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2022/03/03

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  • 花嫁の秘密 437

    兄二人が難しい話をしている間、居間に残されたセシルもまた難しい顔をしていた。 「はぁ……」ため息がこぼれたのは何度目か。 あの日、リックと慌ただしく列車に乗ってフェルリッジに舞い戻ってから、数日の間は気にしていなかったけど、もう一週間だ。いくらなんでも手紙のひとつも寄越さないなんてひどすぎる。今日の午後に出掛けたついでに郵便局で確認してみたけど、僕宛の手紙が届いている様子もどこかにまぎれている様子もなかった。 まさか、僕が送った手紙が届いていないなんてことないよね? いや、きっと届いている。届かないはずなんてないから。返事をしない理由は、たいした内容ではないと判断したからか、彼は僕と会えないことなど気にしていないからか、いったいどちらだろうか。 「そりゃあ僕もさ、会えない原因を作ってるわけだけど……」でもそれは、家族の一大事なら当然のことで、彼がクリスマス休暇..

  • 花嫁の秘密 436

    一人で何もかも決めてしまうくせに、話し合おうなどとよくも言えたものだ。 サミーはエリックの言う通りに向かいの椅子に座った。嘘や誤魔化しがないように、しっかり顔の見える場所がいい。 「話し合いは済んだと思っていたけど?」まだ隠していることは大いにありそうだが、サミーは素知らぬふりで尋ねた。話したいことがあるなら聞く耳はある。 「さっきのは報告だ」 「報告ねえ……ずいぶんとざっくりした報告だったけど、バークリー家の娘は本当に無関係なのか?」 「お前はあの娘がジュリエットに手を貸すように見えるか?」ふんと鼻を鳴らし馬鹿にしたような物言い。くだらない質問だとでも言いたいのだろうけど、詳しい説明もなしに納得はできない。とは言え、バークリー家の娘は規律正しく慎ましく、派手なジュリエットと何らかの接点があったとしても、悪事に加担するとは到底思えない。 「聞いてみただけ..

  • 花嫁の秘密 435

    話すべきことは話した。すべてではないが。 エリックは尻に根の生えた二人を残して地階へ行き、グラントにひとつ用事を頼んだ。まずはサミーのためにブラックを呼び戻すことが先決だ。それと、自分のため――突き詰めればサミーのためだが――にカインを呼ぶ。プラットはいい顔をしないだろうが、どうせしばらく屋敷は空いた状態でやることもないなら、こっちで仕事をさせるまでだ。サミーの許可はあるとか何とか言っておけば問題はないだろう。 二人とも早ければ明日、遅くとも明後日にはフェルリッジに到着する。 気になったのはサミーがどこか上の空だったこと。この事件をさっさと片付けてしまいたいという気持ちは理解できるし、できるならそうしたいところだが、事件自体を表沙汰にできない以上慎重にならざるを得ない。あれはあくまで事故だった、その後起こった出来事を隠すためにはそうしておくしかない。 次の動きをサミ..

  • 花嫁の秘密 434

    エリックにこれまでにわかったことをいくつか聞かされたが、なぜそんなことまで調べられるのか疑問を抱くのは至極当然。 ハンカチの刺繍を見ただけで、どこの誰が針を刺したものかわかるご婦人がいると言うが、どうにも胡散臭い。エリックと一緒に調査しているときにはほとんど何も進展しないのに、急にすべてが判明するのもおかしなものだ。 細かな調査を行っているのはあのスミスとかいう男だろうか。地味で目立たない風貌は調査員向きではある。 「ところで、犯人が分かったなら、すぐにでもその事実を突きつけて、街から追い出すなり国から追い出すなりするべきじゃないかな」サミーは次に起こすべき行動を提案した。面倒はすべて省いて、流刑地へ向かう船に乗せるのはどうだろう。 「なんて言う気だ?バークリー家の娘にハンカチに刺繍してくれと頼んだろう、とでも尋ねるのか?」エリックが馬鹿にしたように言う。 「そう..

  • 花嫁の秘密 433

    何から話すべきか、正直悩むところだ。 これまでにはっきりしたことはふたつ。 マーカス・ウェストの居場所とクリスマスの朝この屋敷の敷地内へ侵入した者。ああ、それとそれを依頼した者も。 ひとまずマーカス・ウェストの次の逗留場所は確認できた。事務所で聞き出した通り、しばらくはブレイクリーハウスにいるようだが、あそこの女主人は少々厄介だ。ブラックには戻ってくるように言って、あとはユースタスに任せるか。もう少し早く追いついていれば、そのまま闇に葬ってやることもできたのに残念だ。 計画は次の段階へと進めるしかない。どうすれば効果的にあの男を苦しめられるかは、ユースタスが考えてくれるだろう。 問題はジュリエットのことだ。当初描いていた計画からは大きくずれてしまい、これに関しては一から策を練り直す必要がある。それも早急に。 エリックは飲みたくもない紅茶に口をつけ、要点だけ掻..

  • 花嫁の秘密 432

    外出から戻ると出迎えた従僕がやけにそわそわとしていた。いま残っている使用人たちは多少のことでは動じたりしないが、エリックが絡むと話は違ってくる。客のくせに屋敷の主然と振る舞うせいで、使わなくてもいい気を使わなくてはならない。 サミーはグラントを呼びつけた。聞けばエリックは僕がどこへ行ったのか気にしていたようで、戻り次第知らせるようにと命じていた。 「直接伝えるから、居間にティーセットを用意しておいて」買って帰ったケーキをセシルがとても楽しみにしている。手間を省くためにも先に話を済ませておいた方がいい。 珍しいことに、エリックはベッドで横になっていた。電報を受けていったいどこで何をしていたのやら。 「どこに行っていたんだ?」サミーはベッドの端に立ち、有無を言わせぬ口調で尋ねた。 エリックの背中がゆっくりと動き、まるで猫が伸びをするような仕草でこちらを見上げた。寝..

  • 花嫁の秘密 431

    エリックが屋敷に戻ったとき、そこにいるはずのサミーもセシルもいなかった。大抵は居間の暖炉の前のソファか、窓際の椅子でまどろんでいる。もしくは図書室か。 出掛けるとは聞いていない。出迎えた下僕も何も言っていなかった。わざわざ居場所を聞くのも大袈裟な気がして――というのも、サミーが何かにつけ大袈裟だと言うからだ――見回りがてら邸内を巡った。 大きな屋敷ではないし、二人のいそうな場所は限られている。そこにいないとなれば、散歩にでも出たか。庭にいるか、門の外に出て湖まで足を延ばしているかもしれない。そこまで考えて、あまりの馬鹿馬鹿しさにエリックは頭を振った。 あの二人がいくら天気がいいとはいえ、この寒さの中散歩に出るとは思えない。とはいえ、念のため確認は必要だ。 屋敷の裏手にまわり庭園を横目に小道を行くと、途中には温室とサミーがアトリエと呼ぶ離れがある。小さな温室のようにも..

  • 花嫁の秘密 430

    「セシル、エリックを見なかった?」サミーは居間でセシルを見つけ、向かいのソファに座った。ここ数日すっきりしない空模様だったが、今日はよく晴れていて暖かいからか、暖炉の火も小さいままだ。 「リックならちょっと出かけてくるって」セシルが読んでいる本から顔を上げた。昨日から読み始めた本は、もう半分まで進んでいる。 「こんな田舎のどこへ出かけるって?」サミーはうんざりとした口調にならないよう気をつけながら尋ねた。エリックはどこにいても忙しなく、じっとしていることがない。 「知らない。ああ、そうだ。電報が届いてたから、それかなぁ……」セシルは本を置いて、考え込むように頬杖をついた。「特に慌てた様子はなかったけどね」 「エリックがいったい何をしているのかは知らないけど、ブラックは一向に戻ってこないし、うちの使用人にも勝手に指示は出すし、もう向こうへ戻ってくれないかな」駆けつけて..

  • 花嫁の秘密 429

    「ねえ、メグ。これクリスには不評みたいよ」アンジェラは足元に落としたズボンを鏡越しに見ながら言う。足元が温かいし、動きやすいし、文句なしなのに。 「たいていの夫はそういう反応をすると思います」メグはきびきびと言い、ズボンを回収する。 「でもこれはセシルのおさがりでも紳士用でもなく、ちゃんと婦人用のズボンなのよ。狩りや乗馬する時にスカートより便利だし、みんなもそうするべきよ」そうは言いつつも、ドレスに袖を通すとホッとする。身体にぴったり馴染むこの感覚は、他の人には理解できないものかもしれない。 「でも奥様は狩りも乗馬もされないでしょう?」メグは背中のリボンを結びながら言う。 「まあ、そうね」ついでに言えば、女性でもないわ。 アンジェラは口元だけで呟き、鏡の中の貧相な身体を見つめた。背はまだ伸びる可能性はある。けど身体つきに関して言えば、兄たちを見てもこれからアン..

  • 花嫁の秘密 428

    「ハニー、そこでいったい何を?」アンジェラを探して庭に出たクリスは、庭師から教えられたとおりの場所でアンジェラを見つけた。日が高く昇っている時間とはいえ、この季節屋外で過ごすのはおすすめできない。 ここへ来て三日、屋敷の者ともすぐに打ち解けあれこれ手を出しているが、できれば目の届く場所にいて欲しいというのはわがままだろうか。 「土を掘っているの」地面にしゃがみ込むアンジェラは、覗き込むクリスにまばゆい笑みを向けた。手にはシャベルが握られている。 「それは見ればわかるが、何か植える気ならもう少し暖かくなってからでないと」おそらく菜園の空いた場所を好きにしていいとでも言われたのだろう。 「土をほぐしておくといいんですって」アンジェラが緑色の葉っぱを横目に言う。サンドイッチの皿によく添えられているハーブだ。 「それもわかるが、ハニーがそこの土をほぐすと、庭師の仕事を..

  • 花嫁の秘密 427

    このどんぐりクッキーなかなかいける。 セシルは指先についた粉糖をぺろりと舐めて、つい溜息を吐いた。ずっと待っているのに、誰も来ない。どうせリックがサミーを離さないからに決まっている。何が起こったのかは聞いたけど、正直わからないことだらけだ。どうして家庭教師をしていた人がサミーを襲うの? きっとサミーは訊いたら教えてはくれるだろうけど、進んで聞きたいような話ではないし、かといって知らないままなのも足の裏がむずむずするような不快さがある。 「まだ食ってるのか?」声がして、セシルはのろのろと顔を上げた。まだもなにも、ほとんど手をつけていない。 「サミーは?」セシルは言いながら手元のティーポットを掴んだ。いつの間にか空になっている。 「寝た。もうしばらくは影響があるだろうな」エリックは疲れた顔で横に座り、テーブルに肘をついて頭を抱えた。横から覗き込もうとして鋭く睨みつ..

  • 花嫁の秘密 426

    サミーは身体が痛いと言ってソファに横になった。膝を貸してやろうとしたが、花柄のクッションを枕にして人の膝は足置きにするあたり、さほど心配はいらないようだ。しかも室内履きを脱いだ足はなぜか靴下をはいていない。真冬になにをしているんだか。 エリックは仕方なしにウールケットを引っ張り上げて、サミーの足を覆った。膝の上で指先がきゅっと丸まったのがわかった。 今朝報告を受けて顔を見るまでは、嫌な考えばかりが頭に浮かび、こうして触れることさえできないかもしれないと危惧していた。サミーは俺には理解できないようなこだわりを持っているし、妙に潔癖なところがある。俺が気にしないことも気にするのがサミーだ。 サミーはゆっくり途切れ途切れに昨夜の出来事を語った。記憶が曖昧だと言っていたが、マーカス・ウェストがなにをしたのかははっきりと理解できた。侵入経路はグラントが言っていた通りだろう。田舎の屋..

