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2022/03/03

  • 花嫁の秘密 378

    ステフに誘われて紳士クラブ<プルートス>に来たものの、ラウンジに一人置き去りにされて十五分は過ぎただろうか。いや、正確には一人ではなく、ミスター・リードも同じテーブルにいる。席に着いてから、初めて彼が口を開いた。 「君はお兄さんと会ったりしているの?」 ジョンは驚いて、手に持っていたワイングラスを置いた。飲もうかどうしようか悩んで、まだ口をつけていなかった。 「数ヶ月に一度、家の事で顔を合わせます。僕は暇なんですけど、兄は忙しくてなかなか予定が合わなくて」 ジョンの兄コッパー子爵レオナルド・スチュワートは、父の死後、十八歳で爵位を受け継いだ。二つ年上で、一度没落した家を再建するのにいまも苦労している。ジョンも手助けはしているが、無口な兄が何を考えているのかさっぱりわからず、領地運営もうまくいっているのかどうかもわからない。 「そう。でも君はそんなに暇そうには見..

  • 花嫁の秘密 377

    プルートスへ向かうと聞いて、サミーはそれが今夜でないといけない理由を考えた。 何か特別なイベントがあると言っていただろうか?年明けにカードが届いていたけど、挨拶だけだったように思う。よく見ておけばよかった。明日にはセシルが戻ってくるから、一緒に行けばさぞかし楽しめるだろうに。 エリックの事だ、ただ単に遊びに行くとも思えない。デレクを追い出すと言っていたから、わざわざあいつに会うためではない。となると、プルートスのオーナークィンに会うためか。約束は取り付けているのだろうか。 サミーは黙って向かいに座るエリックに視線を投げてみたが、気づかないのかあえて無視しているのか、いまは話す気分ではなさそうだ。 もしかして、ブラックの事で腹を立てているのだろうか。着替えるのにブラックを呼んだけど、結局来たのはプラットだった。それに関しては腹を立てるのは僕の方だ。リード家の執事ともあ..

  • 花嫁の秘密 376

    「おい、いつまでそうしているつもりだ?」 エリックは腕を組み、サミーを冷ややかに見おろした。この一週間というもの、サミーはずっと居間のソファに座っているか横になっているか、何もしていないはずはないが、何かしている様子もない。 見張り役のブラックに聞いても、特に何もしていないと言うが、どうにも疑わしい。こうなったらさっさとブラックを向こうに押し付けて、こっちはカインを貰うか。 「ん?」気だるげに見上げるサミーは、エリックがそばに来ていたことにも気づいていなかったらしい。 「ん?じゃない、出掛けるから着替えろ」やれやれと息を吐き、手を差し出す。 「出掛けないよ」サミーはエリックの差し出した手を無視した。 エリックはソファの後ろをまわって、サミーの横に座った。ふわりと香る石鹸の香りに、この数日溜めている欲望が噴き出しそうになる。だがもうしばらくお預けだ。今夜は..

  • 花嫁の秘密 375

    わざわざ変装したものの、クリスの言うようにあまり意味がないように思えた。意固地になっていたことは否めないけど、この格好にまずは慣れることが必要で、その考え自体理解されないのかもしれない。 アンジェラはクリスに寄りかかって目を閉じた。一頭立ての小ぶりな馬車は夜道を順調に進んでいるが、けっして快適な旅とは言えない。でも、クリスがそばにいれば安心できるし、この非日常な状況も案外楽しい。 「ねえ、クリス」アンジェラはそっと話しかけた。もし眠っていたら、話すのは起きてからでも構わない。 「どうした?寝てていいんだよ」クリスはアンジェラの肩を抱き寄せ、膝に掛けていた毛布で二人を包んだ。 アンジェラはクリスの胸に頬をすり寄せた。「ロジャー兄様と出発前に何を話したの?」 「調査を進めておいてくれと話したんだ」クリスは簡潔に答えた。 「調査はリックとサミーがしているんでし..

  • 花嫁の秘密 374

    ラウンズベリー伯爵の本邸は小高い丘の上にあり、最寄りの駅へは南側の宿場町を通ることになる。けれども今回は迂回路を行くことになり、東の小さな集落を通過する。日が暮れる前にそこまで行き、北へ向かう。 目くらましで侯爵家の馬車をフェルリッジへ、伯爵家の馬車をアップル・ゲートへ、三台が時間差で出発する。 アンジェラがどこにいるのか知られないためだが、知られるのも時間の問題だろう。 クリスたちが行く道は、夜になれば明かりもなく真っ暗になる。そのためロジャーが前もって街灯を設置し、御者はその道を目を瞑っていても通り抜けられる者に頼んだ。信頼のおける人物で、急に早まった出発にもうまく合わせてくれた。 フェルリッジであの箱を受け取ってから二週間、とうとうクリスとアンジェラはラムズデンへと出発する。 「まさか本当にその格好で行くつもりか?」馬車の乗り換え地点まで同行したロジャー..

  • 花嫁の秘密 373

    「ハニー?何をしている?」 フェルリッジから到着したばかりのダグラスと、今度の長旅についての打ち合わせを終えたクリスは、旅程についてアンジェラと話すため部屋に戻ったのだが、見慣れない光景にそれ以後の言葉を失った。 いや、見慣れないのではなく、一度だけ見たことのあるその姿は、あまりにもクリスの心に強烈な傷跡を残していた。 新妻アンジェラが自分は男だと告白したあの日、いまと同じように男装していた。 アンジェラの男装は可愛いし、かなりそそられるのだが、あの時自分が口にしたひどい言葉を思い出すと自己嫌悪どころではない。あの夜をもう一度やり直せるならと考えなくもないが、結婚直後からひどいことばかりしていたのでもう忘れたいのが本音だ。 クリスの声に振り返ったアンジェラは、にっこりと笑ってメグが差し出していた帽子をちょこんと頭に乗せた。 「どう?似合う?」 「あ..

  • 花嫁の秘密 372

    エリックは朝目覚めて、サミーの寝顔を好きなだけ眺めてから、その日の仕事に取り掛かる。 あいにく今朝はそうゆっくりとしていられず、出掛けたついでだと挨拶回りもして、屋敷に戻ったのはすっかり日も暮れた頃だった。 ブラックが報告に現れないということは、サミーは今日は余計なことはしてないということか。昨日の今日でジュリエットにメッセージでも送るかと思ったが、帰り際のあの様子からして、何か他に計画しているのかもしれない。勝手な行動を起こす前に少し話し合っておくか。 昨日の疲れが出て何もする気は起きないはずだと居間を覗いたら、案の定サミーはいつものソファにほとんど横になった状態で目を閉じていた。ティーカップから湯気があがっているところを見るに、眠ってはいないようだ。 「まさか一日そこにいたわけじゃないだろうな」エリックは決まり文句を口にした。 サミーがゆっくりと目を開ける。「..

  • 花嫁の秘密 371

    夢を見ることもなくぐっすりと眠っていたサミーは、空腹で目を覚ました。目を閉じた時、確かにソファにいた。あのあと、エリックは部屋にやって来たのだろうか。 手を伸ばしてベッドを探ったが、寝ていた気配はない。結局ここへは来なかったようだ。 サミーは起き上がって、皺くちゃのシャツを脱ぎ捨てた。暖炉に火が入っているから、誰か部屋に入ったのだろう。カフスボタンは昨夜置いた場所にそのままある。 今日はどうしようか。調べ物をしたいけど、その前にエリックと話し合う必要がある。ブライアークリフ卿のパーティーで見かけたあの男の正体もわかったことだし、一緒に調べを進めた方が無駄がない。 サミーは身支度をするため、ベルを鳴らした。呼びつけることはめったにないから、プラットが驚いていないといいけど。 ジュリエットの事は、最初考えていた通りに進めることにしよう。金を渡したゴシップ紙には、約..

  • 花嫁の秘密 370

    「お母様は子供っぽいって言うけど、わたしもクリスもこのドレス好きなの」 朝食がすむと、アンジェラとセシルは新年を祝う特別なケーキを食べるため、女性用の居間に場所を移した。白い家具に上品な椅子、花柄のソファ、そして何よりここを女性的にしている撫子色の壁紙は、先代の伯爵が最愛の妻のために選んだものだ。 六代目ラウンズベリー伯爵レイモンド・コートニーはアンジェラが生まれる前に亡くなった。 だからアンジェラは絵の中の父の姿しか知らない。一番のお気に入りは図書室に飾られている。真面目な顔をしていても、どこか微笑んでいるように見えるのだ。そしてどことなしか、次男のエリックに似ている。 「その赤いタータンチェックのドレス?まあ、母様の言うこともわかるかな。だって侯爵夫人はあまりそういうの着ないものでしょ?でもハニーはまだ子供だからいいんじゃない」セシルは女性のドレスの問題よりも、..

  • 花嫁の秘密 369 ~第十部~

    息苦しい。まるで身体を押し潰されているかのよう。身動きが取れず、叫び声さえ出せない。寒くて歯がカチカチと鳴る。もしかして、わたしは裸なの? アンジェラを恐怖が襲う。あの男が戻って来たのだ。 たすけて、たすけ……て。喉がヒリヒリしてどうやっても声が出ない。どうしよう。 「ハニー!起きるんだ――」 クリス?そこにいるの? アンジェラは差し出された手をどうにか掴んだ。掴んだその手に手首をしっかり掴まれて引き上げられる。おそるおそる目を開けると、目の前には心配そうに顔を覗き込んでいるクリスがいた。 「わたし――」 クリスが指先でそっと頬に触れた。「夢を見ていたんだ。悪い夢を」 夢?アンジェラは目をしばたたかせ、それからクリスに抱きついた。しばらくは平気だったのにどうしてまた。 もちろん完全に忘れられるわけではない。けど思い当たることがあるとすれ..

  • 花嫁の秘密 368

    サミーとエリックがリード邸に戻ったのは午前三時を過ぎた頃だった。 玄関広間で出迎えたプラットは仮眠を取っていたらしく、いつもよりも気の抜けた顔をしていた。 「僕はこのまま部屋に行くよ。君はブラックから報告を受けるんだろう?プラット、お前はもう休め。あとはこっちでするから」 プラットは一瞬躊躇いを見せたものの、サミーの言葉に従った。どちらにせよもう二時間もすれば、新しい年の朝の支度が始まる。主人が遅く戻ったからといって、この屋敷のサイクルが変わるわけではない。 「ブラックは何かお前に言ったか?」エリックは階段を上がろうとするサミーの手首を掴んだ。 サミーはゆるりと振り返りエリックと目を合わせた。ブラックに言われてまずいことでもあるのだろうか。いや、おそらくまずいことだらけだろう。僕がアンジェラやセシルのように食い下がるタイプではなくて感謝することだ。 「余計な..

  • 花嫁の秘密 367

    「ビー、先に馬車に乗ってろ」 エリックはサミーの姿を見とめて、すぐに様子がおかしいことに気づいた。待ち伏せていたクレインの用件はたいしたことではなかったが、数日以内に動きを見直す必要はありそうだった。 人の流れに逆らうようにして、二人に近づく。ジュリエットは喋っていたが、あの顔だとおそらくサミーの耳には届いていない。いったい何があった? 「サミー!ここだ」軽く手を上げて、名前を呼ぶ。サミーはハッとしたように焦点を合わせて、ようやくこちらに気づいた。ジュリエットは途端に苦い顔をしている。 「そんな大きな声を出さなくても、自分の馬車くらい見ればわかる」可愛げのない返事だが、ホッとしているのがわかった。だからジュリエットなんかと関わるなと言ったのに、言うことを聞かないからこうなる。何があったにせよ、次はもうない。 「自分の馬車ね。これはクリスのだ」そう言った途端、な..

