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2009/04/07

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  • 九十九里鐵道廃線跡。その3。関東天然瓦斯。「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」・青木昆陽。「西」駅。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

    随所にベンチなどが設置されています。「関東天然瓦斯」。南関東ガス田のうち千葉県茂原市を中心とした一帯の鉱区の採掘権を所有し、水溶性天然ガスの採取・販売及びヨウ素の製造・販売を営んでいる。可採埋蔵量973億立方メートルと推定される合計714平方キロメートルの鉱区で、天然ガス採掘権を有する。ただし、天然ガスの生産は地盤沈下をもたらすため、千葉県との協定に基づいて制限している。可採埋蔵量は、現在の生産量の600年分にあたるという。※房総東往還歩きのとき、茂原付近で「大多喜ガス」の大きなガスタンクを見ましたが、廃線後の九十九里鐵道の敷地もこの会社の所有地になっているのでしょうか。農家の間の道を抜けて行きます。左方向。右方向。この広い土地には、駅舎でもあったのでしょうか?左手に田んぼが広がります。右手にはバスが通る...九十九里鐵道廃線跡。その3。関東天然瓦斯。「←2.5㎞甘藷栽培発祥地」・青木昆陽。「西」駅。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

  • 九十九里鐵道廃線跡。その2。遊歩道・「軌道道(きどうみち)」。九十九里町天然ガス。運行当時のようす。「学校前」駅(「銚子往還」をゆく。番外編。)

    東金駅まで向かって出発です。右の道路は廃線跡ではありません。左の住宅が廃線跡に建てられたもの。敷地が四角でなく、細長い三角形になっています。左手が軌道跡。→が線路跡。上が「片貝駅」。通りを越えると、廃線跡は右にカーブします。この先で、遊歩道になります。自転車道と歩道と分離。遠くに大きなガスタンク。「九十九里町」とある。千葉県は、南関東ガス田の中心地で天然ガスが採取される地域。九十九里町では、地元の天然ガスを原料とした都市ガスを供給しています。交差する道路の足もとには、九十九里町の町章とガスバルブ。用水路を越えます。現役の頃からあったのでしょうか?振り返る。周囲には田んぼが広がります。「きどうみち」。営業当時のようすはどうだったのでしょう?九十九里鐵道線は、千葉県東金市の東金駅と山武郡九十九里町の上総片貝駅...九十九里鐵道廃線跡。その2。遊歩道・「軌道道(きどうみち)」。九十九里町天然ガス。運行当時のようす。「学校前」駅(「銚子往還」をゆく。番外編。)

  • 九十九里鐵道廃線跡。その1。片貝海岸・九十九里モニュメント。「上総片貝駅」跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

    かつて、JR東金線「東金駅」から九十九里浜の「片貝駅」まで「九十九里鐵道」線がありました。※「九十九里鐵道」現在はバス専業であるが、社名に「鉄道」が付くのは、1926年(大正15年)から1961年(昭和36年)までの間、東金駅から九十九里町の上総片貝駅までを結んでいた鉄道路線(1931年まで軌道)を有していた名残である。鉄道路線は千葉市や山武郡成東町(現・山武市)への延長も計画されていたが実現せず、1961年3月1日に廃止された。その後も社名に「鉄道」の名を残し、バス停名には片貝に「駅」が冠されるなど、鉄道の名残が見られる。(「Wikipedia」より)九十九里鉄道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となり...九十九里鐵道廃線跡。その1。片貝海岸・九十九里モニュメント。「上総片貝駅」跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

  • 老いては子に従え

    最近(といっても、何と14年前のブログ記事)のトイレの「日めくり」より。改めて読みなおすと、ますます我が意を得たり。というわけで再掲。①「老いては子に従え」=今や「老いても子を従え」になっているような気がします。元気な年寄りが多くて、家族の者がそろそろ「引退を」などと言おうものなら、かえって意固地になって頑張っていく。家族は半分はあきらめ顔。でも平和なのかもしれませんね。②「驕れる者は久しからず」=今は「驕れる者は久しい」になっていて、いつまでも権力の座に座って、周りの忠告も何のその。驕れるというより、驕っていないと我が身が危うい、そんな危機感がかえってますます驕り高ぶらせるかもしれせん。③「腹は立て損、喧嘩はし損」=今は「腹は立て得、喧嘩はし得」という感じ。先に腹を立てた方が勝ち。大声でわめきたてると、...老いては子に従え

  • JR東金駅~成東駅。その5。「田舎ずし」・大きな巻物。波切不動」。「共樂館」。曲尺手。総武本線「成東駅」。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    バス停「」。左手のお店。「田舎ずしことぶき」。「田舎ずし」とは?立ち寄ってみます。大きな巻物。30㎝以上。太さは10㎝。恵方巻のはしりのような?その大きさにビックリ!玉子太巻き、太巻き寿司。玉子の太巻きの具は干瓢と玉子、でんぶ、玉子の方には椎茸が入ってます。巻き寿司の中で絵を作るのが蘇我や千葉辺りの昔ながらの風習ですが、そこまで凝ってなく、素朴で田舎っぽさがあります。他にも、うずら豆の煮物などのお惣菜がケースの中に並んでいます。巻きずしはけっこうな大きさなので、持って帰るには・・・。煮物を二種類、購入します。甘さもほどほどで、美味でした。バス停「波切不動」。左手高台に、「波切不動」。成東下町の標高30メートルの小丘「石塚山」(石塚の森)の中腹の岩石上に、成東山不動院長勝寺本堂が建てられています。入母屋造り...JR東金駅~成東駅。その5。「田舎ずし」・大きな巻物。波切不動」。「共樂館」。曲尺手。総武本線「成東駅」。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その4。旧道へ。「関東ふれあいの道」。「姫島池」・根蔵池・東池。成東高校。結城藩校興譲館旧跡。成東陣屋跡。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    しばらく県道を進みます。左の旧道へ。古びた方向案内板。この角にもあります。「関東ふれあいの道」。ため池「東池」。西側には「根蔵池」「姫島池」。旧道はもう少し進みますが、県道に戻ります。バス停「根蔵(ねぞう)」。県立成東高校モニュメント。開校当時、学校と県道を直接つなぐ道路はなく、生徒は曲がりくねった小道をたどって登下校していたが、登下校時の混雑や雨天・霜解け時のぬかるみが大きな問題となっていた。これを解決するため学校と県道を結ぶ100間の道路建設を計画していたが、用地の買収をめぐって地主との折り合いがつかず、建設の目途がたっていなかった。1910年になって、地域有力者の仲介などもあって用地の買収が成立し、11月16日から職員・生徒を動員して建設工事がはじまり、12月24日に完成した。翌年、皇太子嘉仁親王(...JR東金駅~成東駅。その4。旧道へ。「関東ふれあいの道」。「姫島池」・根蔵池・東池。成東高校。結城藩校興譲館旧跡。成東陣屋跡。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その3。街道筋らしい家並み。難解な地名・八街・匝瑳。水路沿いの旧道。公平幼稚園。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    街道筋らしい家並み。バス停「東金商業入口」。「←八街(やちまた)↑匝瑳(そうさ)山武(さんむ)→国道126号」。※「八街」、「匝瑳」、「山武」とどう読むのか、難解な地名が出てきます。角に大きなお屋敷。「千葉学芸高等学校」。県道から分かれ、左の道に。ここでも水路沿いに進む。変わりやすい雲行きに。昔ながらの家並み。「真亀川」沿いのレストラン。「kawanosaki」。古民家の店で隠れ家風。(「食べログ」より)左奥にあります。県道に合流する手前に、キンカンの実がすずなり。趣のあるおうち。里山風景。県道に合流。「公平幼稚園」。1974年(昭和49年)4月、旧公平小学校の西半分を使用し、公平幼稚園が開園。園庭は、かつての小学校の校庭の大きさだったのですね。園舎も小学校の校舎のまま?右手は九十九里浜平野。小高い森。バ...JR東金駅~成東駅。その3。街道筋らしい家並み。難解な地名・八街・匝瑳。水路沿いの旧道。公平幼稚園。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その2。出桁造りの商家。なまこ壁。土蔵造り。看板建築。田間城址。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    バス停「片貝県道入口」。九十九里浜・片貝に向かう県道。商家が建ち並ぶ。西北(八街)に向かう県道。街道の両側に古くて立派な商家造りが続きます。(写真を取りそこねたおうちも多い)なまこ壁。「上行寺」山門。「←東金簡易裁判所」。立派な土蔵造り。「村井綿店」。見事な看板建築。「田中家具店」。1930年(昭和5年)築。黄金色のモルタル塗り。側面、正面とデザインが見事。先に進みます。まだまだ古い町家がありそうです。二軒とも素晴らしい。手前が看板建築、奥が出桁造りの商家。バス停「金半前」。朱塗りのおうち。軽トラも朱塗り。一方では洒落たお店も。「SUNNYDAY」。左手に「田間神社」。この神社の上が、かつての城址に。土塁と空堀で区画された主郭と、細長い第二郭が並ぶ直線連郭状の城跡で、現在城山団地となる一帯にも、「山小屋」...JR東金駅~成東駅。その2。出桁造りの商家。なまこ壁。土蔵造り。看板建築。田間城址。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金駅~成東駅。その1。九十九里鉄道線(廃線)。多田屋本社社屋・店舗。灰吹屋鈴木薬局。新宿。出桁造り。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

    「東金駅」。駅前の案内板。今回から、JR東金線「東金駅」から「成東駅」までの報告。かつて東金駅から九十九里浜まで鉄道が敷かれていました。↑が軌道跡。「今昔マップ」より。九十九里鉄道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。1926年の開業後、成東(なるとう)町(現・山武市)や千葉市への延伸は実現しませんでした。九十九里鉄道では、小さな車体の単端式ガソリンカーが使われていました。客車の前面にフォード社製のエンジンを取り付け、バックができない構造のため、終点で向きを変える必要がありました。廃線間際には、鉄道と並行する未舗装の道路に自社の定期バスも運行し、列車と交互に運行しました。乗客が上総片貝駅で尋ねる...JR東金駅~成東駅。その1。九十九里鉄道線(廃線)。多田屋本社社屋・店舗。灰吹屋鈴木薬局。新宿。出桁造り。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その5。東金街道。新旧混じった街並み。東金線「東金駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

    「東金」。東金の(かつての)中心街に入っていきます。バス停「砂郷入口」。この付近の今昔。(1880年代)。東金街道沿いに町屋がり、東南側は畑地が広がる。(現在)駅を中心に市街地が発展。※「東上宿」は、かつての宿場としての地名ではなく、街道筋にある「上宿」との関連。東金市江戸時代には徳川将軍家(徳川家康、徳川秀忠)が八鶴湖へ鷹狩に訪れ、東金御成街道、東金御殿などを整備し、宿場町・問屋街として栄えた。その後も山武地域(山武郡市)の拠点都市として、農業・商業を中心に発展してきた。市の中心駅東金駅と県庁所在地の千葉駅は東金線-外房線で約35分で結ばれている。また、朝夕は京葉線経由で東京駅発着の通勤快速も運行されている。バス輸送においても、東京駅・千葉駅への直通バスが、東関東自動車道-京葉道路-千葉東金道路経由で運...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その5。東金街道。新旧混じった街並み。東金線「東金駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その4。東金九十九里有料道路。旧道へ。大きなお屋敷が続く。「第三東金街道踏切」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

