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藤圭子を聴く、藤圭子を読む  https://czb00023hgoto.livedoor.blog/

このブログでは、藤圭子の歌と論評を紹介していきます。 最終的には、できるだけ詳しい彼女の履歴(年表)を作成したいと考えています。

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2022/09/02

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  • 「さすらい」と「風子 二十四 不幸せ」

    「さすらい」と「風子 二十四 不幸せ」 この2曲は、阿久悠がスポニチに連載していた「阿久悠の実践的作詞講座」の藤圭子の篇の入選作品で、いずれも遠藤実の作曲でレコード化されている(昭和50年9月発売の藤圭子25枚目のシングル)。「阿久悠の実践的作詞講座」は

  • 週刊朝日 1970-10-23 流行歌手における命の預け方の研究(完)

    週刊朝日 1970-10-23 流行歌手における命の預け方の研究(完)テレビ出演断れば今後に差支えます しかし、いくら契約書にそうあるからといって、歌手の身体までダメにするようなスケジュールを組むプロダクションはどういうつもりなんだろう。「デビューして一、二年のタレ

  • 週刊朝日 1970-10-23 流行歌手における命の預け方の研究(2)

    週刊朝日 1970-10-23 流行歌手における命の預け方の研究(2)睡眠時間は五時間 一生懸命眠ります 殺人的スケジュールに追いまわされているのは、なにも藤圭子一人ではない。このところヒット曲を出して、テレビのベストテン番組に顔を出しているタレントは、みんな同じよ

  • 週刊朝日 1970-10-23 流行歌手における命の預け方の研究(1)

    週刊朝日 1970-10-23 流行歌手における命の預け方の研究(1)風邪に不眠に卒倒と私の日程つらかった藤圭子、倒る!と思ったら三日後には巡業地に青い顔で飛びたった。売れっ子タレントは静養も思うようにならないらしい。生まれてきたのは親のため、スターになったのはプロ

  • 二度と繰り返したくない人生 藤圭子(完)

    二度と繰り返したくない人生(完) 藤圭子やっと落ち着いて歌える今の目標は親子三人での楽しいサウンド作りだ 「アメリカに呼ばれたような気がしたんです。なにか身につけようと考えたら英語が浮かんできて。それに、歌しか知らない私が日本にいて、ほかの人の歌を聞くの

  • 二度と繰り返したくない人生 藤圭子(3)

    二度と繰り返したくない人生 藤圭子(3) 薄幸の少女なんてだれが決めたのか生れたときからいままで私は普通の女だと思って生きてきた 中学を卒業するまでテレビなどろくに見たことがない。上京してからも家にはテレビはなかった。デビュー後は、テレビはあったが見る時

  • 二度と繰り返したくない人生 藤圭子(2)

    二度と繰り返したくない人生(2) 藤圭子やることがないから歌いはじめただけだ 藤圭子。本名、宇多田純子は一九五一年七月五日に岩手県一関で生まれた。両親はともに浪曲師。東北地方、北海道を中心に巡業していた。藤圭子が参加したのは十歳の頃からだった。レパートリ

  • 二度と繰り返したくない人生 藤圭子(1) 山下勝利

    二度と繰り返したくない人生(1) 藤圭子 ふたたびいい女列伝 山下勝利著(1995年10月20日第一刷発行)より 結婚のいきさつを聞かれ、テレからか、なりゆきです、もののはずみですと答える人がいる。 実情は大恋愛だったり、中であったり、なかには小の名

  • 日本の顔顔顔……99 歌手、藤圭子 森本哲郎インタビュー

    日本の顔顔顔……99 疋田桂一郎・森本哲郎 朝日新聞社昭和46年11月25日第一刷発行 庶民派 藤圭子 歌手十五、十六、十七と、キミの人生暗かった?「えっ、別に暗くないです。あたしの青春はくらくない……自分なりに……」楽しかった?「……楽しい

  • 森山大道の怨念のレンズが藤圭子をとらえた

    森山大道の怨念のレンズが藤圭子をとらえた(昭和46年1月26日発行「週刊プレイボーイ」) 怨念の映像・新シリーズ 森山大道 対 藤圭子 「カラーで7ページです」「もったいないわね」「えっそんなことないよ」 この仕事を始める時の会話である。

  • 前川清、6度目の命日を迎えた元妻・藤圭子さんへの愛を語る(完)加藤みのり

    ◆藤の死の知らせを聞いたとき、前川は…  6年前の8月22日。それはあまりにも突然で、あまりにも衝撃的な訃報だった。早朝の東京・新宿。藤は居住していたマンションの13階から飛び降り、62年の人生に自ら幕を閉じた。 “藤圭子、自殺”この報道に、都内でコンサートのリ

