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2008/07/22

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  • ちがう「物語」

    7月31日、母の送り盆までにはあと2週間あるが、この調子なら台風もこないだろうと勝手に決めつけ墓地のそうじをする。ひとりでやるつもりだったが、妻もいっしょに来るという。そうとは口には出さないが、まかせてはおけないのだろう。さもありなん。ずっと彼女が受け持ってきた仕事である。わたしとて、ときどき手伝うことはあったが、彼女がやってきた歴史と比べれば、ないに等しい。思えば、これにかぎらず、「家のこと」はほとんど、母まかせ女房まかせにしてきた。ときおり非難めいたことを言われることはあったが、休みもほとんどないなかのたまの休みである。勘弁してほしかった。その行為自体には、この後におよんで開きなおるわけではないが、それはそれで当時のわたしとしては致し方なかったと思っている。ただ、これはまちがいだったと断言できることがある。...ちがう「物語」

  • まだまだである

    娘と同世代の女性から、3年前に『施工の神様』に載った記事を褒められた。高知大学の原教授と対談した記事である。↓↓【対談】図面通りに仕事したらいかん!「真の土木技術者」の条件とは何か?わたしへのインタビューにもとづいた記事が『施工の神様』に載ったのはつごう3回だが、じつを言うと、くだんの記事はわたしのなかでは評価が低いものだった。もちろんそれは、対談相手となってくれた原先生のせいであるはずもなく、ライターである大石氏がわるいわけでもない。ひとえにわたしのわたし自身への不満に起因した低評価である。わたしが相手をリスペクトしすぎるあまり、自分の意見をそれほど主張することがなかったため、こと「対談」という形式にかぎっていえば、なんとも「つまらない」ものになってしまった。そう思いこんでいた。ところが、くだんの女性にほめら...まだまだである

  • 先行者の務め

    熱烈な龍馬ファンだった十代のころ、わたしが好きだった逸話のひとつである。******長い刀を腰に差していた土佐藩士(檜垣直枝だという)を見た龍馬が、「そんなもんは実戦には使えん」と短い刀を見せる。それに感心したくだんの武士は、それから短刀を持つことにした。それを見た龍馬は「刀の時代は古い、これからはピストルよ」と拳銃を見せる。またまた、それに感化をうけてピストルを持つようにすると、今度は「これからはこれよ」と懐から万国公法を取り出した。******実話ではないという説もあるが、坂本龍馬の進取性をあらわすエピソードとして有名なものだから、ご存知の方も多いだろう。龍馬フリークだったわたしは、かくあらねばならぬと心に銘じていた。時が経ち、いつごろからだろうか。この話に対してちがう印象を抱くようになった。ひと言でそれを...先行者の務め

  • 3K考

    きついきたないきけん言わずと知れた「建設業の3K」である。そして、これを打破するべく国土交通省が打ち出したのが「建設業の新3K」。給与休暇希望うん、最後の「希望」を除けばわるくはない。「希望」のどこがわるいの?というそこのアナタの疑問はごもっともだ。しかし、正真正銘業界の構成員かつ生来ひねくれ者のわたしなぞは、そこに正面切って「希望」と入れられると、ただいま現在のところがまったく希望を持てない業界なのだよ、と捉えてしまい存在価値を全否定されたようで、いささか悲しくなってきてしまう。だがそれはそれ、「新3K」の内容そのものは置いておこう。ことはその内容の是非ではない。そもそも、わざわざ「新」という前置きをつけて「現3K」に対抗させようという前提には、「現」がよろしくない状況であるという認識がなければならない。そう...3K考

  • 問題に向き合うとは

    きのう某SNSに知人がアップしていた言葉。「問題に向き合うとは、自分が問題の一部と自覚すること、自分と問題の関わりを見つけることです。」ネタ元は『組織が変わる――行き詰まりから一歩抜け出す対話の方法2on2』という本で、書いたのは宇田川元一氏だという。あれ?どこかで見たことがある名前だぞ、と検索してみるとなんのことはない。読みかけていた本、『他者と働く――「わかりあえなさ」から始める組織論』の著者だった。という、あいも変わらずのマヌケぶりはさておき、この言葉、じつに的を射ているなと感心した。そして、そうとは認識できていない(であろう)人たちの顔が思い浮かんだ。人間は否でも応でも関係性のなかにあり、関係性のなかで生きている。というのは年端もいかない子どもでもないかぎり自明の理であり、異を唱える人はまずいないだろう...問題に向き合うとは

