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藤圭子を聴く、藤圭子を読む  https://czb00023hgoto.livedoor.blog/

このブログでは、藤圭子の歌と論評を紹介していきます。 最終的には、できるだけ詳しい彼女の履歴(年表)を作成したいと考えています。

藤圭子資料室
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2022/09/02

  • わが歌のある限り 藤圭子 (完)四方田犬彦

    わが歌のありかぎり 藤圭子(完) ここで、同時代に同じ曲を歌った人物を、一人挙げておこう。 梶芽衣子もまたこの曲を自己流に読み替え、『芽衣子の夢は夜ひらく』と題して歌った。梶は藤圭子より三歳ほど年長で、1960年代中頃に日活青春映画でデビューしたが、そ

  • わが歌のある限り 藤圭子 (4)四方田犬彦

    わが歌のある限り(4) 夜になると開いていく夢とはいったい何であるのか。性的な欲望なのか、真正の恋人なのか。あらゆる絶望にもめげずまだ壺の底に隠れ潜んでいるような、人生をめぐる期待なのか。 この歌は最後までそれを曖昧にしか語らず、聴く者に謎を仕掛けている

  • わが歌のある限り 藤圭子 (3)四方田犬彦

    わが歌のある限り 藤圭子(3) 『夢は夜ひらく』を最初に歌ったのは、藤圭子ではない。1966年に園まりと緑川アコが相次いでシングル盤を出し、とりわけ園まりのヴァージョンは評判を呼んで、本人が出演して映画化がなされている。そこで主題とされたていたのは、欲望

  • わが歌のある限り 藤圭子 (2)四方田犬彦

    わが歌のある限り 藤圭子(2) 『藤圭子 わが歌のある限り』(長谷一夫、松竹、1971年)は、こうした女性歌手出世物語の歌謡映画の日本版として、典型的なフィルムである。それまで藤圭子は、日活や東映の「スケ番もの」映画に本人として、また舞台で歌う歌手とし

  • わが歌のある限り 藤圭子 (1)四方田犬彦

    わが歌のある限り 藤圭子(1)四方田犬彦  藤圭子が精神を病み、成功した実の娘を横目で眺めながら破滅したと聞かされたとき、わたしが直感的に思ったことは二つのことだった。 ああ、そうか、日本のジュディ・ガーランドとは、よく言われるように美空ひばりでは

  • 藤圭子をきく/藤圭子をみる(2)相倉久人

    藤圭子をみる 同じこの欄で藤圭子のことを書いたのはついこのあいだのような気がしていたが、調べてみるともう五か月になる。五か月といえば、歌謡曲の世界では一時期だ。藤圭子はそのときすでに売れまくっていたが、レコードは二枚目のシングル盤がやっと出たばかりの

  • 藤圭子をきく/藤圭子をみる(1)相倉久人

    藤圭子をきく 自分では躁鬱病ではないかと疑っているのだが三月ごとに判で捺したように巡ってくる好不調の波の、今はちょうど鬱状態からの脱出期にあたっていて、そういえば、最後に文章らしい文章を書いたのは、たしか去年(1969年)の11月だった。それ以来一行の文

  • 藤圭子 ゆかりの「新宿」を歩く デビューも最期も「因縁の地」鈴木琢磨

    藤圭子 ゆかりの「新宿」を歩く デビューも最期も「因縁の地」鈴木琢磨  藤圭子のことが気になっている。高度成長の真っただ中、「新宿の女」でデビューした彼女が62歳で、その波乱の人生に自らピリオドを打ったのも新宿だった。なぜ? わかるわけなどないけれど

  • 滅びの演歌(6)後藤正治著「60年代の肖像」より

    60年安保で退陣した岸内閣のあとを受けた池田内閣は、「所得倍増」を掲げた。およそ不可能な目標に見えたが、十年後の1970年における国家公務員の初任給は三万六千円となっている。給料という指標でいえば倍増をはるかに超えた。「豊かな社会」の誕生は、左翼理論が

