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  • 鴎外の「ヴィタ・セクスアリス」断章

    鴎外を動かしこの小説を書かしめたのは情熱でも苦悩でもなく好奇心だ。主人公の金井は科学者さながら自己を振り返り、観察し、記録する。そして作中に描かれる過去の金井もまた性的事象を科学者のように冷徹に見聞し、自ら体験し、記録する。そこがこの作品をユニークにし、また物足りなくもする。鴎外の悠々たる余裕派的態度はその客観的でそれ故に超然たる科学者的姿勢に由来するようだ。 自然科学的観点から人間的事象を記録するのは自然主義と同じだが、鴎外のこの作品は、例えば田山花袋の「蒲団」と同様に性欲を主題としながらも、両者はかなり趣を異にする。何故か。両者の気質・生い立ち・状況にその理由がありそうだ。 十四の頃、主人…

  • 私の常民論

    私の考えるところの「常民」について備忘録的に書き殴る。柳田国男の常民には明確な定義がなさそうだが、私はこんなふうに自由に考えている。 ・常民とは、伝統的諸観念に安住しており、その中でも特に良質なる道徳的宗教的観念を、理解というよりは体得している者をいう。従って、どちらかといえば保守的だ。 ・常民は、学識はなく、どちらかといえば無学であり、日々を労働に打ち込み、労働を通して物事を学ぶ。 ・常民は、たいていは声高な政治的主張はせず(そうすれば常民というよりは大衆や民衆となる)、自らの分限を守り、非党派的であり、非分断的だ。今日のSNS社会では、例えばツィッターなどでは「いいね」くらいはするかもしれ…

  • 田山花袋を巡って

    ・島村抱月の「蒲団」評 島村抱月は『「蒲団」評』で言う。 1)従来のきれい事しか言わない小説と比べれば、「芸術品らしくない」この小説はその限界を打破したものとして評価できるが、しかし同時に芸術品らしくないというまさにその点で弊害もある。 2)主人公の妻の描写が不十分であり、主人公と子を抱えた家庭の関係が色濃くは描かれていないので、主人公の倦怠と煩悶がリアリティを欠く。 3)「赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」であり、もっぱら醜を書いた(「醜」とはいえ「已みがたい人間の野性の声」だが)というところが画期的だ。 4)人間の醜い本能を理性の光で照らしだし、そうすることで自意識過剰な現代人の性格を露骨に示…

  • 「少女病」から「蒲団」へ ―田山花袋小論

    「少女病」(1907)から「蒲団」(1907)へ。ここには作者田山花袋のロマンチシズムからリアリズムへの脱皮が見られ、作家としての成長も見受けられ、同時に恋愛のいわば進化も見られる。ここでは、そういったことについてちょっとばかり筆を滑らせてみよう。 田山花袋は、自らが中年となって(といっても三十代半ばであるが)生活上も文学者としても活力が干からびてくると、若い女との恋愛を願望し、それが同年に発表された「少女病」と「蒲団」で露骨に描かれた。少女と言えば何ら肉欲を連想しないが、蒲団とすれば少しく生々しい。どちらの作品の主人公も生活が惰性に流されるだけで、作家としては大成の見込み薄の、妻子ある中年男…

  • 田山花袋の二つの自然

    自然には二つの意味がある。その二つの意味合いは田山花袋の代表作「蒲団」、並びに晩年の好短編「一兵卒」において確認できる。 自然概念について言えば、その意味するところは、一つは生き生きと生きたいとする生の欲望であり、そのために「蒲団」では枯れかかった中年男性は恋愛を望む。恋愛といっても片思いやプラトニック・ラブではよくない。できるだけ生き生きとしたいのであり、そのためには人として持っている精神も肉体もどちらも活性化させたいのであり、だから性交渉を伴う恋愛をしたいのだ。結婚生活はいまや惰性に流れるだけなので、だから不倫願望を抱くのだ。「蒲団」の自然は単なる肉欲に尽きるものではない。 もう一つは痛み…