  • 東京オリンピック雑感

    当ブログでも表明したことがあるように、ビフォーコロナのころより東京オリンピック反対論者である。そこへ持ってきてこのコロナ禍の中での開催だ。おまけに、遊びに来ていた娘や姪に付き合って見た開会式が、あらゆる意味で予想をはるかに上回る低レベルかつ醜悪で、腹立たしいやら情けないやらの気持ちがないまぜになったその夜、しばらく寝つけなかったという初日を体験した。100%予想が当たったこともある。すっかりテレビの前が指定席になったことである。もちろん競技観戦のためだ。どこかの誰かさんの目論見どおりに乗せられている「馬鹿な国民」のひとりなのかもしれないが、元々が人一倍スポーツ観戦大好きなわたしだもの、この機会を知らんふりできるはずがない。かくなるうえは、ふだんどおりに、要らぬことは考えず、各選手のプレーと勝敗に一喜一憂しようと...東京オリンピック雑感

  • だろ? ~ モネの庭から(その432)

    「わー!おしゃれ!!」「うん、いいね」語らいながら歩く若い男女とすれちがい口をついて出かけた言葉を声には出さず独りニヤける。「だろ?」だろ?~モネの庭から(その432)

  • 愛だろ愛っ

    たしかこんなふうに言ったはずだ。わたしが発した「もっとも重要なのは感性」という言葉のその「感性」というワードで場が盛りあがっていたときにである。「被写体の心に寄りそうことができるかどうか」「それに自分の心を動かすことができるかどうか」「それらを自分自身が受けとめることができるかどうか」そんなこんなをひっくるめて、わたしは「被写体のどこに共感するか」とメモした。ひょっとしたら「被写体」という言葉は使っていなかったのかもしれない。いやたぶん、使ってはいなかったと思う。約3ヶ月前、おなじ人と交わした問答を思いだした。質問者はわたしである。******Q:たとえば100枚の写真を撮ったとする。そのうち1枚を選ぶ。ちなみにわたしは、「写真を撮る」ということはこの選択という行為までを含んでいると思っている。これだ、と思った...愛だろ愛っ

  • 再スタート

    このブログをはじめたのは2008年の6月末だから、数えて13年と1ヶ月。なのに「12年」と書いてしまったきのう(今朝訂正したので残念ながら痕跡は残っておりません)。21マイナス8イコール13という小学校2年生ぐらいで教わりそうな引き算ができないのだからこれはもうナニヲカイワンヤ、ナンモイエネエ。いやはや歳はとりたくないものだとアタマを掻き、そりゃ加齢のせいじゃなくて元からだろうよ、と言われそうな気がしてまたアタマを掻く朝、かねてより考えていたことを実行に移した。Twitter(https://twitter.com/isobegumi)の復活である。ネタとしては「現場情報ブログ」のリンクとInstagram-@isobegumiに投稿している現場ではたらく人たちの写真、そして、わたしの個人アカウントInstag...再スタート

  • ブログを書く日々

    「ミヤウチさんのブログめっちゃおもしろい、ってダンナが言ってました」という彼女は長女より一歳年上。ガキのころからの顔見知りだ。だがそれにしても、本当に「おもしろい」か?訝しげな顔を向け「現場情報?」と問いかけると「そうですそうです。現場のブログ」返答を聞き納得。そりゃそうだ。このブログを「おもしろい」と感じる人がいたとしたら、よほどの変わり者である。「ありがとう、って伝えちょって」言いながら、もちろんわるい気はしない。じつは当ブログ、今年に入りアクセスダウンが半端ではない。全盛期はコンスタントに1日800以上の人が訪れてくれていたのが、今では3分の1近くに落ちこんでしまい、低値安定のまま数ヶ月が経った。アクセス数が目的でやっているわけではないが、それはそれでひとつの指標ではある。あまり気分がよいものではない。一...ブログを書く日々

  • 自分以外の他者が自分を必要としており、自分が必要とされていることを引き受けるということで、ひとは大人になるのではないかと思う。(平川克美)

    さてなにを書こうか、と思案して、なにも書くことが思い浮かばないので「下書き」をのぞいてみると、数ヶ月前に次のような引用文だけが記されていたものがあった。******確かに、大人とは齢を経ただけの人間のことでもないし、自分で自分を大人だと思っているものを指すのでもない。では、どのような人間が大人であるのか。おそらくは、自分以外の他者が自分を必要としており、自分が必要とされていることを引き受けるということで、ひとは大人になるのではないかと思う。わたしにとって大人とは、端的に、自分以外のもののために生きることを引き受けた人間のことを言う。(『路地裏で考える』平川克美、P.089)******どういってシチュエーションでこれを書き記したのかについての記憶はまったくない。だが、いくつか思い当たる節がないではない。その理由...自分以外の他者が自分を必要としており、自分が必要とされていることを引き受けるということで、ひとは大人になるのではないかと思う。(平川克美)

