茶会が催されています。四阿で商談する人たち?池にも灯りが映り、写真では伝わりませんが(写りもよくないです)、動画では虫の声がたくさん拾えました。向島百花園。ここはすっかり秋の気配...「向島百花園」虫ききの会。8月28日夜。

  • 城ヶ島めぐり。その3。角川源義句碑。ウミウ生息地遠望。馬の背洞門。

    ウミウ、ヒメウ及びクロサギの生育地展望台を経て、西に向かいます。城が島のウミウ、ヒメウ及びクロサギの生育地。城ヶ島の南側、太平洋の荒波を受ける断崖は高さ約30㍍、幅2キロメートルに及び、自然景観もよく残されている。この崖の中ほどやや東に位置する赤羽根海岸周辺には、崖面の岩棚や割れ目にウミウとヒメウ、それにクロサギが生息することでよく知られている。ウミウとヒメウはウの仲間で、夏期は北日本などの冷涼な地域で繁殖し、冬季には温暖な地方へ南下して冬を過ごす。城ヶ島においては、例年10月末頃から渡来し、少数のヒメウのほか、最盛期のウミウは千数百羽を数え、やがて春になると北へ帰っていく。一方、クロサギは、南方系のサギで、太平洋側では房総半島や城ヶ島を北限域とする。体は黒く見えるが、くちばしと足が長くて黄色がかるので、...城ヶ島めぐり。その3。角川源義句碑。ウミウ生息地遠望。馬の背洞門。

  • 城ヶ島めぐり。その2。城ヶ島公園。城ヶ島・首都防衛の最先端。砲台・観測所・展望台。安房埼灯台。

    公園案内図。松虫にささで寝る戸や城ヶ島たかし秋の夜松虫が鳴いている島の漁家は戸締まりをしないまま松虫の鳴く声声につつまれて安らかな眠りに入っているこの俳句は松本たかし昭和13年(1938)の作。当時、この城ヶ島には大橋はなく、三崎との渡し舟が唯一の便であった。さらに東京湾防衛の要塞地帯で、島へ渡るのには軍の制約があり、殊に夜に渡る人など稀であったことから、初秋の夕べには虫の鳴きこぞる島となった。島の漁家のいとなみは、素朴そのもの。松虫の鳴く頃は、涼をとるため蚊帳を吊って、雨戸を開けたままで寝ている。このような島の叙情が、たかしの高い詩心によってうたいあげられた。松本たかし=子規・虚子の写生を根本とした俳人。三崎の風光を愛し、ししばしば来遊。上記のように、城ヶ島は明治以来、首都防御の最先端であったようです。...城ヶ島めぐり。その2。城ヶ島公園。城ヶ島・首都防衛の最先端。砲台・観測所・展望台。安房埼灯台。

  • 城ヶ島めぐり。その1。城ヶ島大橋。北原白秋碑。

    城ヶ島大橋。久々の三崎口駅。そこからバスで、城ヶ島へ。久々。7.8年ぶり?今日は、一転して雨模様。しかし、昨日、8月27日(土)は、快晴。暑い日差しに参った、参った。遊覧船が通過。「城ヶ島大橋」解説板。三崎港の天然の防波堤城ヶ島は、北原白秋の詩で有名な島です。漁港の整備のために、従来の渡し舟にかわって三崎と島を結ぶ城ヶ島大橋が昭和35年(1960)4月に完成しました。城ヶ島大橋は、全長375㍍、幅7㍍の車道、その両側に幅2㍍の歩道があります。我が国では最初の本格的なもっとも長い鉄鋼の橋で、はこ形の橋桁を用いて軽量化をはかり、高度の技術を用いて2020トンの重量にも耐えられるようにしてあります。橋脚の海面からの高さは、最大で23.5㍍、海面下は18㍍で、安定度の高い構造で千トン級の船がこの下を楽に航行できる...城ヶ島めぐり。その1。城ヶ島大橋。北原白秋碑。

  • 諸磯湾~油壺湾めぐり。その3。磯遊び。三浦一族資料館。油壺マリンパーク閉館・キャンプパーク。三浦道寸の墓。胴網海岸。

    「荒井浜」は、この付近では一番大きなようです。渚の中央が砂浜で、左(南)右(北)が岩場になっていて、泳ぐだけでなく、磯遊びも楽しめる場所。磯遊びを楽しむ。向こうに見えるのは、「諸磯崎灯台」。浜辺には、「三浦一族資料館」。そこから海を望む。北側の岩場。海を望む。さて、次の海岸へ。この付近は、リアス式海岸になっていて、海岸線が入り組んでいます。「油壺マリンパーク」が閉館になり、再開発の予定に。・・・マリンパークは相模湾を望む三浦半島の先端部の高台に位置し、当時は東洋一とされた大回遊水槽などを有した施設として1968年に開業。葉山御用邸(同県葉山町)にも近く、皇族が非公式に訪れることも多かったという。81年には屋内でイルカなどのショーを観覧できる施設もオープンし、近年も週末を中心ににぎわいをみせた。建て替えの議...諸磯湾~油壺湾めぐり。その3。磯遊び。三浦一族資料館。油壺マリンパーク閉館・キャンプパーク。三浦道寸の墓。胴網海岸。

  • 諸磯湾~油壺湾めぐり。その2。新井城址。油壺湾。白秋文学コース。句碑。荒井浜・カメハメハ大王の渚。

    せっかくですので、油壺湾めぐりを。まず「荒井浜」に向かいます。その途中に、「新井城」空濠・土塁跡。「新井城址」解説板。「油壺湾」解説板。油壺の名のいわれは、永正13年(1516)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立てこもった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、3年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は、自刃、他の将兵も討ち死に、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。「今も七月十一日には新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より雷かがやき出て両方光入り乱れ風猛火を...諸磯湾~油壺湾めぐり。その2。新井城址。油壺湾。白秋文学コース。句碑。荒井浜・カメハメハ大王の渚。

  • 諸磯湾~油壺湾めぐり。その1。諸磯ヨットハーバー。MISAKI MARINE。初島・利島ヨット レース遭難の碑。

    久々の京急「三崎口駅」下車。「浜諸磯」(三崎港経由)行きのバスで、「尾志倉」バス停下車。今回は、諸磯湾から油壺湾まで歩きます。前回よりも暑さは和らいでいる感じ。でも、暑い!道しるべ。「関東ふれあいの道」。このように、けっこう入江の多い道筋です。諸磯湾。たくさんのヨットが停泊中。諸磯ヨットハーバー。沖を望む。「SOPRA(ソプラ)」(閉業)。すぐ「油壺湾」に。ここも大きなヨットハーバー。その脇道を進みます。「MISAKIMARINE」。大型ヨットがズラリ。桟橋から振り返る。回り込むと、初島・利島ヨットレース遭難の碑この小網代をスタートしてわれらは進んだ永遠のレースへ吹きつのる風おしよせる波最後まで、力を尽くしてたたかったあの水平線のかなたはわれらのしとね海を愛する人々よ。忘れないでくれ海のきびしさ、海のやさ...諸磯湾~油壺湾めぐり。その1。諸磯ヨットハーバー。MISAKIMARINE。初島・利島ヨットレース遭難の碑。

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