    右手に「ヰセキ関東甲信越千葉事務所」。かなり大きな営業所のようです。左は「旬菜らーめんえむず」。地元食材、トマトなどを用いた創作ラーメンがウリ。バス停「市立西中学校入口」。正面奥は、「東金九十九里有料道路」高架。下の流れは「北幸谷川」。高架橋をくぐり、正面の道を進みます。道路脇の用水路蓋の上を歩きます。水路脇が旧道になっている場合がよくあるようです。槙の生垣。立派なお屋敷が続きます。正面を左に曲がります。東金線の踏切を渡ります。「第三東金街道踏切」。「東金駅」方向。「福俵駅」方向。JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その4。東金九十九里有料道路。旧道へ。大きなお屋敷が続く。「第三東金街道踏切」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

  • 3月5日。啓蟄。菰はずし。春雷(「虫出しの雷」)。菜種梅雨(なたねつゆ)。

    水緩む季節。3月5日(火)は二十四節気の3番目「啓蟄(けいちつ)」。「雨水」から15日目頃で、今日から春分までの期間。「啓」は「開く」「開放する」という意味があり、「蟄」は「隠れる」「虫が地中にとじこもる。」という意味があります。土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃。生き物たちは久しぶりに感じるさわやかな風と、麗らかな春の光の中で生き生きとしていく時期。※実際に虫が活動を始めるのは日平均気温が10℃を超えるようになってからで、鹿児島では2月下旬、東京や大阪で3月下旬、札幌は5月上旬頃に当たる。虫が冬眠から目覚めるとそれを補食する小動物も冬眠から目覚め動き始める。七十二侯では、初侯 3月6日〜3月10日頃蟄虫啓戸すごもりむしとをひらく土中で冬眠をしていた虫たちが、暖かい春の日差しの下に出てき始める...3月5日。啓蟄。菰はずし。春雷(「虫出しの雷」)。菜種梅雨(なたねつゆ)。

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その3。旧道? 大網白里市から東金市入り。「なめろう」。蛇島。東金線「福俵駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

    「銚子往還」としての旧道は、国道を渡った正面の道のようですが、左に見える国道脇の道(旧道)に進んでしまいます。この道も旧道のようです。すぐ国道に合流します。この付近の今昔。(現在)現在も旧道として残されている。(1880年代)新堀地区への道が旧道。朽ちたバス停。東金市へ。九十九里浜らしい広告。「なめろう」。イワシやハマグリなど海の恵みが豊かな千葉県ですが、千葉の海産物といえばやっぱりアジが代表的ですよね。千葉では昔からアジが豊漁で、なめろうは千葉の代表的な郷土料理として広く知られています。あまりのおいしさに、ついお皿まで舐め尽くしてしまいたく──というのが由来の「なめろう」。なめろうは、アジやイワシ、サンマなどの青魚を薬味や味噌などと一緒に包丁で叩いて作ります。味噌など塩気を含む調味料と一緒に叩くことで粘...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その3。旧道?大網白里市から東金市入り。「なめろう」。蛇島。東金線「福俵駅」。(「銚子往還を行く」。第1日目)

  • 3月3日。「上巳(じょうし)」・桃の節句。「桃夭(とうよう)」。「万葉集」大伴家持。「ひな祭り」・鴻巣のひな祭り。

    中国から伝わり、宮中行事となったのが「節句」の始まり。宮中行事であった5つの節句を、江戸幕府が一年のうちで特に重要な節目として式日(しきじつ)に定めたことで庶民の暮らしの中で根付いた。※当時は旧暦(太陰暦)上の日にち。今日は、「上巳」。上巳とは、3月最初の巳(み)の日という意味。「巳」は蛇。※じっさい、今日の干支は「丙寅(ひのえとら)」。1月7日=人日(じんじつ)、3月3日=上巳(じょうし)、5月5日=端午(たんご)、7月7日=七夕(しちせき)、9月9日=重陽(ちょうよう)という「五節句」の一つ。「人日」を1月1日と勘違いしている人もいますが、1月7日が正しい日付。(1月1日は「元旦」として特別扱いに)。9月9日の「重陽」は日本では他の節句に比べて、なじみが薄い感じです。※なお、今の暦(太陽暦)では3月3...3月3日。「上巳(じょうし)」・桃の節句。「桃夭(とうよう)」。「万葉集」大伴家持。「ひな祭り」・鴻巣のひな祭り。

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その2。看板建築。下宿。2か所の金尺手。田園地帯。南白亀川(なばきがわ)。(国道128号線。(「銚子往還を行く」。第1日目)

    年季の入ったおうち。看板建築風。バス停「大網下宿」。大きく右折します。その先を左折。「曲尺手(桝形)」。宿場を抜けて田園地帯へ。田畑が広がる。「かえもん・ジョブファーム直売所」。里山風景が広がる。クラフト工房。「国道128号線」を越えて進むのが、旧道。※「国道128号線」は、「伊南房州通往還(房総東往還)」歩きのときに何度も出会い、歩きました。明治に入り、「伊南房州通往還」をなぞってつくられた道路で、千葉市内から房総半島を横断する幹線道路(「房総横断道路」)。銚子往還でもしばらくは利用することになります。「南白亀川」を渡ります。南白亀川(なばきがわ)千葉県の房総半島東部九十九里平野を流れる二級河川。南白亀川水系の本流である。地理・環境大網白里市小西付近の丘陵面に源を発し東流する。間もなく両総用水を越えて、...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その2。看板建築。下宿。2か所の金尺手。田園地帯。南白亀川(なばきがわ)。(国道128号線。(「銚子往還を行く」。第1日目)

  • JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その1。房総往還・房総東往還に続き、銚子往還へ。大網宿。曲尺手。「本宿」バス停。(「銚子往還を行く」。第1日目)

    青:房総往還(JR「内房線」)、赤:房総東往還(「外房線」)。今回から緑:「銚子往還(街道)」歩きの報告。大網~銚子、約63㌔の道のり。成東までは、JR「東金線」、成東からは「房総本線」を利用しての歩きとなります。第1日目2月9日。晴れ時々曇り。手始めに「大網」から「東金」までを歩くことに。北風が冷たく、体感的には寒い。温暖な南房総歩きとは、けっこう異なるようです。※「大網白里市」歴史は古く、江戸時代から「大網宿」として知られ、九十九里(浜)と縁のある「百里」から漢字の「一」を抜いた「白里」が地名の由来とされている。「大網」には旧大網駅など見所も多いようですが、別の機会に譲ることとして街道歩きを。「大網駅」。右は「東金線」。「駒込」交差点。ここをスタート地点とします。右(南)に進むのが「伊南房州通往還(房...JR東金線「大網駅」~「東金駅」。その1。房総往還・房総東往還に続き、銚子往還へ。大網宿。曲尺手。「本宿」バス停。(「銚子往還を行く」。第1日目)

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第10日目。内房線「江見駅」~「南三原駅」―「館山駅」。。

    1月27日(土)晴れ。いよいよ「房総東往還(伊南房州通往還)」最終日となりました。途中、旧道を歩くだけではなく、タクシーを利用したり、バスに乗ったり、省略したところもあったりして、・・・。「江見駅・江見郵便局」に下車。郵便局は閉まっています。旧道に復帰します。洲貝川。しばらく進み、「国道128号」に合流します。国道から右の旧道に入ります。ふと左の柱に※「綱吊り」=「道切り」の一種、片草鞋が吊るされています。地元の方にお聞きしたら、「最近は、新型コロナとかインフルとかがはやっているので、その侵入を防ぐために吊るしてある。昔からの慣習です。でも、最近は、草鞋を編む人もいなくなって・・・」と。鴨川市から南房総市に入ります。「またどうぞ鴨川へ」。すれ違った散歩中の地元の方から「桜が咲いて見事ですよ、ほら、あそこの...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第10日目。内房線「江見駅」~「南三原駅」―「館山駅」。。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第9日目。内房線「安房鴨川」~「江見駅」。

    「安房鴨川駅」から「江見駅」までの歩き旅。1月19日(金)。あいにくの曇り空時々晴れ。しかし、強い風もなく、穏やかな日和でした。「安房鴨川駅」。駅前の通りを進み、「伊南房州通往還=房総東往還」に出ます。左側は海岸。曲尺手(桝形)。「加茂川」。河口方向。「加茂川」をはさんで旧市街地が続きます。鴨川(市)のゆらい「千葉県町村合併史」には、「明治22年の合併に当り新町の名称は、鴨川町と決定したが、それは新町内を加茂川が貫流し、且つまた「倭名類聚抄」に長狭郡に加茂郷の郷名がみえ、それが当地区で在ったと推定されるので、そうした史的所伝に基づくものである。」と記載されています。なお、「倭名類聚抄(ワミョウルイジュショウ)」(和名抄)とは、平安中期の漢和辞書です。「鴨川沿革史」(昭和39年2月・鴨川図書館)には、「古昔...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第9日目。内房線「安房鴨川」~「江見駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第8日目。外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」―「安房鴨川」。

    前回の「勝浦駅」から「行川アイランド駅」までは、電車(二駅「鵜原」「上総興津」)で移動。そこから「おせんころがし」を歩いて、「安房鴨川駅」まで歩くことにします。1月8日(祝)。快晴。「行川アイランド駅」。下車したのは、小生のみ。日陰に位置しているせいか、よけい寂しい雰囲気。・行川アイランド駅2006年(平成18年)度の1日平均乗車人員は19人であり、県内のJR駅の中では最も少なかった。1990年代前半は200人超であったが、1994年に200人を割ってからは、年々減少の一途をたどっている。駅名の通り実質的に行川アイランドの来園のための専用駅で、閉園後は一気に利用客が減少した。ここで、道を間違えてしまいました。「孝女・おせんの身投げ供養塔」(旧道)に行くためには、トンネルの手前で海の方に向かわなければならな...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第8日目。外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」―「安房鴨川」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第7日目。外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。

    1月5日(金)。晴れ。年明け最初の街道歩き。外房線「御宿駅」。ホームに海女さんの像があることに気づき、パチリ。房総の海女(あま)は、三重県和具、石川県輪島市舳倉島と並んで「日本の三大海女」として知られていました。房総の中でも外房の御宿と南房総市白浜は代表的な地域で観光面でも有名でした。しかし海女が全盛期だったのは1960年代あたりまでで、今はこの地に海女さんはいません。さて、この先、「国道128号」にはトンネル(隧道)が4つほど続きます。路肩もなく、車も行き来があり、危険。※旧道は山道で、後半は道なき道になるようなので、最初から遠慮。国道を歩くことにしていました。(「今昔マップ」より)駅前にタクシーが停まっていたので、事情を話すと、「けっこう危ないですよ。自転車とか人とか、避けようとして車同士が接触したり...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第7日目。外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第6日目。外房線「三門駅」~「御宿駅」。

    12月9日(土)。晴れ。外房線「三門駅」。旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。「日在(ひあり)踏切」。右手の土手は、「大山堰」。左手には外房線。右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。住宅地に入っていきます。旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。水準点。奥に田畑が広がる。「三省学校跡」碑。明治の初期に安藤誠道はこの地に三省学校を設立した。普通部・英語部があり、熱心な若者がここで学んだ。明治33年に閉校する。大原町文化財保護協会右手には田...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第6日目。外房線「三門駅」~「御宿駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第5日目。外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。