  • 花嫁の秘密 425

    エリックに気を使われることほど、腹立たしいものはない。腫物を触るような態度で、中途半端なからかいしかできないなら、ここへ来て欲しくなかった。 一人で対処する。できもしないのにそんなことを思う。結局は諦めてエリックのすることを受け入れるしかないのに。 グラントが姿を見せたことで会話はそのまま途切れ、サミーはひとまずスープを手にした。浮き身のひとつも浮いていない透き通ったコンソメスープは、すんなりとひりつく喉を通り胃に染み入った。吐き気は一時的なものだったのか、キャノンの煎じ薬のおかげなのかいったいどちらだったのだろう。 エッグスタンドの卵の頭をエリックがナイフできれいに切り落とし、パンを添えて目の前に置いてくれたが、なぜかどろどろとした半熟卵を見ると胃がむかむかとした。上顎が擦り剝けそうなほどカリカリに焼かれたパンの方が、まだ食べる気が起きる。 エリックが昼食はまだだ..

  • 花嫁の秘密 424

    エリックはソファの座面を手のひらでぐっと押し、クッションがきいていることを確かめると、畳まれたウールケットをそこに置いた。 グラントが空のトレイを手にやってきて、窓際のテーブルを素早く片付けた。声を掛けなくても、次に現れた時にはきちんと欲しいものを用意してくれているだろう。たとえ仕えている家の者を守れなくても、そのくらいはできるはずだ。 ダグラスがいればと思うが、そもそもクリスとハニーがここにいればマーカス・ウェストは侵入することはできなかっただろうし、サミーも襲われずに済んだ。つまり結果として、自分が出した指示のせいでこうなってしまったのは否定できない。 「すべて、俺のせいか……」 「なんの話かは分からないけど。だいたい君が悪い」 ふいに掠れ声が聞こえ顔を上げると、サミーがほとんど目の前まで来ていた。思いのほかしっかりとした足取りで、エリックは安堵のため息を..

  • 花嫁の秘密 423

    ブラックがエリックに報告した時点でこうなると予想はしていたが、セシルまで巻き込むことは想定していなかった。 セシルとはお互いのそういう話をほんの少しだけしたことがある。確か来週には恋人に会えると言っていた。それなのにこんなところへ連れてきて、エリックはいったい何を考えているんだか。 のろのろとした足取りで居間へ向かいながら、マーカスの事を思った。いったい僕の何がマーカスを怒らせたのだろう。頭がすっきりすると、所々欠けていた記憶がよみがえってきた。つまり、マーカスは僕とジュリエットを結婚させまいとして、あんなことをしたということか? サミーは頭を振った。 いや、違う。マーカスはたかがゴシップ紙のくだらない記事を真に受けたりはしない。一〇年以上会っていなくても、それは断言できる。それなら家庭教師をクビになったこと?父への恨みだとしたら、とんだとばっちりだ。それとも、僕が..

  • 花嫁の秘密 422

    ドアノブを後ろ手にエリック廊下では立ち尽くしていた。 サミーがゆっくり慎重にベッドから出る音が聞こえる。どこか痛むのか、小さく呻き、なにかを叩きつけた。 怒りとやるせなさで胃がむかつきいまに吐きそうだ。サミーが自らマーカス・ウェストの前に身を投げ出したのなら何も言うつもりはない。いまの関係を維持することがどれだけ大変かはわかっているし、サミーの出方次第ではすぐにでも終わりを告げられてもおかしくない。 だがそれとこれとは別だ。マーカス・ウェストは一番手を出してはいけないものに手を出した。サミーがあいつを殺せと言うなら、俺は喜んでそうする。 エリックはドアを閉め階下へおりた。小さな居間ではセシルが窓際の日当たりのよい場所を陣取って、のんきにミートパイにかぶりついている。いつもなら気にならないが、いまこの瞬間においては違う。 セシルがエリックに気づいた。「リック、サ..

  • 花嫁の秘密 421

    甘い香りで目が覚めた。 まるでいつもの朝と同じような――こんがりと焼けたトーストにバターがじわりと溶けていく様子や、それにかぶりつくセシルとやけに苦いコーヒーに文句を言うエリック。僕はココアを手にまた騒々しい一日が始まったと素知らぬふりで新聞に目を落とす。 サミーはまばたきをして、香りを辿った。いつもと同じではないことは、目を開ける前から分かっている。キャノン処方の怪しげな薬を飲んだあとは、父の葬儀の時の話をして、それからまた薬を飲んだ。そのおかげか頭痛も治まりぐっすり眠れた。気を失うのとは違う、ちゃんとした睡眠。 身体を起こして枕に背を預ける。誰かいると思ったら、ブラックか。テーブルに食べ損ねた朝食が置いてある。いや、昼食の支度をしてくれているのかもしれない。 「着替えを出してくれ。下で食べる」食欲があればだけど、病気でもないのにベッドで過ごすなんて馬鹿げている。..

  • 花嫁の秘密 420

    「それで、なんでお前まで一緒に来るんだ?」 セシルは悠々と座席に腰を落ち着け、列車が動き出すのを待った。兄の嫌味には耳を貸すものか。いや、やっぱりひと言言わないと気が済まない。 「なんで?リックこそ、なんで僕を置いて行こうとしたの?」荷物らしい荷物も用意できずに駅に駆けつけ、朝食さえ食べ損ねたのに、これが怒らずにいられるか。たまたま、ほんの偶然、リックが急遽フェルリッジへ行くという話をプラットから聞かなければ、今頃何も知らずにのほほんと朝食を食べていただろう。 エリックは言い返そうと口を開きかけたが、お腹が空いて不機嫌な弟ほど厄介なものはないと嫌というほど知っているので、黙ってサンドイッチの入った紙袋をセシルに差し出した。 セシルは鼻から大きく息を吐き出しひと息吐くと、紙袋をガサガサ言わせながらサンドイッチを取り出した。スモークチキンと卵のサンドイッチだ。すごく美味..

  • 花嫁の秘密 419

    朝、街灯の明かりがまだ残っている時間。 ミロード夫人の夜会から帰宅したエリックは、玄関前にクレインが立っているのを見て顔をしかめた。周囲に誰もいないとはいえ、こんなふうに待ち伏せされたことはない。それに昨日の夜――いやほんの数時間前、次の仕事の打ち合わせをしたばかりだ。アクストン通りの俺の部屋で休むと言っていたが、まさかタナーに入れてもらえなかったか? 「何の用だ?お願いだから面倒が起きたと言わないでくれよ」煙草の煙で目が痛いし、いまはとにかくベッドに入って休みたい。 「面倒だけならいいがな」クレインが神妙な面持ちで階段下まで降りてきた。顔を寄せ、声を潜める。「タナーから伝言だ。お前のサミーが襲われた。向こうでブラックが電話を待ってる」 なんの冗談だと言い返す前に走り出していた。頭の中にクレインの言葉がこだましている。襲われた?いったい誰に?無事なのか?怪我の程度は..

  • 花嫁の秘密 418

    ブラックはキャノンに主人を託し、グラントに屋敷の内外をもう一度詳しく調べるように言って屋敷を出た。グラントは言われるまでもなくそうするつもりだったようで、庭を管理しているモリスに馬車が待機していた場所を調べさせていると言っていた。調べたところで行き先がわかるわけでもないが、いつからそこにいたのか、いつ去ったのかくらいはわかるだろう。 事を荒立てず、いま出来得る限りのことをする。お互い名誉挽回のために必死だ。 まずひとつ、到着が遅れたことは言い訳にならない。そばにいれば守るのは簡単なことだった。そして屋敷を任されているグラントが戸締りを確認しておけば、見回りをしておけば、侵入者などやすやすと追い払えた。 ブラックの最大の失態は、新しい主人を信じていなかったこと。部屋に足を踏み入れた瞬間、主人の無事を確認するどころか前の主人に対して不義理を働いたと決めつけ腹を立てた。 ..

  • 花嫁の秘密 417

    「まったく、毎度この俺をベッドから引きずり出すのはお前くらいなもんだぞ。こんなに朝早くいったいどうした?ん?」 目が覚めたら清潔なベッドの上で、きちんと枕に頭を乗せていた。目の前には熊みたいな風貌の男。ぼさぼさの頭に無精髭。ひと目で寝起きだとわかる。 「少しは、静かにできないのか?キャノン」サミーは腕を持ち上げ頭の上に置いた。吐き気は収まっているが頭痛がする。 「やれやれ、呼びつけておいて何て言い草だ。ほら、よく顔を見せてみろ」キャノンはサミーの腕を掴んで身体の横に戻した。「何か飲んだか?例えば酒とか」 「酒?いや、ああ……ああ、飲んだな。よくわからないが、何か飲まされた」 「あの男に?」 サミーはキャノンを見上げた。何もかも知っているような口ぶりだ。自分でも何が何だかよくわからないのに。 「少しぼんやりするだけだと言った。けど、めまいがして気分が..

  • 花嫁の秘密 416

    ブラックが部屋を出た時と変わらず、そこにサミーはいた。ベッドの上で動かなくなった主人を見てブラックの鼓動が早くなる。 マーカス・ウェストがここへ来ていたとして、いったい何をしたらこうなる?もちろん、何をしていたのかは想像せずとも明らかだ。そこに合意があったのかなかったのか、いまの段階では何とも言えないが、予期しない何かが起こったと思うのが自然だ。 ブラックは新しいシーツをサミーの横に広げた。自らを守ろうとするかのように背を丸めるサミーから上掛けをはがし、身体を隅々まで改めた。目立った何かがあるわけではないが、左肩の辺りが赤くなっている。強く掴まれたか何かしたのかもしれない。 シーツの上に移し身体を覆う。隣の部屋をのぞくと、ちょうど支度が整ったところだった。 「一人は部屋の外で待っていてくれ。一人はグラントにサミュエル様のベッドを整えるように言ってくれ」下僕二人が部屋..

  • 花嫁の秘密 415

    ブラックは絨毯に転がるグラスを拾いながら、従者の役目はいったい何だっただろうかと考えた。 誰がどんな役目を担おうとも、俺の役目は主人――サミュエル・リードを守ること以外にない。調べものなんかはただの雑務だ。命じられたとしても優先すべきことではない。 ロンドンでの調べ物は他の者に任せて、この人と一緒の列車に乗るべきだった。そうしなかった結果がこれだ。 ブラックはサミーの手首に触れ脈を取った。静かにゆっくりと脈打っていて、そのうち止まってしまいそうなほど弱弱しかった。嘔吐しているが吐き出すものはなかったようで、喉を詰まらせる心配はなさそうだ。 ここでぐずぐずしていては取り返しのつかないことになりかねない。ブラックはこれからすべきことを頭の中で整理しつつ、部屋を飛び出した。愚かにも危うく判断を間違えるところだった。 グラントを談話室で見つけると、さっそくいくつか指示..

  • 花嫁の秘密 414

    「ブラック……?」 ああ、そうか。マーカスはもう行ったのか。まだ暗いし、そう時間は経っていないのだろう。鉢合わせはしなかったのか? サミーは上げた顔を元に戻した。まだ頭がくらくらする。 「起き上がれますか?」丁寧だが声に嫌悪もしくは怒りが滲んでいる。この状況では仕方のないことだ。 サミーはどうにか首を振った。いったい僕はいまどんな格好で横たわっている?ブラックがこんな姿を見せられて契約違反だと言い出さなければいいけど。 何とか腕を持ち上げてグラスを受け取った。ブラックはすぐさま手を引き、その場を離れた。その気持ちはよくわかる。身体をねじって上を向くと、グラスを口につけて無理やり流し込んだ。ほとんどが口の両端から頬を伝ってこぼれたが、それでもヒリつく喉を潤すには充分だった。 「では、何かあれば呼んでください」 返事をするべきだったが、何時間も我慢して..

  • 花嫁の秘密 413

    ブラックがリード邸の正門に到着したとき、すでに雨は止み、屋敷は薄もやに包まれていた。クリスマスの朝もこんな感じだったのだろうか。これなら闇に乗じて玄関先にプレゼントを置くのも簡単に思えた。 ミスター・ヘイズに礼を言い、通用門から中に入った。当然正門は閉じられている。ぬかるみを避けて屋敷の裏手に回った。 時間までは告げてないが、俺がここへ来ることは知らせてあるはずだ。勝手口から入り、入口に外套を引っかけると声のする方へ向かった。 「ブラックさん、ずいぶん早いですね。どうやってここへ?」ちょうど談話室から出てきたグラントが、にこやかにブラックを出迎えた。 グラントとは先日帳簿を取りに来た時に顔を合わせている。ダグラスの足元にも及ばないが、副執事をしていて留守の間の屋敷を任せられているようだ。 「荷物と一緒に運んでもらったのさ。サミュエル様は?」ブラックは荷物と一緒..

