雨をポジティブに考えてみる。雨を憂鬱なものからプラスイメージに変えていこう、雨が降らなかったら人間どころかあらゆる生物は絶滅するのです。 雨こそは生命の恵みであることを再認識してみる。壮大な視点で雨を見つめ直してもいいかも知れません。
田中角栄元総理は多くの敵を蹴散らして日本列島改造論を実現させたのです。こうしたアクの強い精神と強引さが無いと斬新なことは実行出来ないのです。 石破総理は、いくら田中元総理を師と仰いでも、敵を作ることを恐れていては実行は不可能となるのです。
巨大都市から地方にネットワークを逆流して地方に富をもたらすと宣言して、本当に地方を活性化させ、地方の創生を実現してしまったのが田中角栄という人物なのです。 これこそは、決断力と素早い実行力を持った田中角栄でなければ出来ないという離れ業です。
「令和の日本列島改造」のスタートアップ構想の柱とした、田中角栄元総理の「日本列島改造論」、大平正芳元総理の「田園都市構想」、竹下登元総理の「ふるさと創生」という3つの地方活性化に迫り、この構想とは一体何だったのかの概要を紹介してまいります。
地方が疲弊してしまっていることは皆が判っていること、だからこそ自分の出身である地方を豊かにして行くことこそは地方出身の政治家の夢であり拠り所のロマンとなるからです。地方の政治家にとって地方創生は、政治アピールには打って付けのものなのです。
日本列島改造とは大見得を切ったもの、田中角栄元総理の「日本列島改造論」の際は、日本列島が大激震して猫も杓子も便乗しようと大フィーバー状態となったのです。 ところが石破総理の日本列島改造は、笛吹けど踊らずでシラケムードが漂った状態なのです。
新聞屋やテレビ屋には自分たちは特別な存在だという驕りが染みついているので、不祥事が発覚しても組織の看板によってガードされるのでお咎めはないと本気で思っているのです。だから今回の中居問題もトボケてスルーしてきたというわけです。
定例会見では、何かにつけ、女性の人権や守秘義務を都合よく盾にするという姑息な展開に終始した茶番の会見そのものなのです。 とにかくフジテレビというテレビ局は恐ろしいほどのコンプライアンスに欠如した組織であることが露呈してしまったのです。
「地方暮らしはクルマがないと生活はできないは9割甘え」だって⁈⁈⁈
ネットを見たら「『地方暮らしはクルマがないと生活はできないは9割甘え・自転車があればなんとかなる』という投稿がネット上で炎上して物議を醸しています。」という記事を発見。 そんなのは、私の本を読んでくれれば一発で理解出来ることなのになあ!
トランプ大統領の電光石火の動きに対して、リベラルは冷静を装って、呆れ返った物言いで皮肉たっぷりの嫌味で切り返していますが、内心は屈辱の敗北感に満たされた状態なのです。 それはどれも的を得たものなので、切り崩すトピックネタもないからです。
デンマークもグリーンランド自治政府も当然、売ることはしないが、連携を模索しだしたのです。トランプ大統領は相手を確実に自分の陣中に引っ張り込んでいるのです。 これこそはビジネスに精通したトランプ大統領の本音であり狙いだったのです。
トランプ大統領の就任式企画「プレッシャーオンチャイナ トランプパフォーマンス」
カナダの関税、パナマ運河、グリーンランドにWHOとアクロバットのようなエキセントリックの数々を展開する政治パフォーマンスぶり、お判りの通り、これらの全ては就任前に中国に対してプレッシャーを与える用意周到なトランプパフォーマンスなのです。
トランプ氏の注目度が物凄い、これはバイデン民主党政権に対する大いなる失望からくるもので、それだけトランプ氏には大きな変革の予感と期待感が予測されるので目が離せない状態となっているのです。世界中が強いアメリカの存在を求めている現れなのです。
子供の場合、吸収力の能力や好奇心などが発達していることで、育った地での環境適応力はとても高く幼少期に様々な知恵や力が身につくものなのです。 サバイバルや耐乏を克服する自給自足生活を送ると子供は親の背中を見て育つという典型となるのです。
二人の娘さんが通う学校は歩いて3時間の場所にあるので、子供の登校は奥様がクルマで送り迎いをするそうで、これだけ聞いただけでもビックリもの、それにしても、気になるのが子供たちの将来展望が描けていない様子がひしひしと伝わってきてしまうのです。
今の田舎は都心からの便利の導入によって生活状況は大きく様変わりしてしまい、自給自足の習慣はほぼ消え去ってしまったのです。 しかしながら、自給自足を忘れてしまい、年寄りだらけの限界集落となった田舎の姿も哀れそのものなってしまうというわけです。
現代版の自給自足には定義を主張するものがないことで軽く扱われてしまう傾向があるのです。自給自足は「行動の実益によって生きる為の知恵を身に付ける」ことが最大のテーマなので、即ち自給自足の体験こそは学びということになるので教育の一環なのでした。
