FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
<12Dec'2019> 以下同左 雲仙岳平成新山、東側の島原市から。正面からの流れは、火砕流、土石流の流れの跡。 今日の写真は、雲仙岳です。 雲仙岳は、妙見岳、国見岳、普賢岳など三峰五岳から成る火山群の総称で、主峰は普賢岳。平成2年(1990)11月に噴火を始めて
<11,12Dec’2019、雲仙市> 以下同左 雲仙地獄、雲仙市小浜町雲仙。 今日の写真は、『雲仙地獄』です。 雲仙の古湯と新湯の間の白い土(温泉余土)に覆われた一帯が雲仙地獄地帯です。地獄とは仏教の教えで前世の悪業の苦報を受ける所という意味ですが、至る所か
<08~10Dec'2019> 以下同左 カトリック馬込教会、長崎市伊王島町。 今日の写真は、長崎市、新上五島町の教会です。 昨日までの写真と重なる教会もありますが、ご容赦ください。 まずは長崎湾岸の島の教会です。 カトリック馬込教会、長崎市伊王島町。
<10Dec'2019> 以下同左。 新上五島町頭ヶ島天主堂(重文)。 今日の写真は、長崎県の五島列島の北側の中通島のスポットです。 まず、長崎港から高速フェリーで中通島の鯛の浦港へ。 長崎港ターミナル 高速フェリー。 中通島鯛の浦港まで約1時間40分。
<08Dec'2019、長崎市> 伊佐山からの夜景。 今日の写真は長崎市の夜景です。 長崎の夜景は2012年にモナコ、香港とともに世界新三大夜景に選ばれ、さらに2015年には札幌、神戸とともに日本新三大夜景都市にも認定されています。 <08Dec'2019、長崎市> 伊佐山
<08Dec'2019、長崎市> 以下同左 長崎孔子廟、長崎市大浦町。 今日の写真は、長崎孔子廟です。 江戸時代以降、外国貿易の地と定められ、唐人屋敷があった長崎に、明治26年(1893年)、清国政府と在日華人が協力して、中国の総本山並に伝統美あふれた「孔子廟」が作
<11Dec'2019、長崎市> 以下同左 シーボルト通り(長崎市) 今日の写真は、シーボルト通り沿いにあるシーボルト記念館とシーボルトの邸宅跡です。 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、江戸時代の日本に西洋医学や博物学を伝え、科学的な総合調査にもとづ
<09Dec'2019、長崎市> オランダ坂。 今日の写真はオランダ坂などの長崎市の街並みです。 オランダ坂は長崎市東山手の旧居留地時代につくられた石畳の坂道・石段。 長崎市東山手重要伝統的建造物群保存地区を構成する要素の一つ。 長崎竜馬の道(オラン
<09Dec'2019、長崎市> 出島和蘭商館跡、出島表門橋と表門。 今日は、国指定史跡「出島和蘭商館跡」の写真です。 出島は徳川幕府の命により築造され、1636年に完成。 はじめはポルトガル人が居住、1641年にオランダ商館が置かれ、その後約200年間、日本で唯一西
<09Dec'2019、長崎市> 平和祈念像。 今日の写真は、長崎市の平和公園、1945年(昭和20年)8月9日に投下された原子爆弾落下中心地(爆心地)と、その北側の丘の上とを含めた地域です。 まずは北側の丘です。 折鶴の塔。 平和の鐘。1977年(被爆から33回忌
<08Dec'2019、長崎湾> グラバー園、長崎市。 今日は、一昨日のユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(2015年7月登録)の(エリア6 長崎)の構成遺産の一つ、旧グラバー邸のある『グラバー園』です。 トーマス・グラバーについて
<08Dec'2019、長崎湾> 端島(軍艦島)、長崎市。 今日は、一昨日のユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(2015年7月登録)の(エリア6 長崎)の構成遺産の一つ、端島炭鉱(軍艦島)です。 残念ながら、この年の台風の影響で端
<08Dec'2019、長崎湾> 以下同左 長崎女神大橋、長崎港湾口部。 今日は、昨日のユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(2015年7月登録)の(エリア6 長崎)の構成遺産、長崎の造船所跡がある長崎港と長崎湾です。 三菱重工長
世界遺産:明治日本の産業革命遺産(エリア6 長崎) Dec’2019
長崎編 今日から3週間ほどは長崎県を旅行した時の写真です。 今日の写真は、ユネスコ世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(2015年7月登録)の(エリア6 長崎)のうち、この時の旅行で訪れた、・長崎の造船所跡・高島炭鉱(高島炭鉱、端