  • 花嫁の秘密 412

    何度目か、マーカスはサミーの中に解き放った。 それからふいに飽きたとばかりにベッドから出ると、部屋の隅に置いてあるキャビネットの時計に目をやった。 そろそろ出るか。 足元からシャツを拾い上げて袖を通す。いつ脱いだのか、最初はシャツを着たままだったが、正直ここまでするとは自分でも思っていなかった。 サミュエルは少し前から意識を失っている。ベッドの端から腕をだらりと垂らし、ぴくりともしない。しばらくは目覚めないだろう。 マーカスは上掛けをサミーの背中に掛けると、汗で湿る髪を顔から払った。サミュエルのいい所は顔だけだと思っていたが、その考えは改める必要がありそうだ。背中の傷さえなければもっと早くに気づくことができたのに、こいつの父親のせいで多くの時間を無駄にした気がしてならない。 とはいえ、あのまま追い出されずにいたとしてサミュエルとの関係を続けていたかというと、..

  • 花嫁の秘密 411

    半分は諦めている。けれど残りの半分は、マーカスがこんなくだらないことをやめてくれることを望んでいる。 マーカスは僕と違ってこの十二年分経験が増えているはずだ。それなのにひとつも変わっていない。大きな手で左肩をベッドに押し付け、僕を見おろす。それとも相手が誰であろうとそうするのか? 上に乗られて身動き取れないのに、ただベッドに張り付けられて事が終わるのを待つしかないのに、なぜそこまでする? 「サミュエル、こっちを見ろ」 ゆっくりと視線を向けると、マーカスはにやりとした。思い通りになって満足しているのだろう。 「昔よりいいな」マーカスが言う。「けど相手がいたとはね。意外だったな」 サミーはただ見返した。下手に反応すれば、その相手が誰だかばれてしまう。おそらくマーカスは多少なりとも僕を調べたはずだ。最近クラブ通いしていたから、そこに相手がいると思っているかもし..

  • 花嫁の秘密 410

    さすがにこの状況で、これからも関係を続けようなどと言えるはずがない。 今回一度限りだからこそ、ここまでしている。 抵抗しない者を抱いて楽しいか?その問いへの返事はひとつ、イエスだ。少なくとも今回は自分の意思で相手を選んでいる。 思えばサミュエルと別れてからすべてが変わった。仕事を失ったうえ――半分は遊びだったがそれでも仕事は仕事だ――父は援助を再開しようとはせず行き場を失った。知人のつてをたどり、行き着いたのがアレグリーニ夫人のところだった。この出会いがなければ、今頃は何をしていたやら。 「相変わらず、貧相な身体だな」マーカスはサミーの胸に手を置いた。 冷静で几帳面なサミュエルらしく、心臓はゆっくり規則正しく鼓動している。背は離れてから一〇センチは伸びただろうか。もうあれ以上大きくならないと思っていたが、わからないものだな。そのわりに抱えた感じは軽かったが。 ..

  • 花嫁の秘密 409

    昔からマーカスにはずるいところがあった。 けど卑劣ではなかったし、故意に傷つけるような真似をしたことはなかった。 今回に限っては、明らかに傷つけるのが目的だとしか思えない。でもいったいなぜ?昔のような関係を望むだけなら、不法侵入して薬だか毒だかをわざわざ飲ませたりはしないだろう。何か必ず別の目的があるはずだ。 結局はこの疑問で思考が止まる。いや、考えていないと正気を保っていられない。 「サミュエル、この傷はどうした?」 マーカスの問いかけに、サミーはまぶたをゆっくりと持ち上げた。目を開けると、途端に世界がぐるぐると回り出す。 見るとマーカスは左腕を掴み、睨むように傷跡を見ている。まるで、また身体に傷を作った僕を責めているかのようだ。 「撃たれたんだ。ただのかすり傷だよ」ギザギザの筋になった傷跡は、生々しいが見た目ほどひどくはない。 「撃たれた?決..

  • 花嫁の秘密 408

    ウィックファーム駅に到着した時にはすでに雨が降り始めていた。 列車はおよそ1時間遅れ、フェルリッジ方面の乗合馬車も出発した後だった。最終便が出たとなると自分で貸し馬車の交渉をするしかないが、あいにく出払っているらしい。 翌朝にはどうにかなると言っても、ここまで来て足止めを食らった状態というのはどうにも落ち着かない。やはり最初から馬車で移動しておけばよかった。あの方が列車の旅を嫌う理由が理解できた。 ブラックは馬宿の主人ともう一度交渉することにした。雨はそれほどひどくないものの、まずは悪天候の夜道を頼める御者がいないと話は始まらない。それでもだめなら他所へ行くしかない。 用意してもらった部屋は申し分ないし、ここで少し休憩を取ったからといって新しい主人は文句を言ったりしないだろう。けれど元の主人エリック様が目を離すなそばにいろと言うからには、必ずそうすべきだとブラックの..

  • 花嫁の秘密 407

    少しぼんやりするだけ? 嘘つきめ。 サミーは身をよじった。マーカスに頭を押さえつけられ、身動きが取れない。いったいどういうつもりだと文句を言おうにも口を塞がれている。 気分が悪い。頭がくらくらする。 どう考えてもマーカスの行動の意味が理解できない。それとも理解できないのは、マーカスが僕に何か飲ませたからなのか?頭ははっきりしていると思っていたが、実際はそうでもないのかもしれない。 僕の何がマーカスを刺激したのだろう。ジュリエットとのゴシップ記事を見たからなんだっていうんだ。いままで新聞や雑誌を手に取ることもできない場所にでもいたのか?あんなものは真偽を確かめるまでもなくほとんどが面白おかしくするために誇張したもので、本当のことなどひとつもない。これを言うと、エリックはきっと反論するだろうが、彼の書く記事も嘘ばかりだ。 考えても仕方ない。マーカスはきっとや..

  • 花嫁の秘密 406

    「大丈夫だ。少しぼんやりするだけだ」 マーカスはサミーの血の気の引いた頬を指の背でゆっくりと撫でた。昔と変わらない。青白い顔で弱弱しく横たわる姿はあの頃と同じ。 「なぜ、こんなことを?」 なぜ、か。自分でもよくわからない。腹を立てていたが、ここへ来てサミュエルが何も変わっていなかったとわかったいまは、もうどうでもよくなった。いや、変わってはいた。クラブ通いをし、ゴシップ紙の常連になるくらいには。想像もしていなかったことだ。転機は父親の死か? 「確かめに来たと言っただろう」マーカスは部屋を見まわした。もっとよくサミュエルの顔が見たい。だが部屋の明かりをつければ、見つかる危険は高まる。そこまでの危険を冒す価値があるだろうか。 マーカスは思わず失笑した。危険も何も今更というもの。 「僕が結婚するのが、そんなにおかしいか?」 サミュエルは笑われたと勘違いし..

  • 花嫁の秘密 405

    突然何かが唇に触れたかと思うと、液体が否応なしに喉の奥まで流れ込んできた。溺れる感覚とも違う、ちょうど水面に顔を押し付けられたような、外から力を加えられているような感じ。 サミーはぐずぐず考えたりしなかった。ここがどこで何をしていたのか思い出すのは一瞬で、こんな悪質な悪戯ができるのは一人しかいない。結局ここへくることにしたのかと、アルコールにむせながら見上げると、予想外の人物が目に飛び込んできた。 現実とは思えず、こういう場合に言うべき言葉が何ひとつ思い浮かばなかった。 「マーカス?」アルコールでヒリつく喉から声を絞り出した。 「久しぶりだな、サミュエル」マーカスはこんな状況でも悪びれることなく言う。まるでほんの数日離れていただけのような馴れ馴れしさだ。 けれど、見た目はずいぶん変わった。過ぎた歳月だけ歳を取り、身体はひと回りは大きくなっている。鍛えているのだ..

  • 花嫁の秘密 404

    ようやく見つけた。 部屋にいなくて焦ったが、まさか主寝室にいるとは予想外だ。 マーカスは灯りをかざし、ベッドで子供のように丸まるサミーを見おろした。 いったいこいつはここで何をしている?様子からしてここで眠るつもりはなかったようだが、何をしていたにせよ、いまだに兄を羨んでいるのは確かだ。 兄の留守中に部屋に忍び込んで、俺とたいして違わないな。お気に入りの毛布を抱きしめて眠る赤子のように枕を抱いて、成長したのは見た目だけか? マーカスはしげしげとサミーを見つめ、あることに思い至った。 目当ては兄の妻か。枕がその代わりとはね。 だとしたらあのゴシップ紙の馬鹿げた記事も納得だ。当てつけに兄の元恋人に手を出すとは、サミュエルも思い切ったことをする。 灯りをベッドサイドにゆっくりと置き、横にブランデーボトルを置いた。部屋の隅の飾りワゴンからグラスをひとつ取..

  • 花嫁の秘密 403

    あの日、アンジェラに出会った日。 僕はなぜ、こんな穴倉にいるのかと考えた。自分の足で出ることが可能なのに、なぜいつまでもここに逃げているのかと。 アトリエと呼んでいた離れから屋敷へ戻り、あの子と生活を共にしているうちに、ようやく生きている意味があるのだと思えるようになった。死んだように生きていた父のようにはなりたくなかった。こっそり街へ出て遊ぶのもそれなりに楽しかったけど、長年一人で過ごしてきたせいで、騒々しいのは苦手だった。 それがいまではその騒々しさが恋しい。 サミーは主寝室に入りドアを閉めた。主のいないその部屋はひっそりと、それから当然寒々としていた。火を熾すという馬鹿な真似はしない。すぐに出ていく。 整えられたベッドに手を滑らせた。ここでアンジェラも眠る。二人が何をするのかは知っている。夫婦なら当然のことをする。 まさかあのクリスがね、と失笑する..

  • 花嫁の秘密 402

    フェルリッジのメイフィールド邸。 ここへ来るのは十年ぶりか、それ以上か。昼と夜、今日二度目の訪問だ。 懐かしさはない。ただあの頃と変わらず、すべてが規則正しく整った姿は、まだ前侯爵が生きているのかと錯覚を覚えるほどだ。 マーカス・ウェストは屋敷の裏手に回り、サンルームのフレンチ窓から中へ侵入した。鍵は掛かっていない。昼間のうちに少し細工をしておいたからだ。 ここには三年いた。正確には三年と五ヶ月か。この十年でみても、これほど長く滞在した場所はない。ひとつの場所に留まるのが苦手というわけではないが、たいていは一年ほどで飽きてしまう。とはいえ、この屋敷に何か特別な思い入れがあるわけではない。 サミュエルの家庭教師として有意義な時間は過ごしたが、ただそれだけ。 それなのになぜ、ここへ舞い戻ったのか。 オールドブリッジでの仕事を終え、実家に戻ったまではよか..

  • 花嫁の秘密 401

    すっかり遅くなってしまった。 サミーは揺れる馬車の中から灰色の空を眺め、雨が降り出すのと屋敷に着くのとどちらが先だろうかと考えた。木々はすでに黒い影となっている。 列車の旅は順調で何も問題はなかったのだが、なにせ駅から屋敷までが遠い。それでも馬車の旅に比べれば格段に早いし、個室は広く快適に過ごせる。今回は荷物も少ないし、この身ひとつでいいのでかなり手間は省けている。 エリックがフェルリッジに専用駅を造れば、列車での移動ももう少し好きになれるだろうが、駅を造るのはあまり現実的ではない。領主だからといって土地を好きにできるわけではないし、きっとクリスは反対するだろう。 もう少し早く出て、時間があればキャノンのところに顔を出したかったが、明日直接屋敷へ来てもらうことにしよう。いまの時期はどうせ暇だろうし、話を聞きながらお茶を飲む時間くらいは作ってくれるはずだ。 屋敷..