  • 花嫁の秘密 366

    ジュリエットがいま何を考えているのか、サミーには手に取るように分かった。 僕は彼女の期待に応えるべきだろうか。それともエリックの言うように、もう手を引くべきか。今夜ジュリエットをホテルへ送り届けたら、しばらくは会わないつもりだ。少し前の計画でそう決めていたのに、もう少し引きつけておけと言ったのはエリックだ。それなのに今度はもう会うなと言う。結局僕は振り回されてばかりでこれといった成果も出せていない。 そしてあの若い男の登場。喜ぶべきなのだろうけど、お前は役立たずだとエリックに言われたような気分だ。 「サミュエル、シーズン中はずっとこっちにいるの?」ジュリエットの探るように問いかけに、サミーは物思いを中断した。 「ん、そうなるかな、おそらく」問題が片付くまで身動きが取れないのは、いったい誰のせいだと思っているのか。ジュリエットは自分のしたこと、していることを理解してい..

  • 花嫁の秘密 365

    大通りに出ると案の定馬車が大渋滞を起こしていた。個人所有の馬車は歩道に寄せるようにして列を成していて、主人が戻ってくるのを待っている。 「これから場所を移して朝まで騒ぐのかしらね」騒ぐ一団の脇をすり抜けながら、メリッサはぼやくように言った。 「だろうな。俺たちみたいにさっさと帰る方が珍しい」そもそもサミーが余計なことをしてジュリエットをカウントダウンイベントに誘わなければ、今頃はいつもの場所で寝顔でも眺めていただろう。 そういえば、カウントダウンはどこでやっていたのだろうか。気づいたら花火が打ちあがっていて、サミーに気を取られている間に終わっていた。 「騒ぎたいなら付き合うわよ。ジュリエットは帰りたくないんじゃないかしら?」メリッサは不敵に微笑んだ。 「どうかな。ホテルの部屋にサミーを連れ込みたくてうずうずしているさ」ジュリエットはこの数ヶ月関係が進まないこと..

  • 花嫁の秘密 364

    「君がまだここにいたいと言うなら、僕はかまわないよ。でも、君をホテルまで送り届けるのは僕の役目だってことを忘れないで」 サミュエルは怒っているのかしら。それともただ嫉妬しているだけ? 「もちろん、わかっているわ。だからこうしてあなたと歩いているのではなくって?」ジュリエットは猫がのどを鳴らすように、ごきげんな笑い声をあげた。たとえ怒っていたとしてもサミュエルのこういった紳士らしい行為は受けていて心地いい。 サミーが無言で腕を差し出し、ジュリエットは嬉々としてその腕を取った。 ここ最近で気付いたのは、サミュエルを試すような真似をしても、あまりうまくいかないということ。特に今夜の事は失敗だった。 花火を一緒に見られなかったこと気にしているかしら?サミュエルはきっとわたしがラウールを選んだと思っているでしょうね。一緒に来てくれれば、それは違うとすぐにわかったはずなの..

  • 花嫁の秘密 363

    「行かせていいの?」夜空を見上げていたメリッサはいたずらっぽい視線をエリックに向けた。追いかけるならいまよ、とでも言いたげに。 「好きにさせておけ。あいつはこうと決めたら聞きやしない。ったく、腹の立つ」エリックは舌打ちをしてサミーが歩き去った方を見た。すでに姿はないが、どこへ向かったかはわかっている。追ってもいいが、それはあまりにも無駄な行為だ。 「彼女を誰に任せたの?サミーと取り合いになったりしなければいいけど。花火はもう終わりかしら?」メリッサは上を見るのをやめて、ほっとひと息吐いた。「案外あっけないものね」 次の花火がなかなか上がらず、観衆がざわついてきた。終わりなら終わりで合図でもあればいいが、おそらくそんなものはない。 「取り合う価値もないが、しないとも言い切れないな。相手はラウールだ」面倒だから指示は最低限しかしていないが、ラウールも誰を相手にしているの..

  • 花嫁の秘密 362

    いつまでもこうしていたいと思ったのは、初めてではないけど、もういつの事だったか思い出せないほど記憶にない。 頬の産毛が逆立つほどピリピリとした視線を感じながら、新しい年を祝う花火に魅入っていた。と同時に、混雑する前に帰ることは可能だろうかと、考えを巡らせていた。 答えはわかりきっている。もちろん不可能だし、何よりジュリエットをこのままにはしておけない。エリックは放っておけと言うが、僕にはそんなことできない。 サミーはそっとメリッサの腕を解き、エリックの背後にまわった。「ジュリエットを迎えに行ってくる」耳打ちをし、止められる前に大股で歩き去る。戻ってくるまでエリックがこの場にいるかどうかは重要ではない。帰りたければ帰ればいいし、イベントが終わって再び人々が動き始めてしまえば、もう出会えないかもしれない。 馬車は降りた場所付近で待機させている。公園の入り口には従僕がいる..

  • 花嫁の秘密 361

    計画通りとはいかなかったが、ひとまずサミーとジュリエットを離すことはできた。今夜はこれで満足しておくべきだろう。いや、むしろ元の計画へと軌道修正できたのだから、大収穫と言ってもいいだろう。 「サミー、そっちじゃない。南西の方角だ」周りの歓声にかき消されないように、エリックは声を張り上げた。 「花火があがったってことは、新しい年を迎えたってことかな」サミーは向きを変えて、次の花火を待った。 「なんだかバタバタしてしまったけど、新年おめでとう」メリッサはそう言って、サミーの腕を取った。反対の手を伸ばし、エリックを呼ぶ。「あなたはこっちよ」月の女神のように妖艶に微笑む。 この誘惑を断るのは愚か者だけだ。エリックはメリッサの右隣に立ち腕を差し出した。 「今夜、本当にわたしは必要だったのか考えていたところだけど、あなたたち二人の為には必要だったようね」メリッサはエリック..

  • 花嫁の秘密 360

    最初に口を開いたのは、サミー。 「君はジェームズとどういう知り合い?近いうちに何が?」帰ってからでもよかったが、エリックに聞きたいことは他にもたくさんあって、ここでせめてひとつくらい疑問を減らしておきたい。 「何もない。ただの挨拶だ」エリックはしれっと嘘を吐いた。 何もないはずない。そもそもエリックは以前彼の経営するクラブを――当時の経営者は違うが――中傷するような記事を書いて、訴えられる寸前だったと聞いたことがある。それなのに、僕を放っておいて立ち話をする仲とはね! 「そうかしら?あなたが彼らと接点があるとは思わなかったわ」メリッサは軽い口調で疑問を口にした。 「それを言うなら、サミーとジェームズの方がありえないだろう?」エリックは問い詰められるのは御免だとばかりに言い返した。 なぜありえないと言い切る?「クラブでちょっと一緒に飲んだだけだ。彼の仕事に..

  • 花嫁の秘密 359

    まずい。サミーがものすごい剣幕でこっちへやってくる。 ジュリエットはどうした?ラウールに取られたか?だとしても、怒る理由はない。ジュリエットなどくれてやればいい。 エリックは思わずくつくつと笑った。笑い事ではないが、サミーのあんな顔なかなか見られるものじゃない。 同じようにサミーに気づいたメリッサが、悪趣味な笑いはやめてとエリックの腕を肘で突く。 「サ――」ミー、と言いかけたところでジェームズに先を越された。 「ミスター・リード、あなたもいらしていたんですね」ジェームズが愛想よく声を掛ける。 サミーはまさかという顔でジェームズを見た。どうしてここにと、訝しげにエリックを見る。 「たまたまここで会ったんだ」エリックは言い訳がましく言って肩をすくめた。まさかジェームズと呼ぶ仲だったとは知らなかった。もっとも、ジェームズはアッシャーと呼ばれるのを嫌うから他に呼び..

  • 花嫁の秘密 358

    今夜のディナーの相手がフランス人とはね。しかもわざわざここまで追いかけてきて、僕からジュリエットを奪おうというわけか。 サミーは腹立たしさを押し殺し、悠然とした笑みを顔に張り付けた。物分かりのいい男を演じるのは案外得意だ。 それにしても、この男がエリックの用意した男?帽子から覗く豊かな巻き毛は闇に紛れるのを得意とするような黒髪で、瞳の色は同じく黒。調査員として選びがちな男だが、いい意味で顔が目立ち過ぎる。けど背格好は僕とあまり変わらないし、ジュリエットの好みとは少し違う気がする。 爵位を持っているらしいけど、よくそんなうってつけの人物を見つけてきたものだ。身に着けている装飾品は確かに一級品で、上質のコートだけを見ても腕のいい仕立屋を抱えているのがわかる。 もしも彼が本当に花嫁を探しているのだとしたら、僕はどう出るべきだろう。このまま引くべきだとして、計画はどうなる?..

  • 花嫁の秘密 357

    「ヒナ、ここきたことあるよ」 どこかで聞き覚えのある声を耳にし、エリックは右後方に顔を向けた。サミーにやったような耳当て付きのもこもこ帽子からのぞくコーヒー色の瞳と目が合った。前回見た時はもう少し明るい色だったが、ここはあの屋敷のような明るさはないので仕方ない。 「まさか一人じゃないよな?」さっと周辺に視線を巡らせる。ここにコヒナタカナデがいるということは、保護者であるジャスティン・バーンズがいるはずだ。 「ジュスとパーシーと一緒」ほらここにと振り返った場所に見たこともない家族がいるのを見て、口を綺麗なОの字に開けた。 「迷子か?ジェームズは一緒じゃないのか?」彼が一緒なら一瞬たりともちょろちょろ動き回る子供から目を離したりしないだろう。ちょうど俺がサミーから目を離さないように。 たったいま、サミーとジュリエットの前にラウールが現れた。ビーは少し離れた場所でフ..

  • 花嫁の秘密 356

    ウッドワース・ガーデンズには早朝の乗馬で何度かジュリエットと来たことがある。奥の森の方まで足を延ばさなかったのは、二人きりになるということがいかに危険かを知っていたからだ。 ホテルの部屋で二人きりで過ごした時は、まだジュリエットも出方をうかがっていたのでよかったが、いまはもう同じことはできないだろう。 今夜は日常の風景とはずいぶんとかけ離れた光景が広がっている。フェルリッジの夏祭りとたいして変わらないが、わざわざテントを立ててお仕着せを着た従僕を従えている一団がいるのは、ここならではといったところか。 サミーは屋台の売り子からマグカップをふたつ受け取った。スパイスの効いたホットワインはジュリエットのリクエストだ。いちおうホットレモネードを勧めてみたが、あまり好きではないとあっけなく断られた。 まあ、このくらいなら飲んでも何の影響もないだろう。ただエリックがいい顔しな..

  • 花嫁の秘密 355

    エリックは歩調を緩め、サミーと距離を取った。 これが計画のひとつだとわかっていても、ジュリエットと寄り添って歩く姿を眺めていたい気分ではなかった。道を挟んだ向こうにブラックがいるので、そう心配することもない。 「何を考えているのか当ててみましょうか?」メリッサは前を向いたまま軽やかに言った。この状況を楽しんでいるらしい。結構なことだ。 「うるさい。黙ってろ」エリックは刺々しく返した。 「サミーの演技力もたいしたものね。あれでは彼女がその気になってしまうのもわかるわ」メリッサは黙らなかった。せっかくの夜を楽しまない手はない。 「うるさい」エリックは繰り返した。 「あなたは別の事に専念して、彼に任せたらどう?例の贈り物については何かわかったの?」 どうやってもビーは喋るのをやめないらしい。どこかの誰かさんと同じでしつこい。さすが親友だ。エリックは苛々と..

  • 花嫁の秘密 354

    サミーはジュリエットに腕を差し出した。ジュリエットは遠慮することなく腕を大胆に絡め、ぴたりと寄り添った。 後ろで舌打ちのような音が聞こえたが無視した。ちらりと振り返ると、苦い顔をしながらメリッサに腕を差し出しているところだった。エリックの不満などいちいち聞いていられない。僕には僕のやり方があると言ったはずだ。 歩道を流れる人々はみな同じ方向へ歩いている。ウッドワース・ガーデンズは少し中心部から外れているが、市民の憩いの場所として親しまれている。カウントダウンのイベントで花火を打ち上げるのは初めての試みらしい。 おかげで公園周辺は大渋滞だ。近くに住む者は冬の夜道を歩くこともなく、人々に揉まれることもなく、暖かな場所で花火を見学できるわけだ。こういう時に部屋を貸し出せば、なかなかいい儲けになりそうだ。 通りのあちこちから、売り子の声と共に様々な匂いが漂ってくる。たいてい..

