沖縄本島南部、早咲きの桜が有名な八重瀬岳。 ここは毎年1月後半から2月にかけて、多くの観光客が桜を見に訪れます
沖縄には当時の戦争遺跡が多く残り、戦争の悲惨さ、平和の大切さをひっそりと今に伝えています。本ブログでは極力難しい言葉を使わず、誰にもわかりやすく、沖縄戦の戦争遺跡を紹介していきます。
〜VOL37〜 八重瀬町富盛の戦争遺跡 戦争の爪痕が残る沖縄最古の「富盛の石彫大獅子」
富盛(ともり)の石彫大獅子は村を守る村落祭祀上の獅子として県内で一番大きく、一番古い石獅子で県指定有形民俗文化財にしていされています。そんな村の大切な守り神も沖縄戦に巻き込まれました。本記事ではアメリカ軍が撮影した沖縄戦当時の石獅子の写真や今に残る石獅子を紹介します。
〜VOL36〜 糸満市宇江城の戦争遺跡 第24師団終焉の地「クラガー」と「山雨の塔」
糸満市宇江城にh「クラガー」と呼ばれる自然壕があります。「クラガー」は沖縄戦時には第24師団終焉の地となりました。師団の規模は約1万人。1万人の組織の最後がこの自然壕(ガマ)というのはあまり想像できませんが、沖縄戦では最後に自然壕で終焉を迎えた部隊が多くありました。第24師団は沖縄戦はどのように戦ったのか、そして「クラガー」や第24師団の慰霊碑「山雨の塔」について解説します。
〜VOL35〜 南城市玉城の戦争遺跡 全長270m600人以上の負傷兵がいた陸軍病院の分室「アブチラガマ」
糸数アブチラガマは、もともと日本軍の陣地壕且つ糸数集落の避難壕でしたが、戦線が南部に達すると南風原陸軍病院の分室なりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。 その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出ました。(アブチラガマHPより) 現在、壕は管理され入場料を支払えば、ガイド付きで壕の中に入ることができます。アブチラガマは証言も多く残っていることから、証言を元にアブチラガマの実相を紹介します。
〜VOL34〜 糸満市束里の戦争遺跡 沖縄本島最南端荒崎に建つ「ひめゆり学徒散華の跡」
沖縄本島最南端の荒崎海岸。眼下には美しい海が広がっています。しかし荒崎海岸は沖縄戦当時血で染まりました。荒崎海岸にはアメリカ軍の攻撃から逃げるため、行き場を失った住民や日本軍が大勢押し寄せました。中には解散命令を受けたばかりの「ひめゆり学徒隊」の姿も。本記事では「荒崎海岸」で「ひめゆり学徒隊」の行動を中心に解説します。
〜VOL33〜 糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆりもう一つの外科壕「伊原第一外科壕」
「ひめゆりの塔」のすぐ近くにひめゆり学徒隊がいたもう一つの外科壕が「伊原第一外科壕」があります「ひめゆりの塔」とは対照的にひっそりと残る「伊原第一外科壕」ここでは沖縄戦時どのようなことが起きたのでしょうか?ひめゆり学徒隊は壕内でどのように活動していたのでしょうか?ひめゆり学徒隊の生存者の証言をもとに紹介していきます。
〜VOL32〜 糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆり学徒隊もいた陸軍病院壕「山城本部壕(サキアブ)」
糸満市伊原は病院壕が多く残っています。伊原周辺には多くの陸軍病院壕の機能が、うつされました。今でもそれらの病院壕は残っており、実際足を運んで見ることができます。その一つが陸軍病院の本部「山城本部壕」別名サキアブです。すぐ近くの「伊原第三外科壕」の上に建つひめゆりの塔は有名ですが、「山城本部壕」は訪れる人が少ないのが現状です。 「山城本部壕」にはどのような人がいたのか?本部壕なので、整備されていたのか?沖縄戦で何が起きたのか?など本記事で紹介します。
〜VOL31〜糸満市伊原の戦争遺跡 多くのひめゆり学徒隊が亡くなった場所に立てられた「ひめゆりの塔」