  • 花嫁の秘密 400

    「ねえ。サミーは出掛けちゃってクリスもハニーもいないのに、僕たちだけここにいるのってなんか不思議じゃない?」 セシルは居間のいつものソファに座って、その広さを確かめるように両手を広げた。ゆうに三人は座れるソファが余計に大きく感じられる。 「別に。俺もいまから出掛けるし、ここにはお前だけになる」すぐそばの一人掛けのソファに座るエリックは、ちらりと時計に目をやり言った。お昼くらいまでダラダラしていると思ったけど、気づけば着替えを済ませている。 「え?どこに行くの?帰ってくる?」こんな広い場所に一人きりなんて嫌だ。そりゃあ居心地はいいし、お菓子も美味しいけどさ。 「ガキみたいなことを言うな。仕事だ。夜には戻る」エリックは情けないとばかりに頭を振った。 「仕事?新聞の方?それとも怪しい調査の方?」セシルは念のため尋ねた。聞いたからといって、なにもわかりはしないのだけど..

  • 花嫁の秘密 399

    「俺を避けて明日まで書斎にこもるつもりか?」 サミーはペンをゆっくりと置いて顔を上げた。エリックが大股で部屋を横切ってくる。そのうち来るだろうとは思ったけど、予想より早かった。 「君を避ける理由なんてない」自分のすべきことをしているだけで、文句を言われるとはね。 エリックが机の前に立った。視線を落とし、たったいま書き上げたばかりの手紙に目を留める。 「ジュリエットと会うのか?」 やはり、ブラックが報告していたか。「いいや、しばらく留守にするから会えない」 「留守にしなきゃ会う気だったのか?」エリックは手紙をいまにも破り捨てそうな形相だ。ジュリエットとの今後の関係については説明したはず。 「会わないと決めたと言っただろう?君は人の話を聞いていなかったのか」とは言え、さすがに手紙の返事も書かないほど無礼な人間にはなれない。なるべきなのはわかっているけど..

  • 花嫁の秘密 398

    朝食を抜いただけで、もうサミーは勝手な行動を取ろうとしている。 エリックは居間で目覚めのコーヒーを飲みながら、自分もサミーについてフェルリッジに行くべきか熟考した。もっと苦い一杯を頼めばよかった。 何の用事で行くのか、おおよその見当はついている。調べ物は好きなだけしてくればいい。問題があるとすれば、サミーがブラックを置いて一人で行くこと。 何のために譲ったと思っているんだ?そう訊いたところでまともに返事をしそうにもない。サミーは自分の行動にけちをつけられたと、不機嫌になるだけだ。 ブラックはいくつか用を言い付けられたと言っていたが、それを明かす気はないようだ。 「リックおはよう、もしかして朝食食べ損ねたの?」朝から元気いっぱいのセシルが、本を片手にやってきた。のんきに読書とはいい気なものだ。 「お前はサミーが留守の間どうするつもりだ?向こうへ戻るのか?」..

  • 花嫁の秘密 397

    朝、部屋から出ると、ブラックが立っていた。 サミーは微かに眉間に皺を寄せた。 この男が呼んでもいないのに見える場所にいるのは珍しい。変わったことでもあったのか、もしくは昨日ジュリエットから届いた手紙についてエリックに告げ口したと報告に来たのか。 そういえばエリックは昨日の夜は部屋に来なかった。何時ごろ戻ったのだろうか。そもそも帰宅しているのか? 「今朝はどうした?朝食の支度がまだだと言いに来たのか」それでも別にいいけど。僕は一杯のココアがあればじゅうぶんだ。 「いえ、今日からあなたの従者だと言いに来たんです」ブラックが愛想の欠片もない口調で返す。 とうとうエリックの許可が下りたか。「従者ね。一応これまでもそうだったはずだけど、これからは僕の指示で動いてくれるわけだ」それでもエリックに報告はいくのだろう。「早速頼みたいことがある。朝食後、書斎に来てくれ」 ..

  • 花嫁の秘密 396

    エリックがちょっとした集まりのいくつかに顔を出して帰宅したのは、午前二時を回った頃だった。 さすがに今夜は何も起こっていないだろうと、まっすぐ自分の寝室へ向かったが、そう甘くはなかったようだ。 エリックはブラックの気配を背後に感じ、足を止めた。今夜はもうくたくただし、これ以上の面倒はごめんだ。 「なんだ?」思った以上に不機嫌さが声ににじみ出た。 「あの方のことで、ひとつ」 「今度はなんだ?」そばにいないときに限って、絶対何か問題が起こる。ブラックがわざわざ耳に入れてくるということは、あの女関連か。 「手紙が届きました」 「内容は?」誰からか聞くまでもない。サミーからの連絡が途絶え、痺れを切らしたジュリエットが再び動き始めたのだ。それでも一週間よく我慢したものだ。 「パーティーの誘いのようでした」勝手に手紙を読んだのか、それともサミーから聞いた..

  • 花嫁の秘密 395

    「セシルは彼とうまくいっているの?」サミーは唐突に尋ねた。 こういう話は普段ならしないのだが、セシルを引き留めてしまっていることで、もしも恋人と会えずにいるなら申し訳ない。 「サミーでもそういうこと聞くんだ」セシルは意外だなという顔をした。訊かれて戸惑っているという感じはない。 「おかしいかい?」 「ううん」セシルは首を振った。「うまくいっているよ。しばらく会っていないけど、来週には会えると思う」 「それなら安心だ。僕たちのせいで不都合が生じているなら、遠慮なく言ってくれてかまわないからね」エリックにあっちに行けこっちに行けと指示されて、いくらアンジェラのためとはいえ振り回し過ぎている。 「僕たちね」セシルはニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべた。 「セシルの言いたいことはわかるよ。でも実際色々と巻き込んじゃってるからね」そろそろエリックにひと言釘を..

  • 花嫁の秘密 394

    「つまり、リックは僕に働けと言いたいわけだ」サミーの説明を受けて、セシルは溜息交じりにこぼした。 僕だって、将来の事を考えていないわけじゃない。けど特別やりたいこともないし、ありがちな法律家への道には進みたくない。そもそもそんな頭ない。それにコートニー家は他とは違う事情を抱えている。リックみたいに勝手ばかりしていられない。 「もし僕が、セシルの力を借りたいと言ったら、少しは前向きに考えてくれるかい?もうここまできたら引き下がれない。エリックは買収を押し進めるだろうし、僕はクラブのオーナーになる。そんな時、君がいてくれたらとても心強い」 「サミーは僕が役に立つと本気で思っているの?」だとしたら買いかぶり過ぎだ。僕は帳簿やなんかのことはさっぱりだし、面倒な客をあしらうこともきっとできない。 「どうして役に立たないと思うんだ?君にはシェフに直接口出しできる立場に就いて欲し..

  • 花嫁の秘密 393

    エリックが一方的なのはいつものことだけど、今回は少々やり過ぎだ。 セシルに大学をやめろという権利は、ロジャーならまだしもエリックにはない。まあ、言うだけなら自由だが、実際に行動に移しかねないから恐ろしい。ある日大学へ行ったら自分の居場所がなくなっていた、ということもあり得る。 さて、僕はどこまで口を出していいのか。僕も兄であることには変わりないし、なによりセシルが助けを求めている。 「向こうの名物って何だろう。ハニーは美味しいもの食べているかな?」部屋でひと休みしたセシルが居間に戻ってきた。晩餐までの時間二人で一杯飲むことにしたのだ。 エリックは今夜は食事は外で済ませてくると言って、六時ごろ出掛けて行った。正装をしていたからどこかに招かれているのだろう。予定をいちいち言う気はないらしい。だからと言うわけではないが、プラットに言ってワイン庫からリースリングを持ってこさ..

  • 花嫁の秘密 392

    もっと荒涼とした場所だと思っていた。 石造りの屋敷は外から見ると寒々とした雰囲気があったものの、中に入ってみるととても暖かく調度品ひとつひとつに温かみも感じられた。土地柄日が暮れるのが早く、庭を見て回るのは明日になってしまったけど、きっと想像した通りの素敵な庭園が見られるはず。 アンジェラは金縁のティーカップをそろりと持ち上げた。華奢な持ち手がいまにもポッキリ折れてしまいそう。紅茶はほんのりりんごの香りがした。 長旅の末の出迎えが二人だけなのを見たとき、てっきり歓迎されていないものだと思った。寒いから仕方ないわと思っても、クリスの足を引っ張っているという気持ちは拭えない。もっと早くに、例えば問題が発覚した時すぐにここへ来ることもできた。けれどそうできなかったのは、言うまでもなくすべてわたしのせい。 「奥様、お部屋の支度が整いました。すぐにでもご案内できますが――」 ..

  • 花嫁の秘密 391

    クリスは書斎机に着き、目の前の報告書の束に目を落とした。その横にはこの数日で届いた手紙も置いてある。 クラーケンが書庫から数年分の帳簿を持ってくる間に、少しでも目を通しておくか。 なぜ書斎の本棚に置いておかないのか不思議だが、管理を任せきりにしておいた身としては不満を言える立場にはない。古びた絨毯やくすんだカーテンが記憶にあったが、すべて新しいものに変わっているのは、おそらくサミーの指示によるものだろう。 不満といえば、アンジェラは一人で大丈夫だろうか。部屋の支度が整うまで居間でゆっくりするように言ったが、知らない場所で落ち着けるはずもない。メグは荷解きが済むまで手は空かないだろうし、せめて弁護士が来るまでは一緒にいたいが、さすがにのんきに茶を飲んでいる場合でもない。 家政婦長のミセス・ワイアットに任せておけば、そう時間はかからず快適に過ごせるようになるだろうが、アンジ..

  • 花嫁の秘密 390

    ハニーの事となると、サミーは誰よりも兄らしくなる。リックが色々裏で手をまわしているみたいだけど、いったいどんな手を使っているのか、きっと知らない方がいいのだろう。 「それで?こっちではどうだったの?調べは進んだ?」セシルは好奇心いっぱいに尋ねた。いない間に美味しいものたくさん食べたに違いない。はっきり言って、物騒な話よりももっと楽しい話がしたいけど、調査が進んでいるのかも気になるところ。 「まあ、ぼちぼちな。それよりセシル、お前大学辞めろ。もう十分だろう?これ以上残って何をやる気だ」エリックはなんの脈絡もなく話を切り替えた。 「な、なに、急に」セシルは戸惑った。調査の進捗具合と、僕の大学の話に何のつながりが? 「エリック、いったいなんのつもりだ?」同じように困惑するサミーが、エリックに対抗するように固い口調で尋ねた。 「そ、そうだよ」セシルも小声で応戦する。 ..

  • 花嫁の秘密 389

    サミーは苺の果肉の入ったアイスクリームをひとすくいして口に入れた。なかなか美味しい。 「それで?アンジェラは無事に出発できたの?」もしそうでなければ、この場にセシルはいなかっただろう。計画通りに事が進んだからこそ、ここにいる。 「それがさ、大変だったんだよ。リックには馬車の中で少し話したんだけど――」セシルがマフィンにかぶりついたので話が中断した。 「ハニーは男装をして屋敷を出たらしい」エリックが代わりに続ける。「それでクリスと揉めたらしい」 男装?なぜという疑問しかない。 「ソフィアに打ち明けたことと関係あるのかな?もしかしてアビーにも、もう?」もしも秘密を知る者が増えたなら、早めに把握しておきたい。それによって自分が対処すべきことも変わってくる。 セシルはマフィンを紅茶で喉の奥へと流し込んだ。「ううん、アビーにはもう少しあとでって母様が。男装をしたの..

  • 花嫁の秘密 388

    アンジェラを無事ラムズデンに送り出す役目を果たしたセシルが、ようやくリード邸に戻ってきた。 「いやあ、まさかここを我が家のように思う日が来るなんてね」セシルは大げさに言って、再会できた喜びのしるしにサミーと軽く抱擁した。 「お前は向こうに戻ってよかったんだぞ」その脇でエリックが言う。駅まで迎えに行っていて一緒に戻ったところだ。 本来なら迎えなど必要ないが、サミーが朝からやけにそわそわしてセシルの帰宅を待っているのだから、適当に馬車を拾って帰って来いと言える状況でもなかった。まあ、ついでに先に話を聞いておこうと思い立たなければ、わざわざ俺が出向くこともなかっただろうが。 「リックこそ、まだここにいるとは思わなかったよ。うちの屋敷は開けたんだよね?」脱いだコートを従僕に手渡し、サミーと並んで居間へ向かう。 「ああ、ロジャーももう少ししたら出てくるだろうし、使用人も..

