中村藤吉本店はこの地で1854年に創業した茶商です。建物は明治中期のものですが茶製造の機械化等を経て内部は改修されてきたようです。建物奥の逆三角形の黒い出っ張りは「拝見窓」と言い、北側の安定した光を取り入れ、茶葉や茶の色を見極めていたそうです。わが家の中村藤
初めてなのに懐かしい。そんな古い町や家が好きです。
苔むした瓦屋根、磨き抜かれた格子戸、さり気なく置かれた自転車、つい覗いてみたくなるような老舗のたたずまい。 風情ある町や家は、長い時間の経過と、そこに住む人々の日々の営みによって、創りだされるのでしょう。 初めてなのに懐かしい。「ひろしのあの町あの家」は、各地で見つけた心ひかれる家々や風景を描いた水彩画です。
正面奥の林の中にぼんやり見えのが、湯布院御三家の一つ「由布院玉の湯」です。ちょうど車の客が帰るところで、男女2人の従業員が丁寧なお見送り。車がこの道を走り去っても頭を下げ続けていました。このお見送りを見届けてから、絵の左手にある「由府両築」の向こう隣の共
昼食は、混雑した店に入る気にもならず、スーパーでサンドイッチと飲み物を買い、店の前に見えた大きな公園で食べました。この公園の名は湯布院中央児童公園、昔の児童たちがゲートボールをしていました。その奥に見えるのは隈研吾設計の焼杉の壁の現代美術館。壁の向こうに
金鱗湖畔の亀の井別荘の駐車場です。高級車を描きたいわけではなく、描きたかったのは塀の向こうにある建物、それも屋根瓦です。落ち葉で埋もれていますが、丸瓦の本瓦葺きです。京都や奈良の古い寺院や家では良く見られますが、湯布院で見られるとは、ちょっと驚き。さすが
鉄輪温泉の絵が終わり、今日から湯布院です。別府駅から亀の井バスで朝8時半に湯布院に到着。湯布院で見たいと思っていたのは田園風景です。観光客の多いメインストリートから外れ大分川を土手沿いに下りました。大分川は由布岳に源を発し、大分市から別府湾に注ぐ一級河川
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中村藤吉本店はこの地で1854年に創業した茶商です。建物は明治中期のものですが茶製造の機械化等を経て内部は改修されてきたようです。建物奥の逆三角形の黒い出っ張りは「拝見窓」と言い、北側の安定した光を取り入れ、茶葉や茶の色を見極めていたそうです。わが家の中村藤
南座の向かいにあるレストラン菊水です。大正5年創業の洋食の老舗。南座の幕間弁当や観劇帰りなど、南座と共にあるようなレストラン。その菊水のHPを見ていたら、藤山直美さんが安住アナの「ぴったんこカンカン」で紹介していました。菊水の社長が入った3人の会話が面白く
麩の老舗「麩嘉」さんです。麩というと袋入りの乾燥した麩を思い浮かべますが、ここは生麩。もともとは質素な精進料理だった生麩が、お茶席や料亭へと広まったそうです。今は一般客への販売より料亭への注文生産の方が多いとか。京料理には欠かせないようですね、生麩。冬の
東華菜館4階から川向うに見える南座です。桃山風の派手さに加えこの大きさ、やたら目立つ建物です。この南座は昭和4年築、修築・改築を加えながら、もうすぐ100年を迎えます。江戸時代初期から同じ場所で続けてきた劇場としては日本最古だとか。一度くらいこの南座で歌
2025年 あけましておめでとうございます宇治の通圓は3度目の挑戦です。2023年の2度目の「変わらぬ通圓」は左側からのスケッチでした。初めてのスケッチはこの絵と同じく正面からでした。今回は店がよく見えるよう障害物を取り除き、描きたいところだけを絵にしました。