  • トレーニング

    先日、『北川村ゆず新聞』の取材を受けた。太鼓打ちとしてである。なんでも、近々発行の最新号で取りあげてくれるらしい。取材中、「腕の筋肉、すごいですよね」と言われ、思わず腕を引っ込めようとしたが、隠すところがない。「いやあ、すっかり落ちてしまって」と言ったあと、言葉を飲みこんだ。恥ずかしかったのである。数年前なら、隆々とまではいかなくとも、胸をはって太鼓打ちでございと言えるだけの筋肉だった。だが、それも今はむかし・・・今さら筋肉を肥大させようとも思わないが、これ以下にはしたくない。太鼓打ちの筋肉は太鼓を打つことでつける。あるいは維持する。それがイチバンである。かつて、大太鼓を打つため、あるいは大太鼓を打つ自分を見せるために、マシンを使った筋トレに励んだわたしが言うのもなんだが、結局、行きついた結論はそこだった。だが...トレーニング

  • 机とは******事務、読書などを行う台形の家具で、甲板(こういた)と脚および引出しからできている。古くから台の用途にはテーブルが使われていた。今日の事務用机のような形ができあがった歴史は、ごく新しいことである。(『日本大百科全書』)******1本を読み、字を書き、また仕事をするために使う台。ふづくえ。「―に向かう」2飲食物を盛った器をのせる台。食卓。(『デジタル大辞泉』)******いま目の前に“机“がある。この“机“が確かに机であると確証されるのは、〈私〉がそこに向かい何かを書いてみる(あるいはそこでものを食べたり)という行為を通じてのみである。さらに、もし人間が書いたり、座ったり、食事をしたりという“関心“をそもそも持たないならば、およそ机というものは存在しない。机とは、人間の“そこで書いたり食べたりす...机

  • カメラ図式とリトマス図式 〜竹田青嗣『現象学入門』より〜

    ドローンを落とした。焦るわたしに、だいじょうぶ夢だ、目を覚ませば消える、と諭しかけてくれたのは、夢を見ているわたしと同じわたしだ。ということで4時10分前に起床。本日も読了した『現象学入門』(竹田青嗣)を紐解いてみる。「月面探査船」のあと、竹田青嗣さんは、「人間の存在と事物世界の関係」すなわち「心とものの関係」を、「カメラ図式とリトマス図式」という説明で明らかにしている。まず「カメラ図式」。つまり、「人間の〈意識〉(=心)」は、現実をどのようにとらえているかというと、カメラのように「ありのまま」を写しとっているのだという発想。これが「近代認識論の〈主観ー客観〉図式の基本モデル」。これに対して、「現象学ー存在論(フッサールーハイデガー)の人間とものとの関係」は、リトマス図式であるというのが竹田氏の主張だ。****...カメラ図式とリトマス図式〜竹田青嗣『現象学入門』より〜

  • 朝の体操

    近ごろ、眠りにつくのが早い。ところがそれで、睡眠時間がたっぷりととれるかというと、どうもそうではないようで、一時間早く寝るとすると、おおむね一時間早く起きてしまう。やれやれどうにもしようがないな。笑いながら目ざめ、時計をながめて、出社までに残された時間を確認。ならば、と書くことにした。ーーーーーー「超越論的立場」とかけて「窓のない月面探査船」と解く。と竹田青嗣さんは言う。いや実際は、そのとおりに言ってもないし書いてもいない。喩えるならばそのようなものだということだ。想像してほしい。月面探査船には窓がない。そして、アンテナやレーダーやソナーなどの計器が装備されている。そこに乗りこんでいる「私」はけっして外には出られない。つまり、「外側」を直接確認することができない。したがって、「外」の様子は、レーダーやソナーを使...朝の体操

  • 「論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直さだけがその体験をよく生かすのだ。」(竹田青嗣)

    先日『現象学入門』(竹田青嗣)を読み終えたことを記したが、じつは、ちょっとフライングだった。巻末の「用語解説」と「あとがき」を読んでいなかったのだ。読んでみると、これがまた秀逸だった。的確かつ簡潔、そして平易な「用語解説」もそうだが(かといって理解できたかどうかは別問題だが)、特に「あとがき」のこの文章がじつにいい。******理論というと毛嫌いしたり、逆に、何でも論理の体裁をなさなければ信用できないという人もいる。しかし論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直さだけがその体験をよく生かすのだ。要するに、言葉を使って何とでも言えるという実感と、しかし論理上たしかにこう考えるほかないという実感の間を、言葉というものは生きて動いている。この振れ幅の中に、わたしたちが言葉というものに対し...「論理とは、人を好きになったりする体験と同じで、それに向き合う人間の率直さだけがその体験をよく生かすのだ。」(竹田青嗣)