  • 花嫁の秘密 387

    駅の周辺は想像していたよりも栄えていて、商店と住宅が立ち並ぶ通りを抜けると煙突から煙を吐き出している工場がいくつか点在していた。それを過ぎるとひたすら牧草地が広がっていて、いまはなだらかな丘を登っている。 「ハニー、もしかして緊張しているのかい?」 そう尋ねられて、アンジェラは隣に座るクリスに目を向けた。窓の外は冷たい風がヒューヒューと魔女の悲鳴のような音を立てている。 「少しだけ」アンジェラは正直に答えた。生まれてこの方、こんな遠くまで来たのは初めてなのだから仕方がない。自分ではもう少し気楽に臨める旅だと思っていたけど、駅で出迎えたクラーケンを見たときその考えは間違っていたことに気づかされた。 今回の問題が起きた一因には、クリスがラムズデンへ行くのを先延ばしにしていたこともある。それは紛れもなくアンジェラのせいで、おそらく問題が起きなければまだもう少し先になってい..

  • 花嫁の秘密 386

    列車がラムズデンの駅に滑り込んだ時には、アンジェラはいつもの格好に戻っていた。 メグは一等の客車の後方、二等車に乗っているので着替えを手伝ったのはクリスだ。言わずもがな、脱がせる方が得意なのだが、背中の小さなボタンを上までしっかり留めた時には、馴染みのある姿にホッとせずにはいられなかった。 ホームに降り立つと、この土地特有の乾いた冷たい風が歓迎の意を込めて吹きつけてきた。身を切るような寒さだ。クリスはアンジェラの前に立って、頭にフードをかぶせた。この冬新調したコートだが、まさかラムズデンが初披露の場になるとは思っていなかった。真っ白なファーに縁どられたアンジェラの顔は愛らしく、クリスはここが駅のホームだということを忘れ、思わずキスをしかけた。 「ごほんっ」 雑踏の中でもよく聞こえた咳払いはダグラスのもので、クリスは自分が立っている場所とアンジェラを早く暖かな場所へ連..

  • 花嫁の秘密 385

    「やっぱり、やり方を間違えたんじゃないかな。普通に考えて、ここを乗っ取りたいって話を遊びに来たついでの男に聞かされるなんて、僕だったらステッキに仕込んだ剣でひと突きにしてやるけど」冗談とも言い切れない口調で、サミーが言った。 サミーの言うとおりだ。もしも自分がここのオーナーだったとして、そんな上得意でもない一会員がある日突然ここを譲れと言ってきたら、銃でも突き付けて追い出していただろう。 クィンがそうしなかったのは、ランフォード公爵の顔を立てたのと、ただ単に好奇心が疼いたからに他ならない。 クィンは面白い男だ。警戒はしていたが、俺がどんな人間か知っていて話し合いに応じたのだから。俺がこのことを記事にしたらどうするつもりなのか、試してみたい気もする。 ステフを同席させたことで、胡散臭さが増したが、それが俺の売りだから仕方ない。もう少ししたら地下に潜るし、それまでにはあ..

  • 花嫁の秘密 384

    フェルリッジにリード家専用の駅ね……なぜ、エリックはそんなことを? 考えるまでもない、アンジェラのために決まっている。 今年だけでなく、おそらくこれからも向こうとこちらを行き来する生活になるだろう。クリスがどうこうという問題ではなく、アンジェラの立場上仕方がない。けど、ソフィアがそれを許すだろうか。いまどういう話になっているのか、セシルが戻ってきたら聞いてみよう。 今夜この場にいれば、もっと楽しめたのに。 「ジョン、帰るぞ」 ふいに頭上から声が降って来た。視線だけ向けると、機嫌の悪そうなステフの後ろに消化不良を起こしたような顔のエリックが立っていた。 予想よりも早く戻って来たということは、クィンとの話し合いは円滑には進まなかったということか。 サミーは椅子にもたれエリックが口を開くのを待った。ステフが帰ると言えばジョンは従うしかないし、となると今夜..

  • 花嫁の秘密 383

    クィンと話せば話すほど、どこか迷路に迷い込んだ気分になるのはなぜだろう。 エリックにとってクィンはわかりやすい男だ。素性は明らか、資産も公にしている、妻を愛していてそのためにプルートスを手放そうとしている。 それなのに、調査のプロが二人もいて、ちょっと調べれば誰もが知り得ることしか知らない。つまり、わかりやすいどころか謎だらけということだ。 もしかすると、出方を間違えたかもしれない。今夜はクィンの反応をうかがうだけと軽い気持ちだったが、まずは代理人を立てて先に接触させるべきだった。 「あなた方がどういうつもりかは、よくわかりました。今夜はこの辺でよろしいですか」クィンは会見の打ち切りを宣言した。忙しいので少しも時間は無駄にできないといったところだろう。 でもまあいい。結局のところ、クィンは妻の望み通りここを手放すしかない。ただどういう形で決着するかは、これから..

  • 花嫁の秘密 382

    お腹を満たしたサミーは、先ほど有耶無耶になったままの話の続きを促すようにジョンを見た。 「二人、遅いですね」ジョンはカクテルグラスを片手にちらりと大階段の方を見た。何杯目か数えてはいないが、さほど顔色も変わっていないし、特に酒に弱くはなさそうだ。 「クィンはさっき上がったばかりだから、もうしばらくは戻ってこないんじゃないかな」サミーは素っ気なく言って、じっとりとした視線をジョンに向けた。 ジョンはステフと出会ってからいままでの事をざっくりと話してくれたが、世間が知っている二人の姿とは少し違っていた。だがエリック同様、ステフが胡散臭いことには変わりない。あの捉えどころのなさはいったい何なのだろう。 「どこまで話を進めるんでしょうね」ジョンはグラスを空にしてテーブルに置いた。 サミーは自分で話し合いには参加しないと決めたが、ジョンは違う。わけもわからず放置されてい..

  • 花嫁の秘密 381

    エリック・コートニーがとある噂を聞きつけて何度か接触してきていたが、さすがに逃げ切れないか。 クィンは諦めて、ブランデーグラス片手にお気に入りの革張りの椅子に深々と身を沈めた。まずは向こうがどうしたいのか話を聞こうではないか。ここを買い叩くつもりなら、すぐにでも追い出してやる。 クィンは現在三十六歳、十五年前に叔父からここの実質的な経営を受け継いだ。当時はもっと野蛮な者たちの溜まり場だったが、叔父が手を引いたことで客離れが起き――クィンの経営方針が気に入らないのもあって――結果としていまのような洗練された紳士クラブへと変貌を遂げた。 最初の五年は苦労も多かったが、仕事をしていて一番楽しかった時期だ。若かったせいもあるだろうが、すべてが新鮮で刺激的だった。けれどもこの数年は以前ほどここに魅力を感じない。自分が年を取ったせいもあるが、このクラブにまつわる悪い噂が出回っているこ..

  • 花嫁の秘密 380

    エリックは気の長い方ではないが、仕事柄待つことには慣れている。調べものをするとき、結果がすぐに出ればいいが、何日も何週間も、ことによっては数年かかることもある。対象に動きがなければ動くまでじっと待つしかないのだから仕方がない。 けど今夜はクィンがここへ来ることは間違いない。顔を出すと言う情報を得て、面会の約束を取り付けたのはステフのくせに、こいつはさっきから吐きそうな顔をしている。よほどこの場所がお気に召さないらしい。 ステフとジョンは法律家のアルフレッド・スタンレーの保護下にある。アルフレッドは前コッパー子爵と親交があり、子爵が亡きあとジョンが独り立ちするまで面倒を見てきたが、それはいまも継続中だ。親子とまではいかないが、それに近い関係を築いている。 そのおかげでクィンと今夜こそ会える。 こういった仕事の話は酒でも飲みながらする方がいいのだが、クィンはそういうタイ..

  • 花嫁の秘密 379

    ステフにしては珍しく緊張していた。紳士クラブに足を踏み入れたのは初めてなうえ、いきなり最上階のオーナーの私室に招かれている。仕事柄許可を得ずにこういった場所に侵入することはあるが、はっきり言って居心地が悪い。 「一人にしていていいんですか?」ステフは眠ってしまいそうなほど座り心地のいいソファで、そわそわと足を組み替えた。当たり前だが調度品は一級のものばかりで、経営が傾いているようには見えない。 「子供じゃあるまいし平気だ。そっちこそ、あいつを一人にして平気か?」ゆったりとくつろいだ様子のエリックは、ステフを揶揄うように言い返した。 「ミスター・リードがいるから大丈夫でしょう?」そう言って、ステフは盛大に顔を顰めた。あの二人、まともに会話は出来ているのだろうか。 ジョンと彼は同じ階級の人間だが、ジョンの場合ある日その特権を奪われ、さらには俺といることで貴族の暮らしとは..

  • 花嫁の秘密 378

    ステフに誘われて紳士クラブ<プルートス>に来たものの、ラウンジに一人置き去りにされて十五分は過ぎただろうか。いや、正確には一人ではなく、ミスター・リードも同じテーブルにいる。席に着いてから、初めて彼が口を開いた。 「君はお兄さんと会ったりしているの?」 ジョンは驚いて、手に持っていたワイングラスを置いた。飲もうかどうしようか悩んで、まだ口をつけていなかった。 「数ヶ月に一度、家の事で顔を合わせます。僕は暇なんですけど、兄は忙しくてなかなか予定が合わなくて」 ジョンの兄コッパー子爵レオナルド・スチュワートは、父の死後、十八歳で爵位を受け継いだ。二つ年上で、一度没落した家を再建するのにいまも苦労している。ジョンも手助けはしているが、無口な兄が何を考えているのかさっぱりわからず、領地運営もうまくいっているのかどうかもわからない。 「そう。でも君はそんなに暇そうには見..

  • 花嫁の秘密 377

    プルートスへ向かうと聞いて、サミーはそれが今夜でないといけない理由を考えた。 何か特別なイベントがあると言っていただろうか?年明けにカードが届いていたけど、挨拶だけだったように思う。よく見ておけばよかった。明日にはセシルが戻ってくるから、一緒に行けばさぞかし楽しめるだろうに。 エリックの事だ、ただ単に遊びに行くとも思えない。デレクを追い出すと言っていたから、わざわざあいつに会うためではない。となると、プルートスのオーナークィンに会うためか。約束は取り付けているのだろうか。 サミーは黙って向かいに座るエリックに視線を投げてみたが、気づかないのかあえて無視しているのか、いまは話す気分ではなさそうだ。 もしかして、ブラックの事で腹を立てているのだろうか。着替えるのにブラックを呼んだけど、結局来たのはプラットだった。それに関しては腹を立てるのは僕の方だ。リード家の執事ともあ..

  • 花嫁の秘密 376

    「おい、いつまでそうしているつもりだ?」 エリックは腕を組み、サミーを冷ややかに見おろした。この一週間というもの、サミーはずっと居間のソファに座っているか横になっているか、何もしていないはずはないが、何かしている様子もない。 見張り役のブラックに聞いても、特に何もしていないと言うが、どうにも疑わしい。こうなったらさっさとブラックを向こうに押し付けて、こっちはカインを貰うか。 「ん?」気だるげに見上げるサミーは、エリックがそばに来ていたことにも気づいていなかったらしい。 「ん?じゃない、出掛けるから着替えろ」やれやれと息を吐き、手を差し出す。 「出掛けないよ」サミーはエリックの差し出した手を無視した。 エリックはソファの後ろをまわって、サミーの横に座った。ふわりと香る石鹸の香りに、この数日溜めている欲望が噴き出しそうになる。だがもうしばらくお預けだ。今夜は..

