chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
首里城の起源を探る http://syurijyou-kigen.seesaa.net/

首里城の起源について、いくつかの説に分かれている。その起源を探り埋もれた歴史の真相を明らかにしたい。

miyaken
フォロー
住所
那覇市
出身
那覇市
ブログ村参加

2008/08/05

arrow_drop_down
  • 源為朝 琉球出立の様子

    源為朝 琉球出立の様子 源為朝は尊敦誕生の数年後、帰国への思いが勃々(ぼつぼつ)としてくるのを抑えがたくなっていた。日本で武士として主君につくしてきたことを思えば、その恩を忘れれば、臣たるの道に非ずとの思いが強まり、帰郷の決心を固めていた。そのことを知った妻の真鍋樽金は大いに驚き、「何のためにこの妻子を残して帰り給うや」と云った。 為朝答えて曰く「汝が国は鉄少…

  • 琉球と沖縄 (その2)

    沖縄が 流虬(りゆうきゆう)と云われるようになったのは、天孫氏二十五世代の時、隋の煬帝(ようだい)の隋使、羽騎尉朱寛(うきいしゆかん)が初めて此の国に来た時、沖合から、この地を見ると虬龍(きゆうりゆう)(想像上の動物)が水中に浮かぶように見えたので隋人が流虬と名付けたという。 隋使の朱寛は言葉が通じなかったので、男子一人を擒(とりこ)にして帰った。 その後、数年が経過し擒にした一人の男子、…

  • 源為朝と舜天

    源為朝は保元の乱(1156年)の頃から戦国乱世の時代に大暴れした武将として、また弓の達人としても有名な大男であったと伝えられている。 身長は七尺の大男。現在のメートにすると二メートル十センチ程あったといわれている。腕は左腕の方が右腕よりも四寸程長かったというから左腕は十二〜三センチ程長かった分けである。弓は五人張りの弓(五人がかりで引く弓)、長さ七尺五寸の弓を得意に使用していたという。怪…

  • 尊敦 中山王に推戴され舜天王と称す

    尊敦 中山王に推戴され舜天王と称す 利勇は長年仕えてきた恩金松兼王を毒殺し、自らを国王と称し君臨しようとしたが、各地の按司達の動揺は広がってきた。 そのような時、浦添按司尊敦(そんとん)は二十二歳の青年であったが、逆臣利勇を誅(ちゆう)すべく兵を集めたところ、各地から応じた兵五十余騎を引き連れて、利勇の居城、首里城に向かった。 首里城では利勇の配下の者二十四人が慌…

  • 天孫氏二十五紀の系図

    天孫氏二十五紀の系図 天孫氏二十五世最後の国王は、恩金松兼王であった。当時、国王の側近として務めていた利勇の謀反によって恩金松兼王は殺害され、その王統は終わった。その時、王子として各地に配置されていた王子達の動静について、『古琉球三山由来記集』は次の通り伝えている。 恩金松兼王には十男二女がいたが、父王が逆臣利勇に滅ぼされた時、 太子の浦添王子は、豊見城間切瀬長島に逃げ…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、miyakenさんをフォローしませんか?

ハンドル名
miyakenさん
ブログタイトル
首里城の起源を探る
フォロー
首里城の起源を探る

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用