  • 滅びの演歌(5)後藤正治著「60年代の肖像」より

    大宅壮一文庫は、週刊誌。月刊誌記事のタイトルを取り出し、人名別に整理しているが、女性週刊誌を中心に藤圭子の記事は随分とある。(中略) スター歌手がスター歌手と結婚し、ハッピーな家庭を築く。結婚生活は短期間で破綻するが、もう「私の人生暗かった」といって

  • 滅びの演歌(4)後藤正治著「60年代の肖像」より

    『新宿の女』と〈藤圭子〉をつくりあげたのは、絞り切れば一人の男である。枠を広げても二人だったといっていい。石坂まさを、そして榎本襄である。 石坂が藤の売り出しに奔走しはじめたころ、レコード会社の若いディレクターが助っ人として現れた。RCAレコード(の

  • 滅びの演歌(3)後藤正治著「60年代の肖像」より

    『新宿の女』と〈藤圭子〉をつくりあげたのは、絞り切れば一人の男である。枠を広げても二人だったといっていい。石坂まさを、そして榎本襄である。 石坂が藤の売り出しに奔走しはじめたころ、レコード会社の若いディレクターが助っ人として現れた。RCAレコード(のち

  • 滅びの演歌(2)後藤正治著「60年代の肖像」より

    暗い詞の、暗い音調の、暗い余韻を残す歌である。歌い手は、割れたような低音の持ち主であった。まだ十七歳。よく光る瞳を持つ美少女でありながらまぎれもなく暗い存在感をたたえている。 夜、レコードを回していると、底なし沼に落ち込んでいくような気分になる。別段、

  • 滅びの演歌(1)後藤正治著「60年代の肖像」より

    2009年に出版された「60年代の肖像」で著者が取り上げた人物は次のとおり。 藤圭子 ファイテング原田 ビートルズ&ボビー・チャールトン(サッカー選手) シンザン(をめぐる人々) 吉本隆明   バラエティに富んだ選考だ

  • 藤圭子・ヒカルの「母子舟」田勢康弘

    藤圭子・ヒカルの「母子舟」 政治ジャーナリスト 作詞家 一般社団法人「心を伝える歌の木を植えよう会」代表田勢康弘ダンスパーティーで誰からも誘われない壁の花のように少女は所在なげだった。この少女が何者かを知っているのは天井の高いこの部屋にいる百人ほどの招待

  • 回想『藤圭子』(後)エゾ中村

    ここからは、『 藤 圭子 』のプライベートな部分に触れたいと思います。 『 藤 圭子 』の人柄や性格を、ネットで調べていると意外な発見がありました。 娘「 宇多田 ヒカル 」が5歳頃から、情緒不安定で躁(明)と鬱(暗)を繰り返していたと、何人かのコメントがありま

  • 回想『藤圭子』(前)エゾ中村

    回想『藤 圭子』 エゾ中村 ある日、1970年代の音楽が無性に聴きたくなり、YouTube で沢田研二・朱里エイコ・ビリージョエル・スリーディグリーズ・・・ 数々の曲を聴きましたが、概ね古い曲としか聴こえてきませんでした。 そんな中、ある女性歌手のイメージが

  • 藤圭子異聞(2)私の音楽ルーツ その2 GSオリーブ マミー

    オリーブの合宿所が近所からのクレーム(ファンの人達の棄てるゴミ問題や、騒音でホリプロに抗議の電話)でとうとう追い出されるはめに‥‥これを契機に一人一人が独立して住むことに、ホリプロで探してくれたのは、合宿所のすぐ近くにあるアパート!私は青森から出てきてか

  • 藤圭子異聞(2)私の音楽ルーツ その1 GSオリーブ マミー

    オリーブの合宿所には連日連夜ファンの人が押し寄せてきます!平日で50~60人、土 日には100人近いファンのひとがマンションの周りを囲むように我々メンバーが出て来るのをまっています!朝起きてボーヤに「今日は何人ぐらいきているの?」って聞くのが日課です‼いつもカー