  • 花嫁の秘密 375

    わざわざ変装したものの、クリスの言うようにあまり意味がないように思えた。意固地になっていたことは否めないけど、この格好にまずは慣れることが必要で、その考え自体理解されないのかもしれない。 アンジェラはクリスに寄りかかって目を閉じた。一頭立ての小ぶりな馬車は夜道を順調に進んでいるが、けっして快適な旅とは言えない。でも、クリスがそばにいれば安心できるし、この非日常な状況も案外楽しい。 「ねえ、クリス」アンジェラはそっと話しかけた。もし眠っていたら、話すのは起きてからでも構わない。 「どうした?寝てていいんだよ」クリスはアンジェラの肩を抱き寄せ、膝に掛けていた毛布で二人を包んだ。 アンジェラはクリスの胸に頬をすり寄せた。「ロジャー兄様と出発前に何を話したの?」 「調査を進めておいてくれと話したんだ」クリスは簡潔に答えた。 「調査はリックとサミーがしているんでし..

  • 花嫁の秘密 374

    ラウンズベリー伯爵の本邸は小高い丘の上にあり、最寄りの駅へは南側の宿場町を通ることになる。けれども今回は迂回路を行くことになり、東の小さな集落を通過する。日が暮れる前にそこまで行き、北へ向かう。 目くらましで侯爵家の馬車をフェルリッジへ、伯爵家の馬車をアップル・ゲートへ、三台が時間差で出発する。 アンジェラがどこにいるのか知られないためだが、知られるのも時間の問題だろう。 クリスたちが行く道は、夜になれば明かりもなく真っ暗になる。そのためロジャーが前もって街灯を設置し、御者はその道を目を瞑っていても通り抜けられる者に頼んだ。信頼のおける人物で、急に早まった出発にもうまく合わせてくれた。 フェルリッジであの箱を受け取ってから二週間、とうとうクリスとアンジェラはラムズデンへと出発する。 「まさか本当にその格好で行くつもりか?」馬車の乗り換え地点まで同行したロジャー..

  • 花嫁の秘密 373

    「ハニー?何をしている?」 フェルリッジから到着したばかりのダグラスと、今度の長旅についての打ち合わせを終えたクリスは、旅程についてアンジェラと話すため部屋に戻ったのだが、見慣れない光景にそれ以後の言葉を失った。 いや、見慣れないのではなく、一度だけ見たことのあるその姿は、あまりにもクリスの心に強烈な傷跡を残していた。 新妻アンジェラが自分は男だと告白したあの日、いまと同じように男装していた。 アンジェラの男装は可愛いし、かなりそそられるのだが、あの時自分が口にしたひどい言葉を思い出すと自己嫌悪どころではない。あの夜をもう一度やり直せるならと考えなくもないが、結婚直後からひどいことばかりしていたのでもう忘れたいのが本音だ。 クリスの声に振り返ったアンジェラは、にっこりと笑ってメグが差し出していた帽子をちょこんと頭に乗せた。 「どう?似合う?」 「あ..

  • 花嫁の秘密 372

    エリックは朝目覚めて、サミーの寝顔を好きなだけ眺めてから、その日の仕事に取り掛かる。 あいにく今朝はそうゆっくりとしていられず、出掛けたついでだと挨拶回りもして、屋敷に戻ったのはすっかり日も暮れた頃だった。 ブラックが報告に現れないということは、サミーは今日は余計なことはしてないということか。昨日の今日でジュリエットにメッセージでも送るかと思ったが、帰り際のあの様子からして、何か他に計画しているのかもしれない。勝手な行動を起こす前に少し話し合っておくか。 昨日の疲れが出て何もする気は起きないはずだと居間を覗いたら、案の定サミーはいつものソファにほとんど横になった状態で目を閉じていた。ティーカップから湯気があがっているところを見るに、眠ってはいないようだ。 「まさか一日そこにいたわけじゃないだろうな」エリックは決まり文句を口にした。 サミーがゆっくりと目を開ける。「..

  • 花嫁の秘密 371

    夢を見ることもなくぐっすりと眠っていたサミーは、空腹で目を覚ました。目を閉じた時、確かにソファにいた。あのあと、エリックは部屋にやって来たのだろうか。 手を伸ばしてベッドを探ったが、寝ていた気配はない。結局ここへは来なかったようだ。 サミーは起き上がって、皺くちゃのシャツを脱ぎ捨てた。暖炉に火が入っているから、誰か部屋に入ったのだろう。カフスボタンは昨夜置いた場所にそのままある。 今日はどうしようか。調べ物をしたいけど、その前にエリックと話し合う必要がある。ブライアークリフ卿のパーティーで見かけたあの男の正体もわかったことだし、一緒に調べを進めた方が無駄がない。 サミーは身支度をするため、ベルを鳴らした。呼びつけることはめったにないから、プラットが驚いていないといいけど。 ジュリエットの事は、最初考えていた通りに進めることにしよう。金を渡したゴシップ紙には、約..

  • 花嫁の秘密 370

    「お母様は子供っぽいって言うけど、わたしもクリスもこのドレス好きなの」 朝食がすむと、アンジェラとセシルは新年を祝う特別なケーキを食べるため、女性用の居間に場所を移した。白い家具に上品な椅子、花柄のソファ、そして何よりここを女性的にしている撫子色の壁紙は、先代の伯爵が最愛の妻のために選んだものだ。 六代目ラウンズベリー伯爵レイモンド・コートニーはアンジェラが生まれる前に亡くなった。 だからアンジェラは絵の中の父の姿しか知らない。一番のお気に入りは図書室に飾られている。真面目な顔をしていても、どこか微笑んでいるように見えるのだ。そしてどことなしか、次男のエリックに似ている。 「その赤いタータンチェックのドレス?まあ、母様の言うこともわかるかな。だって侯爵夫人はあまりそういうの着ないものでしょ?でもハニーはまだ子供だからいいんじゃない」セシルは女性のドレスの問題よりも、..

  • 花嫁の秘密 369 ~第十部~

    息苦しい。まるで身体を押し潰されているかのよう。身動きが取れず、叫び声さえ出せない。寒くて歯がカチカチと鳴る。もしかして、わたしは裸なの? アンジェラを恐怖が襲う。あの男が戻って来たのだ。 たすけて、たすけ……て。喉がヒリヒリしてどうやっても声が出ない。どうしよう。 「ハニー!起きるんだ――」 クリス?そこにいるの? アンジェラは差し出された手をどうにか掴んだ。掴んだその手に手首をしっかり掴まれて引き上げられる。おそるおそる目を開けると、目の前には心配そうに顔を覗き込んでいるクリスがいた。 「わたし――」 クリスが指先でそっと頬に触れた。「夢を見ていたんだ。悪い夢を」 夢?アンジェラは目をしばたたかせ、それからクリスに抱きついた。しばらくは平気だったのにどうしてまた。 もちろん完全に忘れられるわけではない。けど思い当たることがあるとすれ..

  • 花嫁の秘密 368

    サミーとエリックがリード邸に戻ったのは午前三時を過ぎた頃だった。 玄関広間で出迎えたプラットは仮眠を取っていたらしく、いつもよりも気の抜けた顔をしていた。 「僕はこのまま部屋に行くよ。君はブラックから報告を受けるんだろう?プラット、お前はもう休め。あとはこっちでするから」 プラットは一瞬躊躇いを見せたものの、サミーの言葉に従った。どちらにせよもう二時間もすれば、新しい年の朝の支度が始まる。主人が遅く戻ったからといって、この屋敷のサイクルが変わるわけではない。 「ブラックは何かお前に言ったか?」エリックは階段を上がろうとするサミーの手首を掴んだ。 サミーはゆるりと振り返りエリックと目を合わせた。ブラックに言われてまずいことでもあるのだろうか。いや、おそらくまずいことだらけだろう。僕がアンジェラやセシルのように食い下がるタイプではなくて感謝することだ。 「余計な..

  • 花嫁の秘密 367

    「ビー、先に馬車に乗ってろ」 エリックはサミーの姿を見とめて、すぐに様子がおかしいことに気づいた。待ち伏せていたクレインの用件はたいしたことではなかったが、数日以内に動きを見直す必要はありそうだった。 人の流れに逆らうようにして、二人に近づく。ジュリエットは喋っていたが、あの顔だとおそらくサミーの耳には届いていない。いったい何があった? 「サミー!ここだ」軽く手を上げて、名前を呼ぶ。サミーはハッとしたように焦点を合わせて、ようやくこちらに気づいた。ジュリエットは途端に苦い顔をしている。 「そんな大きな声を出さなくても、自分の馬車くらい見ればわかる」可愛げのない返事だが、ホッとしているのがわかった。だからジュリエットなんかと関わるなと言ったのに、言うことを聞かないからこうなる。何があったにせよ、次はもうない。 「自分の馬車ね。これはクリスのだ」そう言った途端、な..

  • 花嫁の秘密 366

    ジュリエットがいま何を考えているのか、サミーには手に取るように分かった。 僕は彼女の期待に応えるべきだろうか。それともエリックの言うように、もう手を引くべきか。今夜ジュリエットをホテルへ送り届けたら、しばらくは会わないつもりだ。少し前の計画でそう決めていたのに、もう少し引きつけておけと言ったのはエリックだ。それなのに今度はもう会うなと言う。結局僕は振り回されてばかりでこれといった成果も出せていない。 そしてあの若い男の登場。喜ぶべきなのだろうけど、お前は役立たずだとエリックに言われたような気分だ。 「サミュエル、シーズン中はずっとこっちにいるの?」ジュリエットの探るように問いかけに、サミーは物思いを中断した。 「ん、そうなるかな、おそらく」問題が片付くまで身動きが取れないのは、いったい誰のせいだと思っているのか。ジュリエットは自分のしたこと、していることを理解してい..

  • 花嫁の秘密 365

    大通りに出ると案の定馬車が大渋滞を起こしていた。個人所有の馬車は歩道に寄せるようにして列を成していて、主人が戻ってくるのを待っている。 「これから場所を移して朝まで騒ぐのかしらね」騒ぐ一団の脇をすり抜けながら、メリッサはぼやくように言った。 「だろうな。俺たちみたいにさっさと帰る方が珍しい」そもそもサミーが余計なことをしてジュリエットをカウントダウンイベントに誘わなければ、今頃はいつもの場所で寝顔でも眺めていただろう。 そういえば、カウントダウンはどこでやっていたのだろうか。気づいたら花火が打ちあがっていて、サミーに気を取られている間に終わっていた。 「騒ぎたいなら付き合うわよ。ジュリエットは帰りたくないんじゃないかしら?」メリッサは不敵に微笑んだ。 「どうかな。ホテルの部屋にサミーを連れ込みたくてうずうずしているさ」ジュリエットはこの数ヶ月関係が進まないこと..

  • 花嫁の秘密 364

    「君がまだここにいたいと言うなら、僕はかまわないよ。でも、君をホテルまで送り届けるのは僕の役目だってことを忘れないで」 サミュエルは怒っているのかしら。それともただ嫉妬しているだけ? 「もちろん、わかっているわ。だからこうしてあなたと歩いているのではなくって?」ジュリエットは猫がのどを鳴らすように、ごきげんな笑い声をあげた。たとえ怒っていたとしてもサミュエルのこういった紳士らしい行為は受けていて心地いい。 サミーが無言で腕を差し出し、ジュリエットは嬉々としてその腕を取った。 ここ最近で気付いたのは、サミュエルを試すような真似をしても、あまりうまくいかないということ。特に今夜の事は失敗だった。 花火を一緒に見られなかったこと気にしているかしら?サミュエルはきっとわたしがラウールを選んだと思っているでしょうね。一緒に来てくれれば、それは違うとすぐにわかったはずなの..

  • 花嫁の秘密 363

    「行かせていいの?」夜空を見上げていたメリッサはいたずらっぽい視線をエリックに向けた。追いかけるならいまよ、とでも言いたげに。 「好きにさせておけ。あいつはこうと決めたら聞きやしない。ったく、腹の立つ」エリックは舌打ちをしてサミーが歩き去った方を見た。すでに姿はないが、どこへ向かったかはわかっている。追ってもいいが、それはあまりにも無駄な行為だ。 「彼女を誰に任せたの?サミーと取り合いになったりしなければいいけど。花火はもう終わりかしら?」メリッサは上を見るのをやめて、ほっとひと息吐いた。「案外あっけないものね」 次の花火がなかなか上がらず、観衆がざわついてきた。終わりなら終わりで合図でもあればいいが、おそらくそんなものはない。 「取り合う価値もないが、しないとも言い切れないな。相手はラウールだ」面倒だから指示は最低限しかしていないが、ラウールも誰を相手にしているの..

