Ryo Daimonji Blog蚤や蚊やわれ貧にして且つやめり 高浜虚子 明治に入ってホトトギスも順調でこの句にあるほど氏が貧していたとは思えないのだが、実際のところはわからない。どの程度に病んでいたのかも略年譜ではわからないのだが、貧乏の病気ぐらしに蚤や蚊が堪えた
Ryo Daimonji Blog小鳥死に枯野よく透く籠のこる 飴山實 昨日までいた小鳥が死んでしまった。ことさらにいうほどのことでもないのだが、そこにいて可愛くさえずっていたのにいないのだ。この句その心境を「枯野」で表し、その寂しさを「よく透く籠」でよく表している
Ryo Daimonji Blog山城へ井出の駕籠かるしぐれ哉 芭蕉 伊賀から京へ向う途中、京の井出あたりで時雨にあった。そこで駕籠を借りて山城の京へ向ったことであったなあと。この句貞享四年説があるが、当時芭蕉は「笈の小文」の旅中で、名古屋辺りに滞在していたからこの
Ryo Daimonji Blog金屏におしつけて生けし櫻かな 虚子 地紙に金箔を置いた屏風を背景に、それもぎりぎりに押し付けて生けられた櫻を詠嘆している。俳句はまず、何を詠むかであると思うのだが、この句、この櫻を美しいと詠嘆しているのか金屏風に重ねる悪趣味を詠嘆して
Ryo Daimonji Blog冬ざれやものを言ひしは籠の鳥 高橋淡路女 人間というのは色々な感覚・感情で生きているものである。この句は「孤独感」を言っている。下五「籠の鳥」鸚鵡や九官鳥のような鳥であろう。突如ものを言うのだが作者にはその声が際立って聞こえるのだ。そ
Ryo Daimonji Blog初雪やいつ大仏の柱立 芭蕉 奈良の大仏殿は永禄十年(1567)の兵火で焼けている。この句その跡地に初雪が降っている。この句は元禄二年の1689年とあるので120年も経っているわけだ、芭蕉翁がいつになったら大仏殿は改修されるのだろうと嘆かれるのも無
Ryo Daimonji Blog温泉の村や家ごとに巣くふ燕 虚子 燕という鳥は春の季語でなにやらめでたく感じる。やたら飛び回り働いて子を育てあわただしくどこか南の方へ帰って行く。何処か人間めいてさえいる。この句、温泉の村であるそうな、ただでさえのどかな家並みなのだが
Ryo Daimonji Blogこの枯れに胸の火放ちなば燃えむ 稲垣きくの 恋するのはいいのですが、こういう病気に近い激情はどうも、俳句とかやってそういう感覚をさらに研ぐというのもいかがなものかとジジイらしいことも言ってみる。いやいや恋すれど感覚や肉体も減るもんでも
Ryo Daimonji Blogいざ子ども走りありかむ玉霰 芭蕉さあ子どもたち大きな霰も降ってきたよ、このまま雪になるかもしれないけれど元気に走り回って遊びましょう。句は良品亭での連句の会の発句。良品の脇句「をしき(折敷)に寒き椿水仙」で消風・三園・土芳・半残の六吟
Ryo Daimonji Blog火の残る焼野を踏んで戻りけり 虚子 焼野は野焼後の野原のこととして春の季語と解します。季節の先取りになりますが、構わず読んでいこうと思います。 焼野(野焼)はネズミやモグラが越冬し、病気や虫が畑に入らないように野を焼くことです。最近で
Ryo Daimonji Blog冬木の枝しだいに細し終になし 正木浩一 この句、冬木の枝を写生している。そして単に写生に終わらず下五「終になし」と、その景に強烈な主観を入れているのだ。冬木の枝の先端が細く終わるのは当たり前のことであるのだが、ガンで50歳の命を俳句で終
Ryo Daimonji Blog雪の中に兎の皮の髭作れ 芭蕉 この句、子供に言っているというのは解説でも争いなくわかった。しかし、「兎の皮の髭作れ」は諸説あってわからない。私なりの解釈をするほかない。雪降る中で遊び興じている子供たちよ、その雪兎の顔に髭でも作ってやれ
Ryo Daimonji Blog元日の事皆非なるはじめかな 虚子 元日のタブーにはいろいろとある。例えば風呂に入ったり洗濯をしたり掃除をするのもいけないし、刃物を使う、火を使う、煮焚きをするなどもいけない事なんだそうだ。ということをこの句は言っているようですが、思え
Ryo Daimonji Blog大空の風を裂きゐる冬木あり 篠原鳳作 冬木を擬人化して、大空の風を裂くとして「ゐ」るとする。この旧仮名遣いに擬人化された冬木の意思のような強い気が出て良いと思った。解説(名句の所以)によると、さらに作者は明治三十八年生まれ昭和十一年三