  • 前川清、6度目の命日を迎えた元妻・藤圭子さんへの愛を語る(3)加藤みのり

    1972年8月12日、おしどり夫婦と呼ばれたふたりの電撃離婚会見。これもまた、「(離婚の理由は)ありません」と、掴みどころのないものだった。 「ボク自身も結婚生活を振り返ってみても“なんだったんだあれは?”って思いますもん。ただね、1年間の結婚生活のなかで

  • 前川清、6度目の命日を迎えた元妻・藤圭子さんへの愛を語る(2)加藤みのり

    ◆若き大スターとの結婚 多忙極まる新婚生活 48年前の6月、前川と藤の婚約発表に世間は沸いた。「ボクが22才で彼女は19才。お互い、好きだという気持ちは当然あるけれど、実はどうしても夫婦になりたいというわけではなかったんです。ただ彼女は、当時、恩師で事務所の

  • 前川清、6度目の命日を迎えた元妻・藤圭子さんへの愛を語る(1)加藤みのり

    藤圭子さんへの忘れ得ぬ愛を語る前川清 かつて作家・五木寛之氏に「“演歌”でも“援歌”でもない。“怨歌”である」といわしめた歌手・藤圭子(享年62)。彼女が儚く散ったあの日から、はや6年。生きていれば今年9月にデビュー50周年を迎えていた。6度目の命日を前に、

  • 麗人の歌と無法松の一生

    麗人の歌と無法松の一生 彼女が亡くなられた頃、Netに次の文章が上げられていました。 1974/8/9 広島音楽祭で藤圭子は「麗人の歌」を歌う目の前で見ていた古賀政男は不満顔、自分の歌を「藤圭子」として歌っているから譜面、ときには歌詞さえ、自分自身の気

  • 藤圭子&森昌子、デュエット

    藤圭子・森昌子 もしかして PARTⅡ - YouTube島育ち・もしかしてパートⅡ(動画)★藤 圭子&森 昌子 - YouTubeこのときの森昌子は楽しそうですね。「さあ、歌いましょう、と藤圭子をリードしているようにも見える。藤圭子が一世を風靡していた1970年、森昌子は12歳。

  • 藤圭子のサイン

  • 「人物の話」藤圭子さん、安らかに 中野由紀子

    2013.08.26[人物の話]藤圭子さん、安らかに  中野由紀子  歌手の藤圭子さんが亡くなりました。残念なことでした。私の子どもの頃は、彼女はもう有名人でした。トレードマークの黒髪のおかっぱ、目鼻立ちのはっきりした美人でしたね。あんなに美しい人がいるで

  • 流れ星になった藤圭子のブルース「圭子の夢は夜ひらく」(完)佐藤剛

    ぼくはその二枚のアルバムを購入して聴き込んだことで、自分のなかにあった洋楽偏重の意識から解放された。いつも通っていた居酒屋『桂川』の人気トップ5は、邦楽が藤圭子、内山田洋とクール・ファイブ、岡林信康、青江三奈、森進一の順だった。  洋楽はサイモン&ガ

  • 流れ星になった藤圭子のブルース「圭子の夢は夜ひらく」(1)佐藤剛

    流れ星になった藤圭子のブルース「圭子の夢は夜ひらく」 佐藤剛  1969年に起こった東大安田講堂事件の終息を境に、高度経済成長を続けてきた日本を閉塞感が襲います。それは、進化し続ける歌謡界に、1960年代半ばから起こったフォークブームが加わり、百花繚乱の様相

  • 〈卓上四季〉圭子の歌

    北海道新聞2023年8月23日<卓上四季>圭子の歌 日本人形のように愛らしい小柄な少女だった。それが歌い出すと、すごみのあるハスキーな声。驚くほどうまい。10代後半のデビュー直後からスターとなった。藤圭子さん。時代を画す女性歌手を歌姫と呼ぶなら、文句

  • 【重要】歌姫藤圭子、あるいはねずみの族(完)酒井隆史

    と、ここまでは助走であって、私が強調したいのは、歌姫ヨゼフィーネが、ねずみ族から見捨てられたようにみえるが、そうではなくねずみ族を見捨てたという一点である。われわれは彼女から見棄てられたのである、そうかんがえると、重い心はすこしだけ軽くなった。 「