  • 藤圭子異聞(1)おでん三吉

    藤圭子異聞(1)おでん三吉http://kizunanohousoku.blog34.fc2.com/blog-entry-2560.html 先輩から、このような話を聞いた事があります。 終戦間もなくの頃、役所勤めをやめて、御主人は慣れないおでん屋を開きました。夫婦二人での出発です。 年の瀬も迫ったある大雪の

  • 追悼・藤圭子へ(完)久保隆

    【2】沢木耕太郎著『流星ひとつ』を読みながら、思ったこと。  亡くなった後、様々な新聞・雑誌の記事の中に、次のような文章があった。  「(ロックが歌いたかったという=引用者記)夢を求め、79年に芸能界を引退した藤圭子は単身、渡米する。そこでたまたま

  • 追悼・藤圭子へ(1)久保隆

    追悼・藤圭子へ 久保隆 【1】藤圭子の〈自死〉をめぐって 藤圭子が、〈自死〉して四ヶ月以上過ぎたことになる(8月22日)。もう、何年も前のことのように思えてくるから、不思議だ。こうして、時間をおいてみると、藤圭子の〈声〉や〈歌〉は、やはり、自分にとって

  • 時代を生ききった女性の輝き 梯久美子

    これは梯久美子が沢木耕太郎著「流星ひとつ」の新聞書評として書いたものである。梯は文庫版「流星ひとつ」の解説も書いており、そちらを読んでいただいた方がいいとは思うが、今回はこちらを紹介する。時代を生ききった女性の輝き 梯久美子 1979年秋、沢木耕太郎が、藤圭

  • 昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影(完)北海道経済

    念願の修学旅行が実現 5年生の2学期、大有小から神居小に転校した藤さんは、相川光康さん(61)のいる5年2組に編入。6年のときも同じクラスで、相川さんが級長、藤さんが副級長を務めたが、「学級会で僕が言葉に詰まったりすると、彼女が手助けしてくれた」と相川さん。

  • 昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影(2)北海道経済

    7歳から流し 藤さんは1951年、岩手県一関市で地方まわりの浪曲歌手だった父、松平国二郎さん(本名・阿部壮)と、目が不自由な三味線奏者の母、竹山澄子さん(同・阿部澄子)との間に、巡業の途中、3人兄弟の末っ子として生まれた。 一家は、藤さんが生後間もなく渡

  • 藤圭子21歳

  • 「昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影(1)北海道経済

    北海道旭川市で発行されている「北海道経済」の2013年10月号に「昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影」という記事が掲載されている。この記事はNETにも一部が掲載されているので、読んだ方も多いのではない

  • 歌の行間から負の叫びをうたった天才(3)酒井政利

    ―酒井さんは優れた天才的な歌手の方をたくさんご覧になっていますが、藤さんに似たような方はいますか。 私が担当した中に、似たタイプはいないですね。しかし系譜としては、西田佐知子さんに似ていると思います。西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」をはじめと

  • 歌の行間から負の叫びをうたった天才(2)酒井政利

    -81年に「蛍火」をプロデュースされています。 デビューのころ、彼女はRCAでしたが私はコロンビアにいて、そのあとソニーに移りました。一緒に仕事をする出会いは、それからまた年月が経ってからです。彼女が引退宣言をして、海外へ渡ったんです。それから8カ月ぐ

  • 歌の行間から負の叫びをうたった天才(1)酒井政利

    歌の行間から負の叫びをうたった天才 酒井政利 ―藤圭子さんと出会ったのはいつですか。 デビュー直後です。石坂さんとはときどき一緒に仕事をしていましたから、彼を通じて彼女の動向を詳しく聞いていました。そのあとで石坂さんから紹介された彼女は、眉の濃い、

  • 目次

    ブログ「藤圭子を聴く、藤圭子を読む」藤圭子資料室 目次 [2022・4]藤圭子の歌100選(オリジナル曲50曲)〃 (カバー曲50曲)美空ひばりの珠玉名曲「みだれ髪」17名の歌手の歌い比べ藤圭子の詩・歌詞 お人形〃

