39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
62.情報の中の「実」 ここで、我々が扱う「情報」について、日ごろ経験していることを取り上げてみます。それで、「名を正す」ということについて、別の角度からみることにします。 今、SNSで、誰かが無責任に上げた「情報」をそのまま拡散することで、社会の混乱
61.己の中の「名を正す」 ここで、最初に「行動」と「意識」と「深層」と分けての分析の話をしました。その際、「意識」というのは「あたまに浮かぶ」ことで、「深層」はそれが湧き出てくるとこを指すと言いました。それが何かは、それぞれが「自分」に問いかけることで
60.「教え込み」で「名を正す」ことができるか? 孔子が社会を調えるためには、まず「名を正す」こと、と言ったのは、「ことば」の乱れが、社会の混乱の根本原因だという認識があったからで、それを正すには、「名」と「実」の関係を正すことだという考えなのでしょう。
59.「ことば」―「名」と「実」 「コトバ」と「意味」の結びつきの歪みがもたらす混乱で思い出すのは、「論語」での「名を正す」いうことばです。その「論語」の訳文です。 子路は孔子に向かって次のように質問した。「もしも孔子が衛国の君主に政治顧問として登用
58.「ことば」の意味をめぐる混乱 「ことば」の「意味」の違いをめぐる混乱というと、いろいろな争いが思い浮かびます。まず、思い浮かぶのか、「宗教」の教義についての、宗派同士の争いです。典型的なのが、教祖が残した「コトバ」をめぐっての解釈の違いです。それ
57.「説明のコトバ」での確かめ 前回、「ことば」の「本来の意味」の確かめに、「説明のコトバ」の再現で済ませることが多い、と述べました。それはどういうことかというと、例えば、その「ことば」の「意味」として、「辞書にある説明」を記憶させ、それをそのまま答
56.「本来の意味」の確かめ 我々が、「簡単なコトバ」を使用して、「深層」に潜む自分の中の「複雑なはたらき」を駆使する、その例として「動作」や「思考」の「ことば」の「極意」を取り上げました。 そして、その「ことば」の「極意」が同じ「コトバ」を使うだけで
55.「本来の意味」の伝達過程 「ことば」による伝達は、その「ことば」の持つ「本来の意味」の伝達がなされなければ、話者の目的が果たされたとはいえないわけですが、問題はそれが難いことです。 「意味」の伝達という言い方をしましたが、厳密にいうと、その「意味
54.難解な宗教用語とか科学の用語 「極意」には、「奥義」という意味もあります。「奥義」とは「奥深い意味」ですから、「深層」に潜んだ重要な「意味」を表すと言えるでしょう。 そこで、それが正しく形成されているとすれば、その使用によって的確な結果を意識化
53.「思考」とその「極意」 「深層」に形成された「複雑なはたらきの組み合わせ」が生み出す「意味」を簡単な「コトバ」と結び付けて、その複雑なはたらきを統制するということについて、いわゆる「極意」とされる「動作」を例に取り上げましたが、そもそも「極意」の辞
52.極意-複雑なはたらきを簡単な「コトバ」に集約する 今までは、「ことば」について、「リンゴ」という「個物」を例に取り上げてきましたが、我々は、実際には、より複雑な「ことば」を使用しています。 「ことば」の使い方として、「思考」に使う「コトバ」をその
51.「理解」の壁を超える 何かの「ことば」を知る機会に、その「ことば」についての説明があると、それについて、「解った」と納得するか、「良く解らない」と納得しないか、真剣に考える時もありますが、いつもそうかというと、あまり深く考えず、そのまま受け入れるこ
50.コトバと意味の関係を自分で正す 人が、外から「教えられる」ことで、自分の中の「ことば」を形成するとしますと、その受け止め方では、「コトバ」と「意味」の結びつきに歪みをもって形成されることになります。それには、もともと「教える」方の「ことば」がそも
49.「思考」を「表現」に換えるとは? 仏教で、「月を指せば指を認む」という言葉があります。《「楞厳 (りょうごん) 経」から》月を示そうと指さしても、肝心の月を見ないで指を見る。道理を説き聞かせるのに、本旨を理解しないで、文字や言葉の端々にばかりこだわ
48.使用の用途と意味 人は、自分の中に「ことば」、つまり、「コトバ」と「意味」、「コトバ」と「コトバ」、「意味」と「意味」の結びつきを形成します。 しかし、それが適切なものでしょうか。我々は、それを日々使用するなかで、それが不適当だと思わされる経験を
47.つながりによる想起―連想と検索 普通の言い方だと、「あたまに浮かぶ」ということになるのでしょうが、漢語でいうと「意識化」とか「想起」とかいうことになるのでしょう。そこで、その「想起」と「ことば」との関りについて、「コトバ」と「イメージ」に分けてみる
45.「知識」の形成と外との関わり 「ことば」について、まず、それが「コトバ」と「意味」が結びついて「深層」に蓄えられる形成過程があり、それを前提に、それが外からの「コトバ」の刺激で「活性化」し、その一部が「意識化」されるといった使用過程があり、それぞれ
44.「音声」に関わる機能 「エネルギーの流れ」「神経伝達の流れ」「血液の流れ」が、「聴く力」を左右するということでしたが、更にそれらを支えるものがあります。 例えば、「血液の流れ」が「養分」を運ぶということでしたが、その「養分」というもの一つをとって
42.「聴覚イメージ」を生み出すもの そこで、その「イメージ」について、それがどう形成されるか、どうはたらくか、まず「聴覚イメージ」について取り上げてみます。「聴覚イメージ」というのは、「ことば」の、「媒体」である「コトバ」も、「聴覚イメージ」でもありま
41.イメージを生み出すもの 学校とか塾とかで、「個別指導」という言葉か使われています。 そこで、それが何か、その指導者の研修内容について、取り上げました。 まず、「個別」という「個」について、それが「全体としての個」ということだとして、その「個」が
40.意味の限界-意思と操作と知識 「ことば」の「意味」を担うのが、「個」の中の様々な「はたらき」の結びつきだとすると、その「はたらき」として、まず、考えられるのが、その「イメージ」を生み出すものです。これを「個」の「内部知識」と呼ぶとします。次いで、そ
39.「意味」とは何か さて、「りんご」をという「ことば」を例に、我々の中の「ことば」の「意味」について、様々なものがあることを取り上げました。 それからすれば、それは「個」の中で「深層」から生み出されるもので、それが「物」を表す「ことば」であっても、
38.意思と意志 人が何かを欲したり、何かをしたがったりすることを「意思」と呼び、それが「意識」にあがるものを「意志」と書いて区別するとします。「意思」は、「深層」で様々な「思い」がはたらくもので、「意志」はそれが単純化されて、例えば「~したい」と「~
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39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話