先日、MMから横浜駅まで歩きました。昔は会社の帰りに関内から横浜駅までよく歩いたものです。町はいつしか新しいビルも増えています。クリスマス前だけあって、横浜美術館の前ではルイ・ヴィトンのお洒落なメリーゴーランド。乗っている人並んでいる人は、ほとんどが成人男
火災から5年、ノートルダム寺院は今月8日に一般公開を再開。前日の7日にはトランプ、ゼレンスキー会談も、さすがマクロン。「パリ・ノートルダム大聖堂展」では、創建時から2019年の火災までリアルな映像がタブレットを通して見られました。タブレット使用の展示は初体験
月島で妻は初めてもんじゃ焼きというものを食し大満足。その後、もらったマップに書いてあった「東京で最も古い交番」へ。1926年(大正15年)に建てられた交番です。誰もいません。好奇心旺盛の妻は階段を上り、正面のデスクの椅子にドーンと座りました。直後、後ろのドアか
「はにわ」を見に東博の庭に入った途端、ドーンとキティちゃんがお出迎え。表慶館の前は「Hello Kitty展」の入館待ちの大人で溢れています。ネットで見たら、開催初日は180分待ちもあったとか。サンリオの公式サイトから混雑のお詫びが出たほど。グッズの転売目的まであるで
ホテルの宿泊券を当てた妻の企画で、1泊2日の東京旅行に行ってきました。ホテルが晴海だったので1日目は日本科学未来館の「パリ・ノートルダム大聖堂展」、遅い昼食は月島でもんじゃ焼き。2日目は東博の「はにわ」。沢山の埴輪の中でも、ひろしのあの家としては、やはり
中央に立つ旗を持った像は、12世紀にベルンの町を造ったツェーリンゲン家の記念碑だそうです。兵士に見えますが鎧兜の中は熊。熊はこの町のシンボルであり、ベルンの語源であるとか。また、建物入口の手前には、緑や茶色の斜めの地下への扉が見えます。これは各地にある防
レマン湖畔にあるブドウ農家です。こちらでは普通の家なのかどうかわかりませんが、お洒落な感じがします。レマン湖の中央にスイスとフランスとの国境があり、対岸はフランスです。水彩画展でもラボー地区の絵を展示しました。斜面の上からブドウ畑と集落を見下ろし、家々の
ラボー地区の家の窓です。先週のようにブドウの木が窓に絡みついている家もあれば、このようにブドウ模様の窓格子も。畑だけでなく家もブドウと共にです。他の家にも、このような窓格子がありますが、デザインは違います。ブドウ系?窓格子作家がいるのでしょうか。世界遺産
ぼくのお祭りも終わり日常へ、次の絵は何にしよう。今回の水彩画展で海外の家々を見ていたら、懐かしく描きたくなりました。でも、コロナ以降は海外には行ってないし。あちこちの古い写真を見直して「スイスにしよう」。これはレマン湖に面したブドウ畑の広がるラボー地区に
このような挨拶文で始まる水彩画展「ひろしのあの町あの家」が昨日、大盛況のうちに終了しました。懐かしい同僚や同級生との再会、ゴルフ・太極拳仲間や多くの地元の方々と話すことができた1週間でした。心落ち着く、懐かしい、繊細など沢山のお褒めを頂き、やはり原画は力
昨日の午後、水彩画展「ひろしのあの町あの家」がオープンしました。展示の作業員はぼくと妻、応援に来てくれた妻の妹と姪の4人です。17年前の広い相鉄ギャライーの準備と同じメンバーです。みな17年分年を取りましたが。今回は天井からのワイヤーフック掛けや照明配置など高
ぼくの水彩画展が来週に迫りました。2007年4月1日、ブログ「ひろしのあの町あの家」はこの絵から始まりました。それから17年間、全国各地で多くの自然災害がありました。2011年の東日本大震災ではこの正文堂も大きな被害を受け、その後見事に修復。水彩画展でも「記念の絵」