自給自足生活は体力勝負、年寄りの場合、始めの内は気分爽快であった薪割りの作業も季節の変わり目と共に苦痛のものとなって行くのです。ハード感が増すものは、健康寿命の問題もあり時間が限られてしまうので、自己満足できる期間も非常に短くなるのです。
人の出入りが多い伊豆大島や八丈島、佐渡ヶ島あたりだったら、人口も多く島の面積も広いので、事前に役所などに自給自足のライフワークを伝えておけばトラブルケースは回避出来ることでしょう。それより小さい島だと土着性が強いので軋轢を生んでしまいます。
今の自給自足は完全なる自己満足、自己責任のものなので自給自足を実践するのも自分たちの工夫次第ということなのです。そうしたことで、半自給自足生活や野菜の収穫などの一部だけの臨機応変の自給自足がトレンドと化しているというわけなのです。
何と言っても自給自足の場合、真冬となると冬の間は寒さとの戦いとなるので、その生活ぶりを見せるのは不味いとなり、さすがのバラエティー番組でも冬季の生活模様となると負の側面ばかりがクローズアップされてしまうことで殆ど取り上げないのです。
自給自足を実践するには、住む家と農地を確保から始まり、軽トラや耕運機、農機具の備品と家畜などの購入、そして種や肥料の仕入れから農薬などの購入、食料品の買い出しなど、自給自足の土台を整えるだけで、お金は飛ぶように出て行ってしまうのです。
日本の国土面積は、3,780万haで、国土の割合からしたら世界でも有数の森林国家だからです。 これだけ森林地帯が多いということは、森の恵みによって様々な捕食動物たちが生息していることで自給自足で食いっぱぐれがないほどの状態だったのです。
現代テクノロジーを運用した自給自足とは、現代社会の文明の利器を運用した半機械仕掛けのテクノロジーの自給自足なので、文明の利器であるライフラインを利用しながら、分業、合体させて効率化している人が殆どなので、昔の自給自足とはまるで違うのです。
そもそも、田舎の人は嫌が上でも自給自足の生活を余儀なくされてきた人たちなのです。 対する都会人はヒューマニズムなどの自然回帰などで自給自足に憧れを持った人たちというわけで、都会人が思う自給自足は田舎の人とは波長が全く合わないのです。
ここをターザン生活が送れるような秘境と紹介するのもかなりの無理があるというわけです。 確かに松田町は森林地帯に入ると手つかずの希少価値の自然巡りが出来る地域ではありますが、決して自由気ままな秘境生活を送れるという場所ではないからです。
石破総理は、「ふるさと創生事業」を主導した竹下総理がばら撒きの内情を明かした「ばら撒くことによって、その地域と知恵と力がよくわかる」という談話に惚れ込んだ人なので、10年前に地方創生大臣に任命された時も、同じことをやっているのです。
石破総理は、過去を反省して今後はばら撒きを慎み、地方の農業生産の輸出拡大などの産業政策に力点を置くことを喧伝しているのですが、過去の検証もせずに、そんなところにお金を倍増させて投資したところで、堂々巡りとなることは目に見えてしまうのです。
石破総理は当事者ということもあり、地方創生が今迄中途半端な状態にあって空振りだらけであることはよく理解した方なのです。この10年間の地方創生は、多額のお金を投資して街を変ようとしても中身は変わらず空洞化した状態となってしまっているのです。
石破総理が提唱する地方創生での予算の倍増計画は、国民からするとコンパクトシティ化の大失敗がどうしても頭によぎるので、無駄なハコモノばかりを作り上げて来たばら撒きの光景ばかりが常に目に映ってしまうことで国民の受けがとても悪いのです。
明日からのブログでは、デュラルライフや田舎暮らしの実態、地域おこし協力隊の実情や過去に田舎で起こった騒動などを再度呼び起こして検証することなども考えております。そして、息抜きとして経済や政治、芸能の話題なども盛り込んでまいります。
「忍者久保誠のマコトのブログ」では、今迄、田舎に忍び込んで得た情報などを整理してお届けしてまいりたいと存じます。そして、「田舎の疑問50連発」の本も近々に発行してまいります。皆様のお役立てとなるよう有意義な情報を発信して行く所在です。
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雨をポジティブに考えてみる。雨を憂鬱なものからプラスイメージに変えていこう、雨が降らなかったら人間どころかあらゆる生物は絶滅するのです。 雨こそは生命の恵みであることを再認識してみる。壮大な視点で雨を見つめ直してもいいかも知れません。
雨で栄える景色って結構身近にあるのです。その代表はお寺の風景や日本庭園です、お寺や神社の建物や庭園は雨に似合うよう工夫されているのです。 これこそは日本古来の歴史の重みを象徴するものなのです。晴れている時より絵になる風景になるのです。