  • 花嫁の秘密 353

    気に入らない。何もかも、気に入らない。 エリックはジュリエットがエレベーターから降りて、サミーと合流する様子を二階のバルコニーから見ていた。だがそれも、サミーがジュリエットに触れるまで。 実際には襟巻に触れただけだったが、エリックの許容できる範囲を超えていた。ブライアークリフ卿のパーティーの時も思ったが、サミーはジュリエットに近づきすぎだ。しかもここをどこだと思っている?馬鹿みたいに浮かれ騒ぐ奴らが大勢いるホテルのロビーだぞ。中には見知ったものもいるというのに、計画は終わりだと言ったのを聞いていなかったとしか思えない。 しかも困ったことに、ジュリエットの扱い方がおそらくクリスよりもうまい。身体よりも精神的な結びつきを重視しているからか?もちろんサミーはジュリエットと心も身体も結びつくことはないが。 エリックは急いで緩やかにカーブしている大階段を降りて、三人に合流した..

  • 花嫁の秘密 352

    預けていたコートと帽子を受け取り、ステッキを手にすると、無防備な状態からようやく解放されたとひと心地着けた。 サミーはロビーでメリッサとジュリエットを待っていたが、エリックがいつ戻ってくるのかに気を取られ、エレベーターが開いて待ち人が姿を現したことに気づいていなかった。 「今夜の君はどこか雰囲気が違うね。そのコートのせいかな?」サミーは不躾にメリッサを上から下まで眺めまわした。純白のコートはフード付きでファーで縁取られている。夜道でもどこにいるかひと目でわかりそうだ。 「エリックからの贈り物よ。何か下心があると思うの」メリッサは内緒話を打ち明けるように声を落として囁くように言った。 確かに、エリックがただで何かするはずない。代償は時に大きく等価交換とはいかないときもある。「エリックに下心がない時があるとは思えないよ。彼はいつだって何か――」 「サミュエル」 ..

  • 花嫁の秘密 351

    メリッサの今夜の役目はただひとつ。 ジュリエットよりも目立つこと。 そう単純な話ではないけれど、エリックがしつこいほど繰り返すものだから、今夜は自分でも驚くほど頑張って支度をした。もちろんグウィネスの助けがあってこそだけれど、あの素敵なコートに似合う自分を演出するのはなかなか面白い挑戦だった。 エリックがメリッサに贈り物をするのは珍しくはない。出会った時から与えられてばかりで、つい最近では屋敷をひとつ貰ったばかりだ。これにはもちろん裏がある。でも、こういうことをいちいち気にしていたらエリックと一緒にはいられない。 エリックからの最新の贈り物は純白のコートだった。サイズは当たり前のようにぴったりで、もしも以前よりも体重オーバーしていたらどうするつもりだったのだろうかと、余計なことを考えてしまった。 ラウンジの入り口で預けたけど、他人の手に委ねるのは心配になるくら..

  • 花嫁の秘密 350

    「ジュリエットは戻ってきたって?」 数時間後、ラッセルホテルのラウンジにサミーはエリックといた。待ち合わせの時間まではあと四十五分あるが、メリッサの方はもう間もなく降りてくると侍女から伝言があった。侍女はグウィネスと言い、ちょうどソフィアと同じくらいの年齢だろうか。目端の利くタイプでメリッサにとっては必要不可欠な存在だと、先ほどエリックから聞いたばかりだ。 「ああ、三〇分ほど前に、上機嫌でね」エリックは答え、ドライマティーニを飲み干し、グラスを手元から離した。オリーブは食べないらしい。 「ディナーの相手が誰だか知らないけど、楽しかったようで何よりだ。いっそのことそいつと花火を見に行けばいいのに」まるで嫉妬しているような言い方になってしまった。けどなにか面白くないのは確かだ。作為的なものを感じるからだろうか。 「予定がなけりゃ、そいつと花火を見に行っていたかもしれない..

  • 花嫁の秘密 349

    サミーが膝の上で眠ってしまってから、エリックはブラックを呼びつけた。契約に必要な条件を書いて持って来いと命じるためだ。サミーの寝顔は見せたくなかったが、動けないので仕方ない。実にすやすや気持ちよさそうに眠っている。 ブラックは無表情でやり過ごすような真似はしなかった。興味深いとばかりに片眉を上げて、新旧の主人を交互に見やった。 「今夜、お前も来い」サミーが起きないように声を潜め言う。 「最初からそのつもりでした。俺はこの方のボディーガードですから」ブラックはサミーに目を落とした。 エリックは警告を込めてブラックを見上げた。呼びつけたのは自分だが、だからといって無遠慮に見ていいとは言っていない。 「その呼び方の方が馴染みがあるな。ただの従僕は退屈だっただろう」サミーから仕事を頼まれ嬉々として出掛けて行ったところを見るに、クレインのような立ち位置を望んでいたのだろ..

  • 花嫁の秘密 348

    「いったいいつまで休憩をするつもりだい?」サミーは皮肉をたっぷりと込めて尋ねた。 うっかり焼き立てのスコーンの誘惑に負けて、居間のいつものソファに場所を移してから、もう二時間は経つ。ブラックが僕に突きつけそうな条件を書き出してくれるというのは、いったいどうなったのだろう。 「どうせ夜まで暇なんだ。もう少しここでこうしていたっていいだろう?」そう言うエリックは、焼き立てのスコーンにも淹れなおした紅茶にも興味を示さず、サミーにぴったりとくっついてうたた寝中だ。 ほとんど狸寝入りだろうとサミーは思っているが、無理やり押し退けるほど狭量ではない。 「君は僕の腕を潰す気か?」腕にもたれかかるエリックの頭に目をやるたび、なぜ髪を切ってしまったのか考えてしまう。本当に僕のひと言で切ってしまったのだろうか?僕が何か言えばその通りに? 「暴漢を倒せるくらいには鍛えているんだろう..

  • 花嫁の秘密 347

    「とにかく、カインのことを僕に言うのはやめてくれ。気に入らなければクビにすることはできるけど、勝手には動かせない」サミーはこの話をこれ以上するつもりなら、今後一切君とは話をしないと言外に匂わせていた。 さすがのエリックも口を閉じた。 ここにあるものすべてお前のものだろうと言ってもよかったが、この状況では火に油を注ぐだけだ。 カインのことは気に入るも入らないもないと思っていたが、読みを誤ったようだ。こっちで手を回して秘かにことを進めることにしよう。クリスには許可を得るとして、今後の動きも把握しなきゃならんし、例の箱の調査状況についての報告も兼ねて手紙を出すか。 「それで、そこの空白は?」エリックはサミーの走り書きを見ながら尋ねた。 「報酬額はブラックに記入させようかと。君は彼にいくら支払っているのか言わないだろう?」 「相場くらいわかるだろう?」言ってもいいが..

  • 花嫁の秘密 346

    外出から戻ったサミーとエリックは、図書室に紙の束とペンを用意し向かい合ってテーブルに着いた。傍らには、サンドイッチと紅茶。昼食は済ませたと言ったが、エリックは無視してプラットに二人分持ってこさせた。 誰かと契約を交わすのは初めてだ。まずは僕の希望を書き出して、それをブラックに確認してもらうのが面倒が少なくて済む。問題は彼がどのくらいの報酬を望むかだが、いまエリックからいくらもらっているかを明かす気はないだろう。 となると、エリックに直接聞いてみるのが手っ取り早い。 サンドイッチを頬張るエリックを尻目に、サミーは思いつくまま紙にペンを走らせていた。近侍としてそばにいてもらうとして、服装に関して縛りは設けない方がいいだろう。もちろんそれなりに相応しい格好というものがあるが、現時点でそう趣味も悪くないしいまのままで構わない。 「――おい、聞いているのか?」 サミーは..

  • 花嫁の秘密 345

    サミーの面白いところは、自分が周りからどう思われているか全く気づいていないところだ。 おそらく自分では馴染めていると思っているのだろうが、ティールームの隅で紳士が一人でケーキを食べている姿がありふれた光景だとでも?好奇心いっぱいにサミーを見つめるご婦人方の中には、自分の娘の相手にどうだろうかと考えている者もいれば、自分の愛人にと思っている者もいる。 そんな中にいつまでも放置しておくほど、俺は寛大な心は持ち合わせていない。 エリックは帽子をひとつ購入し、サミーが姿を見せるのを辛抱強く待った。あの給仕が俺の伝言を正しく伝えていればもう間もなくやってくるだろう。もちろん逃げ出さなければの話だが、残念ながら出口はすでに押さえている。 「君の用事は済んだのか?」すっと隣に立ったサミーが言う。 「まあね。お前の荷物にチョコレートも紛れ込ませておいた。二日もあれば向こうに届..

  • 花嫁の秘密 344

    ラッセルがこの百貨店を買い取ったおかげで、年の瀬だというのに思い通りの買い物ができた。あと数時間で閉まってしまうようだが、三日ほど休んですぐに通常営業に戻る。従業員は大変だがそんなことはおくびにも出さない。よほど訓練されているのだろう。 結局朝食は昼食になってしまったが、ここのティールームは静かで男一人でいてもとても居心地がいい。 サミーはアルコーブの奥まった場所から、客や従業員の動きをのんびりと観察していた。 仕事をするというのはどんなものなのだろう。人に使われる側と使う側と。エリックはちょうど両方の立場にある。新聞社や雑誌社が欲しがっている記事を提供するのも、そう簡単ではないはず。依頼された記事を書き上げるまでに、何人くらい人を動かすのだろう。 ケーキの最後のひと口を口に運び、ここにセシルがいたらいいのにと、一緒に味わえないことを残念に思った。しばらくしてこっちに戻..

  • 花嫁の秘密 343

    あからさまに喜ぶサミーの顔を見て、一緒に喜べるかといえば嘘になる。気に入らないわけではないが、まだハニーに負けていると思うと途端に自信がなくなる。これほど想って尽くしてもまだ足りないというわけだ。 「エリック、今日の予定は?」サミーは手紙を丁寧に封筒に仕舞うと、膝に置いた。大切そうに手の中で指を滑らせている。 「このあと少し出てくる。夕方までには戻るが、何かあるのか?」予定を尋ねたからには何かあるのだろう。ブラックのことか、それともカインのことをもう耳にしただろうか。 「僕も少し出てこようと思う。さすがに<デュ・メテル>は開いていないだろうから、百貨店に行ってくるよ」 手紙の礼にハニーに贈るつもりか。ったく。俺にもこのくらい尽くしてくれないものかね。「様子を見て来てやろうか?店は閉まっているかもしれないが、商品はあるだろう?」 「いや、あの辺もぶらつくからつい..

  • 花嫁の秘密 342

    目が覚めて、ベッドでまどろみ、そこにエリックがいるのか手を伸ばして確かめる。大抵どちらかが先に起きてベッドから出た後は、一緒にいた痕跡を残さないようにさっさと部屋を出る。 この屋敷の誰が何に気づいたとしても、お互い別に気にはしない。それなのになぜ、と不満をこぼしそうになったところでほんの三日前、部屋で二人、朝食を取ったことを思い出した。 エリックと暮らしたら毎日あんなふうなのかといえば、それは違うだろう。彼は仕事を持っているし、いつも何かと忙しくしていて、いま毎日一緒にいることの方が稀だ。 身支度はいつも通り一人で整える。ブラックに手伝ってもらうことがあるとすれば、正装するときくらいだろうが、それさえも必要かどうか。ブラックもきっとそういう仕事は望んでいないだろう。 今日は夜までの時間、契約書を作成することに費やそう。ブラックは細かく内容を決めたがるだろうか。それと..

  • 花嫁の秘密 341

    大晦日の屋敷は賑やかな方が好きだ。 年越しの支度に追われる使用人たちはどこか楽しげで、見ていて気持ちがいい。この朝の慌ただしさが過ぎてしまえば、夜にはお楽しみが待っている。おそらくサミーは気前よく小遣いを渡しているはずだ。 「エリック様どうされましたか?」地階まで降りてきたエリックを見て、プラットが慌てた様子で声をかけてきた。 「いや、ただ早く目が覚めただけだ。落ち着いたらコーヒーを居間へ持って来て欲しい」目は覚めたが、頭はまだぼんやりしている。ベッドでサミーの寝顔を見ていてもよかったが、今日は夜までに片付ける用がいくつかある。 「部屋はすでに暖まっております。すぐにお持ちいたしますので、上でお待ちください」 プラットの言葉に従い、エリックは上に戻った。サミーはあと一時間は起きてこないだろう。クラブでの話を聞きそびれたが、今朝までに何の報告もないということは、..