    11月23日(祝)。晴れ。「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。外房線。国道128号に合流し、南に向かいます。房総らしい屋根のおうち。せがい造りの立派なおうち。右手丁字路のところに「浪切地蔵」。駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?・・・「とらみ」と読みます。※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「泥海」(ドロウミ)の名前が転訛して「トラミ」⇒虎見⇒東浪見となったと言われています。(「まほらにふく風に乗って」HPより)この先、国道から右に入って行きます。右に小さな祠。「出征土偶」とあります。遠くに水平線が見えています。↓。坂道の途中から右に下って行きます。旧道。「伊南房州通往還」に合流します。この先で「いずみ市」に入ります。「梨販売所」。梨の収穫時...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第5日目。外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第4日目。外房線「茂原駅」~「上総一ノ宮駅」。

    茂原駅。右にモニュメント。11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。往還歩きの途中、長生村を通過します。長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀をデザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。(「」より)実にめでたい絵柄です。長生村と一宮町との境界。「いちのみやはし」。上流方向。下流(海側)。「一宮川」。河口は「長正村」。街中に入ります。一宮町は平安時代頃に成立した上総国一之宮・玉前神社を中心に発展してきました。古くから多くの信仰を集めた玉前神社は、一宮町の町名の由来でもあり、今でも一宮町のシンボル的存在です。※玉前神社の祭神は玉依姫命。神武天皇の母で、すぐ東に広がっている太平洋からこの地に上陸したという伝説も伝わってい...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第4日目。外房線「茂原駅」~「上総一ノ宮駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第3日目。外房線「大網駅」~「茂原駅」。

    外房線「大網駅」。11月3日(祝)。晴れ。まだまだ暑い夏日が続く一日でした。この道を歩くことに。左右に田園風景が広がります。外房線が遠くに。右手に旧道があります。「水準点」。国土地理院が管理する水準点は、一等水準点、二等水準点などがあり、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されています。※「水準点」が全国の主要国道等に設置されている、ということは、この道が当時の主要道路ということに。本納(宿)へ向かいます。街道筋らしい町並み。「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第3日目。外房線「大網駅」~「茂原駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第2日目。外房線「誉田駅」~「大網駅」。

    外房線「誉田(ほんだ)駅」。今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網(おおあみ)駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。駅前から旧道を歩きます。「県道20号(大網街道)」に合流。跨線橋を渡る。左右に畑地が広がる。「大網街道」。けっこう車の交通量が多い。再び外房線を越えます。「大網」方向。誉田から大網への道のりの今昔。(「今昔マップ」より)ほとんど変化はなさそうです。右図で、「誉田」駅が「野田」駅になっています。槙の生垣。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。畑地が広がる。外房線を望む。保存木「タブノキ」。「大木戸新田」交差点。この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第2日目。外房線「誉田駅」~「大網駅」。

  • 房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第1日目。内房線「浜野駅」~外房線「誉田駅」~「大網駅」。」

    JR内房線「浜野駅」伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。千葉県の外房の大部分を通っており、現在は県道14号と国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震・関東地震(関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震や慶長地震などの房総沖地震、千葉県東方沖地震などにより隆起・沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立しており、内房の房総往還、外房の伊南房州通...房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第1日目。内房線「浜野駅」~外房線「誉田駅」~「大網駅」。」

  • 2月19日。雨水(うすい)。ふきのとう。朧月夜。「獺祭」。

    フキノトウ。(「向島百花園」にて)暦の上で今日が「24節気」の2番目「雨水」です。「立春」(2月4日)から数えて15日目ころ。3番目の「啓蟄」(3月5日)までの期間を指します。雨水(うすい)とは、降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃のこと。草木が芽生える頃で、雨水は農耕を始める時期の目安とされてきました。春一番が吹くのもこの頃ですが、本格的な春の訪れにはまだ遠く、時に大雪が降ったりもします。こうして三寒四温を繰り返しながら、本格的な春に向かいます。『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。実際は積雪のピークであり、それゆえ、この時節から寒さも峠を越えたと見ることもできる。(「Wikipedia」より)※インフルエンザが相変わらず流行中。さらに花粉症が大流行の兆し。新型コ...2月19日。雨水(うすい)。ふきのとう。朧月夜。「獺祭」。

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その9。長須賀。べにや。汐留橋。館山駅。北条海岸。特急「新宿さざなみ」。「房総東往還」完結。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    かつての街道筋の雰囲気。長須賀。「べにや」。「見世(店)蔵」。館山市の長須賀交差点前の金物店「紅屋商店」の店舗と主屋は平成19年7月31日に国登録有形文化財(建造物)に指定されました。【国登録】原簿記載:平成19年7月31日官報告示:平成19年8月13日【登録番号】店舗:12-0071号主屋:12-0072号【年代】店舗:大正13年(1924年)主屋:昭和元年(1926年)館山市長須賀は、境川と汐入川に挟まれ、この二つの川と館山湾が形成した砂州に町場が形成されています。江戸時代から、館山に向かう房総往還に沿って、北側の新宿から続く町並みがありました。明治11年(1878年)、新井に館山桟橋が整備され、東京と館山が汽船で結ばれるようになると、千倉や白浜方面からの荷が集まるようになり、桟橋に近い館山下町と長須...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その9。長須賀。べにや。汐留橋。館山駅。北条海岸。特急「新宿さざなみ」。「房総東往還」完結。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その8。車窓から。加茂坂。館山市へ。再び旧道歩きに。「鈴木屋製菓」。第十館山街道踏切。曲尺手(桝形)。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    海沿いから田園地域へ。バスは、国道128号線を進みます。※旧道は残っていて、国道から分かれて進むところがあります。途中、「伊南房州通往還」旧道を通り、「丸山川」を越えます。※丸山川南房総市丸山地区の北端、嶺岡山地中央部愛宕山南西麓の二ツ山に挟まれた谷を水源とする。同じく愛宕山を水源とする愛宕川を合わせた源流部は「千葉県酪農のさと」として公園や観光施設が整備されている。平安時代より軍馬牧場として放牧が盛んであったこの地(峯岡牧)が江戸時代に幕府直轄となり、1728年(享保13年)に八代将軍徳川吉宗がインド産乳牛3頭の飼育を開始し、「白牛酪」として乳製品や傷薬を製造したことが日本における酪農の始まりとされていることから「日本酪農発祥の地」とされ、1963年(昭和38年)5月に千葉県史跡に指定された。「国道12...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その8。車窓から。加茂坂。館山市へ。再び旧道歩きに。「鈴木屋製菓」。第十館山街道踏切。曲尺手(桝形)。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その7。「和田サーフ橋」。「元禄地震記念碑(句碑)」。フラワーライン。館山駅行きのバスに乗る。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    三原川河口にある「和田サーフ橋」。国道脇には村社・浅間社の石柱と元禄16年の大地震の記念碑(句碑)があります。ただし、かなり摩滅していて判読できません。碑の裏には、地震の被害のようす等が記されている、とのこと。解説板を設置して頂けると、ありがたい。元禄地震は元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)の未明に発生した。地震の規模はマグニチュードM7・9〜8・2とされ、1923(大正12)年の関東地震(M=7・9)よりやや大きい。大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、規模や震源域、地殻変動などは大正関東地震よりも大きいものであった。大規模な地盤変動を伴い、震...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その7。「和田サーフ橋」。「元禄地震記念碑(句碑)」。フラワーライン。館山駅行きのバスに乗る。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その6。くじらのたれ。題目碑。しゃれた建物。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    国道128号を越え、斜めに旧道を進みます。角のところに、「房州みやげひものかわはぎくじらのたれ中村鮮魚店」という看板。「くじらのたれ」とは?「くじらのたれ」は、くじら肉をたれに漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理。見た目は炭や海苔のように真っ黒で、木の皮のような見た目である。「くじらのたれ」に使用されるクジラは体長12メートルほどのツチクジラという種類である。鎌倉市内の遺跡から出土する多くの鯨骨の存在などから、鎌倉時代後半の13世紀頃から室町時代14世紀~15世紀頃までには、房総で沿岸捕鯨が始められていた可能性が考えられている。各地で「網取り法」での捕鯨が主流になっても、ツチクジラが深くまで潜るため網取り法が適さず、一貫して「突き取り法」でおこなってきたことが南房総地域の捕鯨の特徴的である。捕鯨は昭和の...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その6。くじらのたれ。題目碑。しゃれた建物。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • 2月12日(振替休日)。向島百花園・梅まつり。満開の梅。福寿草。メジロ。

    今日、全国各地で4月上旬の気温に。昨日、今日よりは寒かったですが、それでも、向島百花園は、けっこう梅見物の人達が訪れていました。そんな午前中。向島百花園・梅まつり開催中。「白加賀(しろかが)」。{「紅冬至(べにとうじ)」。「紅千鳥(べにちどり)」。鮮やかな紅色。白梅、紅梅と色とりどりで満開。「東京スカイツリー」。福寿草(ふくじゅそう)。メジロ二羽が梅の枝に。飛び回って花の蜜を吸っています。花から花へ、枝から枝へ、梅の木から他の梅の木へ。目まぐるしく飛び移るメジロ。見知らぬ中型の鳥が木の枝に。近所の公園の花壇も満開の花々。地元の方々が丹精込めて育てています。2月12日(振替休日)。向島百花園・梅まつり。満開の梅。福寿草。メジロ。