  • プラトンからウィトゲンシュタインへ

    プラトンの「ラケス」の主題とウィトゲンシュタインの思想的変遷が不思議に符合する。 「ラケス」では、勇気の定義がその主題なのだが、筆者たるプラトンは対話者の一人をしてこんなふうに言わせている。勇気の定義なんてお茶の子さいさいだと思っていたのに、いざしようとなると、これまたサッパリわからなんだ、と(194b)。そこでソクラテスのお出ましなのだが、この西洋思想史上一、二を争う偉人とて、最後の最後には「勇気が何であるかを我々は発見しなかった」と途方に暮れる始末だ(199e)。 この偉人は英雄でもあって、自分が参加した戦闘が敗北した際には、沈着と冷静をずっと保っており、アテネ人の尊敬を勝ち取っている(1…

  • 罵倒詩

    どういった時に人は罵倒するだろうか。感情が昂ぶった時だ。どういった時に昂ぶるのか。愛や憎しみを強く感じる時だ。では、人はいつ愛や憎しみがとりわけ昂ぶるのか。いろいろあるだろうが、ここではこういうふうに言おう。愛する者や憎んでいる者が死んだ時だ、と。興味深いのは、愛と憎しみは相反する情熱であるのに、どちらも同じ行為へと結実することだ。読者よ、愛する者を亡くした経験があるだろうか。読者がもし男性ならば、そんな際にふと心に罵倒表現が思い浮かばなかっただろうか、「あの馬鹿め」「阿呆が」などと。これは愛情の裏返しだ。 自分が無関心な人が亡くなっても特に心は動揺しない。自分が心から憎む者が死ねばある種の感…

  • 田山花袋の「蒲団」に関する省察(1)

    主人公の竹中時雄は三十代半ばの妻子ある作家であり、ある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝いをしている。三年前に三人目の子ができ、新婚の快楽はとうに尽き、社会と深く関わって忙しいでなく、大作に取り掛かろうという気力もない。朝起きて出勤し夕方に帰ってきては妻の顔を見、飯を食って寝る、の繰り返しである。「単調なる生活につくづく倦き果てて了しまった」(二)のである。それが原因なのか、少し鬱気味でもあるようで、「家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟っても満足が出来ぬ。いや、庭樹の繁り、雨の点滴、花の開落などいう自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならし…

  • 単純系と複雑系

    単純系と複雑系について思いついたことを書き殴る。以下に書き記すことが正しいかどうかは分からない。今後の検討に委ねられよう。結論としては、自然科学と理論は単純系であるが、人文科学と生活世界は複雑系だ、ということになる。 前期ウィトゲンシュタインは写像理論で言葉と事実の1対1の一義的対応を示したが、これは自然科学だ。後期ウィトゲンシュタインは家族的類似性で事実を多義的に捉えたが、これは人文科学だ。ウィトゲンシュタインの変遷は人自然科学から人文科学へのそれを示す。 数学などの自然科学の用語は一義的であるが、歴史学や社会学などの人文科学の用語は多義的だ。数字の1はどの計算で使われても同一だろうが、革命…

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    自己宣伝です。市井の思索家であり文芸を批評する者であり詩人です。職業としては家庭教師であり予備校講師であって(オンラインでも対面でも)、英語並びに倫理を教えています。物を書いて売りたいという熱望を抱いています。五十路です。一人の妻と三匹の猫がいます。哲学系ユーチューバーになろうと密かに思っています。 哲学としては、汎心論・日常言語学・複雑系をやろうかと考えています。文芸批評では、主にロマンチシズムの周辺を漁っています。詩人としては、日英の両言語で書いています。自称では百科全書派の流れを汲んでいますが、そこは謙虚に雑学派とします。ちなみにディドロが好きです。あまり読み込んでいませんが。 こういっ…

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