  • 【重要】歌姫藤圭子、あるいはねずみの族(3)酒井隆史

    どういう話かというと、ねずみ族がまず出てくる。ねずみ族には歌姫ヨゼフィーネがいる。彼女は、たいして芸があるわけではなく、ねずみ族の「ちゅうちゅう」というふつうの鳴き声を繰り返しているだけのようにみえる。しかし、その鳴き声は族のねずみたちを惹きつけ、彼女

  • 【重要】歌姫藤圭子、あるいはねずみの族(2)酒井隆史

    彼女は、デビュー当初から、みずからの声が吞んでいるドスの抜身の見せ方が隠し方がめっぽううまく、リズムの微妙なズラしを通して-それは彼女の抜群のリズム感を示している-、ふとした不安、疲労、やるせなさやさびしさを表現することに異常に長けている。総じていえば

  • 【重要】歌姫藤圭子、あるいはねずみの旅(1)酒井隆史

    歌姫藤圭子、あるいはねずみの旅 酒井隆史  子供のころは藤圭子と藤純子の違いがよくわからず、少し成長してからも「圭子の夢は夜ひらく」を気が向いたときに口ずさんでいた程度の筆者が、藤圭子に突如熱中しだしたのは、十数年前に二枚組のLP『歌いつがれて25年

  • 瞽女(ごぜ)の娘(完)大石始

     輪島裕介さんの名著『創られた「日本の心」神話――「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)には、50年代末、時代の波に押し出されるようにレコード歌手へ転向していった浪曲師のことが紹介されている。双葉百合子、村田英雄、三波春夫。  同書において

  • 瞽女(ごぜ)の娘(4)大石始

    本稿ではそのガセネタの大元を突き詰めることはしないが、水上勉の「はなれ瞽女おりん」(75年)や、同作を原作とする篠田正浩の同名映画(77年)に象徴的に描かれていたような瞽女の哀しみ、苦難を藤圭子の半生と重ねたくなったその人物の気持ちは分からないでもない。

  • 瞽女(ごぜ)の娘(3)大石始

    浪曲と浪花節は基本的に同じもので、浄瑠璃などと同じ語り物の一種。明治時代初期、説教節や祭文、阿呆陀羅経などが融合した浮かれ節が発展する形でそのスタイルが確立された。後に上方の芸人、浪花伊助がブレイクしたことから〈浪花節〉と呼ばれるようになったが、浪花節と

  • 瞽女(ごぜ)の娘(2)大石始

    71年に『演歌の星 藤圭子』(ルック社)という藤圭子の自伝が出ている。同時期にいくつか世に出た藤圭子の半生記同様、苦難に満ちた彼女のライフストーリーを強調しようとするあまりいくつかのエピソードが多少捏造されていそうな気配はあるものの、事実と思われる箇所を

  • 瞽女(ごぜ)の娘(1)大石始

    瞽女 (ごぜ)の娘 大石始  藤圭子の母は瞽女である――都市伝説めいたそんな話を耳にしたのはいつのことだったろうか。 藤圭子の母ということは、言うまでもなく宇多田ヒカルの祖母。日本歌謡界の大スターである母とその娘が中世から続く放浪芸の流れをくむ瞽女

  • 昭和の夜に咲いた花 YAMAOKA Kimiko

    昭和の夜に咲いた花。 YAMAOKA Kimiko 歌手の藤圭子の訃報に驚いている。藤圭子、と言ってもこのブログを読んでいる人たちはどのくらい知っているだろうか……宇多田ヒカルの母親ということのほうがわかりやすいかもしれない。 大学を学園紛争が荒れ狂うころ

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(完)

    幸運だったピンチ・ヒッター  中学の卒業式をあと一カ月後に控えていたころ、岩見沢で雪まつりショーが催されることになりました。ところが出るはずの新人歌手が、急に出られなくなりって、そのピンチ・ヒッターの役が、私に廻ってきました。その話はもともと、私をヒイ

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(8)

    湯治場で初の出演料 中学校二年のとき、弁論大会があって、私は「困難に打ち勝とう」という題で参加しましたら、それが優勝してしまいました。 そういうもっともらしい反面、お茶目なところもありました。授業中に漫画を描いては。友だちに廻して、いたずらをしたこと

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(7)

    小学校四年で歌手の道へ ところで、小学校時代の私は、どうだったかなぁ……って、考えてみます・どうもあまり目立たなかった存在のようです。先生にある問題を出されたとします。心の中では、答えよう答えようと思ってぐずぐずしている間に、ほかの人に答えられてしま

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(6)