  • 修業はつづく

    調子の波に浮きつ沈みつ、ときには溺れかけてあっぷあっぷしながらも、インスタグラムという海原を泳ぎつづけてはや2年半が経った。そんなInstgrum-isobegumiにお褒めの言葉をいただいたのは先日のこと。久々である。直接ではない。間接的ではあるものの、どこのどなたがそうおっしゃっていたと特定の人物を名指して伝えてくれたのだから、嘘偽りではないだろう。いわく「あれ、本当にいいの。どうやったらあんな写真が撮れるのかしら」ありがたいことこのうえない。元気百倍である。その言葉ひとつで、半年分ほどのエネルギーはいただいた。ということは、少なくとも今年末まではつづけることができる(たぶん)。繰り返す。まことにもってありがたい。その礒部組インスタグラム。あいかわらずコメントがあまりない。ココにせよ現場情報ブログにせよ、わ...修業はつづく

  • 回顧趣味ではないけれど

    先月、はじめて出会った人との会話中のことだ。先方が「失礼ですが」とわたしの年齢を訊ねてきた。昭和32年生まれだと答えると、間髪を入れず「じゃあ同世代だ。フォークですね」と返してきた。それから、ひとつ年下だと言う彼の「フォークですね」という言葉には明確な同意を示さず、もろもろの話をつづけたのだが、どうも彼はそこにこだわりがあるようで、何かにつけては「フォーク」を持ち出し、そちらに話題を持っていこうとする。「いやあじつはねぇ・・・」よせばいいのに、肝心なところで軟弱なわたしは、気がつくと、かつて自分が「フォークソング狂いのバカ息子」だったこと、その遍歴などなどを、訊かれるままに話していた。「いやあー、世が世ならいっしょにカラオケ行きたいすね」うれしそうな彼のその言葉に冷や水を浴びせるつもりはなかったが、そこでついつ...回顧趣味ではないけれど

  • 竹田青嗣『現象学入門』を読んだ

    竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を読んだ。竹田青嗣という名を教えてくれたのは、わたしの発掘者である夕部雅丈さんだ。いつどこで、という記憶はまったくないのだが、「竹田青嗣」あるいは「フッサール」という名前が彼の口、あるいは文章にたびたび登場したことは覚えている。「オレにはちょっとハードルが高そうだな」まったく読もうともせず、そう決めつけていた。ではなぜ今回チャレンジしてみようかと思ったかといえば、講談社のマンガ学術文庫『現象学の理念』(須賀原洋行)を読んだのがキッカケである。現象学か・・ちょいと噛じってみたくなった。さてどれがいいのか・・・物色しているとき、目に飛び込んできたのが「竹田青嗣」という文字である。一も二もない。ポチッと購入した。電子書籍ではない。紙である。ここはやはり紙だろう。という内なる声に...竹田青嗣『現象学入門』を読んだ

  • バトル・オブ・ザ・ダークサイド

    わたしにはダークサイドとサニーサイドがある。人間というものは誰しもそうだよ、というそこのアナタは、わたしの「黒さ」をご存じない。たしかに多くの人が両方の側面を持っているのだろうが、わたしはことさらに「黒い」部分が占める割合が大きい。そしてそれを極力出さぬように努めている。わたしの後半生は、暗黒面とのたたかいであり、それを出さぬ術(すべ)を身につけようと足掻いてきた歴史であったといっても、けして言い過ぎではない。それについては、自分で言うのも口はばったいが(じゃあ言うなよ)(いや言う)、けっこうがんばってきたと自負している(あぁあ、言っちゃった)。そんなものであるから、たまにはあえて「黒みやうち」にも栄養を与え、精神の平衡を保ったりもしている。そう考えれば、「黒い」わたしはたたかう相手ではなく、共存していくパート...バトル・オブ・ザ・ダークサイド

  • 災害対応の現場を思う

    熱海の土石流災害の件について。まずもって、ありきたりの言葉で申しわけないが、亡くなった方のご冥福を祈るとともに、被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げたい。衝撃的な映像ではあった。なぜそうなったのか?なにが原因なのか?その疑問は、この仕事にたずさわる人間として当然持つものであり、ましてや、わたしのような「土」や「山」にかかわることを多くしてきた技術屋であれば、土石流、頂部に盛土、とくれば、その原因を知りたい探りたいのはやまやま。いわば土木屋の性(さが)である。早急にそれを調べようとすることを否定することはできない。一方、なにをさておき「わかろうとする」指向を持つマスメディアは、それと同時に、「わかった」ことを「伝える」ことを商売としている。その矛先が、ほぼ例外なしに犯人探しに向かうのは、現代日本のマスコミが持つ...災害対応の現場を思う

