■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
人や社会に貢献することが、人が生きている価値の最大で最後の核心であって、その手段が、仕事であるのか(マツコデラックスの場合)、自分の好きなことなのかの違いだけだ。ちなみに人に貢献できる手段が、・仕事であって、かつ・自分の好きなことである場合、
人に関心を持つことは、人への貢献の基本である。「それ(仕事、家事、雑用、情報発信)をやることが、誰かの役に立っている」と信じなければならない。実際には誰もそう思っていないとしてもだ。本当にそうなのか、そんなことは本当は分からないのだ。全知全能でも
与えることで自分の価値を見い出したい → 与える幸せ ○人の評価、注目、視聴回数がほしい(人ウケがほしい) → 与えられる幸せ ×他人から「特別に与えられること」は、自分にとっての「心の慰み ×」である。(この「心の慰み」とは、セネカが『母ヘルウィアへ
他人に評価されたからといって、自分には価値があると思う必要はないし、他人に評価されなかったからといって、自分には価値がないと思う必要もない。他人の評価は・もらえるかどうか不確定だし (評価するか否かはその人次第だ)・同じ評価には慣れてしま
人ウケするのはその人(他人)の”心の慰み”となるものであって、正論ではない。動画なら普段見たことのない特別な映像であって、文章なら従来読んだことのない表現である。いつもとは違う、これまでとは違う、非日常で、特別なものであって、それ
酒は、頭の中の悪い思いも良い思いもおしなべて分隔てなく曖昧にして忘れるだけ。酔いが醒めれば全て思い出し、元の木阿弥。また酒を飲む羽目になる。さらにアルコール耐性がつき飲酒量がどんどん増えていく。こうしてアル中ができあがる。
ーー与えられる幸せのフローチャートーー他人の言動、評価、話を聞く。周りの映像を見る。↓特別なものが与えられたか?→true(与えられた):御礼。自己評価にはつなげない。↓false(与えられない):それが当たり前。他人からは何も与えられないと設定する。
他人の評価と自分の評価を連動させると、不幸になる。(他人の評価が良ければ、自分の評価を上げて、他人の評価が芳しくなければ、自分も評価を下げる、そのような、他人の評価に一喜一憂していると、いずれ不幸になる)【そのロジック】他人の評価に連動す
自分に役割を持たせたら、[自分は役に立っている]と思えるだろうか。仕事を持つだけで、[自分は人や社会に貢献している] ↓[自分は役に立っている] ↓[自分には価値がある]と思えるだろうか。仕事や役割があったとしても結局は、役割なぞ
怒りとは、自分の思いどおりにならない現実に対し、(人から特別な愛を与えられたいのに、与えられない現実に対し)[特別な愛を与えられない]自分には価値を見出せづらくなることで、不満と不安が生じ、精神的に辛いから、特別な愛(ここでは人の注目や関心、評価
人に貢献するための前提として人に自分の話を聞いてもらいたいと願うなら、 (人に貢献して、自分が貢献感を得るためには、 人にわざわざ自分の話を聞いてもらう必要はなく、 人がいちいち自分の行いを評価しなくとも、 自分が黙って役に立つことや為すべきこと
人間は主観的な生きもの。客観視しろと言われるのはその裏返し。主観的だから、せめて格好だけでも客観的なフリをしようという紳士協定なのだ。主観的にしか生きられない人間に、[馬の合う他人を見つけられる確率を少しでも上げるため]、後から取り付けた外付けパー
人生の意味とは、・自分に価値があると思えるかどうかだ。【与える】(人のために社会のために役に立てること、貢献すること)(自分に知識を与えること、知識と思索、真の答えに近づくこと)(自分のもの)(自立している)(与えるかどうかは自分の意志、確定的)