    必死でとった父の給金 冬でした。どの年も冬という季節は、私たち一家に貧乏風がいつもより強く荒れまくる感じでした。とにかく左官の雇主から給金をもらわないと一家が餓死してしまいます。 そこで、母を先頭に、兄と私は、毎日のように雇主の家へ通い詰めて、「お金

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(5)

    他人のバクチ代に消えた両親の稼ぎ 私は小学校に入学する年頃になったとき、ふたたび旭川の知りあいの家にあずけられることになりました。その家にはすでに、博兄さんと冨美恵姉さんがあずけられていたのです。 しばらくして、この家が大へんなところだとわかりました

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(4)

    ひもじさの中で知った両親の愛 東北や北海道の冬の巡業はたしかにつらい思い出でした。零下二十八度もある留萌や旭川のしばれるような寒さ。雪で両親が巡業がなく、わずかばかりの馬レイショで夕飯をひもじい思いをしたこともあります。お金がなくて汽車に乗らずに半日も

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(3)

    幼な心に知った喜怒哀楽 父は私のことを「純ペ」と呼んでいたそうです。まだ生まれる前の母のお腹が、大変に大きかったので、「こりゃきっと男の子だろう」ということから、そんな男の子みたいな呼び方をしていたのです。 さて、母が私をおぶっていてはやはり、仕事に

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(2)

    汽車の中で陣痛を起こした母 私が母のお腹にいる頃はひどい貧乏で、母は大きなお腹を抱えながら、一日も休まず旅から旅の生活を続けていたそうです。その旅は、北海道を中心に、東北の田舎町から新潟と流れまわり、お祭りとか工事現場の飯場、養老院の慰安会などが稼ぎ

  • 藤圭子 自身を語る 私の十八年(1)

    私の十八年〈涙の記録〉 盲目の母とともに十五、十六、十七 と暗い人生をたどった灰色の青春譜 藤 圭子(歌手) しがない旅芸人の子と生れ 私は17になったばかりで、手記を書くといっても

  • 藤圭子の時代(完)上野昻志

    1969年初頭の東大安田講堂攻防戦は、テレビで二日間にわたって放映されたこともあり、一般的にも注目を集めたが、私の記憶に強く残っているのは、日付けがはっきりしないために、ここに挙げなかった広島大学のバリケードをめぐる攻防戦である。当時耳にした噂では、広

  • 藤圭子の時代(2)上野昻志

    ここで、クロニクル風に、1969年の表立った事件を挙げておこう。 1月2日 皇居の一般参賀で、ガラス越しに人々に手を振る天皇に向けて、奥崎謙三が「山崎、天皇を撃て!」と言いながらパチンコ玉を撃つ。1月3日 唐十郎率いる状況劇場が、開発中の新宿中央

  • 藤圭子の時代(1)上野昻志

    藤圭子の時代(1)上野昻志  あれは、新宿のゴールデン街だったか、それとも、いまは路地そのものが消えた緑苑街だったか、カウンターに7,8人も座れば一杯になりそうな小さな酒場で、ウイスキーのグラスを傾けているときに有線から流れてきたのが、あの歌だった。

  • 藤圭子のようになりたかった(完)渚ようこ

    ―どの曲が好きですか やっぱりヒットした曲は全部好き。「圭子の夢は夜ひらく」とか「命預けます」とか「新宿の女」とか「京都から博多まで」とか「女のブルース」とか皆好きだし、前川清さんの歌をカヴァーした「逢わずに愛して」。ライブ盤でも、「銀座カンカン娘」と

  • 藤圭子のようになりたかった(1)渚ようこ

    藤圭子のようになりたかった 渚 ようこ ―藤圭子さんの死を聞いて、どう思いましたか。 歌を歌う人って、すごく紙一重なところがあると思います。だから、そのぎりぎりの紙一重のところを超えてあちら側にいっちゃったんだなと思いました。ちょっとびっくりしたけ

  • 若い世代の藤圭子論

    最近、若い人たちの「藤圭子論」が目に付きます。二つほど紹介しておきます。若い世代の間で藤圭子さんへの関心が高まるのは嬉しいですね。よく見ていると思います。(1) 藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」迫真の歌唱で思わず涙が出てしまった【Room3の見れるラジオ】

  • ふたつの夢は夜ひらくは同じ景色を背負っていた(完)三上寛

    ―藤圭子さんについてはどうおもわれていましたか。 宇多田ヒカルが藤圭子の子どもだと知った時にね、声がそっくりだと思った。私の感覚だと、日本人は、あの藤圭子の声を消化できなかったんです。ずっと彼女の声を聴いていたはずだ。だから娘が出てきたんじゃないかって