Ryo Daimonji Blog冬庭や月もいとなるむしの吟 芭蕉 この句は中七、月もいとなるに意味があった。すなわこの「い」は糸を意味し、月が糸のように細くなる、の意味であるようだ(小学館 『松尾芭蕉集①全発句』)。さらに、「むしの吟」はわびしげな虫の声である。となる
Ryo Daimonji Blog梨壺の使の童明けの春 虚子 梨壺とは、平安京内裏五舎の一である昭陽舎(しょうようしゃ)の異称で、庭前にナシが植えられていたことに由来しています。梨壺の使いとは村上天皇の命により、天暦5年(951年)に梨壺の和歌所で後撰集を撰集し、万葉集
Ryo Daimonji Blog一九三六と覚えしこの日二・二六 奈良文夫ひどくさむい この作者は「萬力」の選者を務めた人である。このひどくさむい(昭和十一年)年に自身も生まれたのであった(毎日新聞出版 『名句の所以』)。 こういう意表をついた句は先に作り、発表したも
Ryo Daimonji Blog人びとをしぐれよやどは寒くとも 芭蕉 人びと「を」、これは格助詞で連用修飾語「しぐれ」をつくり動作の対象、目的、を起点を示す(飯塚書店 『俳句文法入門』)。この「人びと」はこの句会場の参加者をさし、その参加者のためにたとえ寒くなろうとも
Ryo Daimonji Blog五六騎のかくれし寺や棕櫚の花 虚子 なにがしの史実に根差した句であろうか、であれば自分の不見識を恥じるばかりだが、わからない。五六騎の武装した兵が隠れていた寺だという。誰を襲うためにいつのことで場所はどこなんだろう。戦国時代のことであ
Ryo Daimonji Blog次の田に畦の影ある冬田かな 倉田紘文 広い田んぼの畦にもそう言えば言える影はあるだろう、しかしこの句の田んぼは棚田のような小さく段をなす田んぼを詠んだものと解した。それは次の田に影がさすほどの段差があるのであり、しかも下五で冬の田と詠
Ryo Daimonji Blog初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉 元禄二年(1689)伊賀(三重県)へと向かう途中。初時雨ににあったところたまたまいた猿が、濡れそぼっている。その様子を小蓑をほしがっているようだ、と解した。 ところが、この句は去来・凡兆共撰の『猿蓑』の巻頭に
Ryo Daimonji Blogわれは粗製濫造世代冬ひばり 高野ムツオ 昭和22年から24年に生まれた者を「団塊の世代」と呼び、作者もその世代に属している。そのことを「粗製濫造世代」と言い換えて俳句としたのである。電化製品などがそうあっては困るのだが、人間の場合となる
Ryo Daimonji Blog皆拝め二見の七五三をとしの暮 芭蕉 し め 珍しく芭蕉さんが宗匠気分の句を作られたものである。二見浦の注連縄に皆で拝礼しようと号令をかけている図である。新年を前にしての伊勢詣で気分が高揚したものであろう、同じ日本人として
Ryo Daimonji Blog破魔弓や重藤の弓取りの家 虚子 破魔矢は厄除けのお守りで正月用の贈り物にもなった。重藤は室町時代の文献にもみられる伝統的な作りの弓で大相撲の弓取り式で使用する弓も重藤の弓が使われております(以上歳時記、ネット情報)。と、調べないとわ
Ryo Daimonji Blogしぐるるや駅に西口東口 安住 敦 この駅は大きく広い。そんな駅には出口とも入口とも言わず、東西南北から人を吸い込み吐き出すパワーがある。外は雨降りだがこの駅にはあまり関係はない。時折聞こえる電車の発着を報らすマイクの声がそれぞれに聞こ
Ryo Daimonji Blog さしこもる葎の友かふゆなうり 芭蕉 むぐら「葎の友」は、「葎の宿(貧家・草庵)の友」の意。引き籠る庵を訪う者もなく、立ち寄る冬菜売りだけが友というべきであろうか(小学館 芭蕉全句)。 解説のように読めるには、「葎の友」の意
Ryo Daimonji Blog君をおくつて凍ゆべく戸に彳みつ 虚子 こご 前書に別戀とある。恋人を送ってその別れどき戸口にたたづむのだが、寒さに凍えてゆく。たたづみつつ内心は燃え盛るのだ。凍ゆべくの破調が何とも切ない。これはもう、如何ともなし難いことで
