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沖縄戦の戦跡一覧 https://sensekisyokai.com/

沖縄には当時の戦争遺跡が多く残り、戦争の悲惨さ、平和の大切さをひっそりと今に伝えています。本ブログでは極力難しい言葉を使わず、誰にもわかりやすく、沖縄戦の戦争遺跡を紹介していきます。

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2023/04/20

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  • 〜VOL35〜 南城市玉城の戦争遺跡 全長270m600人以上の負傷兵がいた陸軍病院の分室「アブチラガマ」

    糸数アブチラガマは、もともと日本軍の陣地壕且つ糸数集落の避難壕でしたが、戦線が南部に達すると南風原陸軍病院の分室なりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。 その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出ました。(アブチラガマHPより) 現在、壕は管理され入場料を支払えば、ガイド付きで壕の中に入ることができます。アブチラガマは証言も多く残っていることから、証言を元にアブチラガマの実相を紹介します。

  • 〜VOL34〜 糸満市束里の戦争遺跡 沖縄本島最南端荒崎に建つ「ひめゆり学徒散華の跡」

    沖縄本島最南端の荒崎海岸。眼下には美しい海が広がっています。しかし荒崎海岸は沖縄戦当時血で染まりました。荒崎海岸にはアメリカ軍の攻撃から逃げるため、行き場を失った住民や日本軍が大勢押し寄せました。中には解散命令を受けたばかりの「ひめゆり学徒隊」の姿も。本記事では「荒崎海岸」で「ひめゆり学徒隊」の行動を中心に解説します。

  • 〜VOL33〜 糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆりもう一つの外科壕「伊原第一外科壕」

    「ひめゆりの塔」のすぐ近くにひめゆり学徒隊がいたもう一つの外科壕が「伊原第一外科壕」があります「ひめゆりの塔」とは対照的にひっそりと残る「伊原第一外科壕」ここでは沖縄戦時どのようなことが起きたのでしょうか?ひめゆり学徒隊は壕内でどのように活動していたのでしょうか?ひめゆり学徒隊の生存者の証言をもとに紹介していきます。

  • 〜VOL32〜 糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆり学徒隊もいた陸軍病院壕「山城本部壕(サキアブ)」

    糸満市伊原は病院壕が多く残っています。伊原周辺には多くの陸軍病院壕の機能が、うつされました。今でもそれらの病院壕は残っており、実際足を運んで見ることができます。その一つが陸軍病院の本部「山城本部壕」別名サキアブです。すぐ近くの「伊原第三外科壕」の上に建つひめゆりの塔は有名ですが、「山城本部壕」は訪れる人が少ないのが現状です。 「山城本部壕」にはどのような人がいたのか?本部壕なので、整備されていたのか?沖縄戦で何が起きたのか?など本記事で紹介します。

  • 〜VOL31〜糸満市伊原の戦争遺跡 多くのひめゆり学徒隊が亡くなった場所に立てられた「ひめゆりの塔」

    沖縄戦時、9つの女子学徒隊が結成され、従軍しました。その中の1つが戦後テレビや映画で題材になり有名になった「ひめゆり学徒隊」です。実際「ひめゆり学徒隊」の名前を聞いたことある方も多いはずです。今回は彼女たちの証言や資料から「ひめゆり学徒隊」について解説していきます。

  • 〜VOL30〜糸満市字新垣の戦争遺跡 北海道の部隊「歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地」の碑

    意外かもしれませんが、沖縄戦では都道府県出身別の出身者で沖縄県の次に2番目に多いのが、北海道です。なぜ北海道出身者が多かったのか、どのように沖縄戦を戦ったのか、沖縄戦では常に激戦の中を戦った北海道旭川の部隊「歩兵第89連隊」を紹介していきます。

  • 〜VOL29〜糸満市伊敷の戦争遺跡 500人余りの人が避難していた壕「轟の壕」

    「県庁最後の壕」と呼ばれ、500人余りの住民が避難していた「轟の壕」。そしてここでも軍民混在の中、多くの住民が亡くなりました。一体壕の中はどうなっているのか、また避難した人はどのように生活していたのか、何故「沖縄県庁最後の地」と呼ばれているのか、様々な視点から「轟の壕」を紹介します。