  • ふたつの夢は夜ひらくは同じ景色を背負っていた(2)三上寛

    ―「圭子の夢は夜ひらく」を聞いた時、どう思いましたか。 インパクトがありました。「明日はジョージか、ケン坊か」という、あのフレーズがね、何かこころに残りました。たまたま、ケン坊とかタア坊とか、新宿に友達でいたんだよね(笑)。トミーもいたし、なんで昔はあ

  • ふたつの夢は夜ひらくは同じ景色を背負っていた(1)三上寛

    ふたつの夢は夜ひらくは同じ景色を背負っていた(1)三上寛 ―藤さんと直接お会いになったことは。 ないんですよ。ただ、一度だけすれちがったことがあります。すでに彼女はデビューしていて、田原総一朗が「ドキュメンタリー青春」をとっていて、藤さんのことを追

  • わが歌のある限り 藤圭子 (完)四方田犬彦

    わが歌のありかぎり 藤圭子(完) ここで、同時代に同じ曲を歌った人物を、一人挙げておこう。 梶芽衣子もまたこの曲を自己流に読み替え、『芽衣子の夢は夜ひらく』と題して歌った。梶は藤圭子より三歳ほど年長で、1960年代中頃に日活青春映画でデビューしたが、そ

  • わが歌のある限り 藤圭子 (4)四方田犬彦

    わが歌のある限り(4) 夜になると開いていく夢とはいったい何であるのか。性的な欲望なのか、真正の恋人なのか。あらゆる絶望にもめげずまだ壺の底に隠れ潜んでいるような、人生をめぐる期待なのか。 この歌は最後までそれを曖昧にしか語らず、聴く者に謎を仕掛けている

  • わが歌のある限り 藤圭子 (3)四方田犬彦

    わが歌のある限り 藤圭子(3) 『夢は夜ひらく』を最初に歌ったのは、藤圭子ではない。1966年に園まりと緑川アコが相次いでシングル盤を出し、とりわけ園まりのヴァージョンは評判を呼んで、本人が出演して映画化がなされている。そこで主題とされたていたのは、欲望

  • わが歌のある限り 藤圭子 (2)四方田犬彦

    わが歌のある限り 藤圭子(2) 『藤圭子 わが歌のある限り』(長谷一夫、松竹、1971年)は、こうした女性歌手出世物語の歌謡映画の日本版として、典型的なフィルムである。それまで藤圭子は、日活や東映の「スケ番もの」映画に本人として、また舞台で歌う歌手とし

  • わが歌のある限り 藤圭子 (1)四方田犬彦

    わが歌のある限り 藤圭子(1)四方田犬彦  藤圭子が精神を病み、成功した実の娘を横目で眺めながら破滅したと聞かされたとき、わたしが直感的に思ったことは二つのことだった。 ああ、そうか、日本のジュディ・ガーランドとは、よく言われるように美空ひばりでは

  • 藤圭子をきく/藤圭子をみる(2)相倉久人

    藤圭子をみる 同じこの欄で藤圭子のことを書いたのはついこのあいだのような気がしていたが、調べてみるともう五か月になる。五か月といえば、歌謡曲の世界では一時期だ。藤圭子はそのときすでに売れまくっていたが、レコードは二枚目のシングル盤がやっと出たばかりの

  • 藤圭子をきく/藤圭子をみる(1)相倉久人

    藤圭子をきく 自分では躁鬱病ではないかと疑っているのだが三月ごとに判で捺したように巡ってくる好不調の波の、今はちょうど鬱状態からの脱出期にあたっていて、そういえば、最後に文章らしい文章を書いたのは、たしか去年(1969年)の11月だった。それ以来一行の文

  • 藤圭子 ゆかりの「新宿」を歩く デビューも最期も「因縁の地」鈴木琢磨

    藤圭子 ゆかりの「新宿」を歩く デビューも最期も「因縁の地」鈴木琢磨  藤圭子のことが気になっている。高度成長の真っただ中、「新宿の女」でデビューした彼女が62歳で、その波乱の人生に自らピリオドを打ったのも新宿だった。なぜ? わかるわけなどないけれど

  • 滅びの演歌(6)後藤正治著「60年代の肖像」より

    60年安保で退陣した岸内閣のあとを受けた池田内閣は、「所得倍増」を掲げた。およそ不可能な目標に見えたが、十年後の1970年における国家公務員の初任給は三万六千円となっている。給料という指標でいえば倍増をはるかに超えた。「豊かな社会」の誕生は、左翼理論が