Ryo Daimonji Blog眉の根に泥乾きゐるラガーかな 三村純也 ラグビーの試合の最中に泥が眉毛の眉間のあたりについて乾いている。その一部分を詠みだすところに俳味が存分に出た。が、下五かな止めだが「かな」の「詠嘆・感動」の終助詞とは質が違うように思うのだが、
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Ryo Daimonji Blog蚤や蚊やわれ貧にして且つやめり 高浜虚子 明治に入ってホトトギスも順調でこの句にあるほど氏が貧していたとは思えないのだが、実際のところはわからない。どの程度に病んでいたのかも略年譜ではわからないのだが、貧乏の病気ぐらしに蚤や蚊が堪えた
Ryo Daimonji Blog箱眼鏡流れに押すやすべてみどり 小澤實 腰から腹に水が来る渓流である。鮎、山女などを採るために箱眼鏡を覗き続けている。そこそこの深さがあるので箱眼鏡を押し続けなければ流されてしまう。箱眼鏡は流れを切っているので覗くと時折水泡が見えるが
Ryo Daimonji Blog猪もともに吹るゝ野分かな 松尾芭蕉 老年期とは言え家族とともにいるわたにしても、秋も台風に直撃されると心細く気弱になってしまうものである。一人暮らしの芭蕉翁にしてみればその侘しさも一入であるのであろう。ついつい強風に煽られているであ
Ryo Daimonji Blog宮柱太しく立ちて神無月 高浜虚子 ときは神無月、出雲へ行かれて神様はいらっしゃらない。そんな社の柱は変わらず太く堂々と立っている。静寂が逆に神の存在を感じさせることもある。清い世界である。
Ryo Daimonji Blog雨後の道まだら乾きや燕 小澤實 燕が飛来する頃の雨後である。何気ない景に燕を認め句とした。梅雨前の初夏のひと日。まだら乾きの道を行くにあてもない。
Ryo Daimonji Blog夏艸に富貴を飾れ蛇の衣 松尾芭蕉 夏草が貧乏くさく生い茂ることだが、せめて蛇の衣なと富貴をまして飾って欲しいものだ。芭蕉翁も蛇は嫌いであったようだが、その皮には富貴を認めていたようである。酒堂との書簡での愚痴のやりとりの一句であったよ
Ryo Daimonji Blog昼過ぎの炬燵ある間を煤払 高浜虚子 この句十一月二十五日の句会での作、とある。二十三人の名の記録がある。家の中で冬場炬燵のある間といえば、家族がくつろぐ大きい間を想像する。昼過ぎとあるので家族もそれぞれに、その間も空いていることなのだ
Ryo Daimonji Blog菜の花に坐せば対岸さらに濃し 小澤實 菜の花の黄につつまれてあるいは背にして坐り、対岸を見ていると一層その色が濃く見える。私はその色を緑と解した。黄色と緑の対比、そしてその間には春の川が流れている。この豊かな自然を私は作者とともに見て
Ryo Daimonji Blog四方より花吹入てにほの波 松尾芭蕉 琵琶湖は別称で「鳰の海」というらしい。その琵琶湖に花吹雪が吹き入っている。膳所・洒落堂からの大観とある。しほうよりはなふきいれてにほのなみと、ルビがあった。こういう大きく静かな句はいちごんも読み間
Ryo Daimonji Blog灯明るき大路に出たる夜寒かな 高浜虚子 句会の後、小路を入る居酒屋で飲んだ。ひととおりの別れの挨拶の後、一人で飲み直す店を探した。そうこうしているうちに西大路通りに出た。さほどに明るくはないが京都の西大路は大きな通りで北向きにどんどん
Ryo Daimonji Blog身の澄めり野沢菜漬に酒酌めば 小澤實 野沢菜は長野県下の特産とされる。この句の作者小澤實さんの故郷である。その野沢菜の漬物をあてに酒を飲むと身の澄むような心地がするという。いや、身が澄む、というのだ。故郷の酒はただ単に美味いだけではな
Ryo Daimonji Blog君やてふ我や荘子が夢心 松尾芭蕉 当時の俳人は多かれ少なかれ荘子に心を引かれていて、芭蕉も同様であったらしい。荘子が夢に蝶になる話は有名で、当時の俳人の常識でもあったらしい。そこで、君が蝶であるのか、このわたしが蝶を夢見ている荘子なの
Ryo Daimonji Blog五月雨に郵便遅し山の宿 高浜虚子 山中の宿に逗留している作者に五月雨がふる。見ていると昼前に郵便夫が来ている。五月雨のせいとも言えないだろうが、ちと遅いのではないか。なあに私は急くこともない身である。昼飯までをのんびりしようではないか