<12May’2021、ところざわサクラタウン> 以下同左 武蔵野坐令和神社。 今日は、昨日に続きところざわサクラタウンの隈研吾さんデザイン監修の「武蔵野坐令和神社」です。 「武蔵野坐令和神社」は『むさしのにます うるわしき やまとの みやしろ』と読みます。
角川武蔵野ミュージアム(ところざわサクラタウン)May’2021
<12May’2021、ところざわサクラタウン> 以下同左 角川武蔵野ミュージアム。 2020年11月にグランドオープンした「ところざわサクラタウン。 今日明日は、その中でも隈研吾さんが設計あるいはデザイン監修した、「角川武蔵野ミュージアム」と「武蔵野坐令和神社」
<07Jul'2019、バトゥ洞窟> 以下同左 バトゥ洞窟。 今日は、マレーシア随一のヒンドゥー教の聖地の洞窟とされているセランゴール州のバトゥ洞窟です。 洞窟の入口につながるカラフルな階段の右の黄金の巨像は高さ43mの南インドの土着の神「ムルガン」(後にスカ
Istana Negara(王宮)(クアラルンプール)Jul’2019
<06Jul'2019、王宮> 以下同左 Istana Negara Palace(王宮)の門。 今日はマレーシア国王が居住する王宮、Istana Negaraです。 マレーシアの国王は13州のうち9州にいるスルタンによる互選で選出され、任期は5年。世界でも珍しい、世襲ではなく選挙で選ばれる、任
<06Jul'2019、チャイナタウン> 以下同左 關帝廟。 今日は、クアラルンプールのチャイナタウンです。 關帝廟。 關帝廟。 關帝廟。 關帝廟。
<06Jul'2019、マスジット・ジャメ> 以下同左 マスジット・ジャメ(ジャメ・モスク)。 今日は、1909年に建立されたクアラルンプール最古のモスク『マスジット・ジャメ』です。 マレー語で「マスジット」はモスクの意味ですから、「ジャメ・モスク」ですね。 昨
<06Jul'2019、ムルデカ・スクエア> 以下同左 ムルデカ・スクエア(独立広場)です。 今日はクアラルンプールの中心、1957年8月31日に、英国から独立(ムルデカ)を宣言をした歴史的スポット、『ムルデカ・スクエア(独立広場)』です。 スルタン・アブドゥル・
マラッカ その他のスポット(マラッカ、マレーシア)Jul’2019
<05Jul'2019、マラッカ> 以下同左 フランシスコ・ザビエル教会。 今日はマラッカの最後、マラッカのその他のスポットです。 フランシスコ・ザビエル教会のゴシック様式の礼拝堂。1849年、フランシスコ・ザビエルの功績をたたえて建てられたカトリック教会。
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
境の明神(下野側、玉津島神社、那須町寄居) 写真真ん中左の「ようこそ福島県」の標識より向こうが福島県白河市です。 松尾芭蕉主従は、元禄2年4月20日に、那須湯本から芦野の遊行柳、境の明神、二所ノ関を過ぎ、白坂から白河の古関跡へ向かいました。 今日の写
遊行柳(那須町芦野) 今日の写真は、那須町芦野にある「遊行柳」です。 芭蕉は那須野殺生石を訪れた後、いよいよ旅の目的の奥州へ行くため、まず奈良平安期の古道「東山道」の奥州へ関所であった「白河の関」跡へ向かいます。 その那須温泉から白河の関跡へ向か
那須殺生石、那須町那須湯本温泉那須温泉神社 かつて九尾の狐が化身したといれる大きな岩の国指定名勝史跡「殺生石」の写真です。 2022年3月二つに割れたことが確認されました。 今日の写真は、那須湯本温泉の那須湯前神社付近に存在する溶岩で、付近一帯に
「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」、松尾芭蕉 『那須湯本の温泉大明神では、京都の石清水八幡宮が合祀されているので、ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくう(むすぶ)と、両神社にお参りしたことになるという。これは湯が結ぶ縁である。』 この句は奥の細道にはあり
芭蕉翁塚「杜鵑の墓」、那須町史跡 今日は、那須町高久本郷地区内の芭蕉所縁の地や句碑です。 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚
高福寺楼門、那須町大字高久甲 黒羽を立った4月16日から4月20日に那須湯本から下山し、芦野の遊行柳、白河の古関跡近くの旗宿に投宿するまでの5日間の「奥の細道」はあっさりと、『是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。や