  • 滅びの演歌(5)後藤正治著「60年代の肖像」より

    大宅壮一文庫は、週刊誌。月刊誌記事のタイトルを取り出し、人名別に整理しているが、女性週刊誌を中心に藤圭子の記事は随分とある。(中略) スター歌手がスター歌手と結婚し、ハッピーな家庭を築く。結婚生活は短期間で破綻するが、もう「私の人生暗かった」といって

  • 滅びの演歌(4)後藤正治著「60年代の肖像」より

    『新宿の女』と〈藤圭子〉をつくりあげたのは、絞り切れば一人の男である。枠を広げても二人だったといっていい。石坂まさを、そして榎本襄である。 石坂が藤の売り出しに奔走しはじめたころ、レコード会社の若いディレクターが助っ人として現れた。RCAレコード(の

  • 滅びの演歌(3)後藤正治著「60年代の肖像」より

    『新宿の女』と〈藤圭子〉をつくりあげたのは、絞り切れば一人の男である。枠を広げても二人だったといっていい。石坂まさを、そして榎本襄である。 石坂が藤の売り出しに奔走しはじめたころ、レコード会社の若いディレクターが助っ人として現れた。RCAレコード(のち

  • 滅びの演歌(2)後藤正治著「60年代の肖像」より

    暗い詞の、暗い音調の、暗い余韻を残す歌である。歌い手は、割れたような低音の持ち主であった。まだ十七歳。よく光る瞳を持つ美少女でありながらまぎれもなく暗い存在感をたたえている。 夜、レコードを回していると、底なし沼に落ち込んでいくような気分になる。別段、

  • 滅びの演歌(1)後藤正治著「60年代の肖像」より

    2009年に出版された「60年代の肖像」で著者が取り上げた人物は次のとおり。 藤圭子 ファイテング原田 ビートルズ&ボビー・チャールトン(サッカー選手) シンザン(をめぐる人々) 吉本隆明   バラエティに富んだ選考だ

  • 藤圭子・ヒカルの「母子舟」田勢康弘

    藤圭子・ヒカルの「母子舟」 政治ジャーナリスト 作詞家 一般社団法人「心を伝える歌の木を植えよう会」代表田勢康弘ダンスパーティーで誰からも誘われない壁の花のように少女は所在なげだった。この少女が何者かを知っているのは天井の高いこの部屋にいる百人ほどの招待

  • 回想『藤圭子』(後)エゾ中村

    ここからは、『 藤 圭子 』のプライベートな部分に触れたいと思います。 『 藤 圭子 』の人柄や性格を、ネットで調べていると意外な発見がありました。 娘「 宇多田 ヒカル 」が5歳頃から、情緒不安定で躁(明)と鬱(暗)を繰り返していたと、何人かのコメントがありま

  • 回想『藤圭子』(前)エゾ中村

    回想『藤 圭子』 エゾ中村 ある日、1970年代の音楽が無性に聴きたくなり、YouTube で沢田研二・朱里エイコ・ビリージョエル・スリーディグリーズ・・・ 数々の曲を聴きましたが、概ね古い曲としか聴こえてきませんでした。 そんな中、ある女性歌手のイメージが

  • 藤圭子異聞(2)私の音楽ルーツ その2 GSオリーブ マミー

    オリーブの合宿所が近所からのクレーム(ファンの人達の棄てるゴミ問題や、騒音でホリプロに抗議の電話)でとうとう追い出されるはめに‥‥これを契機に一人一人が独立して住むことに、ホリプロで探してくれたのは、合宿所のすぐ近くにあるアパート!私は青森から出てきてか

  • 藤圭子異聞(2)私の音楽ルーツ その1 GSオリーブ マミー

    オリーブの合宿所には連日連夜ファンの人が押し寄せてきます!平日で50~60人、土 日には100人近いファンのひとがマンションの周りを囲むように我々メンバーが出て来るのをまっています!朝起きてボーヤに「今日は何人ぐらいきているの?」って聞くのが日課です‼いつもカー

  • 藤圭子異聞(1)おでん三吉

    藤圭子異聞(1)おでん三吉http://kizunanohousoku.blog34.fc2.com/blog-entry-2560.html 先輩から、このような話を聞いた事があります。 終戦間もなくの頃、役所勤めをやめて、御主人は慣れないおでん屋を開きました。夫婦二人での出発です。 年の瀬も迫ったある大雪の

  • 追悼・藤圭子へ(完)久保隆

    【2】沢木耕太郎著『流星ひとつ』を読みながら、思ったこと。  亡くなった後、様々な新聞・雑誌の記事の中に、次のような文章があった。  「(ロックが歌いたかったという=引用者記)夢を求め、79年に芸能界を引退した藤圭子は単身、渡米する。そこでたまたま