Ryo Daimonji Blog種馬の尻照る秋となりにけり 小澤實 稔りの秋、馬に限らず生殖行為にはめでたい気がある。よく世話された種馬の堂々たる尻のてかりには、親を継ぐ仔馬への期待と、おりからの秋という季節の豊かな締めくくりが感じられる。その全ての感慨を「秋とな
Ryo Daimonji Blogてふの羽の幾度越る塀の屋根 松尾芭蕉 この句「てふの羽」で蝶々が飛んでいる様を言いつくす。さらに「幾度越る」で何度も行き来する蝶々特有の飛び方が目に写る。全体としては古い言い回しと思うが、元禄三年(1690)作といえば、蝶々の原風景句と言っ
Ryo Daimonji Blog温泉に入るや昼寝さめたる顔許り 高浜虚子 明治三十二年七月、伊豆修善寺滞在記「浴泉雑記」を書くとある。その時に仲間内で昼寝ついでに温泉に入った時の、もの憂い自堕落な気分を詠んだものと思われる。そのような瞬間をも句にする俳人の性を感じる
Ryo Daimonji Blog般若心経二百六十二字涼し 小澤實 般若心経は朝夕できるだけあげるようにしています。二百六十二字でしたか。母は行として毎朝早く起きて写経をしていました。僕たち家族の世話をしながら、仕事もある中で100日の行をやりとげ、立派でした。意味も解
Ryo Daimonji Blogひばりなく中の拍子や雉子の声 松尾芭蕉 ひばりの鳴き声の中、雉子が拍子をとるように鳴いていることだなあ。ふと耳にした雲雀と雉子の声を句にしたものである。雲雀、雉子ともに春の季語である。こういう場合、いわゆる季重なりにはならないと理解
Ryo Daimonji Blog物売りの翁の髷や壬生念仏 高浜虚子 壬生念仏は、晩春 四月二十一日から二十九日まで、京都壬生寺で行われる花鎮法会の行事。 俗に、壬生狂言ともいう。円覚上人が鎌倉時代に布教のため唱えた珍しい仏教無言劇とされる。その時には当然多くの見物客が
Ryo Daimonji Blog 富士浅間二日灸の煙かな 高浜虚子 富士山が休火山であることは、幼い頃に学び知った。その富士山に見立てて二日灸を詠んだのだ。通常ならばこの描写はつきすぎの嫌味を感じるところであるが、この句そうは感じない。おそらく富士の祭神、木花咲耶姫
Ryo Daimonji Blog子規鳴く傾寒し浅間山 虚子ほととぎすなく かたむきさむし(と私は読んだ) あさまやま 浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568メートルの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成され
Ryo Daimonji Blogみづうみのみなとのなつのみじかけれ 田中裕明 この句は第五句集『夜の客人』に収められている。平成十七年一月ふらんす堂よりとあるので、平成十六年十二月白血病による死後のことである。この句の「なつのみじかけれ」は裕明そのものであった。付箋
Ryo Daimonji Blog梅こひて卯の花拝む涙哉 芭蕉うめこひて うのはなおがム なみだかな 貞享二(1685)年四月の作。季語は「卯花」で夏。『野ざらし紀行』の旅の途中、其角参禅の師である大顚和尚が亡くなったことを知り、其角に送った追悼句。もはや見ることのできな
Ryo Daimonji Blog短夜の闇に聳ゆる碓氷かな 虚子 碓氷峠は群馬県と長野県の県境にあって御地の交通の要衝のようだ。確かに山岳地帯であるが、私は不見識もあって聳えるという表現にはネット情報での峠のアーチ型煉瓦橋が印象に残るばかりであった。「短夜の闇に聳ゆる
Ryo Daimonji Blog春雨といふ音のしてきたるかな 鷲谷七菜子 七菜子は大正十二年生まれ。山口草堂門。草堂の指名で「南風」を継承した、とある『名句の所以』53頁。 雨の音というのも、四季折々で趣にちがいはあるのだと思う。春雨といえば冷たさがちがう、そこに同
Ryo Daimonji Blogいざともに穂麦喰はん草枕 芭蕉 貞享二(1685)年四月の作。『野ざらし紀行』途次の作。この句何やら檄を飛ばしているようでもあるが、「野ざらし」の同行者路通へのものとは思えない、おそらくは自分自身を鼓舞するような気持ちではないかと思う。「さ
Ryo Daimonji Blog夏山の小村の夕静かなり 虚子 明治二十七年虚子二十歳の作。中七下五はまさに私の住む村そのものである。少子高齢化が進み、もはや小村の昼静かなりといったところである。上五「夏山の」には虚子二十歳の勢いにつられ、3000メートル級の日本アルプ