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。長

    aJR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。長

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。「和田浦駅」・フェニックス。全国で4か所の捕鯨基地。「南一号踏切」。「浜千鳥」碑。和田浦港。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    内房線「和田浦駅」。フェニックスの大木。木の元に菜の花。待合室で休憩。抽象画が飾られています。※「道の駅和田浦WA・O!」に展示されている全長26メートルのシロナガスクジラの骨格標本。ここ南房総では、17世紀頃から小型船による沿岸捕鯨が行われてきました。そして現在でも、6月から8月に掛けてツチ鯨の漁が行われています。シーズンになると、捕獲された鯨とその解体を見る為、各地から多くの人々が訪れます(捕鯨の予定などは、捕鯨の会社外房捕鯨さんのブログに情報が掲載されます)。捕鯨は早朝出航し、当日の夕方は捕獲した鯨を曳航して港に帰り(当日出航の当日帰港)、鯨はそのまま熟成させるため、一晩寝かせます。翌日の早朝、鯨の体長などの計測したあと日の明けぬうちから解体が始まります。解体には、大きな包丁(薙刀のよう)を持った男...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。「和田浦駅」・フェニックス。全国で4か所の捕鯨基地。「南一号踏切」。「浜千鳥」碑。和田浦港。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その4。往還(旧道)に復帰。「槙のつらなり」。「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」・花嫁街道の由来。「うな陣」。和一号踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    往還(旧道)に戻ります。右手奥に満開の桜の森。水準点。※全ての水準測量の基準となる「日本水準原点」は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として測量法施行令第2条第2項において定められている。すばらしい槙の生垣が続く。「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」案内板。《花嫁街道の由来》山間にある上三原の集落と海辺の集落との交流道、古くは塩汲みの道から生活物資の往来、学校への通学路として利用され、かつては花嫁行列もここを通って嫁いでいったことから、近年ハイキングコースとして整備され花嫁街道と呼ばれるようになった。昔とは多少道筋は変わってはいるが、歴史は古く、今でも経文石、じがい水、猿渡り、馬井戸、駒返し、桟敷塚(馬駆け場)等の地名が残されている。上三原...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その4。往還(旧道)に復帰。「槙のつらなり」。「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」・花嫁街道の由来。「うな陣」。和一号踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その3。菜の花・寒桜。「抱湖園」・元朝桜・メジロ。第二花園踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    満開の桜が間近に。このブログを掲載したときには、早くも東京などでも「河津ザクラ」などが咲き始めた、というニュースがありましたが、このときに、今年初めて満開の桜を見ました。※東京地方も、その後、寒気が入りこみ、雪模様に。坂道を上がっていきます。と、満開の桜並木。散策にやってくる人も。遠く、南房総の海が見下ろせます。ここは、抱湖園。全国的に有名な花の産地である南房総市和田町にある「抱湖園」は、当地に花栽培をもたらした偉人、間宮七郎平が開いた庭園です。元々薬剤師であった間宮七郎平は、花づくりによって半農半漁で生計を立てる民を救いたいという想いから、花栽培に取り組みました。安房で初めて花栽培に成功し、自らくわを持って山を切り開いて花木を植栽。この際に植えられた寒桜は、旧暦の元日朝に咲くことから「元朝桜」と名付けら...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その3。菜の花・寒桜。「抱湖園」・元朝桜・メジロ。第二花園踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その2。鴨川市から南房総市へ。菜の花・桜が満開。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    眼下に南房総の海が。鴨川市から南房総市に入ります。「またどうぞ鴨川へ」。南房総市南房総市は、千葉県の南部に位置する自治体である。関東地方および千葉県最南端。南房総観光圏の観光都市。市域は森林セラピー基地、海岸部は南房総国定公園に指定されている。本地域が位置する安房地域は718年(養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。国府は旧三芳村に置かれ、条里制の遺構も見られる。かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年(慶長19年)に改易され、以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。近代に入り、1...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その2。鴨川市から南房総市へ。菜の花・桜が満開。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その1。特急「新宿わかしお」・「新宿さざなみ」。「南房総江見」。内房線の鉄橋。片草鞋・「綱吊り」=「道切り」。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

    1月27日(土)晴れ。いよいよ「房総東往還(伊南房州通往還)」最終日となりました。途中、旧道を歩くだけではなく、タクシーを利用したり、バスに乗ったり、省略したところもあったりして、・・・。それでも、11月初めから1月末まで、何とか冬の間に終えそうです。《往路》船橋~安房鴨川(「新宿わかしお」7:25―9:36)※その名の通り新宿駅始発。秋葉原や錦糸町を通り、船橋にも停まります。(「安房鴨川駅」にて)~江見~南三原―(バス)―館山※9時50分に着いた「江見駅」から「南三原駅」までは歩き。《復路》館山~船橋(「新宿さざなみ」16:02―17:39)※この列車も新宿駅が終着駅。(「館山駅」にて)※今回も「大人の休日倶楽部」利用で、乗車券・特急自由席を合わせ、3割引き。4月からは、房総半島を行き来する特急列車の自...JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その1。特急「新宿わかしお」・「新宿さざなみ」。「南房総江見」。内房線の鉄橋。片草鞋・「綱吊り」=「道切り」。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

  • 2月3日(土)。隅田公園・梅めぐり散歩道。ほぼ満開の梅。メジロ。ユリカモメ。

    雪模様の東京。昨日は、近所の高校も早めに下校させていました。それよりも昨夜の雷。雪が降っている中で雷鳴が轟きました。こんな自然現象が起こるのでしょうか?ビックリしました。さて、2月3日(土)、向島百花園から隅田公園(浅草側)へ、と歩いた時の記録を。今日のお天気とは打って変わった日差し。ここは、満開の梅も目立ちます。「東京スカイツリー」。梅の花を求めて「メジロ」が来ていました。「隅田川」。ユリカモメ。2羽が羽を休めています。例年よりも少ない印象。2月3日(土)。隅田公園・梅めぐり散歩道。ほぼ満開の梅。メジロ。ユリカモメ。

  • 2月3日(土)。向島百花園。梅も咲き始め、訪問客もちらほら。べにちどり・しろかが・ひとえかんこう・とうばい・・・。

    午後から雨から雪に変わりはじめた、今日の東京。2,3日前の陽気が嘘のよう。夕方には、道路にも積もり、それでも雪が降る中を自転車に乗る人もけっこう多く、慎重な運転で。そういう外のようすを窓越しに眺めながら、2月3日(土)を思い返して。この日は、朝から風は冷たいが、まあまあのお天気。さっそく「向島百花園」へ。梅はどのくらい開花しているでしょうか?門脇の梅。白加賀と一重寒紅。手前の公園には、「八重寒紅」が満開。「道知辺(みちしるべ)」。園内の梅の満開は、まだまだ先のよう。「紅千鳥」。この「白加賀」は満開間近。「八重寒紅」。日当たりなどによっても、開花時期が異なるようです。山茶花。「東京スカイツリー」。「唐梅」。日だまりと梅を求めて三々五々訪れる人々。「うめ(月影)」。「梅まつり」は2月10日(土)から始まります...2月3日(土)。向島百花園。梅も咲き始め、訪問客もちらほら。べにちどり・しろかが・ひとえかんこう・とうばい・・・。

  • 立春。2月4日。飛び梅・菅原道真。春一番・キャンディーズ。春告鳥・ウグイス。雪解け・一茶。早春賦。そして、ソウタ。

    唐梅。旧暦では、一年のはじまりは立春からと考えられていました。「二十四節気」も「立春」から始まります。そのため、節分や八十八夜など、季節の節目の行事は立春を起点として定められています。立春の今日。東京地方は、朝方の冷たい雨も止みましたが、すっきりしないお天気。日本海側は大雪。東京も、明日は大雪の可能性もある、とか。しかし、梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます。※今年。暖冬の影響で桜や梅、桃などが既に咲いた地域もあります。「七十二侯」では、・初侯 2月4日〜2月8日頃東風解凍はるかぜこおりをとく暖かい春の風が、冬の間張りつめていた氷を解かし始める頃。春先に東から吹いてくる風を「東風」といいます。東風は「こち」とも読みます。「東風」というと、「天神様」として祀られる、菅原道真...立春。2月4日。飛び梅・菅原道真。春一番・キャンディーズ。春告鳥・ウグイス。雪解け・一茶。早春賦。そして、ソウタ。

  • 節分。2月3日。追儺(ついな)・鬼やらい。豆まき。鬼ごっこ。柊鰯。恵方巻き。

    梅の花が咲き始めています。(「向島百花園」正門横)しろかが。ひとえかんこう。2月3日は「節分」。そして、明日は「立春」。東京地方、2月1日は、3月下旬並みの暖かさ。あちこちで桜が開花。しかし、昨日の午後からは一転、大陸からの強い寒気の影響で、2月らしい厳しい寒さが。そして、今日は風もなく、穏やかな天気。しかし、明朝は雪模様になるとか。目まぐるしく変わる2月初めのお天気です。日本海側や北海道は、寒波の影響で猛烈な吹雪。交通や水道等、日常生活にもそうとう支障をきたしているようです。大地震に見舞われた能登半島地域は、まだまだ厳しい冬が続きそうです。さて、「節分」とは「季節を分ける」という意味。そのため、季節の変わり目として二十四節気の「立春」・「立夏」・「立秋」・「立冬」の前日が節分となります。したがって、「節...節分。2月3日。追儺(ついな)・鬼やらい。豆まき。鬼ごっこ。柊鰯。恵方巻き。