  • 花嫁の秘密 340

    「いい加減こっちを向いたらどうだ?」 「てっきり君は僕の背中が好きなんだと思っていたよ」そう軽口を叩きながらも、サミーはもぞもぞとエリックに向き直った。「目を閉じてもいいか?」今夜はもうあと一〇分も起きていられないだろう。 エリックと一緒に寝るのも慣れてきたけど、あまりいいことではないなと思う。でもまあ、いまはまだ寒いし、暖かくなるまではしばらくこのままでもいいか。 「今日はやりたいことやって満足したか?」目を閉じるとエリックが言った。 「まあね。そっちこそ、すべて予定通り進んでいるようで何よりだ」嫌味っぽく返そうとしたが、エリックが抱きついてきて声がくぐもってしまった。 「明日の準備をしてきただけだ。お前のせいでゆっくりできやしない」エリックが忙しくしているのは好きでやっていることだ。僕の眠りを妨げているくせによく言う。 「そういえば、明日どうする?ジ..

  • 花嫁の秘密 339

    ブラックはどうやら引き受けるつもりらしい。おかげで説得せずに済んだが、本当にサミーの面倒を見きれるのか不安が残る。 我ながら矛盾しているなと、エリックは失笑した。 サミーがこれまで一人だったのは、背中の傷も含めてそれなりの理由がある。もちろん自分だけが理解者だなどと言うつもりはない。けど、誰よりも理解しようとはしている。 ブラックには決して見るな触れるなと忠告しておいたが、どれほどの物か知ったらさぞ驚くだろう。 今夜はサミーには色々聞きたいことがある。たまには向こうから会いに来てくれてもいいものだが、サミー相手にそういうものを求めても仕方がない。あいつは誰かに自分から擦り寄ったり頼ったりはしない。 だが皮肉なことに、そのサミーがブラックを欲しがった。嫉妬こそしないが、あまりいい気はしない。 そろそろベッドに入った頃だろうかと、エリックはサミーの元へ向かっ..

  • 花嫁の秘密 338

    特に何の問題もなく帰宅したサミーは居間と図書室を覗き、エリックがいないのを見て取って自分の部屋へあがった。 ドアを開けるとそこはいつも通り暖かく静かだった。エリックは帰宅はしているようだけど、珍しく自分の部屋にいるようだ。 今夜はデレクもその取り巻きもいなかったし、カードゲームで少し勝たせてもらって気分がいい。身ぐるみ剥いだってよかったけど、会員との良好な関係を保っておいて悪いことはない。それと思いがけない人物と話すことができたのも、今夜の収穫のひとつだろう。 上着をベッドの上に放り、カフスボタンを外してその上に投げた。こういうのをダグラスが見たら嫌な顔をしそうだけど――もちろん僕のいない所で――、彼はここにはいないし、結局自分で片付けるのだから好きにさせてもらう。 背後でノック音がして、静かにドアが開いた。エリックがノックするなんて、珍しいこともあるものだ。 ..

  • 花嫁の秘密 337

    晩餐の時間に間に合うよう帰宅したエリックを待っていたのは、サミーではなくブラックだった。報告すべきことがある時は、いつも待ち構えている。 「どこへ行ったって?」訊き返すまでもなくもちろん聞こえていたが、反射的にそうしていた。 「今夜はプルートスで食事をすると言って、暗くなる前に出掛けて行きました」 澄ました顔で答えるブラックに、お前の仕事は何なのだと耳元で怒鳴ってやりたい衝動を抑え、エリックはゆっくりと息を吐き出した。 「一応止めましたよ」ブラックは何の意味も持たない言葉を付け加えた。 「だったらなぜお前はここにいて、サミーはいない?」もちろんサミーを止められなかったからだ。 「まさかついて行けと言うつもりじゃないでしょうね?あの方は好きなように行動するし、そもそも俺の言うことなんて聞きやしませんよ」 そんなこと言われるまでもなくわかっている。サミ..

  • 花嫁の秘密 336

    父の葬儀の出席者の名簿は何冊かあったが、ダグラスは僕が欲しがっていた名前の載っている名簿をうまくブラックに渡してくれたようだ。 この名簿は誰がまとめたものだろう。出席者の詳細も漏れなく記入されている。おかげでブライアークリフ卿のパーティーで見かけた男の正体がわかった。 これでブラックに調べを進めてもらえるが、エリックはブラックに例の話をしたのだろうか?箱の調査を任せると言ってすぐに、またどこかへ出掛けてしまったけど。 直接僕からブラックに言ってもいいけど、現雇い主であるエリックがクビにしてくれないと話を進めようがない。それに報酬はいくらにすればいいのか見当がつかない。引き抜くわけだから五割り増しくらいでいいのだろうか。それとも倍は払わないと首を縦に振らないだろうか。 そういえば、ジュリエットにもうあれは届いただろうか。特に知らせがないということはまだなのだろう。夜は..

  • 花嫁の秘密 335

    昼食後、ブラックが持ち帰った帳簿のようなものにサミーが夢中になっている間に、エリックは注文していたものを取りに仕立屋に向かった。もちろんアンダーソンのところではない。 特に中を確かめるでもなく商品を受け取ると、次にラッセルホテルへ向かう。仕立屋に直接ホテルに届けさせてもよかったが、メリッサの驚く顔を見逃す手はない。ついでにジュリエットの様子も確かめておきたかった。 やめておけばいいのに、サミーはジュリエットに何通か手紙を出していたようだ。作戦は変更すると言っても、サミーは自分の立てた計画を変更するつもりはないようで、こっちの手を煩わせることしか考えていないのかと思うほどだ。 ティーラウンジには客たちの視線を集めながら、優雅にティータイムを楽しんでいるメリッサがいた。ジュリエットが同席してないということは、特に仲良くはなっていないようだ。どちらにしても、明日には嫌でも一緒に..

  • 花嫁の秘密 334

    二日経って、ブラックが名簿を手に戻って来た。カウントダウンイベントはもう明日に迫っている。 名簿にすぐにでも目を通したかったが、エリックが派遣していた調査員も例の箱を持って一緒に戻って来たので、ひとまず後回しにすることにした。 サミーは図書室の一角でプレゼント箱を見下ろしながら、アンジェラがこれを目にした時のことを思い胸を痛めた。 中身はクリスが知らせた通りの物が入っていたが、調べた後なのでただそこにナイフとハンカチがあるだけだ。調査員の報告ではナイフもハンカチも新しいものではなく、村で調達されたものではないとの事。 アンジェラの名前が刺繍されたハンカチには血が付着しているが、これが人のものなのか動物のものなのかは、現時点ではわかっていない。刺繍はアンジェラがしたものではないのは、ひと目見て分かった。もしかするとこれを見て、誰が針を刺したのかわかる者がいるかもしれな..

  • 花嫁の秘密 333

    「こんな雨の中どうしたんです?」路地裏のパブのカウンターで一人飲んでいたクレインは、隣に雇い主が座ったのを気配で感じ囁くように言った。 今夜はもう仕事は終わりだと思っていたが、そう甘くはなかったか。 「ひとつ問題が起きた」 やれやれ、この数日問題だらけだ。これ以上何が起こるっていうんだ? 「デレク・ストーンの事でしたら対処中です」クレインは先んじて答えると、カウンターの向こうの給仕にエールのお代わりを頼んで、エリックを横目で確かめた。「髪、どうしたんです?」 「邪魔になったから切っただけだ」外套を羽織ったままのエリックは素っ気なく答え、ジンのソーダ割を注文した。 もう何年も同じ髪型で、いまさら邪魔になったと?どうせサミュエル・リードに何か言われたんだろう。 「寒い時期に切ると風邪を引きますよ」ふいに給仕の手が割って入り、ジョッキを目の前に、最初に頼..

  • 花嫁の秘密 332

    サミーに全面的に頼られるのも悪くない。悪くないどころか、とても気分がいい。ついさっきまでひどく腹を立てていたと思ったのに、子供でも飲める程度の酒ですっかりおとなしくなるのだからかわいいものだ。 エリックはグラスをテーブルに戻し、サミーと同じように紅茶を飲むことにした。本当は濃い目のコーヒーと行きたいところだが、これ以上プラットの手を煩わせることもない。あと数時間、夕食まではサミーとゆっくり過ごしたい。さすがにもうこの数時間で問題が起きることはないだろう。 「なあエリック。ブラックを僕にくれないか?」 何の脈絡もなく発せられた言葉に、エリックは固まった。いま何を考えていたのかさえ忘れてしまうほど、強烈なひと言だ。 「なんだって?」とりあえず、訊き返した。 サミーは横目でじろりと睨み、どうしようもないなとばかりに溜息を吐いた。「酔ったのか?」 酔ったのか?ま..

  • 花嫁の秘密 331

    お腹が膨れた頃には、サミーは少々酔いが回っていた。それでもいつもよりは幾分かマシで、まっすぐに座っておくのが面倒な程度だった。 プラットに熱い紅茶を持ってくるように頼むと、窓際のテーブルから離れいつものように暖炉の前を陣取った。 エリックはキャビネットから別の酒とグラスを取ってソファテーブルに置くと、サミーから離れて座った。顔つきを見るに、これからどう動こうか考えているようだ。それよりも気になるのが、バッサリと切ってしまった蜜色の髪。ベッドの中で毛先が身体に触れる感触が好きだったが、もうあれは味わえないのか。 「それで、俺にどうして欲しい?」エリックが言った。 エリックにして欲しいことといえば、マーカスがいまどこで何をしているのか――いや、そんなことよりも彼をここに来させないで欲しい。魂胆が何であれ会いたくない。 僕はマーカスの父と僕の父が知り合いだということ..

  • 花嫁の秘密 330

    胸に何かつかえたような苦しさを感じるのはなぜだろうか。 食欲は一気に失せ酒でも飲みたい気分だったが、この話題はあまりに繊細過ぎて素面でなければまともな話し合いが出来そうにもない。 サミーが質問に淡々と答えてくれているのを救いと思うか、一瞬にして他人行儀になったのを嘆くべきか。 エリックは唾を飲み下し、サミーの次の攻撃に備えた。サミーは俺が勝手にウェストを調べたことを怒っている。おかげでウェストの魂胆を推測できるってのに、ただ責めるだけでそこを考慮することはないのか? 「オールドブリッジで何を?まだ家庭教師をしているわけじゃないよね?」サミーはむっつりとした表情で尋ね、突然席を立った。どこへ行くのか見ていたら、キャビネットからブランデーボトル取って戻って来た。 「あいつがお前の家庭教師をしていたのは、父親同士が知り合いだったからだ」サミーの驚いた顔を見てエリックは口..

  • 花嫁の秘密 329

    いま僕はどんな顔をしているのだろう。 顔から血の気が失せているのを感じていたが、下手な動きを見せればエリックに追及されてしまう。もちろん黙っているのは無理だと最初から分かっていた。けど、もう少し待てなかったのか?僕が喋りたくなるタイミングまで。 エリックはなぜ何でも知りたがるのだろうか。どうせもう知っているくせに、なぜ僕にわざわざ尋ねる? サミーはゆっくりと息を吐き出した。弱さは見せたくない。 「ここへ来た理由はわからない。会っていないからな」それ以上言うべき言葉はない。 「対応したのはプラットか?」エリックは何も聞き逃すものかといった鋭い目つきで睨んでくる。かろうじて、なぜ会わなかったと訊かないだけの良識はあったか。 「プラット以外に対応できる者はいないよ」主人が不在のこの屋敷には、最低限の使用人しか置いていない。僕もエリックも従者を必要としないので余..