誰も子供を作り育むという非常に時間や労力のかかり、そして(親)個人としてリターンの見えにくいことはやろうとしない。自分に与えられることに熱心で、自分から与えることはしない。そんな人たちが多過ぎというほど増えてしまい、さらに支配的になろうとしてい
人生に救いを求めるなら、自分の人生をより善く生きることを考えるべきであって、そのためには、「自分には価値がある」、と思えるようにならなければならない。自分には価値があると思えるように、・思索し、行動に移し、・また思索し、行動に移す。そうや
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■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
どのみち、今無いものを手に入れる・認識する・積むという、本能から逃れられないならば(神経的刺激の生理システム)、・自分の内に知識善を積むこと(知識的徳)・自分の外に貢献善を積むこと(貢献的徳)で、その今に無い「善=価値あるもの」を積めば/認識すれば
否定する(失敗や批判)↓自己否定=苦しさ↓自己防衛=承認欲を満たそうとする(①自責か②他責又は両方)↓①自責:注目の承認欲を満たす・自分を下げて注目されたい =過度な自己卑下、自虐・他人を上げて注目されたい =過度な自己犠牲、ゴマす
■本質(探究という目的)と形(記録という手段)の関係本質は形(言葉など)にすると、形への執着となり、本質(形ではとらえきれなかった概念を含む全体)から離れてしまう。本質は(探究の)目的であり、形は(記録の)手段であって、形にすると、形(記録の手段)
■徳を積むについて自分の時間を差し出して自分の内や外に善を作る(善を作る=徳を積む)与えられることは諦めて(与えられることは無いから・なお、"一方的に"与えることでもない)徳を積む=善を作ること積む徳、作る善を、自己が認めれば、些細な肯
全ては、無を「否定する」ことから始まり(一切皆苦であり)、継続するものなので、意識し、無を「否定せず」、受け入れることだ(無を否定する苦しみを打ち消す方法)自動的に、無を否定するとしても、意識し、無を否定しない→まずは無意識の否定の対消滅無い
無の荒野・与えてくれる(都合のいい)他者は居無い・与えられる(都合のいい)自己の特別性も無い例えば、全くの見返りなしで、新規性もなく、誰かに1万円を渡す/寄付する行為があって(それは行動の善であるが)それに善さ、価値、善い神経的刺激、
自分を(本能的に)特別な存在だと思うことは、特別では無いという現実(現実の無)と常に戦うことになる。そして、(失敗者は当然のごとく、成功者でも時間とともに必然に)いずれ心のエネルギーが尽きて、無の否定とその苦しみに囚われることになる。無の否定と苦
日々のことに、何も無いなら、何も無いことが当たり前で中庸である。日々の行動は知るためだけにあって、知ることにしか価値と肯定はない。
イヌはボールをぶつけられると、ボールを敵と見做して吠える。ボールを自分にぶつけた者やぶつけた原因を見る=知ることはしない。これは、イヌだけでなく(それなりに知能があると思い込んでいるだけの)ヒトにも同じことが起こる。
皆が本能的に感じている否定の苦しみを放置したままにしておくと、自己否定の鬱や自暴自棄、他者否定の攻撃性(からの孤立や孤独)に繋がって、徐々に壊れてい(き、自己否定に起因する鬱病・アル中・薬物依存、他者否定に起因する誹謗中傷、暴言暴力や犯罪行為へエスカレー
他人を責めたり自分を責めたところで現状が変わるわけがないただ承認欲を求めているだけだ自分の内に善(価値)を生まなければ、自己肯定の変化(自己成長・自己変革)もない------否定も刺激であるし受容も刺激であるし肯定も刺激である否
自分は特別だと思うことが、認知の歪み(本当は特別ではないのに、そう思い込んでいる)の根源なんだよこの本能的な(承認欲求に起因する)歪みのせいで人間は苦しむようになっている(特別なはずの自分が、現実では特別扱いされないという承認欲の否定の苦しみ)この自己