沖縄戦時、9つの女子学徒隊が結成され、従軍しました。その中の1つが戦後テレビや映画で題材になり有名になった「ひめゆり学徒隊」です。実際「ひめゆり学徒隊」の名前を聞いたことある方も多いはずです。今回は彼女たちの証言や資料から「ひめゆり学徒隊」について解説していきます。
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沖縄本島南部、早咲きの桜が有名な八重瀬岳。 ここは毎年1月後半から2月にかけて、多くの観光客が桜を見に訪れます
沖縄戦では多くの女子学徒隊が動員され、9つの女子学徒隊が結成されました。 ひめゆり学徒隊や白梅学徒隊も沖縄戦時
「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵」 この文は故「大田昌秀」沖縄県元知事の著『沖縄鉄血勤皇隊』の副題です。 人
糸満市真壁は沖縄らしい瓦屋根の家々が立ち並び、周辺にはさとうきび畑や農地が広がる本島南部の典型的なのどかな景色
糸満市に糸洲付近には、沖縄戦に使用された壕が多く残っています。 「県庁最後の壕」と言われる「轟の壕」や女子学徒
沖縄戦において日米最後の激戦地である糸満市摩文仁。 摩文仁には現在平和祈念公園が整備され、広く慰霊の場所として
「ハーフムーン」はゆいレールおもろまち駅のすぐ近くにあった小高い丘のことです。(ありましたということはもうあり
富盛(ともり)の石彫大獅子は村を守る村落祭祀上の獅子として県内で一番大きく、一番古い石獅子で県指定有形民俗文化財にしていされています。そんな村の大切な守り神も沖縄戦に巻き込まれました。本記事ではアメリカ軍が撮影した沖縄戦当時の石獅子の写真や今に残る石獅子を紹介します。
糸満市宇江城にh「クラガー」と呼ばれる自然壕があります。「クラガー」は沖縄戦時には第24師団終焉の地となりました。師団の規模は約1万人。1万人の組織の最後がこの自然壕(ガマ)というのはあまり想像できませんが、沖縄戦では最後に自然壕で終焉を迎えた部隊が多くありました。第24師団は沖縄戦はどのように戦ったのか、そして「クラガー」や第24師団の慰霊碑「山雨の塔」について解説します。
糸数アブチラガマは、もともと日本軍の陣地壕且つ糸数集落の避難壕でしたが、戦線が南部に達すると南風原陸軍病院の分室なりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。 その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出ました。(アブチラガマHPより) 現在、壕は管理され入場料を支払えば、ガイド付きで壕の中に入ることができます。アブチラガマは証言も多く残っていることから、証言を元にアブチラガマの実相を紹介します。
沖縄本島最南端の荒崎海岸。眼下には美しい海が広がっています。しかし荒崎海岸は沖縄戦当時血で染まりました。荒崎海岸にはアメリカ軍の攻撃から逃げるため、行き場を失った住民や日本軍が大勢押し寄せました。中には解散命令を受けたばかりの「ひめゆり学徒隊」の姿も。本記事では「荒崎海岸」で「ひめゆり学徒隊」の行動を中心に解説します。
「ひめゆりの塔」のすぐ近くにひめゆり学徒隊がいたもう一つの外科壕が「伊原第一外科壕」があります「ひめゆりの塔」とは対照的にひっそりと残る「伊原第一外科壕」ここでは沖縄戦時どのようなことが起きたのでしょうか?ひめゆり学徒隊は壕内でどのように活動していたのでしょうか?ひめゆり学徒隊の生存者の証言をもとに紹介していきます。
糸満市伊原は病院壕が多く残っています。伊原周辺には多くの陸軍病院壕の機能が、うつされました。今でもそれらの病院壕は残っており、実際足を運んで見ることができます。その一つが陸軍病院の本部「山城本部壕」別名サキアブです。すぐ近くの「伊原第三外科壕」の上に建つひめゆりの塔は有名ですが、「山城本部壕」は訪れる人が少ないのが現状です。 「山城本部壕」にはどのような人がいたのか?本部壕なので、整備されていたのか?沖縄戦で何が起きたのか?など本記事で紹介します。