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その9。フェニックス。内房線「江見駅」・「江見駅郵便局」。郵便列車「クモユニ74012」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    右折すると、「江見駅」。その角にあるおうち。南国風の大木。フェニックス(Phenix)カナリーヤシ:古代エジプトの想像上の鳥で、不死鳥と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、史実タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリエポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。そしてその灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に二羽のフェニックスはこの世に存在しない。ギリシア語のフォイーニックスは、フェニキア、紫、ナツメヤシの三つの意味を持つ。そこで、生地はフェニキア、王者の色としての紫の色を身にまとうといい、勝者のシンボルとしてのナツメヤシと同一視される。「江見駅」・「江見駅郵便局」。2019年(令和元年)7月1日...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その9。フェニックス。内房線「江見駅」・「江見駅郵便局」。郵便列車「クモユニ74012」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その8。曲がりくねった旧道。水準点(15.5)。江見海岸。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    この付近から「伊南房州通往還」(旧道)のようです。この先で国道128号を横断します。「助八そば鴨川店」。海から離れた道を進みます。左奥に水平線。静かでのどかな田園風景。右手に山が迫る。この地域は、純農村地域?新興住宅地の雰囲気も。振り返る。この道が、かつては主要道であったことがわかります。水準点(15.5)。旧家の趣のおうち。集落に入っていきます。木造の素敵なおうち。「←180m江見海岸」。海岸方向。この付近の今昔。(現在)国道128号線(赤線)が東西に直線で延びる。(1880年代)地図の東側に作成上のずれがある。江見地区には住居が集まる。海岸は、岩場続き。JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その8。曲がりくねった旧道。水準点(15.5)。江見海岸。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その7。内房線・山生(やもうめ)橋梁。貝の化石の跡。道の駅 鴨川オーシャンパーク。名馬橋。源頼朝と鴨川。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    この先、内房線と国道128号を陸橋で越えていきます。スイセン。内房線。「太海駅」方向。振り返る。左奥に内房線「山生(やもうめ)橋梁」。途中、露出した岩に、貝の化石の跡があります。※剥がれた部分に貝。この先、旧道は右に折れて進みますが、右折せずにそのまま歩いてしまいました。この付近の今昔。(1880年代)太線が「伊南房州通往還」。直角に曲がる道筋。(現在)赤い線が国道128号。現在の旧道は複雑に進む。※「江見太夫崎」は町村合併で付けられたもので、もともとは、「太夫﨑(村)」であった。そして、「道の駅鴨川オーシャンパーク」脇へ。旧道は、この施設の向こう側、海側を進んでいきます。旧道方向。ユニークな建物。鴨川オーシャンパークは、南房総の観光の主要幹線となる国道128号線沿いにあり、鴨川のとれたての海の幸、山の幸...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その7。内房線・山生(やもうめ)橋梁。貝の化石の跡。道の駅鴨川オーシャンパーク。名馬橋。源頼朝と鴨川。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その6。綱吊り・道切り。「高波注意」。ハバノリ。房州大橋・山生橋梁(やもうめきょうりょう)。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    浅間宮の常夜燈。左はツナツリ(綱吊り)で、昔はここに大きな「綱吊りの松」があり、この先の「天面(あまつら)村」への悪病・悪霊などの侵入を防いでいたという。※「綱吊り」=「道切り」道切り疫病が流行らないように行うところが一般的ですが、災いを封じると豊作になるという考えから、五穀豊穣を願って道切りを行うところもあります。正月から2月にかけて多く行われます。疫病神は道を通ってやってやってくると考えられていたので、むらの出入り口にあたる道で行われました。わらの大蛇(市川市国府台辻切り)しめ縄・手桶・サイコロ・蛸(飯岡町三川浜辻切り)男女一対の武者人形(君津市大坂鴨畑人形だんご)大草履(富津市関尻綱つり)道切りの形は、百足や蛇や龍の形をした太綱をむら境の木に掛けるタイプや、綱を道を横切るようにわたし、男女一対の人形...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その6。綱吊り・道切り。「高波注意」。ハバノリ。房州大橋・山生橋梁(やもうめきょうりょう)。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その5。「是空-ZEKUU-」。露出した地層。「璃庵」。河原地蔵堂。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    この先で、右からくる「国道128号」に合流します。その先、「房総鴨川温泉是空-ZEKUU-」。おしゃれなホテル。海の絶景を目の前に究極の癒し体験“海旅”を叶える都心から東京湾アクアライン経由で車を走らせること約1時間半、千葉県鴨川の荒磯に寄り添うように造られた湯宿。この地屈指のオーシャンビューが魅力だ。完全プライベート空間の貸切露天風呂など、館内のあらゆる場所から、海の壮大なパノラマを間近で見渡せる。もちろん、すべての部屋からもこの唯一無二の景色を満喫。なかでも、是空棟に設えられた半露天風呂付きの客室が好評だ。“密”を避けた“おこもりステイ”にも最適。是空でしか味わうことのできない究極の“海旅”を体験したい。(「旅色」HPより)振り返る。岸壁上に建つのは、「是空」。国道から右の坂道へ。地層が露出しています...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その5。「是空-ZEKUU-」。露出した地層。「璃庵」。河原地蔵堂。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その4。仁右衛門島。カマスの干物。奇岩・龍宮様。太海フラワー磯釣りセンター。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    バス停「仁右衛門島入口」。左折し、仁右衛門島へ向かいます。漁港。仁右衛門島(にえもんじま)千葉県鴨川市太海の沖合約200mにある島。全島砂岩よりなる周囲約4kmの島で、千葉県では最も大きな島かつ唯一の有人島である。源頼朝や日蓮の伝説で知られ、個人所有ではあるが千葉県指定名勝となっているほか、新日本百景にも選ばれている。島主である平野仁右衛門の名に因み、この名前になったといわれている。夏涼しく冬暖かい風光明媚な自然の楽園。金銀針茄子(キンギンハリナス)という珍しい植物もみられる。島の南側は荒々しい海岸線がみられ、自然の防波堤の役割も果たしている。《伝説》代々島主は平野仁右衛門を名乗り、現在の島主が推定で38代目。治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房に逃れた際、平野仁右衛門に助けられ、この...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その4。仁右衛門島。カマスの干物。奇岩・龍宮様。太海フラワー磯釣りセンター。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その3。海を望む坂道。波太(なぶと)・なぶとばし。太海(ふとみ)駅。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    海と山と畑と複雑に入り組む。県道に出てすぐ右の細い道に入ります。住宅地への坂道。旧道には中央に下水溝(?)が敷設されているところが多い。坂道の向こうに海。県道に合流。左手にある案内板。※鴨川市太海地区の、昔の名前は「波太(なぶと)」。明治ごろまで、ここは波太と呼ばれていた。今でも、ここは波太の頃と変わらず、のんびりとゆるやかな時間が流れている。「泊まれるレストラン波太オルビス」。鴨川市天津にて地魚寿司&民宿を31年間営んできた「中乃見家」が太海海岸に生まれ変わり「波太オルビス」となりました。一流ホテルやオーベルジュで修業をしたフレンチシェフと、千葉の海の食材を知り尽くしたベテラン寿司職人が見事なハーモニーで美食の皿を提供します。(この項、「」HPより)県道を振り返る。「曽呂川」河口。「なぶとばし」。「内房...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その3。海を望む坂道。波太(なぶと)・なぶとばし。太海(ふとみ)駅。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その2。鴨川漁港。鴨川松島・雀島・・・。上り坂が続く。「JOSAI」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    行き先案内板。「↑弁天島→鴨川松島→県立鴨川青年の家→太海フラワー磯釣りセンター→仁右衛門島」。右手に妙昌寺、急坂の上に八雲神社。鴨川漁港。仁右衛門島方向。「旅館松島」。左に海を眺めながら、ゆっくり上り坂を。眼下には、「鴨川松島」。大小七つの島(荒島こうじま・弁天島べんてんじま・鵜島うじま・雀島すずめじま・波涛根島はとねじま・猪貝島いがいじま・海獺島あしかじま)の総称であり、宮城県の松島を思わせる景観からその名がついた。中央に「雀島」。魚見塚展望台から鴨川松島。(「」HPより)振り返る。スイセン。少し下ったあと、右の上り坂になっている旧道に入ります。住宅の向こうに海が。南国風な木々。振り返る。海側にある小山。この先、右に上っていくと、「魚見塚展望台」に行けますが、省略。下り坂になると、前方が開けてきます。...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その2。鴨川漁港。鴨川松島・雀島・・・。上り坂が続く。「JOSAI」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その1。特急「わかしお」。曲尺手。前原海岸。加茂川。鴨川漁港。万騎坂。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

    「安房鴨川駅」から「江見駅」までの歩き旅。船橋~安房鴨川の往復を特急「わかしお」を利用しての旅。安房鴨川に着いたのが午前11時少し前。そこからの歩き。帰路は、「江見」から「安房鴨川」。そこから午後3時半過ぎの特急で。「大人の休日倶楽部」を利用したので(往復で200㌔を超えますので)、3割引で大いに助かりました。1月19日(金)。あいにくの曇り空時々晴れ。しかし、強い風もなく、穏やかな日和でした。安房鴨川までの車窓から。鳶が盛んに上空を舞う。「安房鴨川駅」。駅前の通りを進み、「伊南房州通往還=房総東往還」に出ます。ここは、曲尺手になっていました。小湊方面からだと、右折して、すぐ左折します。この角に道標があったのですが、見落としました。商店と住宅が建ち並ぶ街道を進みます。左側は海岸。バス停「前原海岸」。典型的...JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その1。特急「わかしお」。曲尺手。前原海岸。加茂川。鴨川漁港。万騎坂。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その7。安房鴨川駅。外房線・内房線、どちらも下り終点。(付)車窓からの「新茂原貨物駅」跡。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    駅前の鴨川市観光案内図。駅周辺は何もありません。西側にはイオンなど大きな店舗もありますが。位置情報連動型ゲーム「ステーションメモリーズ!」「駅メモ!OurRails」において、『JR東日本×江見駅郵便局×「駅メモ!」シリーズ房総の旅キャンペーン』が開催されます。JR外房線・内房線の駅や沿線の観光地を巡るデジタルスタンプラリーや、コラボグッズの販売、ノベルティの配付など、さまざまな企画が実施されます。江見駅郵便局『応援特使』、『鴨川ふるさと特別大使』を務めている、でんこ「なより」が、房総特急『わかしお・さざなみ』50周年を記念して、『JR東日本×江見駅郵便局×「駅メモ!」シリーズPR隊長』に就任します。(この項、「」HPより)※このキャンペーンは去年の春に終わっています。安房鴨川駅は、「外房線」と「内房線」...外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その7。安房鴨川駅。外房線・内房線、どちらも下り終点。(付)車窓からの「新茂原貨物駅」跡。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • 1月20日。「大寒」。南天。鰤・出世魚。寒仕込み。寒波が日本列島を覆うようですが。

    今日は、二十四節気の最終節「大寒」。寒さが最も厳しくなるころ。『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。寒(小寒から立春前日)の中日で、一年で最も寒い時期である。七十二侯だと、この日から、二十四節気の始まり「立春」(2月4日)の前日まで。・初侯 1月20日〜1月24日頃款冬華ふきのはなさく凍てついた地面に蕗の花が咲き始める頃。地面には雪が積もり、強い寒さが襲ってくる時期ですが、草花は春に向けて着実に動き出しています。・次侯 1月25日〜1月29日頃水沢腹堅さわみずこおりつめる沢の水が氷となり、厚く張りつめる頃。この時期に、一年での最低気温の記録がでることが多く、氷点下に達する地域も多くみられます。・末侯 1月30日〜2月3日頃鶏始乳にわとりはじめてとやにつく鶏が春の気を感じ、...1月20日。「大寒」。南天。鰤・出世魚。寒仕込み。寒波が日本列島を覆うようですが。

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その6。しぶきがかかる遊歩道。バスに乗って「安房鴨川駅」まで。車窓からの眺め。「鴨川シーワールド」。安房鴨川駅。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    港の方へ戻ります。大波が来ると、水しぶきを浴びそう。海の中、緑の海藻。崖が海に迫る。ここで大地震が起き、津波に見舞われたら逃げるすべがなさそう。振り返る。遠くに弁天島。大海原を望む。「安房小湊駅」に向かいます。奥に「鯛の浦遊覧船乗り場」。「吉夢」玄関に飾られた写真。「日本の夕陽百景の館」。小湊漁港。この交差点を左に折れて駅に向かう。と、バス停があり、まもなく来たバス。「安房鴨川駅」(終点は、「仁右衛門島」)まで行く、とのこと。飛び乗ってしまいました。※「安房天津駅」を通過して、安房鴨川駅まで。この先は、バスの車窓からの風景。内浦湾。海岸伝いに進むバスの車窓からは、左手に海が広がります。小さな漁港をたどりつつ・・・。※途中のバス経路は「伊南房州通往還(房総東往還)」と重なっています(言い訳がましいですが)。...外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その6。しぶきがかかる遊歩道。バスに乗って「安房鴨川駅」まで。車窓からの眺め。「鴨川シーワールド」。安房鴨川駅。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その5。鯛の浦遊歩道。大・小弁天島。昭和皇后の短歌を刻んだモニュメント。生きた貝が穴を空ける? 岩(磐)笛。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    内浦湾。遙か遠く、正面奥は安房鴨川方向。テラス風になっていますが。「遊歩道」案内板。←誕生寺・鯛の浦遊覧船→大弁天・小弁天→行幸啓記念碑国指定特別天然記念物「鯛の浦タイ生息地」内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へぐらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、このあたりを「妙(たえ)の浦」と呼んでいます。「鯛の浦」とも呼ばれるこの周辺海域は、日蓮聖人ゆかりの聖地で、古来殺生禁断の地として、代々地元の人々から題字に守られてきました。明治36年(1903)には漁業法に基づく禁漁区となりました。・・・海洋に関連する国指定の天然記念物は、本件を含めて全国で2件しかありません。千葉県唯一の国指定特別天然記念物です。「鯛の浦遊歩道」先端。小弁天島。右端の島は、大弁天島。「昭和天皇行幸啓記念碑」。...外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その5。鯛の浦遊歩道。大・小弁天島。昭和皇后の短歌を刻んだモニュメント。生きた貝が穴を空ける?岩(磐)笛。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その4。「誕生寺」・日蓮聖人誕生の地。鯛の浦タイ生息地・遊歩道。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    小湊山誕生寺「総門」。誕生寺は、日蓮聖人生誕の地に建治2年(1276)に建立されました。明応7年、元禄16年の2度の大地震、津波により水没したこともあり、寺域を現在地に移して堂舎を再興しました。宝暦8年(1758)の大火で誕生寺の諸堂は焼失しましたが、宝永3年(1706)に建立と伝えられる「仁王門」のみ焼失をまぬがれました。県内でも最大規模の仁王門で、創建時の様子をとどめている貴重な建造物として、平成9年に県の有形文化財として指定されました。また、日蓮聖人が下総の富木常忍の妻に宛てた「富城殿女房尼御前御書」は、日蓮聖人58歳の時の御真筆と思われ、聖人の閲歴を知る上で貴重な資料として県の有形文化財に指定されています。他に、本堂と祖師堂に安置されている中世期の「木造日蓮聖人坐像」2軀は、日蓮聖人の古肖像として...外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その4。「誕生寺」・日蓮聖人誕生の地。鯛の浦タイ生息地・遊歩道。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その3。雀島。「おせんころがし」から「誕生寺」へ。隧道。林間の道。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    背後には山が迫っています。房総の海が広がる。内房では対岸に三浦半島が見えますが、はるかかなたまで海が。雀島。磯釣りが盛ん。この付近から海沿いの道から山中の道(峠道)になります。隧道を抜けると安房小湊の町へ。隧道の先は森の中へ。木洩れ陽の中を下っていく。隧道を振り返る。林道風な道。隧道の上を進む旧道?住宅が現れます。左手は廃墟?正面奥に「誕生寺」が見えてきます。誕生寺。裏手に来たようです。外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その3。雀島。「おせんころがし」から「誕生寺」へ。隧道。林間の道。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その2。おせんころがし・伊南房州通往還=旧国道128号線。落石注意。広大な房総の海・青さがまばゆい。雀島。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    古びた木製の案内板。「←・・・誕生寺→」。この付近の今昔。明治以前、山側に古道があった(「日蓮寺」方向)が、その後は、ほぼ廃道。左図・左端に描かれている道は、大正時代に国道としてあった道。(「今昔マップ」より)※1969(昭和44)までは、「おせんころがし」道は、国道128号線として位置づけられていました。現在の国道128号線は、「行川アイランド駅」前からトンネルを通過して、小湊方面へ進む。さて、旧道(「伊南房総通往還=房総東往還」)を海沿い(崖沿い)に歩くことに。振り返る。「大沢漁港」から北の道は、廃道に近い。眼下に房総の海が広がる。風もなく、穏やかな日差しのもと。車も行き来するので、ちょっと怖い。頑丈なガードレールはあっても、左は垂直の崖が続く。右手は崖。コンクリートで固められているが、そうでないと、...外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その2。おせんころがし・伊南房州通往還=旧国道128号線。落石注意。広大な房総の海・青さがまばゆい。雀島。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • 外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その1。行川アイランド閉園・乗車人員19人。おせんころがし。大沢漁港。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