「俳聖松尾芭蕉と黒羽」、浄法寺桃雪邸跡脇の芭蕉の句碑一覧、旧黒羽芭蕉公園(現大田原市前田) 今日は、「芭蕉の里くろば」というキャッチフレーズを掲げている現大田原市の旧黒羽地区の黒羽田町、黒羽向町、余瀬、雲巌寺などに点在する10か所の芭蕉、曾良の句碑の
鍋掛八坂神社(那須塩原市鍋掛)から望む早春の那須連山。 旧鍋掛宿(現那須塩原市鍋掛)「野を横に馬牽きむけよほととぎす」 今日の写真は旧鍋掛宿の八坂神社と芭蕉の句碑です。 鍋掛八坂神社芭蕉句碑(那須塩原市鍋掛) 「黒羽町誌(黒羽町誌編さん委員会
那須連山、那須高原大橋から、那須塩原市西岩崎 那須野ヶ原は山ぎわの部分で標高500メートル、これが南東に緩やかに傾斜して標高100~150メートルまで下っていきます。ところが全体的には緩やかですが、ちょうど那須塩原市と南東の大田原市の境のあたりで5~10m急に下
源実朝の歌碑、玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 「武士の矢並つくらふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原」(柳営亜槐本金槐和歌集) 『那須の篠原』が那須野を表す歌語として使われるようになった有名な歌。 初めて文献上に「那須野」あるいは「
那須神社(金丸八幡宮)楼門、重文。 大田原市南金丸。 今日の写真は、「那須神社」その2です。 元禄2年4月13日余瀬に住む津久井翅輪は、芭蕉と曽良を鹿子畑家に見舞った。そして余瀬の西南、約一・五粁のところにある「金丸八幡宮」に参詣すべく誘いました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 今日はの写真は、昨日境内にある源実朝の和歌碑と松尾芭蕉の俳句碑を紹介した玉藻稲荷神社です。 境内には句碑の他に、九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がありました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須篠原地区今日の写真は、大田原市の旧黒羽町エリアの余瀬の修験光明寺跡、蜂巣地区の犬追い物跡、篠原地区の玉藻稲荷神社と狐塚之址の碑です。 芭蕉は元禄2年(1689年)4月5日に雲巌寺まで往復約25Km を歩いた後は、雨降りだったり、休養
雲巌寺。大田原市雲巌寺。 今日の写真は、松尾芭蕉が元禄2年4月5日に訪れた雲巌寺です。 雲巌寺は、江戸深川での芭蕉の禅の師であった仏頂禅師が当時住職をしていました。 雲巌寺は、高峰顕日(仏国国師)が弘安6年(1283年)に復興開山した臨済宗妙心寺派の名
黒羽芭蕉の館、黒羽藩の藩庁だった黒羽城の三の丸跡に建つ。 今日の写真は、「おくのほそ道」で最長の14日間逗留した松尾芭蕉に関する展示や黒羽藩主大関氏に関する展示を行っている黒羽城の三の丸跡の建てられた「芭蕉の館」、句碑などが野外展示してある芭蕉の広場な
本丸跡と本丸廓を囲む城塁とその上に建つ後に物見櫓を模して作られた展望台。大田原市前田黒羽城址。 今日の写真は、元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)に芭蕉が訪れた門弟の浄法寺桃雪が城代家老をしていた黒羽藩の黒羽城と藩主大関家の菩提寺大雄(だいおう)寺で
旧浄法寺邸、大田原市前田芭蕉公園 黒羽藩城代家老で芭蕉の弟子だった浄法寺高勝(たかかつ/俳号・桃雪〈とうせつ〉)の屋敷跡に改修整備した建物。余瀬の鹿子畑翠桃は浄法寺桃雪の弟。 元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)、余瀬(大田原市)に宿泊後、翌4日に黒
蛇尾川、遅沢橋(那須塩原市東遅沢)付近。東北新幹線「那須塩原」駅から西に3㎞ 今日の写真は、昨日の記事で松尾芭蕉が日光北街道から奥州街道に入り、大田原宿を過ぎて大田原城(龍城)を右に見ながら渡った蛇尾川です。 記事では、冒頭の水の無い蛇尾川が、どうし
日光北街道標柱、大田原市末広1丁目 今日から1か月近くは、那須野が原(旧大田原、湯津上、黒羽、那須町)、白河、須賀川、二本松の松尾芭蕉の「奥の細道」所縁の地の写真です。 「奥の細道」の日程と道程に従って、芭蕉所縁の地の記事をアップしていきます。
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率