  • 〜VOL28〜 糸満市米須の戦争遺跡 戦後最も早く建立された慰霊碑「魂魄の塔」

    糸満市米須周辺は沖縄戦の最終盤にかけて激戦になった場所です。 米須周辺でも多くの方が亡くなりました。戦後すぐ、周辺に散乱していた遺骨3万5000柱の遺骨を納めたのが、今回紹介する「魂魄の塔」です。尚、「魂魄の塔」沖縄で戦後最も早く建てられた慰霊塔です。

  • 〜VOL27〜 糸満市真栄里の戦争遺跡 12,000柱の遺骨が祀られている「栄里之塔」

    終戦後、遺骨の回収が進まず、遺骨が野ざらしになっていたのを地元住民が手厚く葬った事例が数多くあります。今回紹介する、栄里の塔は真栄里の住民が戦後遺骨を集められた慰霊碑です。

  • 〜VOL26〜 糸満市真栄里の戦争遺跡 女子学徒「白梅学徒隊」が祀られている「白梅之塔」

    沖縄戦では10代の学生が学徒隊として、多数日本軍に動員されました。 学徒隊は男子生徒だけではなく、女学生も多く動員され、激しい戦闘の中多くの従軍し青春真っ只中に多くの生徒が亡くなりました。女子学徒隊の一つ「白梅学徒隊」を紹介します。

  • 〜VOL25〜 糸満市真栄里の戦争遺跡 終戦を知らずに戦った「歩兵第三十二連隊終焉の地碑」

    沖縄戦では終戦後も戦った部隊がいました。彼らは日本軍司令部の最後の打電が「最後まで抵抗を命じた」ため、沖縄戦終結だけではなく、日本の敗戦後も戦い続けました。その部隊の名は山形の「歩兵第32連隊」。今回は「歩兵第32連隊」がどのような部隊で、どのように降伏したのかを紹介していきます。

  • 〜VOL24〜 糸満市真栄里の戦争遺跡 山形県の慰霊碑「山形の塔」

    沖縄本島には、沖縄県以外の46都道府県の沖縄戦の慰霊碑が存在しています。沖縄戦には全国各地から部隊が集結し、沖縄戦を戦いました。今回は県の慰霊碑の一つ「山形の塔」を紹介します。

  • 〜VOL23〜 糸満市真栄里の戦争遺跡 アメリカ軍司令官の死「バックナー中将戦死之跡」

    日本軍の首里撤退で、「戦争は終わった」と楽観視していたアメリカ軍は南部撤退をした日本軍を制圧するため、損害も増えていき、何とアメリカ軍のトップの司令官が戦死するという、異常事態がおきます。今回は南部の激しい戦いで戦死したアメリカ軍司令官、バックナー中将の慰霊碑を紹介します。

  • 〜VOL22〜 那覇市金城町の戦争遺跡 戦死した学徒兵を祀る「一中健児の塔」

    沖縄戦は学生達も戦場で戦い、そして多くの学生が命を落としました。沖縄県立第一中学校(現在の首里高校)の学生12歳から17歳は軍に動員され、従軍し290名の生徒が亡くなりました。秀才が集まる第一中学校の生徒はどのように戦争に動員され、どのような思いで戦ったのでしょうか。

  • 〜VOL21〜 那覇市楚辺の戦争遺跡 那覇の中心にある戦跡「楚辺の陣地壕」

    沖縄県庁や那覇市役所、大型デパート「りうぼう」がある、那覇の中心部の一角にも沖縄戦の戦跡が残っています。県庁や市役所から車でおよそ5分。賑やかな国際通りとは反対側にあり、細い路地の住宅街が広がっている那覇市楚辺の一角、城岳(グスクダケ)公園内に「楚辺の陣地壕」の跡があります。

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