    今回。前回の「勝浦駅」から「行川アイランド駅」までは、電車(二駅「鵜原」「上総興津」)で移動。そこから「おせんころがし」を歩いて、「安房鴨川駅」まで歩くことにします。1月8日(祝)。快晴。「行川アイランド駅」。下車したのは、小生のみ。日陰に位置しているせいか、よけい寂しい雰囲気。・行川アイランド駅2006年(平成18年)度の1日平均乗車人員は19人であり、県内のJR駅の中では最も少なかった。1990年代前半は200人超であったが、1994年に200人を割ってからは、年々減少の一途をたどっている。駅名の通り実質的に行川アイランドの来園のための専用駅で、閉園後は一気に利用客が減少した。・行川アイランド1964年8月13日に開園してフラミンゴショーの人気などから1970年に年間117万人もの入場者数を記録し、外...外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その1。行川アイランド閉園・乗車人員19人。おせんころがし。大沢漁港。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

  • JR外房線「御宿」~「勝浦」。その4。古い商家。勝浦魚市場。勝浦タンタンメン。勝浦駅。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

    朝市通り沿いに商家。左は、「貸切宿」。朝市通りを振り返る。魚市場に向かいます。観光案内図。勝浦魚市場。水揚げする活発な時間を終え、静かなひととき。「仲本町朝市通り」。振り返る。今回はここまで。勝浦駅に向かいます。「勝浦タンタンメン」広告。勝浦のタンタンメンは、当地の海女さん・漁師さんが寒い海仕事の後に、冷えた体を温めるメニューとして定着してきました。メニューの特徴は、通常のゴマ系と違い、醤油ベースのスープにラー油が多く使われたラー油系タンタンメン。具材はミジン切りの玉ネギと挽肉が入ることが一般的で、お店によってニンニク、ニラ、ネギが入ったり、スープも味噌ベースのお店もあったりと各店が特色を生かしたメニューを提供しております。熱血!!勝浦タンタンメン船団船団長の磯野典正です。2011年に勝浦市をもっと元気に...JR外房線「御宿」~「勝浦」。その4。古い商家。勝浦魚市場。勝浦タンタンメン。勝浦駅。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

  • JR外房線「御宿」~「勝浦」。その3。「松の家」。日蓮宗本行寺・芭蕉の句碑。勝浦朝市」・下本町朝市通り。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

    商店が立ち並ぶ通りへ。昔ながらの商家。空き家?ここは商いをしているようです。振り返る。「松の家」。国の登録有形文化財に指定されている旅館。江戸時代創業の純和風の当館・松の家(本館は国の文化財)は、こじんまりとした小さな古い宿です。設備など大きな温泉旅館さんやホテルさんにかないませんが、勝浦近海の新鮮な海の幸をリーズナブルにご提供致しますとともに、自然と心の安らぐ家庭的な雰囲気を持ってお客様をおもてなし致します。夜。正面のようす。中のようす。(この項、「」HPより)通りを進むと、左奥に「日蓮宗本行寺」。日蓮宗寺院の本行寺は、長寿山と号します。本行寺は、大同2年(807)に僧空海が創建したと伝えられ長寿院と号していましたが、暦応2年(1339)当地へ教化に来た宝乗院日続が、当寺を真言宗から日蓮宗へ改め、長寿山...JR外房線「御宿」~「勝浦」。その3。「松の家」。日蓮宗本行寺・芭蕉の句碑。勝浦朝市」・下本町朝市通り。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

  • JR外房線「御宿」~「勝浦」。その2。部原海岸・部原漁港。「箱岩」。関東ふれあいの道。高架橋。起伏に富んだ勝浦市。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

    部原海岸。部原漁港に寄ってみます。小さな漁港。漁船が数隻。突堤では釣り人が。背後に迫る岩山。街道に戻り、先を行くとトンネルが見えてきます。北側入口から南側を望む。南側の扁額には「風早隧道」とあります。来た道を振り返る。「箱岩」が海中に。豊浜港。「妙海寺宿坊自在堂」。ここを左折して海岸方向へ。左の角に「加賀屋旅館」がありましたが、「売地」の看板が。「水準点」。かつての街道であったことが分かります。海岸沿いの道。「新官港」。勝浦の市街地に入っていきます。前方にこんもりした山。「関東ふれあいの道←部原三叉2.0KM勝浦駅6.4KM→」。前方頭上に高架橋。左手に使用不能のアパート。丘の上には「日本武道館研修センター」。ところで、勝浦市とは?勝浦は古くから漁師町として栄えた。中心部の勝浦地区にある勝浦漁港は銚子漁港...JR外房線「御宿」~「勝浦」。その2。部原海岸・部原漁港。「箱岩」。関東ふれあいの道。高架橋。起伏に富んだ勝浦市。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

  • JR外房線「御宿」~「勝浦」。その1。御宿駅の海女さん像。部原(へばら)海岸までタクシー。旧道へ。右手は山、左手は海。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

    今回は、夕方から予定があるため、一駅間のみの歩き。1月5日(金)。晴れ。外房線「御宿駅」。ホームに海女さんの像があることに気づき、パチリ。房総の海女(あま)は、三重県和具、石川県輪島市舳倉島と並んで「日本の三大海女」として知られていました。房総の中でも外房の御宿と南房総市白浜は代表的な地域で観光面でも有名でした。しかし海女が全盛期だったのは1960年代あたりまでで、今はこの地に海女さんはいません。(「月の沙漠記念館」HPより)さて、この先、「国道128号」にはトンネル(隧道)が4つほど続きます。路肩もなく、車も行き来があり、危険。※旧道は山道で、後半は道なき道になるようなので、最初から遠慮。国道を歩くことにしていました。道として標示されていますが実際は廃道に近いようです。(「今昔マップ」より)駅前にタクシ...JR外房線「御宿」~「勝浦」。その1。御宿駅の海女さん像。部原(へばら)海岸までタクシー。旧道へ。右手は山、左手は海。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

  • 初春。向島百花園。春の七草。スカイツリー。

    新年を迎えた向島百花園へ。東京地方は昨日も快晴でした。能登半島地震は悪天候の中、捜索が続けられていますが、なかなか進みません。道路など寸断されたライフライン、復興支援も困難さが増しているようです。そんな中、暖かく、風もない午後の向島百花園。七福神廻りの人出も。「献上七草籠と百花園」。明治時代、その当時のお得意様の方々の中に九條家(のちの大正天皇の皇后様となられました節子姫のご生家)がありまして、年末になると七草籠をお届けしておりました。その後、明治33年に節子(さだこ)姫が大正天皇の皇太子妃になられると、七草籠を宮内庁にお届けしまして、妃殿下のもとにさしあげていました。それが献上七草籠のはじまりで、毎年当園の職員が手作りで育てた七草を籠に盛り込んで、新年に皇室に献上しています。春の七草。こちらにも、冬らし...初春。向島百花園。春の七草。スカイツリー。

  • 「小寒」・1月6日。快晴。寒の入り。「立春」まで一ヶ月弱。春の七草・七草粥(ななくさがゆ)。。

    写真は、昨年12月29日。今日、1月6日(土)は二十四節気の23番目「小寒」。♪おおさむこさむ山から小僧が泣いてきた※この「泣いてきた」の歌詞については、「やってきた」、「飛んできた」など、微妙に異なる歌われ方が存在するようです。また、お天気用語では、「大寒」、「小寒」は、「だいかん」「しょうかん」と読みます。関東地方。「小寒」とは裏腹の、暖かく晴れた日が続きます。また、今年は始業式が9日(火)とけっこう長い冬休みです。元旦の能登半島地震ではまだまだ行方不明者の捜索が続き、飲料水、食料不足など被災者の大変な状況が続く中、明日は警報級の豪雨になる、との予報。日本列島。無慈悲な自然災害、いや航空機の大事故など人事災禍と、何ともやりきれない状況が次々と襲ってきているようです。・・・さて、「小寒」は、冬至から数え...「小寒」・1月6日。快晴。寒の入り。「立春」まで一ヶ月弱。春の七草・七草粥(ななくさがゆ)。。