Ryo Daimonji Blog春の家裏から押せば倒れけり 和田悟朗 和田悟朗氏は大正十二年生まれ。「白燕」同人代表。私は、自分の家を解体した経験がある。大きなユンボで四方から潰してゆくのを見ているのは辛いことであった。ユンボの舳先がくるり回り裏側から引き寄せるよ
Ryo Daimonji Blog杜若われに発句のおもひあり 芭蕉 この句は貞享二(1685)年四月四日、鳴海の知足亭で巻いた連句の発句であるとか、庭の美しい杜若を見ていると、昔、在原業平が「唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」(『古今集』『伊勢物語』)と
Ryo Daimonji Blog大紅蓮大白蓮の夜明けかな 虚子 蓮は澤の彦根大会の吟行で初めてしげしげ見たのが初めてだった。白であった。紅は見たことがない。この句その上に大がついている。そういうたっぷりした蓮を見ればそれは満足できるというもんだ。その上に夜明け
Ryo Daimonji Blogあたゝかや挨拶長き京言葉 田畑三千女 三千女は明治二十八年生まれ。高浜虚子門。「ホトトギス」同人。三千女は十二歳の舞妓の時に虚子に会い、虚子の小説『風流懺法』のモデルになった女性、とある(『名句の所以51頁』)。上五で京言葉を褒めているの
Ryo Daimonji Blog蝶の飛ばかり野中の日かげ哉 芭蕉 貞享二年(1685)笈日記とある。野には蝶ばかり、つまり蝶だけが飛んでいると逆説に強調しているものと解する。そして、その飛ぶ蝶が野中の影をなしていると解するか、日陰へと飛んでいると詠嘆しているとも解せら
Ryo Daimonji Blog蝸牛葉裏に雨の三日ほど 虚子 三日ほど雨の続く日である、葉裏に蝸牛が居ると蝸牛に雨がちな初夏を代弁させている。その上この蝸牛もまだ小さいのであろう、葉裏にいると遠慮気味に出すあたり、虚子先生のさすがと言える渋さである。反面今日的には
Ryo Daimonji Blog腹這へば乳房あふれてあたたかし 土肥あき子 あき子氏は昭和三十八年静岡県生まれとある。女性にとって乳房は年代にもよるだろうが、結構なテーマであろうと思う。あふれてあたたかい、とは多くの同性の羨望ともなろう。その響きに自己への肯定感がい
Ryo Daimonji Blog船足も休む時あり浜の桃 芭蕉 歳時記に梅の花が終わってまだ桜には早い頃の花。とあるが、私は近くで桃の花をしっかりと見るということがない。梅が咲いたと思うとすぐに桜が満開となる。そして早くも葉桜である。 貞享ニ(1685)年作。東海道の宿駅
Ryo Daimonji Blog爐塞いで此夕ぐれをいかん僧 虚子 爐塞、ようやく寒さも遠のいてきたので、冬のうち親しんできた囲炉裏や茶炉を塞ぐのであるが火がないと何やら広々とするこの夕ぐれが、手持ち無沙汰である、と嘆く僧であった。この「僧」自分のことと読んだが、他を
Ryo Daimonji Blog涅槃図にまやぶにんとぞ読まれける 後藤夜半 この句の核は「まやぶにん」。涅槃図に毛筆でそう書いてあるものがあるようだ。「まやぶにん」は「摩耶夫人」である。釈迦の母であって、産後七日目で亡くなってしまわれたとか(『名句の所以』著 小澤實)
Ryo Daimonji Blog命二ツの中に生たる桜哉 芭蕉 貞享ニ(1685)年の作『野ざらし紀行』。前書きに「水口にてニ十年を経て故人に逢ふ」とある。「命二ツ」とは芭蕉と土芳のことである。その再会の感激を水口の桜に託しているのだ。この時代に二十年を超えて逢うということ
Ryo Daimonji Blog夕暮の汐干淋しやうつせ貝 虚子 明治27年3月20日「小日本」とある。この頃虚子は碧梧桐と行動を共にしていたようだ。虚子二十歳の作品である。夕暮のしおひ狩り(と解する)に空の貝があつた淋しいことだと、虚子若き日のノスタルジーと読んだ。
Ryo Daimonji Blogはりつけにあらず寝釈迦は寝給へり 及川貞 キリスト教の尊師キリストは磔で死んだ、多方仏教の尊師釈迦は寝るように死んだ。いずれがという評価を言っているのではない、その違いを俳句に詠んだのだ。そしてその穏やかな寝姿にお釈迦さまへの敬愛の念