沖縄戦時、9つの女子学徒隊が結成され、従軍しました。その中の1つが戦後テレビや映画で題材になり有名になった「ひめゆり学徒隊」です。実際「ひめゆり学徒隊」の名前を聞いたことある方も多いはずです。今回は彼女たちの証言や資料から「ひめゆり学徒隊」について解説していきます。
意外かもしれませんが、沖縄戦では都道府県出身別の出身者で沖縄県の次に2番目に多いのが、北海道です。なぜ北海道出身者が多かったのか、どのように沖縄戦を戦ったのか、沖縄戦では常に激戦の中を戦った北海道旭川の部隊「歩兵第89連隊」を紹介していきます。
「県庁最後の壕」と呼ばれ、500人余りの住民が避難していた「轟の壕」。そしてここでも軍民混在の中、多くの住民が亡くなりました。一体壕の中はどうなっているのか、また避難した人はどのように生活していたのか、何故「沖縄県庁最後の地」と呼ばれているのか、様々な視点から「轟の壕」を紹介します。
糸満市米須周辺は沖縄戦の最終盤にかけて激戦になった場所です。 米須周辺でも多くの方が亡くなりました。戦後すぐ、周辺に散乱していた遺骨3万5000柱の遺骨を納めたのが、今回紹介する「魂魄の塔」です。尚、「魂魄の塔」沖縄で戦後最も早く建てられた慰霊塔です。
終戦後、遺骨の回収が進まず、遺骨が野ざらしになっていたのを地元住民が手厚く葬った事例が数多くあります。今回紹介する、栄里の塔は真栄里の住民が戦後遺骨を集められた慰霊碑です。
沖縄戦では10代の学生が学徒隊として、多数日本軍に動員されました。 学徒隊は男子生徒だけではなく、女学生も多く動員され、激しい戦闘の中多くの従軍し青春真っ只中に多くの生徒が亡くなりました。女子学徒隊の一つ「白梅学徒隊」を紹介します。
沖縄戦では終戦後も戦った部隊がいました。彼らは日本軍司令部の最後の打電が「最後まで抵抗を命じた」ため、沖縄戦終結だけではなく、日本の敗戦後も戦い続けました。その部隊の名は山形の「歩兵第32連隊」。今回は「歩兵第32連隊」がどのような部隊で、どのように降伏したのかを紹介していきます。
富盛(ともり)の石彫大獅子は村を守る村落祭祀上の獅子として県内で一番大きく、一番古い石獅子で県指定有形民俗文化財にしていされています。そんな村の大切な守り神も沖縄戦に巻き込まれました。本記事ではアメリカ軍が撮影した沖縄戦当時の石獅子の写真や今に残る石獅子を紹介します。
糸満市宇江城にh「クラガー」と呼ばれる自然壕があります。「クラガー」は沖縄戦時には第24師団終焉の地となりました。師団の規模は約1万人。1万人の組織の最後がこの自然壕(ガマ)というのはあまり想像できませんが、沖縄戦では最後に自然壕で終焉を迎えた部隊が多くありました。第24師団は沖縄戦はどのように戦ったのか、そして「クラガー」や第24師団の慰霊碑「山雨の塔」について解説します。
糸数アブチラガマは、もともと日本軍の陣地壕且つ糸数集落の避難壕でしたが、戦線が南部に達すると南風原陸軍病院の分室なりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。 その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出ました。(アブチラガマHPより) 現在、壕は管理され入場料を支払えば、ガイド付きで壕の中に入ることができます。アブチラガマは証言も多く残っていることから、証言を元にアブチラガマの実相を紹介します。
沖縄本島最南端の荒崎海岸。眼下には美しい海が広がっています。しかし荒崎海岸は沖縄戦当時血で染まりました。荒崎海岸にはアメリカ軍の攻撃から逃げるため、行き場を失った住民や日本軍が大勢押し寄せました。中には解散命令を受けたばかりの「ひめゆり学徒隊」の姿も。本記事では「荒崎海岸」で「ひめゆり学徒隊」の行動を中心に解説します。
「ひめゆりの塔」のすぐ近くにひめゆり学徒隊がいたもう一つの外科壕が「伊原第一外科壕」があります「ひめゆりの塔」とは対照的にひっそりと残る「伊原第一外科壕」ここでは沖縄戦時どのようなことが起きたのでしょうか?ひめゆり学徒隊は壕内でどのように活動していたのでしょうか?ひめゆり学徒隊の生存者の証言をもとに紹介していきます。