  • 二つの引き込み線跡をたどる。その4。新茂原貨物駅跡。構内のさび付いた線路・朽ちた建物・信号機・・・。道路に残る線路。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    引き込み線は外房線本線から左へカーブし、「阿久川」左岸沿いに進んでいました。航空写真での「新茂原貨物駅跡。」全景(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。現在の様子。建物が残っています。かつての正門か?外房線踏切近くに道路上の線路跡。外房線・本納駅方向。右に貨物駅・駅舎跡。草むらから覗くと、プラットホーム上部。地面は、コンクリートで覆われています。現在は、資材置き場。周囲は田園地帯。北側から望む。すっかりさび付いた線路。構内信号機。北側の踏切に行ってみます。本線からの引き込み線。本納駅方向。貨物駅へ。道路上の線路。今回は、ここまで。「本納駅」まで歩きます。※「伊南房州通往還(房州東往還)」で歩いた道を戻ることに。本納駅。こうして「三井化学」に関連する二つの廃線跡を探りました。二つの引き込み線跡をたどる。その4。新茂原貨物駅跡。構内のさび付いた線路・朽ちた建物・信号機・・・。道路に残る線路。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • 二つの引き込み線跡をたどる。その3。バラスト(砂利)。関東天然瓦斯。標識。外房線との分岐点。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    バラストが残されている線路跡。線路跡に残る標識(↓)。鉄道標識のようですが、詳細不明。旧敷地内にある標識。「管理者関東天然瓦斯株式会社」。旧線路の地中には、天然ガスのパイプが敷設されているようです。新茂原貨物駅方向。右手の鉄柵は、鉄道由来のもの。旧貨物線・線路跡。振り返る。左が線路跡の草むら。この付近では、線路跡が明確。(「三井化学」方向。)外房線方向を望む。「三井化学工場」方向を望む。線路跡はこの先埋もれてしまいます。外房線方向。外房線との分岐点。線路跡。カーブしているようすが分かります。跨線橋下。遠くに新茂原貨物駅(跡)が見えます。(↓)。二つの引き込み線跡をたどる。その3。バラスト(砂利)。関東天然瓦斯。標識。外房線との分岐点。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • 二つの引き込み線跡をたどる。その2。三井化学工場構内に入る貨物線跡。阿久川沿い。草むらの中にバラスト(砂利)。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    「阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬関東工場」。「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。この道をたどってみます。沢井製薬。しばらく直線の道。広い道にぶつかります。この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。ここでおさらい。(「」HPより拝借)三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。1957年(昭和32年)旧海軍茂原...二つの引き込み線跡をたどる。その2。三井化学工場構内に入る貨物線跡。阿久川沿い。草むらの中にバラスト(砂利)。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • 二つの引き込み線跡をたどる。その1。茂原駅から三井化学工場へ。高架線脇の遊歩道。大きく右へ。合流地点か? 「萩原交通公園」。「房総東往還」と交差。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

    「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。12月28日。曇り。北風寒し。茂原駅。高架線の下が遊歩道になっています。この道が「三井化学」工場からの貨物線跡。振り返る。↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)※○が本線との合流地点と思われます。「房総東往還」道を渡ります。正面の道が「農総東往還」。「高師」交差点。大きく右にカーブします。右奥に「県立長生高校」。「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。「信号」と刻まれた標石。茂原駅からの高架線が下がってきます。「...二つの引き込み線跡をたどる。その1。茂原駅から三井化学工場へ。高架線脇の遊歩道。大きく右へ。合流地点か?「萩原交通公園」。「房総東往還」と交差。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その8。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』。駱駝に乗る姫と王子の像。加藤まさを。ロペス通り命名趣意碑。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    海岸に向かいます。観光案内図。御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。「御宿町営ウォーターパーク」。「清水川」河口。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられ...JR外房線「三門」~「御宿」。その8。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』。駱駝に乗る姫と王子の像。加藤まさを。ロペス通り命名趣意碑。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その7。新旧混じった家並み。「御宿小学校」。「ロペス通り」。清水川。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。房総らしい屋根のおうち。この建物は?モルタル2階建て。どんな商いをしていた建物なのか?今は廃業中。「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。「御宿小学校」正門前を左折。この三叉路を右に。「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。※「ロペス通り」の由来は、後で。「ロペス通り」。海岸方面を望む。この細道が旧道にあたるようです。左奥「御宿駅」方向を望む。「清水川」に突き当たります。旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。この付近の今昔。(1880年代)「伊南房州通往還」はジグザクに進む。(現在)学校前の細道が旧道。昔からの御宿の中心は、街道沿いに南に広がっている。※当時は、「濱村」。JR外房線「三門」~「御宿」。その7。新旧混じった家並み。「御宿小学校」。「ロペス通り」。清水川。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その6。いすみ市から御宿(おんじゅく)町へ。「第二房総街道踏切」。山道を行く雰囲気。「WELCOME TO ONJUKU」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    しばらく「国道128号」を進みます。振り返ると、「WelcometoISUMI」。この先、御宿町に入ることに。洒落たスープカリーのお店。この先で、国道から右に分かれて進む。国道は一直線で御宿の町へ。来た道を振り返る。外房線の踏切を越えます。「第二房総街道踏切」。しばらく線路沿いに進みます。山道を行く雰囲気。舗装されていますが、車が来たら大変!しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。切通しの道が続く。前方が開け、やっと広い道に。来た道を振り返る。「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。外房線を越える。左手上に「WANぱく館」(廃業)。山道(?)を振り返る。国道128号に合流、御宿町に入ります。「WELCOMETOONJUKU」。街路樹が南国的な雰囲気。JR外房線「三門」~「御宿」。その6。いすみ市から御宿(おんじゅく)町へ。「第二房総街道踏切」。山道を行く雰囲気。「WELCOMETOONJUKU」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その5。国道から右、小さな集落へ。外房線「浪花駅」。特急「わかしお7号」が通過中。「第三やまか丸」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。崩れ落ちた家。どれくらい経過したのか?集落を抜けると、田畑が広がり、住宅も。「浪花駅」方向。水準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。(「Googleマップ」より)外房線「浪花駅」。島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線...JR外房線「三門」~「御宿」。その5。国道から右、小さな集落へ。外房線「浪花駅」。特急「わかしお7号」が通過中。「第三やまか丸」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その4。追分回国供養塔・追分道標。房総らしい屋根構え。平(上総)広常お手植えの大銀杏。国道から分かれて。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    左に折れて、今度は右に折れます。その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。正面上部如意輪観音半跏座像。下部左「四國西國/秩父坂東」下部右「此方、かつうら/ぼう志ふなこ/こみなとみち」(勝浦/房州那古/小湊道)右側面右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)左側面左指差し図、下に「一の宮江戸/きよみづ、道」この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。この先で県道に合流します。さらに「国道128号」に合流。右側に立派なおうち。右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。※「上総広常」平安時代末期の武将、豪族、上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は...JR外房線「三門」~「御宿」。その4。追分回国供養塔・追分道標。房総らしい屋根構え。平(上総)広常お手植えの大銀杏。国道から分かれて。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その3。古い商家が残る道筋。二ヶ所、旧道が。「第一房総街道踏切」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    大原駅で小休止し、南に向かいます。元酒屋さんらしい。道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。現役のおうちが二棟。振り返る。かつての曲尺手の名残でしょうか?県立大原高校付近。この先、旧道が左に。「大原小・わんぱくランド」のところを右折。「忠霊塔」の先で、行き止まり。振り返る。県道に戻ることに。この右手に旧道があるはずですが。この先で外房線の踏切を越えます。「第一房総街道踏切」とあります。「大原」方向。御宿方向。踏切を渡ってすぐ左折します。左手にジグザグに旧道が残っています。この付近の今昔。(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?(現在)二ヶ所の○が旧道。JR外房線「三門」~「御宿」。その3。古い商家が残る道筋。二ヶ所、旧道が。「第一房総街道踏切」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • 冬至。冬来たりなば、春遠からじ。ウツボグサ(空穂草、靫草)。ヘラジカ。一陽来復。我が家のネコたちは、・・・。

    今日、12月22日は二十四節気のうちの22番目「冬至」。本格的な冬将軍が訪れています。北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日(南半球では逆転する)。『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。太陽の動き冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈む。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになる。また南回帰線上の観測者から見ると、冬至の日の太陽は正午に天頂を通過する。冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南...冬至。冬来たりなば、春遠からじ。ウツボグサ(空穂草、靫草)。ヘラジカ。一陽来復。我が家のネコたちは、・・・。

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その2。グリーンスパいすみ。新田川・塩田川。いすみ鉄道「房総往還踏切」。木戸泉。ギャラリー泉。大原駅。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。右手奥には、「JAいすみグリーンスパいすみ」の建物。房総らしい低い山並みが見える。街道は右に大きくカーブします。右手奥に緑豊かな低山。「宮元橋」で「新田川」を越えます。※新田川-千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。「房総街道踏切」。※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。「大多喜駅」方向。「大原駅」に向かう坂。「塩田川」を渡ります。上流方向。千葉県いすみ市を流れる本流の二級河川。下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。「大原はだか祭り」のポスター。9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数...JR外房線「三門」~「御宿」。その2。グリーンスパいすみ。新田川・塩田川。いすみ鉄道「房総往還踏切」。木戸泉。ギャラリー泉。大原駅。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「三門」~「御宿」。その1。日在(ひあり)踏切。車の交通量多し。大山堰。日在城址。三省学校跡。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

    12月9日(土)。晴れ。外房線「三門駅」。旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。外房線の線路沿いに「征清征露碑」。「日在(ひあり)踏切」。右手の土手は、「大山堰」。大山堰の奥には、「老人ホームエスポワール大原」。左手には外房線。右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。(「古城盛衰記」HPより)※山裾沿いに進む「伊南房州通往還(房総東往還)」。遠く海方向。住宅地に入っていきます。旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。水準点。奥に田畑が広がる...JR外房線「三門」~「御宿」。その1。日在(ひあり)踏切。車の交通量多し。大山堰。日在城址。三省学校跡。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その8。旧江場土村。水準点。旧道らしいカーブが続く。国道128号を渡る。三門駅・きわどいところで乗車。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。房総らしい屋根。空き地や廃屋も目立つ。手入れの行き届いた槙の生垣。大きなお屋敷が連なる。街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。「本寿院」入口にある水準点。かつて、この道がこの付近の主要な道として存在していたことが分かります。この付近の今昔。(現在)水準点が表示されている。(1880年代)道沿いに街並みが形成されている。※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。来た道(旧道)を振り返る。旧江場土村。国道128号を斜めに通過します。...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その8。旧江場土村。水準点。旧道らしいカーブが続く。国道128号を渡る。三門駅・きわどいところで乗車。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その7。長者。飯島喜美・宮本百合子。三門駅へ。外房黒潮ライン。江場土川。~夷隅川の河童どん~ (「房総東往還」を歩く。第5日。)