究極的には、肯定感は、知性的卓越性(知の善)で得るしかないし、否定感は、倫理的卓越性(中庸)で消すしかない。ただし、否定も日々の行動のトリガーとしては必須。否定と苦しみがなければ、考えることもなく、動くこともしなくなり、受容のカタルシスも得られない
人生はいずれ無に帰すが、無を否定したとしても(無を否定したままにせず)、無を受け入れて、無から「何か」を生み出して肯定することだと思っている。身の回りに有る物や事が、この何か(誰かが残した善さ)から構成されている以上は、その分だけは意味があると捉える
前向きになるんじゃなくて、まずは無になるんだ何も無いのに前向きになれるはずがないだろう無理に前向きになろうとするから、(何も無いことに対して)後ろ向きになるんだよ~~~~~~~~~どうやって何も無いことを受け入れるかどうやって何も無いこ
『意識を仕直すこと』《無意識の否定に対して》①自己否定したとしても、否定したままにせず、②自己受容できること③そのうえで、自己肯定できること《無意識の期待/肯定の期待に対して》①承認欲の期待が生まれたとしても、他者運も無く、才能運も無いか
そうやって現実を否定する(のは仕方がないとしても、否定したままだ)から、自分は(自己否定で)苦しいし、他人も(他者否定で)苦しくて離れていく。人生が苦しいのは一切皆苦であるし、孤独になるのは因果応報/自業自得なんだ。
犯人の心理を5段階で解説(自己否定の苦しみを抱えている人は現在『非常に多い』ので、今後も事件は発生)する。①現実否定=自己否定で苦しい(生き苦しい)↓②他責思考=苦しいのは周囲や社会のせい↓③他者攻撃=人を攻めて気持ちよくなろうとする(承認欲/
No.0 詳細(無と中庸と善)No.1 全体(否定➡受容➡肯定)No.2 無知の知_知の探究_知の幸福No.3_意識の不連続_No.4_無意識の否定の仕組み_No.5_無の荒野
本来的に与えられない(与えられるものが無い)のに、①幸運により与えられるものが有る快感(リターン・ベネフィット)を享受する②与えられるものが無い不快(リスク・ロス)を回避する③与える快感がある①の与えられる快感が多く(ハイ・リターン)②の与え
①空即是色無いはずなのに、有ることに感謝しよう今において有ることが幸運である②色即是空無いものを欲するな今において無いものを欲するのは苦痛となるーーーーー①本来は、外部には何も無く空なのだ。それが時代の幸運、他者課題の幸運、生まれ
欲しても、自分の力では制御できない幸運がなければ得られず、苦しむということ。多くの(生きづらい)人が勘違いしているのは、小説や漫画やメディアなどの娯楽の影響で、さも現実もそのように多少は苦労したとしても(言い換えると努力すれば)、結局は都合良く進みいつか
外部から入ってくる/与えられる物(有形の物)や事(無形の概念)は多種多様であって、その快感も不快感も多種多様にあることから、①外から自分が受け取って快感なときは、外は無なのに、 奇跡的に物や事が有るとして、欲望の幸運を感謝して、 快感を享受できる②外か
ある事件や事故を起こした人の問題行動の理由を説明するのに・優秀な人だから・真面目な人だから・金持ちだからという、特定の目を引く性質を理由に問題行動を起こした、と言うのは間違っている。これらの不快な記事は、ライター側が読者の関心を引くために仕掛け
①外から与えられたものはすべて喜ぶ、感謝する・空即是色(自分の外には何も無く空であるなら、すべてのものは奇跡的な幸運の産物であり、よって、すべての物欲はすでに満たされている)・欲望の幸福(外から与えられる幸福)の『幸運に』感謝する・幸運とはなかな
この世の全てが「 」(無や空)であるならば、この世の全ての物が有ることは全て奇跡(幸運)の産物であり、愛情の対象となる。有ることが難しい奇跡的な物への(有り難うという言葉のとおりの)感謝や慈しみとなる。物欲(客体への欲望)も、無や空がベース(本来の、根
