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2022/02/27

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  • 百日草

    【オレガノ】もっと活用してもらいたい有用なハーブだが、我が家では出番が少ない。それでも絶えることなく、毎年が咲いてくれる。【百日草】4、5年前に、イチジクとクリを買いたくて「掛川道の駅」に徒歩で行った帰り道,国道を歩いていたら、沿道の畑に沢山この花が咲いていた。思わず作業中のご婦人に花の名前を訊いたら「百日草」とのこと。3ヶ月もの間花を着けると聴いて憶えていた。今年は種から育ててみた。質朴だが華やかな花である。それにしても、酔狂にも、浜松から電車で掛川に行き、掛川駅から「小夜の中山」麓の道の駅まで、退屈な自動車道を往復したのは、偏に定評のあるイチジクとクリへの欲から。我ながら浅ましい。私のウォーキングは餌で釣らないと、ジリ貧になってしまう性質のものである。歩くことはどこまでも手段で,それを目的にすることは...百日草

  • アサガオ

    平づくりのアサガオ、咲き始めた。今年は真紅の花を4鉢つくった。満を持して待っていたら、老人ならではの体調不良に陥り、水遣りも思うに任せなかった。咲いてくれて嬉しい。健康管理というものは難しい。好いと思っている生活習慣も、これで安心かと思うと、隠れたところに落とし穴があり、それが疾病の遠因になることもある。人の体は波のまにまに漂う舵の効かないボートのようなものである。自分の体の声に耳を澄ますことが肝要と痛感している。アサガオ

  • 感興と感懐

    私たちは何かを見聞きすると、「感興」を催し、「感懐」を覚える。物事の認識は感興に始まり、感懐で終わる。感興があれば感懐は湧き起こるものである。感懐を覚えなかったとしたら、感興を催さなかったということだろう。乗り物に乗って、窓外の景色を見ずに終点に着いた状態に似ている。長い人生、見聞や探訪そして会見の機会は無数にある。それらに参加しながら、感興を催すことがなく、感懐も覚えなかったとなると、その人は将来それについて「述懐」することはないだろう。感懐を自己の内に温め、それを他の人に伝えるためには、述懐が不可欠だ。述懐が無いということは、記録も思考も考察も、自ら封じるか放棄してしまったということである。老境に相応しい述懐の愉しみを、放擲してしまうのは、いかにも勿体無い。感興と感懐

  • 情操

    老生の幼年期(1950年代昭和25年から昭和34年)は、敗戦後の混乱から復興の時代、未だ社会は安定していなかった。都市の大人たちは生活に追われ忙しく、現代の様に子どもに手篤い養育ができる家庭は少なかった。不幸中の幸い、街場の子どもたちは、下校後の自由時間がたっぷりあり、思う存分アフタースクールを娯しむことができた。昆虫採集,釣り、模型飛行機やラジオづくり。日に一度は駄菓子屋に立ち寄った。駄菓子屋は子どもたちのスナックでありミニコンビニでもあったが、なんと言っても大きな意義は、社交の場ということだった。駄菓子屋で過ごす時間は、単に菓子や玩具を買うばかりでなく、おでんやお好み焼きなど軽食の機会でもあった。年長の子が年少の子に、菓子や食べ物を分け与えることもあった。大人の世界の「奢る」が訛ったのか「オモル」「オ...情操

  • 寛容というもの

    「自分に厳しく他人に優しく」という言葉を、老生はこの齢になっても信用できない。人はそのように生まれついてはいないと思うからだ。どう考えても人間は自分に甘い。人間も根は動物だから、生存のための自己保存の本能は厳然と遺っている。自分か他人かになった時は、自分を優先するのが生き物の自然の反応であるし、そうあって然るべきだ。このフレーズは、例によって実証を欠き観念に固まった中国人の発想から生まれたものらしく、当の同国人が実践できもしない、洵に人間性への理解を缺いた偽善的なきれいごとである。自分に厳しい人は、判断基準がしっかり出来ているから厳しいのであって、その基準は変動しない。変動したら価値観を保てない。その結果他人にも厳しくなるのは当然だ。他方自分に甘い人は、自らの判断基準が確立していないので、どちらかと言うと...寛容というもの

  • フラワーパーク9

    雨で歩けない日が続いていたが、昨日は朝から好天だった。今日はフラワーパーク内の旧地形の遺る斜面をトラバースする小径を選んで歩いてみた。綺麗な花壇を巡るのも好いが、多少は不整でも、自然に生えた植物を見ながら土の道を歩けるのは嬉しい。木立の間から覗き見る蓮池に未だ花は見られない。帰り際に出会った、オミナエシの鮮烈な黄色の散房花。百日草の季節でもある。ノカンゾウか?フラワーパーク9

  • 謙遜文化

    日本の社会には、暗黙の裡に謙遜を強いる文化が潜在しているように思う。身分序列に喧しい社会を千年に亘って守り抜いてきた遺風だろうか?世界に誇り得る言語文化と胸を張る人もいるが、私は若い時から、丁寧語・尊敬語は兎も角、謙譲語は本心から出たものでなく、胡散臭く煩わしいと感じて来た。自らを卑下する物言いは自発的なものとは思われず、不自然さを感じるからだった。「謙譲の美徳」などという言葉は日本だけで通用するもの。謙譲は徳でなく方便であって、国際的(欧米中心の)には到底理解されないものだろう。人は生まれながらに謙遜ではない。もしかすると人というものは増上慢に生まれついているもので、教育を受け教養を積むことにより、高慢を抑えるようになるのではないか?要するに謙遜文化は、謙遜する側の一般庶民から自発的に生まれたものでなく...謙遜文化