  • 花嫁の秘密 362

    いつまでもこうしていたいと思ったのは、初めてではないけど、もういつの事だったか思い出せないほど記憶にない。 頬の産毛が逆立つほどピリピリとした視線を感じながら、新しい年を祝う花火に魅入っていた。と同時に、混雑する前に帰ることは可能だろうかと、考えを巡らせていた。 答えはわかりきっている。もちろん不可能だし、何よりジュリエットをこのままにはしておけない。エリックは放っておけと言うが、僕にはそんなことできない。 サミーはそっとメリッサの腕を解き、エリックの背後にまわった。「ジュリエットを迎えに行ってくる」耳打ちをし、止められる前に大股で歩き去る。戻ってくるまでエリックがこの場にいるかどうかは重要ではない。帰りたければ帰ればいいし、イベントが終わって再び人々が動き始めてしまえば、もう出会えないかもしれない。 馬車は降りた場所付近で待機させている。公園の入り口には従僕がいる..

  • 花嫁の秘密 361

    計画通りとはいかなかったが、ひとまずサミーとジュリエットを離すことはできた。今夜はこれで満足しておくべきだろう。いや、むしろ元の計画へと軌道修正できたのだから、大収穫と言ってもいいだろう。 「サミー、そっちじゃない。南西の方角だ」周りの歓声にかき消されないように、エリックは声を張り上げた。 「花火があがったってことは、新しい年を迎えたってことかな」サミーは向きを変えて、次の花火を待った。 「なんだかバタバタしてしまったけど、新年おめでとう」メリッサはそう言って、サミーの腕を取った。反対の手を伸ばし、エリックを呼ぶ。「あなたはこっちよ」月の女神のように妖艶に微笑む。 この誘惑を断るのは愚か者だけだ。エリックはメリッサの右隣に立ち腕を差し出した。 「今夜、本当にわたしは必要だったのか考えていたところだけど、あなたたち二人の為には必要だったようね」メリッサはエリック..

  • 花嫁の秘密 360

    最初に口を開いたのは、サミー。 「君はジェームズとどういう知り合い?近いうちに何が?」帰ってからでもよかったが、エリックに聞きたいことは他にもたくさんあって、ここでせめてひとつくらい疑問を減らしておきたい。 「何もない。ただの挨拶だ」エリックはしれっと嘘を吐いた。 何もないはずない。そもそもエリックは以前彼の経営するクラブを――当時の経営者は違うが――中傷するような記事を書いて、訴えられる寸前だったと聞いたことがある。それなのに、僕を放っておいて立ち話をする仲とはね! 「そうかしら?あなたが彼らと接点があるとは思わなかったわ」メリッサは軽い口調で疑問を口にした。 「それを言うなら、サミーとジェームズの方がありえないだろう?」エリックは問い詰められるのは御免だとばかりに言い返した。 なぜありえないと言い切る?「クラブでちょっと一緒に飲んだだけだ。彼の仕事に..

  • 花嫁の秘密 359

    まずい。サミーがものすごい剣幕でこっちへやってくる。 ジュリエットはどうした?ラウールに取られたか?だとしても、怒る理由はない。ジュリエットなどくれてやればいい。 エリックは思わずくつくつと笑った。笑い事ではないが、サミーのあんな顔なかなか見られるものじゃない。 同じようにサミーに気づいたメリッサが、悪趣味な笑いはやめてとエリックの腕を肘で突く。 「サ――」ミー、と言いかけたところでジェームズに先を越された。 「ミスター・リード、あなたもいらしていたんですね」ジェームズが愛想よく声を掛ける。 サミーはまさかという顔でジェームズを見た。どうしてここにと、訝しげにエリックを見る。 「たまたまここで会ったんだ」エリックは言い訳がましく言って肩をすくめた。まさかジェームズと呼ぶ仲だったとは知らなかった。もっとも、ジェームズはアッシャーと呼ばれるのを嫌うから他に呼び..

  • 花嫁の秘密 358

    今夜のディナーの相手がフランス人とはね。しかもわざわざここまで追いかけてきて、僕からジュリエットを奪おうというわけか。 サミーは腹立たしさを押し殺し、悠然とした笑みを顔に張り付けた。物分かりのいい男を演じるのは案外得意だ。 それにしても、この男がエリックの用意した男?帽子から覗く豊かな巻き毛は闇に紛れるのを得意とするような黒髪で、瞳の色は同じく黒。調査員として選びがちな男だが、いい意味で顔が目立ち過ぎる。けど背格好は僕とあまり変わらないし、ジュリエットの好みとは少し違う気がする。 爵位を持っているらしいけど、よくそんなうってつけの人物を見つけてきたものだ。身に着けている装飾品は確かに一級品で、上質のコートだけを見ても腕のいい仕立屋を抱えているのがわかる。 もしも彼が本当に花嫁を探しているのだとしたら、僕はどう出るべきだろう。このまま引くべきだとして、計画はどうなる?..

  • 花嫁の秘密 357

    「ヒナ、ここきたことあるよ」 どこかで聞き覚えのある声を耳にし、エリックは右後方に顔を向けた。サミーにやったような耳当て付きのもこもこ帽子からのぞくコーヒー色の瞳と目が合った。前回見た時はもう少し明るい色だったが、ここはあの屋敷のような明るさはないので仕方ない。 「まさか一人じゃないよな?」さっと周辺に視線を巡らせる。ここにコヒナタカナデがいるということは、保護者であるジャスティン・バーンズがいるはずだ。 「ジュスとパーシーと一緒」ほらここにと振り返った場所に見たこともない家族がいるのを見て、口を綺麗なОの字に開けた。 「迷子か?ジェームズは一緒じゃないのか?」彼が一緒なら一瞬たりともちょろちょろ動き回る子供から目を離したりしないだろう。ちょうど俺がサミーから目を離さないように。 たったいま、サミーとジュリエットの前にラウールが現れた。ビーは少し離れた場所でフ..

  • 花嫁の秘密 356

    ウッドワース・ガーデンズには早朝の乗馬で何度かジュリエットと来たことがある。奥の森の方まで足を延ばさなかったのは、二人きりになるということがいかに危険かを知っていたからだ。 ホテルの部屋で二人きりで過ごした時は、まだジュリエットも出方をうかがっていたのでよかったが、いまはもう同じことはできないだろう。 今夜は日常の風景とはずいぶんとかけ離れた光景が広がっている。フェルリッジの夏祭りとたいして変わらないが、わざわざテントを立ててお仕着せを着た従僕を従えている一団がいるのは、ここならではといったところか。 サミーは屋台の売り子からマグカップをふたつ受け取った。スパイスの効いたホットワインはジュリエットのリクエストだ。いちおうホットレモネードを勧めてみたが、あまり好きではないとあっけなく断られた。 まあ、このくらいなら飲んでも何の影響もないだろう。ただエリックがいい顔しな..

  • 花嫁の秘密 355

    エリックは歩調を緩め、サミーと距離を取った。 これが計画のひとつだとわかっていても、ジュリエットと寄り添って歩く姿を眺めていたい気分ではなかった。道を挟んだ向こうにブラックがいるので、そう心配することもない。 「何を考えているのか当ててみましょうか?」メリッサは前を向いたまま軽やかに言った。この状況を楽しんでいるらしい。結構なことだ。 「うるさい。黙ってろ」エリックは刺々しく返した。 「サミーの演技力もたいしたものね。あれでは彼女がその気になってしまうのもわかるわ」メリッサは黙らなかった。せっかくの夜を楽しまない手はない。 「うるさい」エリックは繰り返した。 「あなたは別の事に専念して、彼に任せたらどう?例の贈り物については何かわかったの?」 どうやってもビーは喋るのをやめないらしい。どこかの誰かさんと同じでしつこい。さすが親友だ。エリックは苛々と..

  • 花嫁の秘密 354

    サミーはジュリエットに腕を差し出した。ジュリエットは遠慮することなく腕を大胆に絡め、ぴたりと寄り添った。 後ろで舌打ちのような音が聞こえたが無視した。ちらりと振り返ると、苦い顔をしながらメリッサに腕を差し出しているところだった。エリックの不満などいちいち聞いていられない。僕には僕のやり方があると言ったはずだ。 歩道を流れる人々はみな同じ方向へ歩いている。ウッドワース・ガーデンズは少し中心部から外れているが、市民の憩いの場所として親しまれている。カウントダウンのイベントで花火を打ち上げるのは初めての試みらしい。 おかげで公園周辺は大渋滞だ。近くに住む者は冬の夜道を歩くこともなく、人々に揉まれることもなく、暖かな場所で花火を見学できるわけだ。こういう時に部屋を貸し出せば、なかなかいい儲けになりそうだ。 通りのあちこちから、売り子の声と共に様々な匂いが漂ってくる。たいてい..

  • 花嫁の秘密 353

    気に入らない。何もかも、気に入らない。 エリックはジュリエットがエレベーターから降りて、サミーと合流する様子を二階のバルコニーから見ていた。だがそれも、サミーがジュリエットに触れるまで。 実際には襟巻に触れただけだったが、エリックの許容できる範囲を超えていた。ブライアークリフ卿のパーティーの時も思ったが、サミーはジュリエットに近づきすぎだ。しかもここをどこだと思っている?馬鹿みたいに浮かれ騒ぐ奴らが大勢いるホテルのロビーだぞ。中には見知ったものもいるというのに、計画は終わりだと言ったのを聞いていなかったとしか思えない。 しかも困ったことに、ジュリエットの扱い方がおそらくクリスよりもうまい。身体よりも精神的な結びつきを重視しているからか?もちろんサミーはジュリエットと心も身体も結びつくことはないが。 エリックは急いで緩やかにカーブしている大階段を降りて、三人に合流した..

  • 花嫁の秘密 352

    預けていたコートと帽子を受け取り、ステッキを手にすると、無防備な状態からようやく解放されたとひと心地着けた。 サミーはロビーでメリッサとジュリエットを待っていたが、エリックがいつ戻ってくるのかに気を取られ、エレベーターが開いて待ち人が姿を現したことに気づいていなかった。 「今夜の君はどこか雰囲気が違うね。そのコートのせいかな?」サミーは不躾にメリッサを上から下まで眺めまわした。純白のコートはフード付きでファーで縁取られている。夜道でもどこにいるかひと目でわかりそうだ。 「エリックからの贈り物よ。何か下心があると思うの」メリッサは内緒話を打ち明けるように声を落として囁くように言った。 確かに、エリックがただで何かするはずない。代償は時に大きく等価交換とはいかないときもある。「エリックに下心がない時があるとは思えないよ。彼はいつだって何か――」 「サミュエル」 ..

  • 花嫁の秘密 351

    メリッサの今夜の役目はただひとつ。 ジュリエットよりも目立つこと。 そう単純な話ではないけれど、エリックがしつこいほど繰り返すものだから、今夜は自分でも驚くほど頑張って支度をした。もちろんグウィネスの助けがあってこそだけれど、あの素敵なコートに似合う自分を演出するのはなかなか面白い挑戦だった。 エリックがメリッサに贈り物をするのは珍しくはない。出会った時から与えられてばかりで、つい最近では屋敷をひとつ貰ったばかりだ。これにはもちろん裏がある。でも、こういうことをいちいち気にしていたらエリックと一緒にはいられない。 エリックからの最新の贈り物は純白のコートだった。サイズは当たり前のようにぴったりで、もしも以前よりも体重オーバーしていたらどうするつもりだったのだろうかと、余計なことを考えてしまった。 ラウンジの入り口で預けたけど、他人の手に委ねるのは心配になるくら..