  • 追悼・藤圭子へ(1)久保隆

    追悼・藤圭子へ 久保隆 【1】藤圭子の〈自死〉をめぐって 藤圭子が、〈自死〉して四ヶ月以上過ぎたことになる(8月22日)。もう、何年も前のことのように思えてくるから、不思議だ。こうして、時間をおいてみると、藤圭子の〈声〉や〈歌〉は、やはり、自分にとって

  • 時代を生ききった女性の輝き 梯久美子

    これは梯久美子が沢木耕太郎著「流星ひとつ」の新聞書評として書いたものである。梯は文庫版「流星ひとつ」の解説も書いており、そちらを読んでいただいた方がいいとは思うが、今回はこちらを紹介する。時代を生ききった女性の輝き 梯久美子 1979年秋、沢木耕太郎が、藤圭

  • 昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影(完)北海道経済

    念願の修学旅行が実現 5年生の2学期、大有小から神居小に転校した藤さんは、相川光康さん(61)のいる5年2組に編入。6年のときも同じクラスで、相川さんが級長、藤さんが副級長を務めたが、「学級会で僕が言葉に詰まったりすると、彼女が手助けしてくれた」と相川さん。

  • 昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影(2)北海道経済

    7歳から流し 藤さんは1951年、岩手県一関市で地方まわりの浪曲歌手だった父、松平国二郎さん(本名・阿部壮)と、目が不自由な三味線奏者の母、竹山澄子さん(同・阿部澄子)との間に、巡業の途中、3人兄弟の末っ子として生まれた。 一家は、藤さんが生後間もなく渡

  • 藤圭子21歳

  • 「昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影(1)北海道経済

    北海道旭川市で発行されている「北海道経済」の2013年10月号に「昭和の歌姫はなぜ「衝撃の最期」を選んだのか? 藤圭子さん旭川で過ごした少女時代の光と影」という記事が掲載されている。この記事はNETにも一部が掲載されているので、読んだ方も多いのではない

  • 歌の行間から負の叫びをうたった天才(3)酒井政利

    ―酒井さんは優れた天才的な歌手の方をたくさんご覧になっていますが、藤さんに似たような方はいますか。 私が担当した中に、似たタイプはいないですね。しかし系譜としては、西田佐知子さんに似ていると思います。西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」をはじめと

  • 歌の行間から負の叫びをうたった天才(2)酒井政利

    -81年に「蛍火」をプロデュースされています。 デビューのころ、彼女はRCAでしたが私はコロンビアにいて、そのあとソニーに移りました。一緒に仕事をする出会いは、それからまた年月が経ってからです。彼女が引退宣言をして、海外へ渡ったんです。それから8カ月ぐ

  • 歌の行間から負の叫びをうたった天才(1)酒井政利

    歌の行間から負の叫びをうたった天才 酒井政利 ―藤圭子さんと出会ったのはいつですか。 デビュー直後です。石坂さんとはときどき一緒に仕事をしていましたから、彼を通じて彼女の動向を詳しく聞いていました。そのあとで石坂さんから紹介された彼女は、眉の濃い、

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    ブログ「藤圭子を聴く、藤圭子を読む」藤圭子資料室 目次 [2022・4]藤圭子の歌100選(オリジナル曲50曲)〃 (カバー曲50曲)美空ひばりの珠玉名曲「みだれ髪」17名の歌手の歌い比べ藤圭子の詩・歌詞 お人形〃

  • 藤圭子 小学生時代

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(完)小田中裕次

     この歌からまた15年以上が過ぎた後、藤圭子は自ら命を絶ってしまった。藤圭子とおそらく同等以上の才能を持ち、同じような人生を歩んでいるかに見える宇多田ヒカルの歌と声からは、母親と同種の哀切さがいつも懐かしく聞こえて来るので、今となってはその歌声だけが慰めだ

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(8)小田中裕次

     それから約15年後にこの「みだれ髪」を唄ったときの藤圭子は、プロの芸にまだ衰えはなく、おそらく唯一崇拝していた歌手、亡き美空ひばりへのオマージュという特別な感情を心中に抱いていたのと同時に、星野・船村コンビによるこの曲そのものに、歌手として心の底から共感

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(7)小田中裕次

     そして、インタビューの前半では言い渋っていた少女時代の家庭生活、特に父親に関する凄絶な体験と記憶、よく見る夢の話などを読んでいるうちに、逃げ出したいと思い続けていた過去、封印したいと思っていた原体験が、無表情で「何も覚えていない(=忘れたい)」藤圭子の