大きな石造り倉庫に挟まれた、楽しい感じの大同倉庫です。描いていて思い出したのですが、父も倉庫の仕事をしていました。子供のぼくたちから見ても、父は笑っちゃうほど台風を怖がる人でした。それは各地の埠頭の倉庫が台風で波をかぶり、預かったタバコなどの商品をダメし
小樽駅から日銀通りを歩き始めたとき、ちょっと目に止まった建物です。小樽らしくないとは思いつつ、条件反射で写真をパチリ。これは北海道タオル株式会社、小樽で110余年にわたりタオル・手ぬぐいを製造販売しています。右手裏のトタン屋根の建物は使い込んだ作業場か?蔵の
この浪漫館は、明治41年築の旧第百十三国立銀行小樽支店です。先週の海鳴楼は、明治28年築の同銀行の小樽支店。僅か13年足らずで、小さな平屋の建物から2階建2棟に大変身。まさに明治期、小樽経済は急成長したのでしょう。ニシン漁、海運業の発達、石炭輸送のための鉄道開通
日本海をバックに赤い鳥居が連なり、外国人に人気の元乃隅神社。そこから次に向かうのは角島大橋。別に行かなくてもいいのに観光ツアーのコース。この絵はその移動中のバスから見た瞬間のお気に入り風景です。写真から、この場所を特定しようとグーグルマップのストリートビ
金子みすゞの詩は、優しい言葉の中に生きる上で大切な事がしっかり入っていると思います。そんな彼女も結婚で悲しい最期に。あの時代に、朝ドラの寅子のような弁護士がいてくれたら。復元された金子文英堂2階左側は金子みすゞの部屋。窓際には小さな机と座布団が置いてあり
菊屋の並びにある、この門の佇まいに惹かれました。「こんなお屋敷なら住んでもいいかな?でも草取りが大変か」なんて勝手な事ことを考えながら、取り合えず写真をパチリ。絵を描きながらどこが好きなのか考えました。門や土塀の瓦、苔むす基礎石の風合い、門を守るように覆
萩の旧武家屋敷には石垣が多く残っています。指月山の花崗岩、笠山の安山岩が使われ、色とりどりの石垣で描きたくなりました。左塀の下側の明るい石の層は、江戸時代の土塀の基礎だったものでしょうか。明治以降、旧藩士には屋敷内での夏ミカン栽培が奨励されました。土塀は
菊屋家は萩藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。今でもやたら大きい敷地に、絵の左から蔵造りの母屋、金蔵、米蔵などの蔵が並んでいます。他に本蔵と釜場2棟を含め、5棟が重要文化財です。菊屋家は城下の町づくりにも貢献し、藩士や足軽の家を建てことで「阿古ヶ浜
ここは昭和10年築の旧明倫小学校。萩の藩校明倫館があった場所です。吉田松陰は、藩士養成よりも、誰に何を教えるかが自由な私塾の松下村塾の方を選んだのでしょうね。この旧校舎は現在「萩・明倫学舎」として萩の観光拠点です。日本一の木造校舎は超横長の2階建が4棟も
大分県から、2023年6月に行った山口県に戻ります。これは松下村塾、何と小さい。テレビなどではよく見ますが本物は初めて。ずっとこの場所にあったというのが貴重です。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など当時無名の有名人が、ここで、うろついたり声を上
正面奥の林の中にぼんやり見えのが、湯布院御三家の一つ「由布院玉の湯」です。ちょうど車の客が帰るところで、男女2人の従業員が丁寧なお見送り。車がこの道を走り去っても頭を下げ続けていました。このお見送りを見届けてから、絵の左手にある「由府両築」の向こう隣の共