雨の日をネガティブ思考になっていたらもったいないので、雨と上手に付き合っていきたいものです。雨をネガティブに捉えないで考え方を変えていく、雨を見直し、雨と上手に付き合う、雨は悪いものをしっかりと流してくれ、綺麗なものに変えてくれるのです。
オールドメディアの情報は消え、今や日本は1億総ジャーナリストの時代となったのです。 この際だから好奇心と学びの世界に踏み込もう、デジタルを駆使して好奇心旺盛になって自分なりの知見を生み出していく、自分から情報を捉えて行く時代となったのです。
体力はいくら頑張ろうが限界状態と成ってしまうので再生は不可能です。ところが、脳や知能はそのまま持続出来るのです。 しかし、脳も使っていなければどんどん退化は進んで行くのです。ということは、使わなかったら損をしてしまうだけというわけです。
都会でも、ど田舎でも見ることが出来ない廃墟の存在、都会の場合は、常に建物が循環されるので、廃墟になる前に取り壊されてしまい、新しい建物が作られるのです。ど田舎には廃墟の土台がない。 これはハーフビレッジ(半田舎)の観光地だけの現象です。
スローライフに遊び心を取り入れることで癒しの空間はどんどん広がって行きます。遊びを侮ってはならない。それは、遊びにはマニュアルがないので、仕事以上に思惑通りには行かないものだからです。 しかし、遊びは仕事と違って無我夢中になれるのです。
人間はたまには童心に帰らなければならないのです。それは、加齢の妄想の日々を送ると歳と共に諦めや冷めが蔓延して行き行動力が落ちてくるからです。 自らマンネリの閉塞感を作り上げ、虚しさしか残らない日々となる、これは日本人の悪しき典型なのです。
クルド人や一部の中国人、ベトナム人などの不良外国人は、完全に日本という国を舐め切っているので、即刻国外追放すべき存在です。 不良外国人の存在は、日本で真面目に過ごしている外国人の方々にとっても迷惑千万の存在なので徹底的排除すべきヤカラです。
斎藤くんの顔は、バームクーヘンのイメージではないよね。 どっちにせよ、バームクーヘンで商売を引っ張るのはムリが出て来るので、次の手もお考えのことなのでしょうね。 次はまんじゅう屋と提携して、毒まんじゅう斎藤で売り出すのが一番かも知れない。
生活にメリハリをつける習慣を整えておくと、一日の行動が効率化出来るのです。人は、集中する時と力を抜かなくてはならない時間があるのです。 そこにメリハリをつけることで頑張り過ぎない、ダラダラしない自分を作り上げていくととても便利になります。
多くの人は自分の身に起こる感動力の低下を見落としてしまっているわけです。感動する出来事なのに感動しないなんて人生にとって実にもったいないことです。 感動力を維持する為には、日頃から身の回りでおこる変化を意識して行くことが大切となるのです。
日本の観光業は、いい加減をやり尽くした連中が街からいなくなったことで、街が健全化され、それを見据えた新進起業家たちの奇抜なアイデアによって、奇跡とも言える回復を遂げたのです。 こうして、一般国民や外国人旅行者も足を運ぶことが出来たのです。
ソーシャルメディアの効果は凄い、昔の旅行案内のガイドブックやマスコミ情報もいい加減もいいところ、当時はインターネットも存在しない時代なので、海外旅行などのガイドブックなども取材の出張経費をケチって机上の空論のデスクプランばかりだったのです。
オーバーツーリズムとなるほど外国人観光客が日本に殺到する理由。それはSNSを通じて世界に広がった、先進的なサービス精神なのです。これこそは日本の「おもてなしの精神」この接客ホスピタリティを体験した外国人観光客は誰もが感動を覚えるのです。
バラエティータッチで放送される外国人観光客の大袈裟な番組報道。外国人観光客が日本に多く押しかけるのは、今は、安いから来ているだけのこと、そもそも、外国人観光客の殆どは、日本に対する予備知識は、ガイドブックで知る以外殆ど知る由もないのです。
金持ちからは金を多くふんだくる行為は、発展途上の後進国の定番なので、先進国がそれをやり出してしまったら、国民の民度は著しく劣化して行きます。 日本は曲がりなりにも世界第4位の経済大国、いくらなんでも、そんなみっともないことをするんじゃないよ。
夏の強烈な紫外線を浴びる「日焼け」は、最もNGとされるのです。それは強烈な紫外線を浴び続けることで皮膚ガンが発症してしまうことが判ったからです。 「日焼け」は健康の一つだと思っていたのが、とんだ勘違いだったというわけです。
イスラム教徒がスローライフの生活を送るなんて信じられません。でも、東南アジアには、西洋型のスローライフとは少し違うのんびりゆったりの生活を送るイスラム教信者たちが存在するのです。 これは従来のイスラム教徒のイメージとは段違いのものです。
東南アジアの人は、のんびりマイペース、慌てないし、急がないので常に予定は未定、これは南国特有の気質で怒ることも少ないのです。 彼らは、スローライフを意識した生活を送っているわけではない、昔からの伝統でこのような生活観が身についているのです。