「縄文ノート125播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)において、私は次のように書きました。祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬・壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。1温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」岡山空襲で焼け出された父母は、吉備津神社の「温羅」の首を埋めたとされる「御竈殿(おかまでん)」の真横の借家に疎開しており、そこで私は小学生になる前まで御釜殿から回廊(スケーターで下るとスリルがある)にかけてよく遊んでいましたが、播磨の「浦部」と吉備の「温羅...157温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」