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(6)小田中裕次

    本の前半、少女時代から歌手になるまでの記憶のかなりの部分が、ある意味「飛んで」いて、その当時についていろいろ質問しても、藤は「覚えていない」を繰り返し、沢木を呆れさせている。歌についても「何も考えずに無心で歌っていた」と何度も言い、あの無表情なデビュー

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(5)小田中裕次

    いったい藤圭子の「みだれ髪」にはどういう秘密があるのだろうか? なぜあれだけの歌が唄えるのだろうか? 私はジャズ好きで、美空ひばりや藤圭子の特別なファンというわけでもなかったので、えらそうなことは言えないが、ジャンルに関係なく、少なくともこの二人が歌い

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(4)小田中裕次

    哀しい女の心情を切々と謳い上げる美空ひばりは、星野・船村コンビの世界をある意味忠実に、古風に、美しく表現しているのだと思う。それに対して、べたつかない乾いた抒情を感じさせながら、しかし心の底の寂寥と哀切を絞り出すように唄う藤圭子は、まったく別の、救いのな

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(3)小田中裕次

    番組の構成がそういう前提だったのかもしれないが、まず驚いたのは、この番組で藤が美空ひばりの曲を選んでいることだった。昔のカバー・バージョンが入った藤のCDを調べたが、美空ひばりの曲は見つからなかったので、それだけで珍しい。これも番組の設定なのだろうが、司

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(2)小田中裕次

    年末の船村徹の追悼番組で、東京ドームの『不死鳥コンサート』(1988年)で美空ひばりが唄う「みだれ髪」(星野哲郎・作詞、船村徹・作曲)を聴いて改めて感動したのだが、他の歌手も同曲をカバーしているのがわかったので、YouTubeであれこれ比べて聞いていたときに見つけ

  • 藤圭子 みだれ髪の謎(1)小田中裕次

    藤圭子 みだれ髪の謎 天才的な音楽アーティストというのは、常人には理解不能な面があるものだが、当然ながら本人に尋ねたところでそのわけが明らかになることはない。特に、普通に会話していると、まったく常人と変わらないごく普通の人なのに、いざ演奏なり、歌うこ

  • 藤圭子 ガラス細工の冷たさ(完)新藤謙

    この歌の曲のほうは、その前に園まりや緑川アコが歌った『夢は夜ひらく』と同じものである。ただ歌詞が替えられているにすぎない。が、歌詞のちがいは、同時に園まりと藤圭子のキャラクターのちがいにつながっていた。 雨が降るから 逢えないの 来ないあなたは 野

  • 藤圭子 ガラス細工の冷たさ(2)新藤謙

    にほんブログ村 十五、十六、十七と 私の人生暗かった あの『圭子の夢は夜ひらく』をヒットさせ、藤圭子を演歌の星としてスターダムに乗せるためには、プロダクションやレコード会社にとって、そういう創作が必要だったのである。なぜなら、不幸を歌う流行歌にと

  • 藤圭子 ガラス細工の冷たさ(1)新藤謙

    にほんブログ村日本の流行歌手 東海林太郎からピンクレディまで 新藤謙著 1979年4月15日発行 より簡単な解説 新藤謙は大衆芸能論の分野でなかなかいい仕事をした人だが、彼の藤圭子論はいただけない。誤っているといっても間違いではないと思うが、当時、藤圭

  • パリからの演歌熱愛書簡(5)吉田進

    絶妙な間と自在な独白 藤圭子の仕事でほかにぜひ注目しておきたいのは、78年2月のNHKビッグ・ショーのライブ盤に収められている《聞いて下さい私の人世》(作詞作曲・六本木哲、補作詞・岡千秋)で聞くことのできる、間の取り方のうまさである。 根性 根性ひ

  • パリからの演歌熱愛書簡(4)吉田進

    にほんブログ村  男に捨てられて 見栄もなく 夜更けの酒場で 女が泣いている死ぬことすらも 出来ないくせに生きていくのが つかれたと真赤なネオンに ふてくされ 涙枯らして お酒にすがる そこにそこに そこにいるのは ただ生きてるだけの

  • パリからの演歌熱愛書簡(3)吉田進

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  • パリからの演歌熱愛書簡(2)吉田進

    にほんブログ村非常にナイーヴな人間の歌声 昨年の十月、僕はとてもつらい思いをした。 藤圭子の引退を告げる、日本から送られてきた新聞記事を手にして、まさか、とわが目を疑った。 それはちょうど、愛しあっていると信じていた女に、「もうあなたを愛せないの」

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