  • ピタゴラスの定理は美しいか

    少し前に読んだ『現象学の理念』(須賀原洋行、講談社まんが学術文庫)に、こんな場面があった。まず、居酒屋「絵歩形(エポケー)」のカウンターに座る男女の会話である。「文章や音楽ならわかるけど、数式で感動する?」「するわよ。オイラーの等式とかどれだけ美しいか・・・」「おれには理解できん・・・」「じゃあこれならわかる?」女がスケッチブックに描いたのがこれ。ご存知、ピタゴラスの定理である。当然、男のほうはこれを見せられただけでは心が動かない。すると女は、「こう表現したらどう感じる?」別の図形を描いた。じっとこの図形を見つめている男に対して、女の心の声。「これがわからないバカなら別れよう・・・」と、男が気づいた。「あ、そうか!どっちも三角形の部分が4個ずつで、残りがc×cの正方形とa×a+b×bの正方形の合計」これを読んで...ピタゴラスの定理は美しいか

  • 視る、判断する、撮る 〜 モネの庭から(その431)

    睡蓮を撮るのはむずかしい。そこに現実としてある花や池のほうが、カメラに収められたそれよりも数段よいからだ。原因ははっきりとしている。ウデが不足しているのである。そうとしか言いようがない。とはいえ、それを解消するための「何か」を行うほどの向上心を持ち合わせているわけではない。いつになっても幾つになっても、出たとこ勝負の感性勝負。それで、上手く撮れただの撮れなかっただのと一喜一憂しているのだから、それほどの上達が望めるはずはない。なかでも「赤」は、ことさらむずかしい。「よく撮れた」と思えるのが一割ほどあるだろうか。いやまちがいなくそれほどにもならないはずだ。だからなおさら、上手く撮れたと思える瞬間がたまらない。あとになって見返してみると、それほどでもなかったというのがほとんどではあるが、その「やったー」とその「がっ...視る、判断する、撮る〜モネの庭から(その431)

  • 2021年夏 〜 モネの庭から(その430)

    「青い花」が池で咲いているのを見ると、わたしの夏がはじまる。もちろんそれは「ような気がする」という気持ちの問題にすぎないが、「ような気がする」という気持ちの問題をあだやおろそかにしてはならない。モネの庭から2021年夏。青い睡蓮が咲いた。2021年夏〜モネの庭から(その430)

  • 剃髪記念日

    そのアタマいいねと妻が言ったから7月1日剃髪記念日。2016年7月1日。わたしがスキンヘッドにした日である。いやいや、まさかそのようなことを記録しているわけではない。Facebookが「この日の思い出を見る」機能で教えてくれたことである。「たった5年?」ずいぶん昔からこのアタマだったような気になっているわたしは、その期間の短さにビックリした。といっても、それまでの五厘刈りがゼロミリになっただけであり、他人さまからしてみれば「いったいそれのどこがどうちがうのか?」という程度の変化でしかなかったのかもしれないが、とにもかくにも5年前、わたしはスキンヘッドになった。記憶をたどると、最初にボウズアタマとなったのは、それにさかのぼること13年前。そのときはまだ、顔部と髪部とにはあきらかな境界が確認できた。それ以来、一度も...剃髪記念日

  • 桜木紫乃『おばんでございます』を読む

    「ためにする読書」を数ヶ月にわたってつづけてきた。そんななか、就寝前のたのしみに、ちびりちびりと読んでいたのが桜木紫乃のエッセー集『おばんでございます』。あぁあ、終わってもうた。残念の余韻を引きずりながら読了。******じくじくと後で悩んでみせるのも、ずるさのひとつだろう。ずるいオトナになっちまったな、と自嘲するのもまたずるさ。結局オイラこんな人間なのさ、と開き直るのは名乗るより恥ずかしいもんだなあ。(P.070)******紫乃さんにそう言われると、「いったいオレは“ずるさ“を何乗して生きてきたのだろうか」と、思わず我とわが身をふりかえり、可笑しくて仕方がない。だが、不思議と「恥ずかしい」という感覚が起きてこないのは、それだけ面の皮が厚くなったということの証か。どれどれお次は・・・Amazonで紫乃さんのエ...桜木紫乃『おばんでございます』を読む

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