昼食は、混雑した店に入る気にもならず、スーパーでサンドイッチと飲み物を買い、店の前に見えた大きな公園で食べました。この公園の名は湯布院中央児童公園、昔の児童たちがゲートボールをしていました。その奥に見えるのは隈研吾設計の焼杉の壁の現代美術館。壁の向こうに
金鱗湖畔の亀の井別荘の駐車場です。高級車を描きたいわけではなく、描きたかったのは塀の向こうにある建物、それも屋根瓦です。落ち葉で埋もれていますが、丸瓦の本瓦葺きです。京都や奈良の古い寺院や家では良く見られますが、湯布院で見られるとは、ちょっと驚き。さすが
鉄輪温泉の絵が終わり、今日から湯布院です。別府駅から亀の井バスで朝8時半に湯布院に到着。湯布院で見たいと思っていたのは田園風景です。観光客の多いメインストリートから外れ大分川を土手沿いに下りました。大分川は由布岳に源を発し、大分市から別府湾に注ぐ一級河川
屋根瓦の写真を撮った後、ぶらり登った高台は「鉄輪湯けむり広場」。名前の通り町中から湯けむりモクモク、その向こうに別府湾。道路脇には、誰でも使える地獄窯。看板にはホウレンソウ1~2分、たまご7~8分や、タコ、エビなど10種以上の蒸し時間の表示。地元の人や湯治客
昨年12月27日UPの木造洋館をスケッチ中、話し好きのお婆さんが「これはもとは医院、その医者の家はあすこ!」と教えてくれました。医者の家に行ってみると凝った屋根瓦が面白かったので、写真をパチリ。調べると、この明治生まれの建物は平成8年まで旅館でした。壊す寸前で
ガイドブックにあった豚まんを食べながら歩いていたら、このインパクトのある暖簾が目に飛び込んできました。調べたら暖簾は造形作家 望月通陽氏の作品で、柳屋は「サリーガーデンの宿 湯治柳屋」でした。サリーガーデン?はシフォンケーキの会社。湯治?は素泊が基本。隣に
今回は、別府の変わり湯に入るのも楽しみでした。竹瓦温泉の砂湯、紺屋地獄の泥湯を体験し、ここ鉄輪温泉では蒸し湯へ。でも泥湯の直後で湯疲れ気味のぼくは、慎重を期して入るのをやめ建物だけを撮影。湯けむりが立ち上がる手前両側の部屋が蒸し湯です。床に敷き詰めた石菖
ここは紺屋地獄、保養ランドの混浴露天風呂です。濁り湯の底はヌルヌルの鉱泥、泥を手ですくい体にヌリヌリしながらの保養入浴です。絵の左は3人家族、右は60代の男性とぼく。彼の第2の人生は全国を車で旅をしながら旅館で働くリゾートバイト。初めて聞いた仕事です。た
昭和3年(1928年)に熊八さんは、地獄めぐりの遊覧バス運行のため「亀の井自動車」を設立しました。この時、女性バスガイド(少女車掌)が日本で初めて誕生し、七五調の観光案内も名物となりました。確かに、今でもバスガイドさんの独特の語り口は健在ですよね。ぼくが乗った
先週の赤いのぼり旗は、大分のソールフード「とり天」の宣伝です。とり天の発祥は、別府初のレストラン東洋軒。天皇の料理番をしていた宮本四郎氏が別府に療養に来た時、熊八さんが亀の井ホテルの初代料理長を頼みました。その後、宮本氏は独立し東洋軒を作りました。その本
亀の井バスに乗って、日本初の明礬採取の史跡・明礬地獄へ行きました。早朝バスを降りると逆光に輝く海と空、地面からは蒸気が噴きだし圧巻です。こんな景色初めてと痛く感激。さすが別府八湯!橋は九州横断道路、奥には別府湾、その右はサルで有名な高崎山です。別府湾に桟
別府に着いて、初めて入った竹瓦温泉です。全景が写真に入らないほど大きな共同浴場なので唐破風の立派な玄関を描きました。珍しい室内にある砂湯に入りました。横になると元気な女性がスコップで温かい砂をどんどんかけてきます。「どうして砂が温かいの?」ときいたら温泉