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沖縄戦の戦跡一覧 https://sensekisyokai.com/

沖縄には当時の戦争遺跡が多く残り、戦争の悲惨さ、平和の大切さをひっそりと今に伝えています。本ブログでは極力難しい言葉を使わず、誰にもわかりやすく、沖縄戦の戦争遺跡を紹介していきます。

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2023/04/20

  • 〜VOL37〜 八重瀬町富盛の戦争遺跡 戦争の爪痕が残る沖縄最古の「富盛の石彫大獅子」

    富盛(ともり)の石彫大獅子は村を守る村落祭祀上の獅子として県内で一番大きく、一番古い石獅子で県指定有形民俗文化財にしていされています。そんな村の大切な守り神も沖縄戦に巻き込まれました。本記事ではアメリカ軍が撮影した沖縄戦当時の石獅子の写真や今に残る石獅子を紹介します。

  • 〜VOL36〜 糸満市宇江城の戦争遺跡 第24師団終焉の地「クラガー」と「山雨の塔」

    糸満市宇江城にh「クラガー」と呼ばれる自然壕があります。「クラガー」は沖縄戦時には第24師団終焉の地となりました。師団の規模は約1万人。1万人の組織の最後がこの自然壕(ガマ)というのはあまり想像できませんが、沖縄戦では最後に自然壕で終焉を迎えた部隊が多くありました。第24師団は沖縄戦はどのように戦ったのか、そして「クラガー」や第24師団の慰霊碑「山雨の塔」について解説します。

  • 〜VOL35〜 南城市玉城の戦争遺跡 全長270m600人以上の負傷兵がいた陸軍病院の分室「アブチラガマ」

    糸数アブチラガマは、もともと日本軍の陣地壕且つ糸数集落の避難壕でしたが、戦線が南部に達すると南風原陸軍病院の分室なりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。 その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出ました。(アブチラガマHPより) 現在、壕は管理され入場料を支払えば、ガイド付きで壕の中に入ることができます。アブチラガマは証言も多く残っていることから、証言を元にアブチラガマの実相を紹介します。

  • 〜VOL34〜 糸満市束里の戦争遺跡 沖縄本島最南端荒崎に建つ「ひめゆり学徒散華の跡」

    沖縄本島最南端の荒崎海岸。眼下には美しい海が広がっています。しかし荒崎海岸は沖縄戦当時血で染まりました。荒崎海岸にはアメリカ軍の攻撃から逃げるため、行き場を失った住民や日本軍が大勢押し寄せました。中には解散命令を受けたばかりの「ひめゆり学徒隊」の姿も。本記事では「荒崎海岸」で「ひめゆり学徒隊」の行動を中心に解説します。

  • 〜VOL33〜 糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆりもう一つの外科壕「伊原第一外科壕」

    「ひめゆりの塔」のすぐ近くにひめゆり学徒隊がいたもう一つの外科壕が「伊原第一外科壕」があります「ひめゆりの塔」とは対照的にひっそりと残る「伊原第一外科壕」ここでは沖縄戦時どのようなことが起きたのでしょうか?ひめゆり学徒隊は壕内でどのように活動していたのでしょうか?ひめゆり学徒隊の生存者の証言をもとに紹介していきます。

  • 〜VOL32〜 糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆり学徒隊もいた陸軍病院壕「山城本部壕(サキアブ)」

    糸満市伊原は病院壕が多く残っています。伊原周辺には多くの陸軍病院壕の機能が、うつされました。今でもそれらの病院壕は残っており、実際足を運んで見ることができます。その一つが陸軍病院の本部「山城本部壕」別名サキアブです。すぐ近くの「伊原第三外科壕」の上に建つひめゆりの塔は有名ですが、「山城本部壕」は訪れる人が少ないのが現状です。 「山城本部壕」にはどのような人がいたのか?本部壕なので、整備されていたのか?沖縄戦で何が起きたのか?など本記事で紹介します。

  • 〜VOL31〜糸満市伊原の戦争遺跡 多くのひめゆり学徒隊が亡くなった場所に立てられた「ひめゆりの塔」

    沖縄戦時、9つの女子学徒隊が結成され、従軍しました。その中の1つが戦後テレビや映画で題材になり有名になった「ひめゆり学徒隊」です。実際「ひめゆり学徒隊」の名前を聞いたことある方も多いはずです。今回は彼女たちの証言や資料から「ひめゆり学徒隊」について解説していきます。

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