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  • 吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

    金谷牧の原鳥瞰図を眺めるコロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題した鈴木雅春さんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである...吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

  • 天地耕作 初源への道行き

    左/何やら巨大な鳥の巣のような(生?)右/枝を積み重ねた塚・墓のような(死?)2024年上半期で面白かったことのひとつ、2月12日、静岡県立美術館とその裏山で天地耕作(あまつちこうさく)を観た。観るというより民俗学的に体験したということか。24日には村上誠氏と赤坂憲雄氏との対談「円環が産まれ、壊れるとき」聴講にも再訪したのだった。天地耕作は旧引佐郡出身の村上誠、渡兄弟と山本裕司によって1980年代から2003年まで続けられた、同地域を主な舞台としたアート活動。その場の立木や斜面の傾斜、水の流れなどをそのまま取り入れた作品は、〝縄文〟のようなエネルギーに充ちていた。「彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマ...天地耕作初源への道行き

  • 野本寛一『大井川―その風土と文化―』

    歩き続ける人今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言...野本寛一『大井川―その風土と文化―』

  • アカクボ沢のトチノキ

    山住古道とアカクボ沢の栃巨木○期日:2003年12月10日(快晴)○コース:浜松市天竜区水窪町・山住河内浦(8:20〜40)…鳥居橋…〈山住古道〉…二合目(9:08)…六合目(9:50)…山住峠(10:25〜30)…常光神…1108三等三角点「山住峠」(10:42)…山住峠(10:56〜11:22)…山住神社(11:25〜40)…鳥居橋(12:37)…河内浦・山住家(12:42)…駐車地(12:52)=〈車移動〉=アカクボ沢下降点(13:05)…アカクボ沢栃巨木(13:17〜27)…アカクボ沢下降点(13:40)○メンバー:6名山住古道(山住神社旧参道)入口山住(やまずみ)古道は県道・水窪森線開通以前に歩かれていた参道で、河内浦(こうちうれ)と山住神社を結ぶ距離約2キロ・標高差約550メートルの山道が、水...アカクボ沢のトチノキ

  • 伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

    前記事の参考資料です。旧下田街道■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが...伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

  • 伊豆・二本杉歩道の補修

    二本杉峠(旧天城峠)山の仲間がラインで「河津側の二本杉歩道は少しづつ整備されそうですね。」と情報を届けてくれた。こちらにリンク↓吉田松陰も通った古道“通行禁止の道”復活へ一歩【河津・二本杉歩道】(『テレしずWasabee』2024年6月15日)峠の名の由来となった二本杉歴史的な街道である旧下田街道を今に伝える二本杉峠の河津側は、大雨被害によって10年余に亘り「閉鎖」されたままであったが、歩道の復活に向けて地元の有志たちが登山道整備を始めたとのことだった。二本杉歩道の荒廃は河津側だけでなく、北側の伊豆市(湯ヶ島)側も同様で、先日の伊豆山稜線歩道山行の際にも感じられたことだった。「天城遊々の森(旧大川端野営場)」の上部にあたるが、歩道の管理者すらおらず勝手に手が付けられない状況のようで、こうした歩道の保全には...伊豆・二本杉歩道の補修

  • 花菖蒲

    いつもより大回りの散歩から長谷川家長屋門前の花菖蒲長谷川家長屋門(はせがわけながやもん)前の花畑では、季節毎の花が見られる。今は花菖蒲がみごとに咲いている。*長谷川家は、慶長元(1596)年頃から島田代官であった長谷川藤兵衛長盛の弟、三郎兵衛長通が先祖になります。長通は、兄の長谷川七左衛門長綱に随い相模国に赴き、代官職を務めた後、ここに居を移し、代々三郎兵衛を名乗り庄屋を務めました。この長屋門は、その庄屋宅の門で、棟札には「維時元治元龍舎甲子臘月吉日・野田村・大工棟梁・栄次郎」と記されており、元治元(1864)年に建てられたことが分ります。茅葺入母屋造り、間口5間半(約10メートル)、奥行2間(約3.6メートル)で、市内に唯一残る茅葺長屋門です。(島田市ホームページより)立石稲荷(たていしいなり)こちら側...花菖蒲

  • 高桑信一編『森と水の恵み』

    ――生を取り戻す舞台2005年8月発行・みすず書房みすず書房から今夏(*2005年)刊行されたシリーズ「達人の山旅2」と銘打たれた16篇からなるアンソロジー。編者の高桑信一氏は、元浦和浪漫山岳会の代表で、ベテランの山旅派(?)の沢屋。会報11月号の編集後記で「登山者が山麓の風景を見なくなった。」という氏の言葉を紹介したが、消えゆく山里の文化や失われた径などを記録し、活発に著述や発言をしている。私が「山」を見ようとする時、大きな示唆を得ている一人である。高桑氏は本書「編者あとがき」の中で、本書を編むにあたって心がけたのは登山者の視点を捨て去ることだった。そこには登山という行為を基軸としながら、自然との共存をわが事のように慈しむ生がある。(中略)登山という領域に終始しながらも、山は主体ではなく、日々を暮らす者...高桑信一編『森と水の恵み』