  • てこね寿司

    「てこね寿司」の季節になった。カツオは毎年春から夏まで黒潮に乗って太平洋岸を九州から東北沖まで北上し、東転して秋に南下する。北上を上りカツオ、南下を下りカツオと呼ぶ。遠州灘の上りカツオは、舞阪、御前崎に水揚げされた。南下のコースは北上よりも東なのだろうか?詳しく知らない。遠州灘では、昔は下りカツオの漁をしなかったと思うが・・・私の成長期の食事の主な蛋白源は、カツオとマグロが主流だった。子どもは白身魚や青魚は大の苦手、特にそれらの煮魚には食欲が減退した。季節もののカツオは好物中の好物、夏にかけてカツオばかり食べていた。調理法は刺身か照り焼きが定番。学校での弁当のおかずも、カツオが最も多かったと記憶している。長じて他の様々な魚介類や肉類も食べるようになったが、とにかく家を離れるまでは、魚というとカツオを最もよ...てこね寿司

  • 万葉の森公園5(伎倍の茶屋)

    その日は、午前に夫婦揃って歯科の治療を受けたので、昼食は柔らかいものが好いと、「伎倍の茶屋」のうどんを食べることにした。店頭の農産物の平台に「三方原産馬鈴薯」が置かれていた。来園の婦人たちの中の1人が、三方原の赤土で育った馬鈴薯は格別美味しいと、誰彼かまわず旺に宣伝していた。家内は5袋も買ってしまった。うどんを食べ、冷たい甘酒を飲んだ後、公園内を散策した。たった一輪、ナツツバキが咲き残っていた。ザクロの花も咲いていた。車に乗り込む前にソフトクリームを買う。お酒をやめてほぼ一年、家内の観察では、飲んでいた頃より、甘いものを好むようになっているらしい。「ソバーキュリアス」は日本では定着しなかったようだが、老生には脱アルコールへの指導書に成った。お酒を飲まない生活は、快適性の追求だったのだろうか?飲むことに快適...万葉の森公園5(伎倍の茶屋)

  • 孤独について

    人は成長する過程で、他者との協和、すなわち社会性を身につけることが何よりも重要なことと、家庭や学校で繰り返し教えられる。人づきあいの良し悪しは、社会人としての完成度につながるからである。それがために人々は、集団的社交を最優先し、個人に対する集団の優越を盲目的に信じるようになる。その結果、生まれつき人との交際が苦手な人たちや上手くできない人たちは、悩み苦しむことになる。年少の頃から「ともだちをつくとれ!」「とだちは大切だ!」「ともだち「とだちを殖やせ!」と言われ、社会に出る前には「ともだちは財産だ!」とまで言われれて育つと、とだちの輪の中に居ないことを内心では極度に虞れるようになるだろう。インターネット・スマホの時代になって、人と人とがいつでもどこでも任意に繋がることができるSNSの時代、孤独は死語になるか...孤独について

  • フラワーパーク8

    雨の合間を狙って、フラワーパーク内に自生するササユリを見に行った。園内には、遠州地方の山野を覆うネザサが繁茂している場所がある。このササは三方原台地や佐鳴湖周辺にもよく遺っている。フラワーパークができる前の自然状態のこの地も、ネザサで覆われていたことだろう。そのネザサの藪の斜面に、ササユリが点々と蕾を着け、なかには咲いているものもあった。ここのササユリは何故か色が淡い。遠州・奥三河の山野をササユリが彩り、それに続いてヤマユリが咲き始めると、梅雨が明け本格的な夏になる。大賀ハスの池。月末には花を観ることができるらしい。フラワーパーク8

  • 我儘について

    人間社会の歴史において、多数派が少数派より正しかった例を私は知らない。むしろ多数が全員一致したような考えは、危険な扇動者が案出したもので、彼自身の栄達と保身にしか繋がらない。彼を支持した多数は辛酸を舐めた。斬新で優れた考えは、扇動者には何ひとつ無かったと認識している。卓見は常に少数派のもの、傑れた知恵を多数で共有することには無理がある。大勢の人々が納得する案は、常に最大公約数的で平凡な考えしか出てこない。名案は多数からはけっして生まれないものである。民主主義は、より安全な社会を目指す制度だが、上記事情によって国民は好ましくない案を採択してしまう危険があるることに注意しなければならない。民主主義の制度は、少数派の卓見を掬い上げるようにはできていない。多数派絶対主義の下で、卓越した政治を望むのは無い物ねだりで...我儘について

  • フラワーパーク7

    9:00開園と同時に入園した。1時間程度の散策の目的は、アジサイとハナショウブの観賞。それと階段登りを含むウォーキング。咲き終わった花房を伐ったり、雑草を除ったり、植栽物の管理をする人たちが作業していた。播種・植え付け・施肥・剪定・植え替えなど、植栽物が途方もなく多いから、膨大な延人員が必要だろう。来園者の目に見えないところで、その人たちの働きが、切れ目ない花々の開花を支えている。家庭での園芸など到底及ばないきめ細かな植栽管理があって初めて、国内有数の植物園として来園者を大勢呼ぶことができるのだろう。今日も、舘山寺温泉のホテルに宿泊した中国人ツアー客が多い。コロナ禍が遠のいて、舘山寺スマートインターチェンジ設置の効果が出始めたのだろう。雨後のアジサイの見映えに、思わず感嘆の声を挙げた。昭和のリバイバルソン...フラワーパーク7

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