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  • オヤジのあくび279

    頑張った結果に責任がもてますか? 3 受験能力は努力した量の一部を図ることであって、努力の質を問うことができない。 つまり受験能力とは18歳時点の最大瞬間風速のようなもの。その先さらに発達するか? 急速に弱まるか? は人によりけりでよくわからない。 コツコツ努力する=いわゆる頑張ることが元々苦手で、しかもひねくれた自我の目覚めも手伝って、中学後半から高校3年の前半まで、それはまあ、ひどい成績でした。このままじゃ、大学受験どころじゃなかったはずなのですが、流石に高校3年の最後の方は少し勉強しました。自分的には最低の時間と量の範囲で要領よくこの時期を通り抜けてしまいました。 この最低限の時間と量が…

  • オヤジのあくび278

    頑張った結果に責任がもてますか? 2 あまり頑張ってこなかった話その1。ボクの場合、小学生の頃唯一社会科が好きでした。それは毎日地図帳や時刻表を擦り切れるまで読んでいたせいで、勉強した結果ではありません。サッカー少年大空つばさくんがボールは友だちと言っているのと同じ理屈です。 運動神経が弱く、そもそも身体を動かすことがあまり好きじゃない、興味関心資質に偏りがある、そんな子でした。後年小学校の先生になったのは、我ながら実に不思議です。 翼くんのように、いつもサッカーボールと戯れていれば、自然とサッカーが上手くなる。自分に寄り添ってくれるものや付き合ってくれるジャンルを探していれば、必要以上に頑張…

  • オヤジのあくび277

    頑張った結果に責任がもてますか? 1 今頑張ろうとしている人、やってみないとわからない。そりゃそうですね。 頑張れと声をかけ続けている人、保護者、指導者あるいは先輩であるあなたは頑張った結果を予想することができるかもしれません。その結果に責任がもてますか? 長いスパンで。 頑張れと言うからには、頑張れば、状況が変わるという予想を立てているからでしょう。 けれどもその前に、頑張れ! と声をかけようとしている人あるいは自分自身に対して、次のことを問い直してみませんか? その人は「頑張れ」と言って平気な人なのか? どんなことでもほどほどに頑張って成果を残せる人なんてほんの一握りに過ぎません。ほとんど…

  • オヤジのあくび276

    鈴木カツ「こだわりアメリカン・ルーツ・ミュージック事典」を読む 白状してしまうと、Facebook上で4月末ごろに連載? していた「カッコいいぜ アメリカンミュージック」のネタ本です。 もちろん大いに刺激を受けて、楽しませてもらいました。著者は茅ヶ崎市の人で、ご存知のように茅ヶ崎市は有名なミュージシャンを拝受しているのだけど、アメリカンミュージックに触れる環境が整っていたことがわかる。 ボクも茅ヶ崎の高校時代、ラーメン屋とかダイクマとかを、ぼんやりぶらぶらしていなければよかったな・・と思うけど、後のまつり。 この本の活用法は、今まで馴染みがなかったミュージシャンに触れることだった。その成果を「…

  • オヤジのあくび275

    内田樹「修業論」を読む2 我執を捨て去る! に話題が移る。意思、計画、予断をもたなければ、木偶の如く愚者の如く木鶏の如く我執を捨て去る私になることができると著者は説く。木鶏と言えば、大横綱双葉山が69連勝後に敗れた時「未だ木鶏に及ばず」と語ったエピソードが出てくるが、まぁ大変な境地です。 話は勝ち負けや強さ弱さの規準への懐疑に及び、話題はジャンピングし続けていく。だからある地点まで戻って復習のようなことを再度書き付けているのが内田樹の文の特徴だ。 その中で「無知」を学びへの根源的な衝動を妨げるものと定義づけている。著者は長い間大学の先生だったはずだが、この言葉は重い。恐らくは著者の周辺にサンプ…

  • オヤジのあくび274

    内田樹「修業論」を読む まえがきで著者は語る。努力を一種の商取引のように感じている人には修業はわかりにくい。修業して獲得されるものとは、修業を始める前には意味不明で、意味価値は事後的回顧的にしかわからないのだから。 修業とは、誰もいない自分だけの、しかもゴールのわからない未知のトラックを一人で走っているようなもの。競争相手はどこにもいない。 生業と稽古は表裏一体。著者が稽古している合気道で開発される能力のうち最も有用な力は「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」だと言う。これはわかりやすい。そして稽古を通して「集団をひとつにまとめる力」を身につけようとしているらしい。 続けて無敵とは…

  • オヤジのあくび273

    山鳥重「気づくとはどういうことか」 いのちとは? こころとは? という深い問いが第一章で語られる。こころは、脳の働きなのか? 神経網との関わりはどう説明できるのか? に著者は果敢に挑んでいらっしゃる。すると創発という言葉が出てくる。物理化学的な法則に従う神経と並行して縛りを受けながら、独自の原理に基づいてこころは働くという説明です。 鉄でできた自転車が、鉄という材料の縛り(脳神経)を受けながらも、より遠くへ速く人を運搬する(心)という原理を基に作られている・・との説明はわかりやすい。 この本の仕組みも、こころがどのような神経=脳脊髄の働きによっているか? に何度も戻りながら、こころの動きを解き…