  • 花嫁の秘密 328

    エリックはいつも通り上品な仕草でティーカップに口をつけるサミーを正面に見据え、ベーコンのキッシュにかぶりついた。 腹が減っている上、腹も立っている。サミーのように上品ぶってられるか。 プラットはものの一〇分ほどで、居間のティーテーブルに望みのものを用意してくれた。サミーは昼食を取っていない。おそらくいつ声を掛けられてもいいように準備していたのだろう。 サミーは窓の外を見るばかりで、紅茶は飲んでも食事には手をつけようとはしない。雨粒を見ながら何を思っているのか。 サミーはマーカス・ウェストのことを言わないつもりだろうか? デレクとの確執よりも言いたくない過去があるのは知っている。もちろんすべてではないが、ウェストがどういう人間かはわかっている。父親に虐待されていたサミーにとって、ウェストは唯一の救いだったに違いない。 ウェストはなぜサミーに会いに?まったく..

  • 花嫁の秘密 327

    サミーは途方に暮れていた。 朝起きて、エリックと朝食を食べたところまでは平穏そのものだった。けれどもいま同じ場所に座って見えるのは、数時間前にプラットが用意した手つかずのままのティーセット。干からびて反り返ったサンドイッチ、熱々だった紅茶はすっかり冷めて飲めたものではないだろう。 マーカスはいったい何しにここへ?金の無心?それともあの時突然姿を消した理由をいまさら話してくれるとか?父に追い出されたからだとずっと思っていたけど、そうではなかった可能性もあることに最近気づいた。なぜならマーカスはエリックとまったく違うからだ。 せめていまどんな姿をしているのか見ておくべきだった。そうすれば彼の魂胆も容易に想像できただろう。それなのに、たかが名刺に書かれた名前を見ただけで、無力な子供のように怯えて馬鹿みたいだ。 けど彼はなぜ肩書も書かれていない名刺を?いまは何をしているのだろう..

  • 花嫁の秘密 326

    用を済ませたエリックは通りに出て曇り空を見上げ、このまままっすぐに帰宅するか、少し寄り道をするか束の間考えを巡らせた。もうたいしてすることもないが、少し先回りして手を打っておくのも悪くない。けど、空を見るにひと雨来そうだ。となると、ここは予定通り何もせずにおくのがいいだろう。 エリックはコートの襟を立てた。手に持ったチョコレートを大事に抱え、家路を急ぐ。タナーはいい仕事をしてくれた。タナーの指示でチョコレートを買いに行った下僕も。 メリッサの所にも届けるように言っておいたから、少しは機嫌を直してくれるだろう。サミーの手前ノーとは言わなかったが、本当は人前に出るのは嫌だったはずだ。けどこの仕事を引き受けてよかったと必ず思う時が来る。あのまま田舎にいたらきっとボロボロになって、学校を開くどころじゃなくなっていただろう。 だがあいつが素直に感謝するかどうか。オークロイドの方も何..

  • 花嫁の秘密 325

    “公爵のチョコ”ってなんだろう。きっと<デュ・メテル>のチョコレートのことだろうけど、人気なのは御用達だからなのか。 ゆっくり過ごそうと言っていたエリックは出掛けてしまった。彼はじっとしておけない性分なんだろうけど、本当によく動く。家には着替えでも取りに行ったのだろうか。いや、それなら持って来させれば済むことだし、別の用で出掛けたのだろう。それに家に戻るとも限らない。 慎重にドアをノックする音が聞こえ、プラットが静かに部屋に入ってきた。顔には出ていないが、きっとエリックとの関係を訝しんでいるに違いない。 「プラット、熱い紅茶も頼んでいいかな」プラットが余計なことを口にしないのはわかっているけど、何か言われる前に口を開かずにはいられなかった。 「はい。只今ご用意しております」 プラットは出来る男だが、あまりに気が利き過ぎている。「エリックが用意しろって?」 ..

  • 花嫁の秘密 324

    「満足したか?」 ん?と、何のことだと、ソファでまどろむサミーは無防備な顔をエリックに向ける。 腹がいっぱいになった途端こうだ。俺の事を給仕係か何かだとしか思っていないらしい。 「君の言うように、自分の家を持つのもいいかもしれない」サミーがぽつりと言う。数日前突如エリックによって投げかけられた課題は、サミーの新しい悩みとなっていた。 もちろんエリックもサミーの心の動きには気づいている。そうなるようにエリック自身が仕向けたからだ。けれども、サミーにのめり込むうちに、この思いつきはあまりいい考えではないような気がしてきていた。 「お前がそうしたいならいくらでも手伝ってやる」ゆったりと椅子の背に身体を預け、サミーの乱れたままの髪を見て頬を緩ませる。人に髪を切れと言うわりに、サミーの髪もなかなかの無法地帯だ。 「もう適当な住まいを見つけたんじゃないのか?」 ..

  • 花嫁の秘密 323

    カーテンの隙間から日が漏れている。 サミーは重たい瞼を何とか持ち上げた。どうやら眠っていたようだが、いまは朝なのか昼なのか、部屋は暗いままでよくわからない。 身体を起こす気にもなれず、手を伸ばしてベッドを探るが、そこにエリックはいなかった。もうどこかへ出掛けたのだろうか。 のんびり過ごすとはなんだったのか。昨日あれだけしておいて、よく朝から動けるものだ。僕は何もする気が起きないっていうのに。 喉の渇きと空腹を覚え、サミーは諦めて上掛けから這い出た。 「起きたのか?」 足元の方へ顔を向けると、ソファの向こうでエリックが腰をかがめて何かしていた。 「そこで何してる?」 「火を大きくしている」エリックは火かき棒を手に振り向いた。「朝食は部屋に持ってくるように言っておいたから、もう少し待ってろ」 ということは、まだかろうじて朝ってことか。「まるで既..

  • 花嫁の秘密 322

    サミーの背中の傷を愛おしく思っているのは自分だけだと、エリックは自負している。『醜いだろう?』と傷ついた表情でそう言ったサミーに、そんなことはないと慰めの言葉を掛けなかったのは、そうされるのをサミーが嫌うと知っていたから。 けれどもその代わりに、サミーを抱くときには必ずこの場所に触れ、キスをした。痛むはずはないとわかっていても、優しく触れずにはいられなかった。 サミーは敏感に反応し、普段は出さない声を聞かせてくれる。とても魅力的な声だ。きっと俺しか聞いたことがないだろう。サミーの感じる場所を探り当て、普段は抑えている欲望をありとあらゆる方法で引き出す。これが出来るのもきっと俺だけだ。 「サミー、こっちを向け」エリックはサミーの背を抱き、耳元で告げた。今夜ほどおとなしくベッドへ招き入れてくれた日があっただろうか。 サミーはゆっくりと振り向き、濡れた瞳で見上げた。抱かれ..

  • 花嫁の秘密 321

    クッションのよく効いた三人掛けのソファは長身の男二人が寝そべるにはやや手狭だ。まあ、密着していれば別だけど。 押し潰さないように気遣うエリックの優しさは、母親譲りだろうかそれとも父親譲りだろうか。コートニーの人間は皆優しい。うちとは大違いだ。 「クィンにクラブを売れと、もう言ったのか?キスをする前に答えてくれたらありがたい」エリックの形のいい唇が目の前でぴたりと止まった。最近はキスする権利が当然あるかのように振る舞っているが、僕は一度だって勝手にしていいと言ったことはない。 「いや、内情を聞き出そうとしただけだ」 「何か教えてくれたのか」唇が重なってきたが、かまわず訊き返した。 「いきなり教えると思うか?あの男が」ひと通り味わって、エリックは返事をした。続きをしたければ答えるしかないからだ。 「どうだろう?彼はそう堅苦しい男でもないよ。少し世間話でもすれ..

  • 花嫁の秘密 320

    暖かな部屋でお腹が満たされると、細かいことはどうでもよくなった。 サミーがいつもより素直なのは、隠し事をしているからだとわかっている。それを追求するつもりはいまのところはない。せっかく機嫌良くワインを飲んでいるのに、雰囲気をぶち壊すような真似をするのはあまりにも愚かだからだ。 「それで?君は今夜どこへ行っていたんだ」 エリックが追求しないからといって、サミーもしないとは言っていない。 「帽子屋へ行くと言っただろう」ひとまず月並みな返しをしたが、サミーが納得するはずもなく、じろりとひと睨みしてワインをちびりと飲んだ。 「それから?」サミーはテーブルにグラスを戻し、ソファの上に足を乗せてウールケットにくるまった。本格的に話を聞く体勢なのか、ソファの肘かけと背中の間にクッションを挟みもぞもぞといい位置を探っている。 「聞いてどうする?」それこそ聞いても無駄だろ..

  • 花嫁の秘密 319

    エリックが暖炉の前に座り込んで髪を乾かす姿を窓辺の椅子に座って眺めながら、サミーは明日から何をしようかと考えを巡らせていた。 ブラックにはふたつ頼み事をした。ひとつはフェルリッジに行って、父の葬儀に出席した者の名簿をダグラスから受け取って、ここへ持ち帰ってくること。 ブライアークリフ卿のパーティーで見かけたあの男が誰なのかようやく思い出せたものの、四年前ちらりと見ただけだし、念のため確認は必要だ。決定づけられれば、彼らについて調べを進めることが出来る。 それともうひとつ、例の事件現場となった屋敷を手に入れた持ち主に、屋敷を手に入れるに至った経緯を確かめてくること。どちらが先でもいいけど、名簿が先の方がありがたい。ダグラスはすでに用意して待っているだろうし……。そういえばダグラスはクリスについてラムズデンに行くのだろうか。 当然ついて行くだろう。そうしないといけない。..

  • 花嫁の秘密 318

    エリックが身支度を整え部屋から出ると、廊下でブラックが壁に寄りかかって待っていた。 「何か用か?」まだ湿ったままの長い髪にタオルを当てながら尋ねた。これで少しはマシな匂いになっただろうか。 「ええ、一応報告を」ブラックが含むように言う。 「サミーに何か?」エリックは短く訊いた。 「あなたに金で雇われているのかと訊かれたので、そうだと答えたら、仕事をひとつ頼まれました」ブラックは壁から離れ一歩近づくと囁くように言った。どうせ人はいないから声を潜める必要はない。 エリックは思わず額に手を当てた。前髪をぐしゃっと握り、深い溜息を吐く。わざわざ金で動くのか確認して何を依頼したのやら。「引き受けたのか?」 「ええ」ブラックの口の端が心持ち持ち上がる。 面白がっている場合か。ったく、頼む方も頼む方だが、引き受ける方も引き受ける方だ。 「お前がそう判断した..

  • 花嫁の秘密 317

    いったい僕は何をしているんだか。 サミーは頭の部分に貴婦人をあしらった真鍮製の火かき棒で、赤くくすぶる石炭をざくざくと突き暖炉の火を大きくしていた。 エリックはまだ戻ってこないが、食事は済ませてくるのだろうか。てっきり晩餐までには戻ってくると思っていつも通りの時間に食事を用意させたが、一向にその気配がない。今夜は一段と冷えるし、さっさと部屋へ引き上げたいのに。 「何してる?」 前かがみになっていたサミーは顔をあげて声の主を仰ぎ見た。「火を大きくしている」 「見ればわかる。食事は済ませたのか?」 「いつもの時間にね」サミーは火かき棒を台に立てかけ、エリックに向き直った。ひんやりとした空気がエリックから流れてくる。 「少しくらい待てなかったのか?」エリックはそう言いながら、炉棚の上に脱いだ手袋を置いた。 「少しは待ったさ。五分くらいね」その五分で..

  • 花嫁の秘密 316

    「いや、俺の依頼だ」しかもほとんど個人的な。とにかくフェルリッジは最寄りの駅から遠すぎる。専用駅ならもしもの時――サミーやアンジェラに何かあった時――内密な移動が可能になる。 ステフにこんな頼みごとをするのも、父親から譲り受けた鉄道会社を当てにしてのものだ。父親のアストンは以前問題を起こしこの国を追われているが、先見の明はあった。持っていた鉄道会社は順調に成長し、莫大な利益を生んでいる。ステフは経営に口出しをしてはいないが、決定権は持っている。 「ハニーさんのためですか?」ジョンが訊いた。途端に興味を引かれたのか、ステフが前のめりになる。 この二人、ハニーの事はクリスを通じてよく知っているらしい。 クリスがここの顧客なのも不思議な話だが、先日ハニーの誘拐事件の再調査を依頼してきて、対応に困ったステフが連絡してきた。もちろん引き受けるわけにはいかないと断らせたが、クリスが..