    右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。複雑でユニークな屋根。こちらは房総らしい屋根のおうち。「長者」。一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)左手に最近出来たと思われる記念碑が。中央に「飯島喜美」。匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)左右の碑には、プロレタリア作家宮本百合子の短歌と一文が...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その7。長者。飯島喜美・宮本百合子。三門駅へ。外房黒潮ライン。江場土川。~夷隅川の河童どん~(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その6。いすみ市岬ふれあい会館・文化センター。健康マラソンコース。サザエさん一家。池田屋菓舗。長者。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    ここにも親子連れが。周囲は、広々と。バス停「小福公民館前」。左手に大きな建物。こちらは小さなぬいぐるみたち?振り向くと、一家勢ぞろい。こうして「スタート」地点に。「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。と、角にあるお店。「池田屋菓舗」。かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。バス停「岬郵便局前」。長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、商店街らしい雰囲気はありません。バス停「千葉銀行長者出張所前」。(「今昔マップ」より)往還沿いに町場が形成されていたようです。JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その6。いすみ市岬ふれあい会館・文化センター。健康マラソンコース。サザエさん一家。池田屋菓舗。長者。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その5。夷隅川。「いすみ健康マラソン」・かかしたちの応援、歓迎。田園地帯。農免道路。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    「椎木商店街」もここまで。「福原橋」で夷隅川を渡ります。夷隅川(いすみがわ)千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ。勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である。夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある。夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。江戸中期から明治中...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その5。夷隅川。「いすみ健康マラソン」・かかしたちの応援、歓迎。田園地帯。農免道路。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その4。椎木商店街・椎木宿。「かさや」。椎木下宿。「まるへい」。かかし達がお出迎え。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    都内下町などの商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。車が行き来するも、人通りは、少ない。、売り地。細長い土地。「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手になっていました。椎木宿「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その4。椎木商店街・椎木宿。「かさや」。椎木下宿。「まるへい」。かかし達がお出迎え。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その3。いすみ市岬町椎木(しいぎ)。梨園・「一宮・岬梨組合」。椎木商店街へ。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    落ち着いて静かな街並み。すっかり色あせた看板。写真屋さん?の広告。この先で「いずみ市」に入ります。緩い下り坂。右手のおうち、軒先までサボテンの木。!!鮮やかな紅葉。下ると、町並みが開ける。左右の森も少なくなり、「岬町椎木(しいぎ)」。「梨販売所」。梨の収穫時期も終わり、閉店中。千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けてい...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その3。いすみ市岬町椎木(しいぎ)。梨園・「一宮・岬梨組合」。椎木商店街へ。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その2。梨街道・椎木(しいぎ)商店街へ。出征土偶。綱田。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    斜め右に進みます。「梨街道・椎木(しいぎ)商店街・みさき」。南下する「国道128号」。門扉のみの敷地。右に小さな祠。「出征土偶」とあります。「土偶」について、作られた理由採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。①身代わりにするため日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要がありま...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その2。梨街道・椎木(しいぎ)商店街へ。出征土偶。綱田。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その1。旧道から国道128号(房総横断道路)に合流。「東浪見」(とらみ)。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

    11月23日(祝)。晴れ。「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。外房線。旧道。駅方向。旧道に復帰します。上総一宮町のマンホール。・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。国道に合流し、南に向かいます。けっこう車の量が多い。房総らしい屋根のおうち。右手の家並み。左手、海方向。左手にほんの少し旧道が。右手に見えるのが、国道128号。せがい造りの立派なおうち。右手丁字路のところに「浪切地蔵」。「忠魂碑」等。「一宮町立東浪見小学校」。駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?・・・「とらみ」と読みます。※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「...JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その1。旧道から国道128号(房総横断道路)に合流。「東浪見」(とらみ)。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

  • 大雪。12月7日。クマの被害、最悪に! シクラメン・「シクラメンのかほり」。日の入り。

    今日は二十四節気の21番目「大雪(たいせつ)」。北国では、予想外の大雪(おおゆき)が降り続いていますが、東京地方は数日の寒さも収まり、季節外れの暖かさが続きます。暦の上では、大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。七十二候では、・初候 12月7日〜12月10日頃閉塞成冬そらさむくふゆとなる天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。・次候 12月11日〜12月15日頃熊蟄穴くまあなにこもる熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、し...大雪。12月7日。クマの被害、最悪に!シクラメン・「シクラメンのかほり」。日の入り。

  • JR蘇我~安房鴨川~館山~蘇我。わかしお3号。B.B.BASE。「館山・渚の博物館」。「南房総やまと寿司館山本店」。

    鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。「蘇我」9:37発。自由席で。海が見えてきます。サーファーの姿が。勝浦付近。安房鴨川付近。安房鴨川駅10:54着。「普通列車」安房鴨川駅10:59発。遠くに海が。停まって電...JR蘇我~安房鴨川~館山~蘇我。わかしお3号。B.B.BASE。「館山・渚の博物館」。「南房総やまと寿司館山本店」。

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    「大雪(たいせつ)」。二十四節気の21番目12月7日〜12月21日頃。大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。七十二候では、初候 12月7日〜12月10日頃閉塞成冬そらさむくふゆとなる天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。次候 12月11日〜12月15日頃熊蟄穴くまあなにこもる熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。ところが、今年は!クマ被害人数11月までに211人で過去最多冬眠時...a

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。「芥川荘」。「芥川龍之介文学碑」・「小高倉之助歌碑」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

    「一宮館」本館の裏手にあります。芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。(「解説板」より)一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。「芥川荘」。「芥川龍之介文学碑」・「小高倉之助歌碑」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。「芥川龍之介愛の碑」。「黄塵碑」。「延宝地震の再来想定津波高」。「一宮海岸海水浴場」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

    丘の上から海岸を望む。今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。(「TBSテレビ2023年4月3日(月)10:26」より)広場には、「芥川龍之介愛の碑」。芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。当時彼は吉田弥生という女性に初恋し激しい相愛の仲になったものの養家(彼の母の実家)芥川家が士族吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。彼の親友堀内利器...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。「芥川龍之介愛の碑」。「黄塵碑」。「延宝地震の再来想定津波高」。「一宮海岸海水浴場」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。農免道路。平沼騏一郎別荘跡。釣り人。ペリカン。「一宮庵」。「一宮館」。九十九里浜・一宮海岸。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

    「農免道路」という標識が。農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。農免道路。平沼騏一郎別荘跡。釣り人。ペリカン。「一宮庵」。「一宮館」。九十九里浜・一宮海岸。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。引込線。風船爆弾打ち上げ基地跡。直線道路。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

    「上総一ノ宮駅」東口。駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。「大原」への道筋を確認。一宮町のマンホール。町の木「クロマツ」と太平洋の荒波をデザイン。駅東口からの海岸への直線道路を進みます。実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。↓。(「今昔マップ」より)■「奇妙な気球が空に消えた」昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だっ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。引込線。風船爆弾打ち上げ基地跡。直線道路。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。一宮・街並み。玉前神社。御菓子司角八本店・ほしみや・一宮酒場 がけっぷち! 。「梅一輪」。駅構内デザイン。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

    新旧の建物が続く街並み。バス停「鳥居前」。赤茶け、字がかすれた標識。この路線のバス停は、ほとんどこういう状態。バス停名のもとになった「玉前神社」が右手奥にあります。「御菓子司角八本店」。千葉一宮の御菓子司角八本店は江戸寛政年間、玉前神社の門前、一宮城の城下として栄えた上総之国一宮に生まれました。(この項、「同」HPより)参道には、明治時代に建てられた土蔵造りの蔵をリノベーションしたカフェ「赤七屋」さんがあり、旬の食材のシロップをかけたかき氷と、静岡おでんを主に販売しています。玉前神社や一宮城跡を見て回るのが、本来。しかし、海岸の方に向かいたいので、ここからいったん上総一ノ宮駅に寄り、休憩します。右が創作居酒屋「ほしみや」。古民家を改造。料理は名物・ほしみやメンチを中心に多彩。お酒はワインを中心にご用意して...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。一宮・街並み。玉前神社。御菓子司角八本店・ほしみや・一宮酒場がけっぷち!。「梅一輪」。駅構内デザイン。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。バビアナ。長生村から一宮町へ。宮原・旧道。一宮橋。海抜5.0㍍。東の大磯。風船爆弾。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

    田畑が広がる。庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よ...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。バビアナ。長生村から一宮町へ。宮原・旧道。一宮橋。海抜5.0㍍。東の大磯。風船爆弾。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。旧道・竹藪。長生村マンホール・鶴と亀・九十九里浜。八積(やつみ)。コスモス畑。槇。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

    左に入る旧道。住宅が続く。長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀をデザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。(「」より)実にめでたい絵柄です。左に竹藪が。藪の向こうに、病院の看板。「南洲会長生クリニック」。まさか「藪医者」というわけではないでしょうが。駐車場には車がたくさん。※松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が1706年に編んだ『風俗文選』では、汶村による『藪醫者ノ解』において、「養父」(やぶ)が語源とする説が述べられている。それによると、但馬国の養父に住んでいたという評判の名医が語源であり、本来は名医を指す言葉であったという。現在の養父に当たる兵庫県養父市は、その名声を悪用して「養父医者の弟子」を騙る者が現...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。旧道・竹藪。長生村マンホール・鶴と亀・九十九里浜。八積(やつみ)。コスモス畑。槇。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

  • 本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

    11月25日(土)午後。晴れ。それぞれネーミングがすてきです。イチョウもすっかり黄ばみ、足元には落ち葉が。枯れすすき。初冬の陽光に映えるカエデ。・・・ということで、もう少し冬支度が始まる頃に訪問する予定です。本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。長生村~長生きのまち~? 七井土。鵜沼堰。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

    「長生村」に入ります。「房総横断道路」。長生村(ちょうせいむら)長生村は、千葉県の房総半島九十九里浜に面し、東京から約60キロ、千葉市から約30キロの距離にあり、昭和28年11月3日に八積村、高根村、一松村の3カ村が合併して誕生しました。現在の村域は、東西7.4キロ、南北6.0キロで、面積は28.25平方キロ。太平洋の黒潮による影響を受けて、年間を通して温暖な気候です。交通は、西部から南部にかけて国道128号とJR外房線が縦貫しており、村内には八積駅があります。千葉駅までは普通電車で約45分、東京駅までは茂原駅からの特急利用で約1時間と、周辺都市への利便性に恵まれた距離にあります。産業は、温暖な気候と平たんな地形を活用して、稲作や野菜栽培、酪農などのほか、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきましたが、...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。長生村~長生きのまち~?七井土。鵜沼堰。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

  • JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。国道128号・房総横断道路。野巻戸。大多喜ガス。落合橋。「農水・両総」。明治時代と変わらない現在の道筋。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

    茂原駅。右にモニュメント。11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。降りたとたん、強い風が。雲行きも怪しい。果たして「上総一ノ宮駅」まで歩けるか?本来なら前回のところまで戻って歩くのですが、旧市街地歩きをショートカットし、駅正面の広い道を進みます。※茂原という地名は、平安時代に藤原黒麻呂(貴族)によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来しているとされ、字の通り湿地が多く「藻原」が、江戸時代に現在の「茂原」という文字に変わったと言われている。北西にある「藻原寺」は、「そうげんじ」と読みます。「房総横断道路」との標示。ここを左折します。「国道128号」となっています。しばらく行くと、「野巻戸」交差点。野馬の放牧場があったのか?正面の大きな建物は、ソニー、東芝、日立が中・小型のLCDの事業を統合したジャパンディスプレイ(...JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。国道128号・房総横断道路。野巻戸。大多喜ガス。落合橋。「農水・両総」。明治時代と変わらない現在の道筋。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

  • JR外房線「大網」~「茂原」。その7。「高師」。外房線をくぐる。「高師」交差点。茂原七夕まつり。ガス灯。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

    「茂原高師郵便局」。右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。しばらく住宅地が続く。茂原市のマンホール。市の木ツツジの花、三輪をデザイン。別のマンホール。茂原市の頭文字「も」を図案化した市章を中央に配した規格型。県立長生高校。長生高校は、茂原市にある公立の高校です。通称は、「長高」。県内ではトップレベルの進学校で、全日制は「普通科」「理数科」、定時制は「普通科」があります。文部科学省よりSSHに指定され、理数科のSSHコースは独自カリキュラムを設けています。約9割が大学進学し、「早稲田大学」「慶應大学」「上智大学」「千葉大学」の実績があり、「東京大学」合格の実績もあります。部活動においては、運動系、文科系ともに熱心に活動しています。文化祭をはじめ生徒の自主性に任せた行事が多くあり、生徒間の絆が深いです。海外か...JR外房線「大網」~「茂原」。その7。「高師」。外房線をくぐる。「高師」交差点。茂原七夕まつり。ガス灯。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

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