  • オヤジのあくび272

    菅義偉「政治家の覚悟」を読む 頑固者、正義感の人、「なあなあの馴れ合い」で誤魔化すのが大嫌いな人という輪郭が浮き上がって来る。 菅さんは2世議員ではなく、横浜市会議員から国会に出て総理になった人だけど、この本では、国会議員として政務官や総務大臣を務めていた時代に、どんな課題と取り組んでいたかが、よくわかる。一度言い始めたら決して引かずにやり遂げる姿勢から、頑固さと正義感の強さを感じてしまう。 おそらく溜まったもんじゃなかったのは、近くにいた官僚でしょう。吉田茂総理や池田勇人総理の頃のように官僚を育てる大臣ではなく、官僚を使い尽くす時代に変わっていることがよくわかる。私も教員という地方公務員の端…

  • オヤジのあくび271

    肩書き・敬称としての先生 先生に限らず、社長、大臣etc、肩書きで呼ぶべき人は多い。本当は「〜さん」でもよさそうだが、格好がつかないらしい。これは、本当にその方を尊敬する信頼しているかどうかとは、別問題の場合がある。 教師という職業について言えば、いつ誰の先生になれるか? の真の意味は、ただ担任になったとか、教える立場になったではない。児童生徒保護者側の立場から、この人は自分の先生なんだ! と思えた時が先生になることができた瞬間なのであります。そこにこそ教育という仕事の醍醐味が含まれているのでしょう。 それは、偶然による出会いみたいなもの。意図的に仕組んで、そう言わせている場面があるとしたら、…

  • オヤジのあくび270

    赤瀬川原平「老人力自慢」 この本は前世紀の末に売れた「老人力」という本の続編であります。1999年ゲンペイさんは、現役引退とか定年退職後とかの機会をとらえて「これからの人生は、お金以外の価値を見つけられるかどうかにかかっているのだ」と書いている。 この本を書いたのが、ゲンペイさん1999年.62歳の時。ボクはもう物理的にはその年齢を通過してしまった。この本は、中身のかなりの部分を読者の感想=読者カードが占めていて、省エネ設計なのだけど、読者の年齢が60歳を少し過ぎたばかりで、結構老人力を意識し始めているのです。22年前の60歳と今の60歳の状態がかなり違っていることを感じます。もちろん人それぞ…

  • オヤジのあくび269

    西岡常一・小原二郎「法隆寺を支えた木」2 後半は、小原二郎先生の「木」という材料に関わる話。さまざまな分析結果が示されているが、木という生き物の仲間と共に呼吸しながら生きていく日本人の文化が大きく変化していることへ懸念を示されているように感じます。先生は木材等を生物材料と呼んでいるが、一般的に経年劣化すること他の材料と比べ、木は反対に強さを増すことがあるというのは驚きです。法隆寺のヒノキ然りなのです。 石、鉄、木・・それぞれ元々は自然界にあったもの。けれどもプラスチックは明らかに化石を元に人間が創り出した材料だ。エネルギーで言えば、原子力と似ている。元々の自然から大きく逸脱しているのだ。生物と…

  • オヤジのあくび268

    西岡常一・小原二郎「法隆寺を支えた木」1 教員退職後に木工職人を生業にしている友人がいて、私は琵琶などのメンテナンスでお世話になっている。空手の達人でありピアノは私よりずっと上手くて、子どもらと合唱するときはよくサポートしていただいた。たまに彼のお店に行くと「木は生き物だから・・」という言葉が聞かれ、本書にも通じている気がする。 西岡さんによれば、山で二千年生きた木を切り出し、建造物を支える木として第二の人生=木生? を二千年送るためには、山から切り出したあとに樹液を抜く時間が3〜10年必要なのだとおっしゃる。昔は運搬そのものに大変な時間がかかったので、それが寝かす時間となったのだろう。 この…

  • オヤジのあくび267

    村松友視「老人の極意」を読む 村松友視さんは、プロレスのエッセイで人気作家になる前は、中央公論社の編集者だった。私にとって編集者というのは、かなりクリエイティブな仕事のように感じるが、いろいろな人に会い、その人のおもしろさを見つけ、世間に紹介するというミッションを背負っている気がする。 この本では、作者が出会った老人の中でも、とびきりおもしろい人たちとの出会いを綴っている。 例えば、宮大工棟梁の西岡常一さん。曰く「鎌倉時代に入り鋸を使い始めてから、日本の建築は堕落した」そして路傍の石が何億年という時間を蔵しているのに比べれば、奈良も京都もほんの一昔前、要はそれをどう感じるか。私たちの心の中にあ…

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