  • 花嫁の秘密 315

    午後七時 <S&J探偵事務所>にて 「今日も暇そうだな」エリックは事務所に入るなり言った。どうせ誰もいないし遠慮することもない。 数日前に来た時も客が来た気配は微塵もなく、S&J探偵事務所の所員ステファン・アストンとジョン・スチュワートはひとつに椅子に二人で座って何かしていた。今日は珍しく離れた場所にいる。本当に珍しい。 「もう店仕舞いです。ミスター・コートニー」机に向かって頬杖をついていたステフが、不機嫌そうに返す。二つ年下のこいつは、ほとんどの場合相手が年上でも生意気な態度だし、ジョンに触れていないと不機嫌だ。 「どうせ開けてもいないんだろう?」エリックは来客用のソファに身を投げ出すようにして座った。あちこち歩いたせいか、足が重い。 「年の瀬ですからね。ここのところ新規の依頼はないんですよ」ジョンがやんわりと口を挟む。愛嬌のある黒っぽい瞳はいつもきらきらと..

  • 花嫁の秘密 314

    大まかな計画を話し合った後、メリッサはラッセルホテルへ向かうため、一旦自分の屋敷へと戻って行った。エリックも帽子屋に用があると言って出かけ、一人残されたサミーは書斎で仕事に取り掛かることにした。 エリックがウィンター卿の空き家を買い取ったように、サミーもアンジェラ誘拐の現場となった廃墟同然の屋敷を手に入れようとしていた。無事手に入れたら、直ちに屋敷は取り壊す。跡形もなく。万が一クリスがそこに辿り着いても、誰が犯人だったのかわからなくするためだ。 持ち主がいまもジュリエットなら少し面倒だと思ったが、詳しく調べてみれば、まったくあの土地に縁のない人物の手に渡っていたことが判明した。そういえば、あの男の死体はどこへ埋めたのだろう。どこか別の場所ならいいが、あそこに埋まっているなら、やはりすぐにでも手に入れる必要がある。 代理人は誰を立てようか。リード家の弁護士を使うわけにもいか..

  • 花嫁の秘密 313

    「ビー、余計なことをしゃべるな」用を済ませて居間に戻ったエリックは、開口一番唸るように言った。 少し目を離したらこうだ。ビーがおしゃべりなのは、いまに始まったことではない。だが、サミーはどうだ?いつになくご機嫌でビーの相手をしているじゃないか。 「あら、必要な情報を聞いていただけよ。誰かさんが話してくれないから」メリッサは嫌味っぽい口調で反論し、意味ありげな薄い緑色の瞳でサミーに目配せをした。 「お前の学校の話が必要な情報だとは思わないが」エリックはサミーの隣に不機嫌さもあらわに座り、目の前のティーカップを手に取って口を付けた「アチッ!」 「冷めていたから新しいものを持ってきてもらったんだ。焼き菓子もどうぞ」サミーはすまし顔で焼き菓子の乗った皿をエリックの方に押した。「セシルがいるつもりで作りすぎたみたいだ」 「どうせ二週間くらいで戻ってくる。缶にでも詰めて置..

  • 花嫁の秘密 312

    いままで彼女と二人きりになったことがあっただろうかと、サミーは束の間記憶を巡らせた。 確か、アンジェラ救出の時にエリックの屋敷で。会話はほとんどしなかったはずだ。僕は怪我をしていて、熱もあったせいかぼんやりとしていたから、記憶があいまいなだけかもしれない。 エリックが例の調査員――クレインと言ったか――に呼ばれ、席を外してもう一〇分は過ぎた。もちろん見たこともない男がずかずかと居間に入ってきたわけではなく、エリックが勝手にクレインの気配を察知して出て行ったわけだけど、きっとあの男は何度かここに忍び込んだことがあるのだろう。 エリックがここを拠点として仕事をするのを、黙って見ているべきかどうか悩ましいところだ。 「今回のこと、エリックから説明は?」メリッサがひと通り皿の上のものを胃に納めるのを待って、サミーはようやく口を開いた。いつまでも黙っているわけにもいかないので仕方..

  • 花嫁の秘密 311

    翌日の午後、ロンドンへ到着したばかりのメリッサがリード邸を訪れた。 着いたら、ここへ顔を出すようにエリックに言われていたからだ。 なぜという疑問を抱いても仕方がない。エリックがリード邸に来いと言うなら、そうする他ない。これがアンジェラの為でなかったなら従ってはいなかったと思うけど。 執事に案内され家族用の居間へ通されたメリッサは、その温かさと居心地の良さに思わずほっと息を吐いた。山積みの問題からしばらく離れてみるのも、そう悪くはないのかもしれない。 「やあ、ビー。元気にしてたか?そのコートすごく似合ってる」エリックはメリッサに歓迎の抱擁をして、頬――極めて唇に近い場所――にキスをした。 濃いグリーンのコートは、自分を高貴に見せようと新調したものだ。エリックが褒めたということは、合格点はもらえたのだろう。 メリッサはチクチクするような視線を感じつつ、エリッ..

  • 花嫁の秘密 310

    ふと目を覚ますと、暖炉の小さな炎が目に入った。顔に当たるふわふわとした毛布はいつもと違う匂いがした。狭い場所は嫌いじゃない。広い場所だと身を守れないからだ。 そろりと起き上がると、肩がみしりと音を立てた。下になっていた腕が血流を取り戻し、みるみる生き返ってくのがわかった。こういう感覚も嫌いじゃない。 目の前の椅子でエリックが目を閉じて座っている。眠っているのだろうか?なぜベッドへ行かない? 傍のテーブルにはブランデーで満たされたままのグラスがひっそりと置かれていた。結局口を付けなかったのか、飲んでいる途中で眠ってしまったのか、どちらだろう。 炉棚の上の時計を見ようとしたが、暗くて時間が読み取れなかった。脚をソファから降ろし、毛布を抱いて再びソファに深く沈んだ。 エリックの話を聞きそびれてしまった。まあ聞いたところで僕にできることはなさそうだけど。クィンと何を話..

  • 花嫁の秘密 309

    クィンの話を聞きたがっていたサミーは、自分の話が終わると眠ってしまった。さすがに抱えて階段をのぼるわけにもいかず、プラットに言って毛布を持ってこさせた。 「目を覚ましたら部屋へ連れて行くから、気にせずもう休め」エリックはプラットを気遣い慇懃に言った。 「何かございましたらすぐにお呼びください」プラットは気づかわしげにサミーを一瞥したが、特に意見することはなかった。 「ああ、そうだ。プラットは先代の時はここにいたんだっけ?」下がろうとするプラットに、エリックは思い出したように尋ねた。 「いいえ。いまの旦那様になってからでございます。今年に入ってから父が引退しましたので、この屋敷全般を任された次第です」 任されたと言っても、クリスがこっちに出てくるときはダグラスも連れてくるから、胸中は複雑だろう。 「お父上は元気にしているのか?」そう歳にも見えなかったが、息..

  • 花嫁の秘密 308

    身体が温まると途端に眠気が襲ってくる。 サミーは目を閉じ、ソファのひじ掛けにもたれた。エリックはデレクとの事を話すまで、絶対に引き下がらないだろう。別に秘密というほどではない。ただ、思い出したくない出来事で、今夜デレクがあんなこと言いださなければ、ずっと封印していただろう。 「十四歳の時、僕は寄宿学校に入れられたんだ」サミーは静かに切り出した。「でも、僕の場合クリスとは違って、ただ父の目の届かない場所ならどこでもよかったんだ」 エリックからの返事はなかった。グラスを片手にじっと僕の言葉に耳を傾けている。 「初めて外にやられて、戸惑いもあったけど、僕はちょっと浮かれていたのかもしれない。家族と見慣れた使用人だけの世界とは違って、外の世界はとても新鮮だったからね。先生たちも優しかったし、もちろん僕が誰の息子かわかっているからだと思うけど、当時はそんなこと思いもしなかった..

  • 花嫁の秘密 307

    個室を出ると、壁際に置かれた半円形の小さなテーブルにココアが置いてあった。ピカピカに磨かれた銀製のポットにアンティークの高価なカップ。いつ置かれたのか気になったが、知らない方がいいような気がしてポットに触れるのはやめておいた。 エリックは先を行くサミーの背を見ながら、まだ熱の残る唇に触れた。 今夜はどうかしている。もちろんこれは自分の事ではなく、サミーの事だ。いや、俺が酒を飲ませたからこうなったのか? サミーが過去の話をしようとしないのも、酔ってもいないのにキスを拒まなかったのも、すべてがどうでもよくなるほど頭に血が上ったのも、一切合切俺のせいだ。そうしておいた方が、あれこれ頭を悩ませるよりもずっと楽だ。 大抵において怒りの感情は、熱く燃えるようなものだと思っていた。確かにこれまではそうだった。それなのに、なぜか今夜は違った。呼吸も血流も止まり、身体の熱さえ奪った。..

  • 花嫁の秘密 306

    エリックがあれほど怒っている姿を見たのは初めてだった。 ドアの向こうで盗み聞きする余裕があったのは、デレクがアンジェラのことを口にするまで。 暗にジュリエットをけしかけるぞと脅していたけど、すでに行動を起こしたのでは?あのクリスマスの贈り物がデレクの仕業だったとしたら、このあとどう行動すべきだろう。 「だいたいなんだってデレクを部屋に入れたんだ?」 「そっちがドアを閉めて行かなかったからだろう」サミーはエリックに詰め寄った。あんな無防備な姿をデレクに見られて、僕がどれほど屈辱的だったか。 「ドアは閉めた……」エリックは曖昧に返事をし、腕を伸ばしてサミーを抱きすくめた。 「誤魔化そうたって――」言い掛けた言葉はエリックの口で封じられた。黙らせるには一番効果的な方法だ。けど、いったいどうしてこんな場所で。「エ……リッ――」 エリックはアルコールの味がした。..

  • 花嫁の秘密 305

    サミーとデレクの確執は想像していたものと違っていた。 過去に接点などないと思っていたが――調べても出てこなかったので――デレクがサミーの背中の傷の存在を知るほど近くにいたと知って混乱した。と同時に、デレクがそれを武器にサミーに攻撃を仕掛けたことへの怒りで、エリックのすべては支配された。 気付けばデレクに飛びかかり押し倒していた。ここが大理石の床ではなく毛足の長い絨毯だったことを、デレクは感謝すべきだ。 「エリック!やめろっ!」 固く握った拳がデレクの鼻先で止まる。いま叫んだのはサミーか?それとも目の前の屑か? 止まっていた呼吸が再開し、大きく息を吐き出す。デレクの肩を押さえつける左手を喉に滑らせ、親指をぐっと押し込んだ。 呻き声が聞こえたが、こいつからはもう何も聞きたくない。二度とサミーを脅せないように喉を潰してやる。 「エリック、デレクから離れるんだ..

  • 花嫁の秘密 304

    デレクの人生の中で、サミーの存在はそれほど大きなものではない。ほとんど交流のないただの同級生で、お互い好感を抱いているとは言い難い。 いや、はっきり言って、サミーは俺を嫌っている。理由は明確。もうずっと昔の、まだお互い子供だった頃、俺がサミーを傷つけたから。 もちろん当時はそんなつもりはまったくなかった。寄宿学校ではあれは通過儀礼のようなものだし、気に入らないからしたわけではない。あの後、サミーはまるで元からそこにいなかったかのように姿を消し、残った者は記憶からサミーを消した。 でもいまは違う。何から何まで気に入らない。味方を得て気が大きくなっているようだが、エリック・コートニーなど潰すのは簡単だ。先にあの目障りな男から始末したっていい。あいつは害でしかない。 「エリックの事を言っているのなら、まああながち間違いではないかもね。彼は兄弟の面倒を見るのが好きだし、この..