  • 柏瀬祐之『ヒト、山に登る』

    1999年8月発行・白水社――風景をこえて今年(*2002年)は国連の定める「国際山岳年」である。国連の意図するところは、環境あるいは資源としての山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟なのであり、行為としての〝登山〟を考えてのものではないが、これを契機として山岳地域を遊び場とする側も某かのアピールをしていこうと、各種のイベントが企画され開催されている。山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟が、国連にとって重要な課題となる背景には、地球環境の破壊という、その存立基盤への危機感がある。つまり、ほころびを見せ始めた〝近代〟を延命させるためには、山岳資源の管理が欠かせないものとしてあるのだろう。それでは行為としての登山をする側は、この機会に何をアピールしようとするのか。保護、保全といった環境の側面からだけでなく、行為とし...柏瀬祐之『ヒト、山に登る』

  • いつもの散歩

    はっきりしない天気で予定の山歩きが中止となって、いつものコースの散歩。まずは6/6記事「大津落合のクスノキ」中とは別の八兵衛碑二つ。左/野田・鵜田寺境内の八兵衛碑(明治35年・西野田講中建立)大小二つの碑が重なって建てられている。藤枝バイパス工事に伴ってここに移されたらしい。右/尾川・尾川丁仏参道入口の八兵衛碑(明治35年・建立者不明)千葉山尾川丁仏参道入口に馬頭観音(左)や地蔵菩薩、道標などと共に建つ。丁仏参道の登り口は昔はここではなかったから、これも移されたものではないだろうか。ちなみに落合の八兵衛碑は明治36年建立、大草は平成7年に再建だが元は明治38年建立。明治35年〜38年に何があったか?これも例の招魂社の大クスノキと大津谷川。離れて見てもなかなか立派に思う。足元を見ると道端にはさまざま草花。オ...いつもの散歩

  • 串田孫一『山歩きの愉しみ』

    木の中に、もし物語を見るのならば、それは植物らしい物語のはずである。地上に生きる一切のものと同様に、宿命的にそれぞれの場所に根を張っているが、通りすぎて行くものとして私が見る時には、見られるものらしく、あるものは申し分なく気取り、気取りそこねてうなだれるものもあり、またあるものは争いのあとを隠し切れずにいる。彼らの生命の長短は別にして、彼らには、私たち人間に隠されている時間があるに違いない。その時間の、あまり窮屈でない区切りのなかで、木は物語を自分で創り出している。その物語をまちがいなく見抜くことは困難であるが、時にはなまめかしい仕種のあとさえ残っているのを見かけることもある。(串田孫一「山の博物手帖」より)串田孫一『山歩きの愉しみ』

  • 大津落合のクスノキ

    樹高:22m、目通り幹囲:6.8m、推定樹齢:300年以上※WEB『人里の巨木たち』内「静岡県の巨樹」によるいつもの散歩コース内に大きなクスノキがある。大津谷川に架かる堂前橋の袂にあって、境内の裏側から社に覆い被さるように立つ姿は凛々しく、四方からよく目立っている。クスノキが立つ忠魂社が建立されたのは、日清(1894〜95)・日露(1904〜05)戦争の前後だろうから、たかだか100年余にすぎないが、この木はそのだいぶ前からここに立っていたわけだ。大津忠魂社堂前橋を渡った対岸には橋の名の由来となったお堂があって、二体の頭部のない石仏が祀られている。また、お堂の前には小長谷八兵衛碑(1903年、落合講中建立)が建てられている。八兵衛信仰はほぼ志太郡内(大井川下流左岸域)のみというきわめて狭い範囲の民間信仰だ...大津落合のクスノキ

  • 山の本棚

    ドイツ文学者の故池内紀(おさむ)氏が、『山と渓谷』誌に2007年1月号から2019年10月号(同氏が亡くなったのは2019年8月)まで連載していた、書評エッセイ「山の本棚」全153篇が昨年刊行された。このエッセイは、ごく稀に『山と渓谷』誌を手にすることがあれば目を通していたが、全篇を目にするのは初めてだった。まず驚いたのはその量、月刊誌に12年にわたっての連載だから当然なのだろうが、B6判・470頁は充分なボリュームがある。ただ、その時々に気の向いた書題を拾って、ぼちぼちと一日一篇の勘定で読み繋げば半年は愉しめる案配だ。池内の簡潔な表現も、読み進めることを苦にさせない。帯には「古今東西、山と人、自然から生まれた言葉の森を池内紀と歩く。」とあるが、その森の広さと樹種の多さに驚いた。「山の本棚」であるから、い...山の本棚

  • 庭のアジサイ

    妻の植えた庭の紫陽花小振りだけど葉に斑入りのガクアジサイが好み6月入り、そろそろ雨の季節か・・・で、何で6月が水無月なのか?「最も有力な説は、田んぼに水を張る月という意味の「水な月」だという説。“な”は“の”という意味の古語で、“無”は当て字」ということらしい。庭のアジサイ

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