  • 花嫁の秘密 350

    「ジュリエットは戻ってきたって?」 数時間後、ラッセルホテルのラウンジにサミーはエリックといた。待ち合わせの時間まではあと四十五分あるが、メリッサの方はもう間もなく降りてくると侍女から伝言があった。侍女はグウィネスと言い、ちょうどソフィアと同じくらいの年齢だろうか。目端の利くタイプでメリッサにとっては必要不可欠な存在だと、先ほどエリックから聞いたばかりだ。 「ああ、三〇分ほど前に、上機嫌でね」エリックは答え、ドライマティーニを飲み干し、グラスを手元から離した。オリーブは食べないらしい。 「ディナーの相手が誰だか知らないけど、楽しかったようで何よりだ。いっそのことそいつと花火を見に行けばいいのに」まるで嫉妬しているような言い方になってしまった。けどなにか面白くないのは確かだ。作為的なものを感じるからだろうか。 「予定がなけりゃ、そいつと花火を見に行っていたかもしれない..

  • 花嫁の秘密 349

    サミーが膝の上で眠ってしまってから、エリックはブラックを呼びつけた。契約に必要な条件を書いて持って来いと命じるためだ。サミーの寝顔は見せたくなかったが、動けないので仕方ない。実にすやすや気持ちよさそうに眠っている。 ブラックは無表情でやり過ごすような真似はしなかった。興味深いとばかりに片眉を上げて、新旧の主人を交互に見やった。 「今夜、お前も来い」サミーが起きないように声を潜め言う。 「最初からそのつもりでした。俺はこの方のボディーガードですから」ブラックはサミーに目を落とした。 エリックは警告を込めてブラックを見上げた。呼びつけたのは自分だが、だからといって無遠慮に見ていいとは言っていない。 「その呼び方の方が馴染みがあるな。ただの従僕は退屈だっただろう」サミーから仕事を頼まれ嬉々として出掛けて行ったところを見るに、クレインのような立ち位置を望んでいたのだろ..

  • 花嫁の秘密 348

    「いったいいつまで休憩をするつもりだい?」サミーは皮肉をたっぷりと込めて尋ねた。 うっかり焼き立てのスコーンの誘惑に負けて、居間のいつものソファに場所を移してから、もう二時間は経つ。ブラックが僕に突きつけそうな条件を書き出してくれるというのは、いったいどうなったのだろう。 「どうせ夜まで暇なんだ。もう少しここでこうしていたっていいだろう?」そう言うエリックは、焼き立てのスコーンにも淹れなおした紅茶にも興味を示さず、サミーにぴったりとくっついてうたた寝中だ。 ほとんど狸寝入りだろうとサミーは思っているが、無理やり押し退けるほど狭量ではない。 「君は僕の腕を潰す気か?」腕にもたれかかるエリックの頭に目をやるたび、なぜ髪を切ってしまったのか考えてしまう。本当に僕のひと言で切ってしまったのだろうか?僕が何か言えばその通りに? 「暴漢を倒せるくらいには鍛えているんだろう..

  • 花嫁の秘密 347

    「とにかく、カインのことを僕に言うのはやめてくれ。気に入らなければクビにすることはできるけど、勝手には動かせない」サミーはこの話をこれ以上するつもりなら、今後一切君とは話をしないと言外に匂わせていた。 さすがのエリックも口を閉じた。 ここにあるものすべてお前のものだろうと言ってもよかったが、この状況では火に油を注ぐだけだ。 カインのことは気に入るも入らないもないと思っていたが、読みを誤ったようだ。こっちで手を回して秘かにことを進めることにしよう。クリスには許可を得るとして、今後の動きも把握しなきゃならんし、例の箱の調査状況についての報告も兼ねて手紙を出すか。 「それで、そこの空白は?」エリックはサミーの走り書きを見ながら尋ねた。 「報酬額はブラックに記入させようかと。君は彼にいくら支払っているのか言わないだろう?」 「相場くらいわかるだろう?」言ってもいいが..

  • 花嫁の秘密 346

    外出から戻ったサミーとエリックは、図書室に紙の束とペンを用意し向かい合ってテーブルに着いた。傍らには、サンドイッチと紅茶。昼食は済ませたと言ったが、エリックは無視してプラットに二人分持ってこさせた。 誰かと契約を交わすのは初めてだ。まずは僕の希望を書き出して、それをブラックに確認してもらうのが面倒が少なくて済む。問題は彼がどのくらいの報酬を望むかだが、いまエリックからいくらもらっているかを明かす気はないだろう。 となると、エリックに直接聞いてみるのが手っ取り早い。 サンドイッチを頬張るエリックを尻目に、サミーは思いつくまま紙にペンを走らせていた。近侍としてそばにいてもらうとして、服装に関して縛りは設けない方がいいだろう。もちろんそれなりに相応しい格好というものがあるが、現時点でそう趣味も悪くないしいまのままで構わない。 「――おい、聞いているのか?」 サミーは..

  • 花嫁の秘密 345

    サミーの面白いところは、自分が周りからどう思われているか全く気づいていないところだ。 おそらく自分では馴染めていると思っているのだろうが、ティールームの隅で紳士が一人でケーキを食べている姿がありふれた光景だとでも?好奇心いっぱいにサミーを見つめるご婦人方の中には、自分の娘の相手にどうだろうかと考えている者もいれば、自分の愛人にと思っている者もいる。 そんな中にいつまでも放置しておくほど、俺は寛大な心は持ち合わせていない。 エリックは帽子をひとつ購入し、サミーが姿を見せるのを辛抱強く待った。あの給仕が俺の伝言を正しく伝えていればもう間もなくやってくるだろう。もちろん逃げ出さなければの話だが、残念ながら出口はすでに押さえている。 「君の用事は済んだのか?」すっと隣に立ったサミーが言う。 「まあね。お前の荷物にチョコレートも紛れ込ませておいた。二日もあれば向こうに届..

  • 花嫁の秘密 344

    ラッセルがこの百貨店を買い取ったおかげで、年の瀬だというのに思い通りの買い物ができた。あと数時間で閉まってしまうようだが、三日ほど休んですぐに通常営業に戻る。従業員は大変だがそんなことはおくびにも出さない。よほど訓練されているのだろう。 結局朝食は昼食になってしまったが、ここのティールームは静かで男一人でいてもとても居心地がいい。 サミーはアルコーブの奥まった場所から、客や従業員の動きをのんびりと観察していた。 仕事をするというのはどんなものなのだろう。人に使われる側と使う側と。エリックはちょうど両方の立場にある。新聞社や雑誌社が欲しがっている記事を提供するのも、そう簡単ではないはず。依頼された記事を書き上げるまでに、何人くらい人を動かすのだろう。 ケーキの最後のひと口を口に運び、ここにセシルがいたらいいのにと、一緒に味わえないことを残念に思った。しばらくしてこっちに戻..

  • 花嫁の秘密 343

    あからさまに喜ぶサミーの顔を見て、一緒に喜べるかといえば嘘になる。気に入らないわけではないが、まだハニーに負けていると思うと途端に自信がなくなる。これほど想って尽くしてもまだ足りないというわけだ。 「エリック、今日の予定は?」サミーは手紙を丁寧に封筒に仕舞うと、膝に置いた。大切そうに手の中で指を滑らせている。 「このあと少し出てくる。夕方までには戻るが、何かあるのか?」予定を尋ねたからには何かあるのだろう。ブラックのことか、それともカインのことをもう耳にしただろうか。 「僕も少し出てこようと思う。さすがに<デュ・メテル>は開いていないだろうから、百貨店に行ってくるよ」 手紙の礼にハニーに贈るつもりか。ったく。俺にもこのくらい尽くしてくれないものかね。「様子を見て来てやろうか?店は閉まっているかもしれないが、商品はあるだろう?」 「いや、あの辺もぶらつくからつい..

  • 花嫁の秘密 342

    目が覚めて、ベッドでまどろみ、そこにエリックがいるのか手を伸ばして確かめる。大抵どちらかが先に起きてベッドから出た後は、一緒にいた痕跡を残さないようにさっさと部屋を出る。 この屋敷の誰が何に気づいたとしても、お互い別に気にはしない。それなのになぜ、と不満をこぼしそうになったところでほんの三日前、部屋で二人、朝食を取ったことを思い出した。 エリックと暮らしたら毎日あんなふうなのかといえば、それは違うだろう。彼は仕事を持っているし、いつも何かと忙しくしていて、いま毎日一緒にいることの方が稀だ。 身支度はいつも通り一人で整える。ブラックに手伝ってもらうことがあるとすれば、正装するときくらいだろうが、それさえも必要かどうか。ブラックもきっとそういう仕事は望んでいないだろう。 今日は夜までの時間、契約書を作成することに費やそう。ブラックは細かく内容を決めたがるだろうか。それと..

  • 花嫁の秘密 341

    大晦日の屋敷は賑やかな方が好きだ。 年越しの支度に追われる使用人たちはどこか楽しげで、見ていて気持ちがいい。この朝の慌ただしさが過ぎてしまえば、夜にはお楽しみが待っている。おそらくサミーは気前よく小遣いを渡しているはずだ。 「エリック様どうされましたか?」地階まで降りてきたエリックを見て、プラットが慌てた様子で声をかけてきた。 「いや、ただ早く目が覚めただけだ。落ち着いたらコーヒーを居間へ持って来て欲しい」目は覚めたが、頭はまだぼんやりしている。ベッドでサミーの寝顔を見ていてもよかったが、今日は夜までに片付ける用がいくつかある。 「部屋はすでに暖まっております。すぐにお持ちいたしますので、上でお待ちください」 プラットの言葉に従い、エリックは上に戻った。サミーはあと一時間は起きてこないだろう。クラブでの話を聞きそびれたが、今朝までに何の報告もないということは、..

  • 花嫁の秘密 340

    「いい加減こっちを向いたらどうだ?」 「てっきり君は僕の背中が好きなんだと思っていたよ」そう軽口を叩きながらも、サミーはもぞもぞとエリックに向き直った。「目を閉じてもいいか?」今夜はもうあと一〇分も起きていられないだろう。 エリックと一緒に寝るのも慣れてきたけど、あまりいいことではないなと思う。でもまあ、いまはまだ寒いし、暖かくなるまではしばらくこのままでもいいか。 「今日はやりたいことやって満足したか?」目を閉じるとエリックが言った。 「まあね。そっちこそ、すべて予定通り進んでいるようで何よりだ」嫌味っぽく返そうとしたが、エリックが抱きついてきて声がくぐもってしまった。 「明日の準備をしてきただけだ。お前のせいでゆっくりできやしない」エリックが忙しくしているのは好きでやっていることだ。僕の眠りを妨げているくせによく言う。 「そういえば、明日どうする?ジ..

  • 花嫁の秘密 339

    ブラックはどうやら引き受けるつもりらしい。おかげで説得せずに済んだが、本当にサミーの面倒を見きれるのか不安が残る。 我ながら矛盾しているなと、エリックは失笑した。 サミーがこれまで一人だったのは、背中の傷も含めてそれなりの理由がある。もちろん自分だけが理解者だなどと言うつもりはない。けど、誰よりも理解しようとはしている。 ブラックには決して見るな触れるなと忠告しておいたが、どれほどの物か知ったらさぞ驚くだろう。 今夜はサミーには色々聞きたいことがある。たまには向こうから会いに来てくれてもいいものだが、サミー相手にそういうものを求めても仕方がない。あいつは誰かに自分から擦り寄ったり頼ったりはしない。 だが皮肉なことに、そのサミーがブラックを欲しがった。嫉妬こそしないが、あまりいい気はしない。 そろそろベッドに入った頃だろうかと、エリックはサミーの元へ向かっ..

  • 花嫁の秘密 338

    特に何の問題もなく帰宅したサミーは居間と図書室を覗き、エリックがいないのを見て取って自分の部屋へあがった。 ドアを開けるとそこはいつも通り暖かく静かだった。エリックは帰宅はしているようだけど、珍しく自分の部屋にいるようだ。 今夜はデレクもその取り巻きもいなかったし、カードゲームで少し勝たせてもらって気分がいい。身ぐるみ剥いだってよかったけど、会員との良好な関係を保っておいて悪いことはない。それと思いがけない人物と話すことができたのも、今夜の収穫のひとつだろう。 上着をベッドの上に放り、カフスボタンを外してその上に投げた。こういうのをダグラスが見たら嫌な顔をしそうだけど――もちろん僕のいない所で――、彼はここにはいないし、結局自分で片付けるのだから好きにさせてもらう。 背後でノック音がして、静かにドアが開いた。エリックがノックするなんて、珍しいこともあるものだ。 ..

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