①色即是空:物(色)への欲(物欲)は苦痛しか生まないため、物欲が生まれたら、これを、自分より外から与えられるものは無く、すべてが空であるとして捨て去る。すべての物(色)が無いとすれば、(理想や願望も空であり、現実(もまた空であるから)とのギャップも生
□欲望を捨て去るために欲望を完全に捨て去るなら、自分の外から入ってくるものは、全くないものと思い(外には何も無い)、自分の内から外へ出ていくものしかない(自分のみが確実に有る)、と思うほかない。ゲームだって、無から考えれば、ゲームがあって、
■承認欲の強い人は必ず苦痛を感じ不幸になる人から認めてもらいたい欲求(承認欲求)を持ってしまうと、自分の力で自分のことを認めることができなくなって、自分だけでは、自分に価値があると思えること(自己肯定感を得ること)ができなくなってしまう。代わりに、
真面目な人が、ストレスのせいで問題行動を起こして転落するのではなくて、(承認欲求が強いせいで、外面が良くて)真面目な(ように見える)人が、承認欲求の苦痛のせいで問題行動を起こして転落していくのだ。しかし、本当に真面目に会社のために頑張って貢献しようと
承認欲求とは、子供が生き延びるための本能であるから(自活できない子供が、親や周りの他者から、可愛い子供であると認知されて、食べる物などを与えられて生き残るための欲望であるから)、自活できる(ようになる代わりに子供の持つ可愛さを失う)大人がいつまでも持つよ
気分の浮き沈みがあるとしたら、それは、・欲望が満たされたから一時的に気分が良くなっているか(自己肯定感がある・高い)、・欲望が満たされなかったから気分が悪くなっているか(自己肯定感がない・低い)、のどちらかの心理状態を、日常生活の中で揺れ動いている
点を取りたいから勉強をするのではなくて(点を取って他者よりも上に立ちたいという欲望ではなくて)、この世の中の仕組みを理解し(てあげ)たいから勉強をする(理解をしてあげる、知識を身につけて役に立てるという理性である)ことだ。点数がとれるかどうかは、そ
日本を含む先進国で精神疾患が多い理由は、欲望(承認欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすことが人生の幸福である、という価値観が推奨され広く浸透しているからです。しかし、幸運に恵まれ(続け)ない限りは、欲望を満たし続けることはできないので、欲望の幸福の屋台骨
○行為だって、自分の欲望を満たすからではなく、□の役に立つという理性を満たす気持ちでやることだ。□を理解する・□に優しくする・□に興味を持つ・□に愛を感じてもらう・□にひとりではないと感じてもらう。○欲は、欲望なので苦痛と不幸にしかならない。
欲望は苦痛しか生まないから捨て続けること。この世の全て(外界から自分に入ってくるものは)利己的・欲望的なものだ。よって幸運や他者課題に恵まれなければ、欲望の不満の苦痛により不幸(欲望を満たせない自分には価値がないと思う状態)となる。利他的・理性的
欲望とは、欲望の苦痛を自分に与えて、欲望の理想へ向かう行動を強制させ続ける仕組みである。そして、欲望の理想を獲得するには、幸運や他者の評価・人脈などの他者課題が必要となる。よって、人間は、生きている限り、欲望の苦痛に苛まれ続ける。生まれながらに
!欲望は苦痛になるので、勝ち負けは考えない。負け続けることもあるのが当たり前の事実だと現実を受け入れる。苦しみたくなくば欲望を捨てよ。!自分の技量を実行すること、技量を確認することだけを快感とする。技量が行えれば(行えなければ)、その結果で勝とうが
この世の全て(外界から自分に入ってくるもの)は利己的なもので溢れている。よって幸運がなければ、欲望の不満の苦痛により不幸となる。利他的なものとは、自分から外界に対して出していくものだけだ。自分の意志と善の活動により、役に立てる、理解してあげる、優