  • 花嫁の秘密 303

    ソファにもたれかかりいったん目を閉じてしまうと、エリックの後を追うなど不可能だった。三階の個室に置き去りにされても、そのうち戻ってくるのだからと、結局面倒でそのまま横になった。 クィンと何を話すのだろう。簡単に話を出来る相手ではないことはエリックもわかっているだろうけど、果たしてそんなことエリックが気にするだろうか。もしもここを買収する話だとしたら、もっと適切な時期を選ぶべきだ。 さすがにそれはないかと、サミーは小さく頭を振った。ここを買い取ったらどうだと言い出したのは僕だけど、あれはほんの冗談だし、エリックもそれをわかっていて話を合わせただけだ。スパイを送り込む手間が省けるが、持ち主があのエリック・コートニーだとわかれば会員の中には脱会する者もいるかもしれない。 いや、オーナーがエリックだったとしたら、逆に会員の情報は常に保護され、むやみに新聞に書きたてられる心配も減る..

  • 花嫁の秘密 302

    「おい、サミー。その辺にしとけ」 サミーに酒を飲ませるんじゃなかった。いや、軽く食事をして程よく酔った状態まではよかった。特に顔色が変わるわけでも暴れるわけでもなく、ただ少しいつもより感傷的になるだけだし、普段喋らないことも喋ってくれる。飲みすぎればもっと違った姿が見られるのだろうが、そんな姿は他の誰にも見せるつもりはない。 カードルームへ行ったのが間違いだ。てっきり酔ったら弱くなるものだと思っていた。デレクが姿を現すまでの時間潰しでと始めたが、このままではテーブルに着く三人を丸裸にしてしまう。 エリックは青ざめる三人に愛想笑いを向け、サミーの腕をがっちり掴み引き上げると、そのまま引きずるようにしてカードルームを出た。 「まったくお前はどうしようもないな」サミーを壁に押し付けシルバーの瞳を覗き込む。多少ぼんやりとしているが、一見酔っているようには見えない。 「..

  • 花嫁の秘密 301

    「今夜は人が少ないようだね」 ポーターにコートと帽子、ステッキを預け、サミーはラウンジを見回した。この時間にしては――と言うほどプルートスに通い詰めているわけではないが――人はまばらで、会員より従業員の方が多いほどだ。 「オルセンのところで大きなパーティーがあるからだろう」エリックはポーターに何か耳打ちすると、そばに来て言った。 「オルセン?大富豪のあの?」 「娘の婿探しさ。適当なやつらを手当たり次第に招待している」エリックは難を逃れてホッとしているようだ。 「もしかして君も招待されていたのか?」訊くまでもない。オルセンがエリックを招待するのは当然だ。家柄もよく見た目も申し分ない、職業柄オルセンの助けにもなるとなれば婿候補として名前が上がってもおかしくはない。 「しばらく予定はないと言っただろう」エリックはさらりと言って、サミーにどこでも好きな場所へ座れ..

  • 花嫁の秘密 300

    サミーは何も言わないが、ジュリエットの誘いを断ったのだろうか? ティールームでお茶を飲むだけ?ホテルまで出向いて行ってそれだけで済むと思っているとしたら、あまりに世間知らずだ。以前同じホテルに滞在して、部屋で何時間も語り合ったと言っていたが、実際どうだったのか知る由もないし、いまさら聞いたところでどうしようもない。 「今夜はどうする?」エリックは尋ねた。特にすることがないなら、プルートスへ行って少し遊ぶのもいい。気分転換になるし、ついでにデレクたちを探ることもできる。あいつらの誰かは絶対に来ているだろうし。 「どうしようか。どこかのパーティーに参加してもいいし、面倒だからこのまま出掛けずに過ごしてもいい。どうせ君に何か考えがあるんだろう?」 いちいち言い方に棘があるのが気になるが、まあこっちの言うことに従うというならここは聞き流そう。 「プルートスへ行こう。お..

  • 花嫁の秘密 299

    「クリスは何だって?」 エリックの問いかけに、サミーは顔をあげた。外出から戻ったようだ。 「クリスはクリスで調べているようだよ。君のスパイを借りるってさ」サミーは紙切れをエリックに差し出した。ついさっきクリスから届いた電報にはセシルが無事到着したことと、エリックが送り込んだ調査員を引き留めることが書かれていた。 エリックは特に確認するでもなく、肘掛椅子に座って暖炉に向かって足を伸ばした。「まあ、向こうで調べることもあるだろうな。これでしばらく動きもないだろうし、好きにさせておけばいい」 「どうして動きがないとわかる?」数ヶ月経ってまた動き始めたというのに、これだけで終わりとは思えない。 「動く必要がないからだ。俺たちもカウントダウンまではゆっくりしよう」エリックは意味ありげに微笑んだ。 「ゆっくり?本気で言っているのか?アンジェラは住み慣れた場所から離れ..

  • 花嫁の秘密 298

    「ねえ、メグ。計画を立て直さないといけないわ」 セシルのお腹が満たされ、話もひと段落したところで、アンジェラは自分の部屋へ戻った。昨日までに立てていた計画は変更を余儀なくされ、ロイに出すはずだった手紙はしばらく引き出しに仕舞うことになった。 メグはアンジェラを鏡の前に座らせると、ヘアブラシを手にして言った。「しばらくはロイ・マシューズに会いに行くのは無理だと思います」 「わかっているわ」アンジェラは深い溜息を吐き、鏡の中の自分を見つめた。せっかく変装するための衣装を揃えたのに、ロイに会いに行けなくなってしまった。これからどうしたらいいのか、相談できるのはメグだけ。「わたしはクリスについて行くべきよね」 「そうしないと旦那様はどこにも行けないと思います」メグはキビキビと言い、アンジェラの髪を丁寧に梳かしていく。 「少し短くしておいた方がいいかしら?」波打つ髪は腰..

  • 花嫁の秘密 297

    どうせすぐに伝わると思っていたが、まさかセシルもエリックもうちの屋敷にいたとはね。 クリスはアンジェラが注いでくれた紅茶をひと飲みし、居住まいを正した。 「サミーは具体的にどんな感じで怒っていた?」サミーが怒りを他人にわかるように示すことはほとんどない。セシルが怒っていたと言うからには、相当怒っていたに違いない。俺はかなりまずいことをしたようだ。 「いや、なんて言ったらいいか……プラットが震え上がるくらいには怒っていたよ。どうしてサミーに電報を打たなかったの?」セシルは同じ質問を繰り返した。何が何でも答えて欲しいようだ。 「どうして?」アンジェラも一緒になって訊く。 この場合、何と答えるのが正解なのだろう。正直なところ、サミーにはアンジェラのために無茶をして欲しくない。前回、もしかすると命を落としていたかもしれないことを思うとなおさら。それにアンジェラを守るの..

  • 花嫁の秘密 296

    予定時間を三〇分ほど過ぎて、フェルリッジの最寄り駅にセシルの乗った列車が到着した。 三等車にはエリックに例の箱を回収するように言われた男が乗っていて、侯爵邸まで一緒に行くことになったが、うまく連絡が行っていなかったみたいで、クリスが寄越した迎えの従僕とひと悶着あった 警戒するのも仕方がない。僕の連れだということで何とか説得したけど、向こうでクリスにきちんと説明しないと、この従僕の首が飛んでしまうだろう。きっとクリスはかなり神経質になっているだろうから。 一時間かけて侯爵邸に到着した時には、セシルのお腹は悲鳴を上げていた。 とにかく何か食べなきゃ。ちょっと早いけど、お茶の時間にしてもらおう。僕にとってはお昼だけど。 「やあ、ハニー久しぶり。と言うほどでもないけど」セシルはアンジェラを抱擁し、その後ろに立つクリスに小さく頷いてみせた。話は中でということだ。「いきなりだけど..

  • 花嫁の秘密 295

    いったいこいつをどうしようか。 エリックは自分の感情をうまくコントロールできずに苛立っていた。 ひとまずすべきことはした。ハニーの安全を確保したいまは、とにかく目の前の男の事だけに集中しよう。 「ウッドワース・ガーデンズのカウントダウンイベントに行くんだろう?それで十分だ」図々しいジュリエットの言うことをいちいち聞いていたらきりがない。ひとつ何か許せば、いくらでも要求してくるタイプの女だ。 「そうは言っても、一度くらいは会っておいた方がいいと思うのは、僕だけかな」サミーはまるで近所の子犬にでも会いに行くような気軽さで言う。それがまたエリックを苛立たせた。 「俺は思わないね。簡単に手に入る獲物だと思われてもいいのか?」エリックはサミーを見つめた。サミーは視線を逸らしはしなかったが、感情を読み取られないように目の動きを抑えている。 「ただお茶を飲むだけだ。とにか..

  • 花嫁の秘密 294

    セシルが行ってしまうと、やけに屋敷の中が静かで広く感じられた。図書室を覗いても、ただ整然と並ぶ本棚と空っぽのソファがあるだけだ。 エリックはセシルを送ったらすぐに戻ってくるのだろうか?それともまた彼の言う仕事とやらを口実に僕を避けるだろうか。 サミーはクッションを抱えてソファに横になった。エリックが部屋に来なかった昨夜は、ゆっくりと眠れたはずなのになぜか瞼が重い。目を閉じてこれからの事を思う。 当初の計画は単純なものだった。ジュリエットの自尊心を擽り牙を剥かせる、ただそれだけ。 僕を殺したいならそうすればいい。失敗しても成功しても、あとはエリックが何とかする。だから僕は先の事なんか考えず、思いついたまま行動すればよかった。 でもいまは事情が変わった。 「サミュエル様、手紙が届いております」 目を開けると、プラットが心配そうな顔でそばに立っていた。クッシ..

  • 花嫁の秘密 293

    翌日、朝食を済ませるとエリックはセシルを連れて、リード家の馬車で駅へ向かった。 これから大役を果たさなければならないセシルは、食事が詰め込まれたバスケットを手に陰鬱な溜息を吐き、用が済んだらすぐに戻るからねと言ってサミーとの別れを惜しんだ。 「クリスにはちゃんと知らせてあるんだよね?」セシルは心配そうに尋ねた。 「ああ、駅に到着する時間も告げてあるが、時間通りにとはいかないだろうな。まあ、昼までには向こうに戻れるから心配するな。戻ったらすぐに支度をしてロジャーの所へ行け」 クリスにもロジャーにも連絡済みだが、こっちの考えに賛成してくれているかは不明だ。クリスがハニーを危険から遠ざけることに反対するとは思えないが、なんにしてもセシルがハニーをうまく動かす必要はある。 「結局、みんなで年越しだね。母様はショックから立ち直ったかな?いつも通りおしゃべりなら安心だね。..

  • 花嫁の秘密 292

    「リックは降りてこないのかな?」大満足で帰宅したセシルは、胃を休めるための紅茶を喉の奥へと流し込んだ。お腹はいっぱいで、珍しくお菓子はナッツクッキーのみだ。 「きっと次の計画でも立てているんじゃないかな」サミーは素知らぬふりで答えた。昼食にはクラムチャウダーと薄いパンを二切ほど食べた。身体が温まりお腹が満たされると、思考が明瞭になりジュリエットに対してどう振る舞うべきかよく考えることができた。 エリックは気に入らないかもしれないけど、ジュリエットに僕を差し出した時点で、異を唱えられる立場にない。 新しい年をジュリエットと迎える。おそらくキスのひとつもするだろう。正式に交際をするべきか、のらりくらりとかわすべきかはまだ考えている最中だ。付き合っても別にいいが、彼女とベッドを共に出来るか自信がない。ついでに言えば、経験不足だ。 過去クリスと付き合っていたことが、二人の関係を..

  • 花嫁の秘密 291

    アフタヌーンティーの時間に間に合うように帰宅したエリックは、ブラックからの報告を受けて溜息をもらした。 確かに、サミーにはジュリエットを引きつけておけと言った。こういう場合のサミーの行動の素早さも知っていた。だからこれは自分の失態だとしか言いようがない。 「それで、ジュリエットは返事を?」サミーのおかげで昼に食べたローストビーフを戻しそうだ。 「いいえ。あの方を焦らすつもりのようです。ですが、もう間もなく返事は来るでしょう」ブラックはにやりとした。この状況を面白がっているらしい。 エリックは苦い顔をした。サミーもこいつも、この状況をゲームか何かだとしか思っていない。まったく腹の立つ。「長くは我慢できないだろう。それで、中は見たんだろうな」 「もちろん、仕事ですから。あの方もそれをわかっていて封はしていませんでしたしね」 いかにもサミーらしい。「それで、内..