  • 藤圭子 小学生時代

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(完)小田中裕次

     この歌からまた15年以上が過ぎた後、藤圭子は自ら命を絶ってしまった。藤圭子とおそらく同等以上の才能を持ち、同じような人生を歩んでいるかに見える宇多田ヒカルの歌と声からは、母親と同種の哀切さがいつも懐かしく聞こえて来るので、今となってはその歌声だけが慰めだ

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(8)小田中裕次

     それから約15年後にこの「みだれ髪」を唄ったときの藤圭子は、プロの芸にまだ衰えはなく、おそらく唯一崇拝していた歌手、亡き美空ひばりへのオマージュという特別な感情を心中に抱いていたのと同時に、星野・船村コンビによるこの曲そのものに、歌手として心の底から共感

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(7)小田中裕次

     そして、インタビューの前半では言い渋っていた少女時代の家庭生活、特に父親に関する凄絶な体験と記憶、よく見る夢の話などを読んでいるうちに、逃げ出したいと思い続けていた過去、封印したいと思っていた原体験が、無表情で「何も覚えていない(=忘れたい)」藤圭子の

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(6)小田中裕次

    本の前半、少女時代から歌手になるまでの記憶のかなりの部分が、ある意味「飛んで」いて、その当時についていろいろ質問しても、藤は「覚えていない」を繰り返し、沢木を呆れさせている。歌についても「何も考えずに無心で歌っていた」と何度も言い、あの無表情なデビュー

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(5)小田中裕次

    いったい藤圭子の「みだれ髪」にはどういう秘密があるのだろうか? なぜあれだけの歌が唄えるのだろうか? 私はジャズ好きで、美空ひばりや藤圭子の特別なファンというわけでもなかったので、えらそうなことは言えないが、ジャンルに関係なく、少なくともこの二人が歌い

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(4)小田中裕次

    哀しい女の心情を切々と謳い上げる美空ひばりは、星野・船村コンビの世界をある意味忠実に、古風に、美しく表現しているのだと思う。それに対して、べたつかない乾いた抒情を感じさせながら、しかし心の底の寂寥と哀切を絞り出すように唄う藤圭子は、まったく別の、救いのな

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(3)小田中裕次

    番組の構成がそういう前提だったのかもしれないが、まず驚いたのは、この番組で藤が美空ひばりの曲を選んでいることだった。昔のカバー・バージョンが入った藤のCDを調べたが、美空ひばりの曲は見つからなかったので、それだけで珍しい。これも番組の設定なのだろうが、司

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(2)小田中裕次

    年末の船村徹の追悼番組で、東京ドームの『不死鳥コンサート』(1988年)で美空ひばりが唄う「みだれ髪」(星野哲郎・作詞、船村徹・作曲)を聴いて改めて感動したのだが、他の歌手も同曲をカバーしているのがわかったので、YouTubeであれこれ比べて聞いていたときに見つけ

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(1)小田中裕次

    藤圭子 みだれ髪の謎 天才的な音楽アーティストというのは、常人には理解不能な面があるものだが、当然ながら本人に尋ねたところでそのわけが明らかになることはない。特に、普通に会話していると、まったく常人と変わらないごく普通の人なのに、いざ演奏なり、歌うこ

  • 藤圭子 ガラス細工の冷たさ(完)新藤謙

    この歌の曲のほうは、その前に園まりや緑川アコが歌った『夢は夜ひらく』と同じものである。ただ歌詞が替えられているにすぎない。が、歌詞のちがいは、同時に園まりと藤圭子のキャラクターのちがいにつながっていた。 雨が降るから 逢えないの 来ないあなたは 野

  • 藤圭子 ガラス細工の冷たさ(2)新藤謙

    にほんブログ村 十五、十六、十七と 私の人生暗かった あの『圭子の夢は夜ひらく』をヒットさせ、藤圭子を演歌の星としてスターダムに乗せるためには、プロダクションやレコード会社にとって、そういう創作が必要だったのである。なぜなら、不幸を歌う流行歌にと