  • 花嫁の秘密 290

    エリックの手際がいいのはいつものこと。出会った頃はあまりに胡散臭く信用できない男だとしか思っていなかったが――いまももちろんそう思っている――、噂以上に仕事のできる男なのは認めざるを得ないだろう。 昼過ぎにセシルと二人でプルートスへ出掛けたが、ただローストビーフを食べに、というわけではないのだろう。何を探りに行ったかは知らないが、これでようやく一人で考える時間が出来た。 サミーは引き出しに仕舞った書類を再び机の上に出した。昨日のうちにバートランドに頼んでおいた個人資産に関するものの一部だ。ほとんどは自分で増やしたものだが、父が僕に残してくれたものもある。ずっと憎まれていると思っていたのに、なぜ母との思い出のあの場所を僕にくれたのだろう。 このこともエリックは当然知っているのだろう。だからこそ、僕に高額の買い物をさせようとしている。自分の住まいは別に欲しくないが、あのクラブ..

  • 花嫁の秘密 289

    サミーを目の届かない場所へやるなど冗談じゃない。たとえこいつの考えが正解だったとしても、それだけはさせられない。腹を立てようがなんだろうが、俺が許可すると思うな。 エリックはあからさまに不貞腐れるサミーの横顔を見ながら、自分が作ったシナリオを脳内で整理した。 まずセシルにはクリスとハニーと共にロジャーの所へ行ってもらう。そこからラムズデンに極秘で向かわせる。クリスは護衛を引き連れて行きたいだろうが、それでは標的はここだと告げているようなものだ。 サミーにはもうしばらく、のらりくらりとジュリエットの相手をしてもらうしかない。いまはそれが一番の安全策だ。結局ジュリエットとの関係が進まない限り、デレクたちもこれ以上は動きようがないからだ。 さて、どうするか。ハニーの問題はどうにかできるが、サミーとジュリエットがこれ以上近づくのは、自分の忍耐力を試すようなもので、うまく対処..

  • 花嫁の秘密 288

    ブラックが戻ってもう一〇分が過ぎた。エリックは寄り道をしているようだが、急いで戻れという僕の言葉は無視したというわけか。 この三〇分の間にセシルと話せることは話した。クリスにはアンジェラを守ってもらい、僕たちは犯人を捜す。見つけた後どうするかはまだ決めていないが、僕は引き金を引くことに躊躇いはない。 「ねえ、ブラックはすぐに戻ってきたけど、リックは案外近くにいたのかな?」セシルは薄くスライスされたシュトーレンを紅茶に浸してから口に入れた。残り物でもなんでも美味しそうに食べるセシルは、この屋敷でもすでに人気者だ。 「ほんと、彼はいったい何者なんだろうね」サミーは腹立たしげに吐き出した。やってることは単純明快で、彼は自分の仕事のために調査員を何人も雇い情報を手に入れている。それを新聞や雑誌に売る、もしくは自分で記事にする、それとおそらく特別な機関への情報提供なんかも行っている..

  • 花嫁の秘密 287

    美術品の収集家であるチェスター卿の屋敷を訪問していたエリックは、突如現れたブラックに驚きを隠せなかった。静かに人の輪を抜け、ギャラリーから廊下へと出る。 「サミーになにかあったのか?」ブラックを玄関広間のすぐ隣の部屋に引き込みながら、性急に尋ねた。こいつの役目はサミーのそばを離れず守ること。離れてここへ来ているということは、つまり―― 「疲れているようですが、なにも――」ブラックが淡々と言う。 「だったらなんだ?まとまりかけた商談を潰すためにここへ来たわけじゃないだろう?」勿体つけるブラックに、エリックは苛々と訊き返した。なにもなくて持ち場を離れるはずがない。 「メイフィールド侯爵から電報が届いたようです、あなた宛てに」 「俺に?クリスは何だって?」 「俺は中を見ていませんので、ただ、あの方よりいますぐに戻ってきて欲しいと伝言を受けました」 サミー..

  • 花嫁の秘密 286

    「プラット!」サミーは呼び鈴を引く手間さえ惜しみ、執事の名を叫んだ。 クリスからコートニー邸に届いた電報は、サミーの疲れも眠気も吹き飛ばすには十分すぎるほどだった。いまあるのは怒りのみ。誰に対してか――もちろんアンジェラを脅した男、もしくは女、それとクリスに。 プラットはなめらかとは言い難い仕草で書斎に現れ、普段ほとんど見せないサミーの激怒した表情に怖気を震った。 「クリスからの電報は?」執事が口を開く前に尋ねた。もしも届いていてプラットが渡し忘れているのだとしたら、今すぐクビにしてやる。僕にその権利がないと思ったら大間違いだ。 「こっちには来ていないみたい」セシルがプラットの代わりに答えた。 「セシル様のおっしゃるとおりです」プラットもしどろもどろで答える。 「ブラックを呼んで、いますぐ」サミーは怒りで震える息を吐き、いますべきことだけを考えた。とにか..

  • 花嫁の秘密 285

    「セシル様、コートニー邸から使いの者が来ております」 セシルは本棚の端で見つけた護身術の本を手に、図書室のいつもの場所でアイシングたっぷりのケーキを口に運んでいた。思いがけず執事に声を掛けられ、戸惑いながらもごもごと返事をする。 「僕に?」 「セシル様と、エリック様、お二人に」プラットは言葉をつけ足した。 「ここへ通しても差し支えないかな?」セシルはプラットに尋ねた。ここは自分の屋敷ではないし、今この場にサミーはいない。となれば、執事に確認を取るのが妥当だろう。 「もちろんでございます。すぐにお通しできますが――」 プラットが言い終わるが早いか、セシルのくつろぎの場所にせかせかとコートニー邸の従僕が入って来た。見覚えのない従僕だったが、慌てた様子なのは一目瞭然。いったい何事かとセシルは思わず立ち上がった。 「メイフィールド侯爵より、電報です」 ..

  • 花嫁の秘密 284

    「メグを呼んでくれるか?私は書斎にいる。それと、アンジェラに気づかれないように頼む」 クリスは箱を手に書斎へ向かった。ダグラスが着替えはというような視線を送った気がしたが、今はそれどころではない。だいたい自分の屋敷でどんな格好をしていようが、文句を言われる筋合いはない。 そもそもダグラスが最初にアンジェラに話をしたのが間違いだ。主人が寝ていようがかまわず寝室へ押し入る権利はあるだろうに、なぜそうしなかった。憤っても仕方ないが、箱を開ける前と後ではいくらいつも冷静沈着なダグラスといえども動揺して当然だ。おそらく箱の中身をメグも見てしまったことも要因だろう。 ここまであからさまな脅しをしてきたのは何者だろうか。おそらく以前アンジェラを殺そうとした人物に間違いはないのだが、誰であれ、敷地内に入り込めたとは思えない。屋敷内に犯人がいるのだとしたら、ここを一刻も早く離れる必要がある..

  • 花嫁の秘密 283

    「クリス!起きてっ」 「んん……もしかして今朝も雪が積もっているのかい」 クリスマスの朝も変わらずハニーは刺激的な起こし方をしてくれる。だが、正直まだ眠っていたい。 「違うわ、プレゼントが――」 クリスは腕を伸ばし、アンジェラを上掛けの中に引き入れた。昨夜脱がせた寝間着を着ている。 「もうっ、クリス。聞いて」アンジェラはくすくす笑いながら、クリスの逞しい胸に頬をすり寄せた。 「ハニー、この寝間着は素敵だけど、上に何か羽織らないと風邪をひいてしまうよ」 昨夜贈ったばかりのミセス・ローリングの薄紅色の寝間着は、着たと同時に脱がされ、アンジェラは一晩裸で過ごしたも同然なのだが、贈り主は都合よくそこは忘れたようだ。 「部屋が暖かいから平気よ。それにクリスもとても暖かいわ」アンジェラは大胆にもクリスの身体に脚を巻きつけぎゅっとする。クリスは思考が停止す..

  • 花嫁の秘密 282

    サミーは怒って当然だ。だが、もう少し突っかかってくると思った。 やけにおとなしいのは、予想以上に怒っているからか、それとも呆れかえっているからか。 気付けば自然とサミーの肩に手を回していた。時折、頭を撫で、まだ湿ったままの毛先を弄ぶ。きちんと乾かせとあれほど言ったのに、こんなことだから、こいつは風邪をひくんだ。 「話は終わり?」サミーが顔をあげてこちらを見た。いつもより瞳が青みがかっている。今どんな心境なのだろう。 「セシルにした話を、俺にする気はあるのか?」全部聞いていたが、サミーの口からもう一度聞きたかった。父親の話をするのはまれで、その時少なくとも好感を持った男についても、もう少し知る必要がある。 「どうせ聞いていたんだろう?昔会ったことのある男を見かけた、それだけだよ」サミーはエリックの胸に寄り掛かって目を閉じた。同じ話を繰り返す気はないようだ。 「..

  • 花嫁の秘密 281

    もうあと三〇分でイヴが終わる。結局ジュリエットに伝言は頼まず、そのまま帰宅したが、何かあれば彼女は手紙を寄越すだろう。 今夜は何をしたわけでもないが、ひどく疲れていた。怒りや恨みなどないかのようにジュリエットと時間を共有するのは拷問に近い。自分の計画のために結婚という手もあるかと考えたりもしたが、おそらく一秒だってもたないだろう。人殺しでもかまわないけど――僕だってあのごろつきを殺した――アンジェラに危害を加えたことだけは許せない。 身体の汚れを洗い流し自室へ戻ったが、疲れた身体とは裏腹に頭も目もまだ冴えたままだ。暖炉の前の寝椅子にしばらく横になってこの二、三日の事を整理してみたものの、情報量が多すぎて頭が追いつかなかった。 ほとんど考えるのをやめてぼんやりとしていたら、予想通りエリックがやってきた。 エリックは僕を自分の物だと勘違いしているようで、弟の前でもそれを..

  • 花嫁の秘密 280

    サミーの言葉を疑う余地はない。こいつはハニーを犯そうとした男同様、自分の手でジュリエットを始末したいに違いない。だがそれをさせるわけにはいかない。もしも、その時がきたら、先に俺がやる。 「ところで、君の方は収穫はあったのかな」サミーが揶揄するように言う。わざわざ連れ出しておいて収穫なし、なんてないよねといった挑発的な目つきに、エリックは予期せず身体の芯を疼かせた。 この数日、なぜかサミーに欲情しっぱなしだ。二人きりで過ごす時間が増えたからか、欲情しているから二人の時間を増やしたのか、もうどっちがどっちだかわからない。「まあ、そこそこな。馬車を回すように言っておいた。詳しくは帰ってから話そう」 「あれ?もう帰るの?」セシルが甲高い声をあげた。 「もうじゅうぶん食べただろう」エリックは目をすがめた。今夜は役目をきちんとこなしているようだからいいが、こいつはとにかく食べ過..

  • 花嫁の秘密 279

    「父が亡くなった時だから、四年前かな」 サミーは葬り去った記憶を掘り起し、先代のメイフィールド侯爵が亡くなった時のことを思い出していた。忘れたと思っていたけど、案外当時の光景がすんなりと目の前に浮かんでくる。 「その時見たの?その人」セシルがおずおずと訊いた。 「うん……でもまだ子供だった」そう見えただけで、本当は成人していたのかもしれない。「笑っていたんだ。父の葬儀の時に――それでよく覚えている」天使が僕の代わりに笑ってくれたのかと思った。クリスは自分に圧し掛かってくる責任に顔をこわばらせていたけど、僕は解放されて安堵していた。さすがに笑わないだけの分別はあったけど。 「親戚、ではないんだよね?」 「たぶん父と懇意にしていた誰かの息子だと思う。その時、彼が連れていた従者に今日見かけた男は似ていた」その従者に目を留めたのも、彼が目立ち過ぎていたからだ。歳はおそ..

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