  • 藤圭子 ガラス細工の冷たさ(1)新藤謙

    にほんブログ村日本の流行歌手 東海林太郎からピンクレディまで 新藤謙著 1979年4月15日発行 より簡単な解説 新藤謙は大衆芸能論の分野でなかなかいい仕事をした人だが、彼の藤圭子論はいただけない。誤っているといっても間違いではないと思うが、当時、藤圭

  • パリからの演歌熱愛書簡(5)吉田進

    絶妙な間と自在な独白 藤圭子の仕事でほかにぜひ注目しておきたいのは、78年2月のNHKビッグ・ショーのライブ盤に収められている《聞いて下さい私の人世》(作詞作曲・六本木哲、補作詞・岡千秋)で聞くことのできる、間の取り方のうまさである。 根性 根性ひ

  • パリからの演歌熱愛書簡(4)吉田進

    にほんブログ村  男に捨てられて 見栄もなく 夜更けの酒場で 女が泣いている死ぬことすらも 出来ないくせに生きていくのが つかれたと真赤なネオンに ふてくされ 涙枯らして お酒にすがる そこにそこに そこにいるのは ただ生きてるだけの

  • パリからの演歌熱愛書簡(3)吉田進

    にほんブログ村

  • パリからの演歌熱愛書簡(2)吉田進

    にほんブログ村非常にナイーヴな人間の歌声 昨年の十月、僕はとてもつらい思いをした。 藤圭子の引退を告げる、日本から送られてきた新聞記事を手にして、まさか、とわが目を疑った。 それはちょうど、愛しあっていると信じていた女に、「もうあなたを愛せないの」

  • パリからの演歌熱愛書簡(1)吉田進

    にほんブログ村パリからの演歌熱愛書簡 吉田進 1995年11月20日初版発行 藤圭子 演歌の女王 演歌という言葉が明治生まれであることは、「演歌とはなにか」の中に書いたが、本来の意味を失ったこの語は、時と共に次第に一般の口には、あまりのぼらなくな

  • 『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー(完)榎本襄

    凄まじいヒットの“瞬間風速”のなか 18歳の藤圭子と腹を割って話ができる人がいなかった。―― 1970年のオリコンアルバムランキングは、藤さんの作品がほぼ一年間1位を独占という人気ぶりでしたが、あの時ご本人的にはもっともっと売れたいという気持ちが強かったのか、

  • 『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー(3)榎本襄

    「圭子の夢は夜ひらく」はインパクトがあり過ぎるからサード・シングルにしたんです。―― その中から「新宿の女」をデビュー曲に選んだ理由を教えて下さい。榎本  この子に何をすべきかという事を、デミング博士の “魚の骨理論”を取り入れ、ます魚の背骨を書き、頭

  • 『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー(2)榎本襄

    ―― 榎本さんのレコードマンとしてのアンテナが反応したんですね。榎本  当時僕は新米ディレクターで、まだ担当歌手がいませんでした。先輩からは「担当する歌手を抱えていないやつは、誰でもよく見えるものだ」と言われました。『藤圭子劇場』のブックレットの中でも

  • 『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー(1)榎本襄

    にほんブログ村『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー 榎本襄(音楽プロデューサー)「あの歌声を初めて聴いたのは彼女がまだ17歳の時でした」――。藤圭子の鮮烈デビューから引退までの10年間担当だった元RCAディレクター榎本襄氏だから語れる、もうひとつの“藤圭子劇

  • 『藤圭子劇場』担当ディレクターインタヴュー(完)尾形靖博

    ―― 今回のジャケットの写真もインパクトがあります。尾形  写真を選ぶのってものすごく大変で、でも私は写真を選ぶのだけは自信があります(笑)。今回のジャケット写真も絶対これしかないと思っていましたし、表4も客席から花束を受け取っている写真しかないと思ってい

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