chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
よっしゃん
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2021/06/16

1件〜100件

  • 無視された「総力戦研究所」の研究成果、そして開戦

    昭和16年(1941)8月27日、首相官邸大広間で、総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣(窪田角一内閣)が研究成果発表のため、第三次近衛内閣と対峙したのである. 午前9時に始まった〈窪田内閣〉の〈閣議報告〉は、午後6時まで長時間に及んだという。 結論は、緒戦の勝利は見込まれるが、戦争は長期戦になって、物量劣勢の日本に勝機はない。日本は敗れるというものであった。日米開戦は回避を提言されたのである 登場陸相は終始メモを取る手を休めなかったという。ここで、開戦までのトピックをさらってみる。 ・昭和16年(1941)7月28日、日本軍南部仏印進駐 ・8月1日、米、発動機燃料、航空機用潤滑油の対日禁輸…

  • おススメ!2大名著「現代語訳『暗黒日記』」、『戦争の大問題』

    首記の図書はそれぞれ、伊藤忠商事で社長、会長を務められ、2010年に民間出身で初の中国大使を務められた丹羽宇一郎氏の著作である。 「現代語訳『暗黒日記』」は、「東洋経済新報」や「中央公論」などで反軍国主義を貫いた外交・政治評論家でジャーナリストの清沢 冽(きよし)の著作「暗黒日記」に丹羽氏が編集・解説を加えた現代語訳である。 巻頭に 大東亜戦争は非常なる興亡の大戦争である。 筆を持つ者が、後世のために、何らかの筆跡を残すことは、その義務である。 すなわち書いたことのない日記をここに始める。 将来、大東亜外交史の資料とするためである。 神よ、日本を救え。昭和18年(1943年)10月1日 清沢 …

  • アジア・太平洋戦争ー昭和20年(1945年) 、いよいよ終戦の年である。

    完膚なきまでに叩きのめされて、この年、12年に及んだ日中戦争、そして太平洋戦争が終結する、無条件降伏である。 〈104〉1月9日、 連合軍、ルソン島のリンガエン湾に上陸 〈105〉2月3日、 連合軍、マニラ市街に突入 〈106〉2月19日、 米軍、硫黄島に上陸 〈106〉米軍、マニラを完全占領 〈107〉3月10日、 東京大空襲 〈108〉3月13日、 大阪大空襲 〈109〉3月17日、 硫黄島の日本軍守備隊玉砕 〈110〉4月1日、 米軍、沖縄に上陸 〈111〉4月6日、 日本軍、沖縄方面に第1次航空総攻撃開始(菊水1号作戦) 〈112〉4月7日、 鈴木貫太郎内閣発足、沖縄水上特攻部隊(第2…

  • アジア・太平洋戦争ー昭和19年(1944年)1月~11月24日を見る

    この年は、大本営インパール作戦の認可で明けるー理不尽なあの「白骨街道」を生んだ作戦である。 〈80〉1月7日、 大本営、インパール作戦を認可 〈81〉1月24日、 大本営、大陸打通作戦(中国大陸ー1号作戦) 〈82〉2月6日、 クェゼリンの守備隊玉砕 〈83〉2月23日、 ブラウンの守備隊玉砕 〈84〉3月8日、 インパール作戦、第33師団進撃開 〈85〉3月15日、 第15師団、第31師団インパールに向け進撃開始 〈86〉4月6日、 第31師団、インパール北方コヒマを占領 〈87〉4月17日、 支那派遣軍、大陸打通作戦開始 〈88〉6月1日、 第31師団、補給途絶のためコヒマを放棄、撤退 〈…

  • 太平洋戦争ー昭和18年(1943年)1月~11月25日を見る

    昭和18年(1943年)は、ブナ守備隊、続いてギルワ守備隊の全滅で明ける(東部ニューギニア)。 〈59〉 1月2日、 ブナ守備隊、続いてギルワ守備隊(東部ニューギニア)全滅。 〈60〉 1月29日、 レンネル島沖海戦 〈61〉 2月2日、 ガダルカナル島から撤退開始 〈62〉 2月2日、 イサベル島沖海戦 〈63〉 2 月8日、 ガダルカナル島から撤退完了 〈64〉3月2日、 ビスマルク海海戦 〈65〉3月27日、アッッ島沖海戦 〈66〉4月7日、 フロリダ沖海戦 〈67〉4月18日、 連合艦隊司令長官・山本五十六戦死(死後元帥に昇進) 〈68〉5月29日、アッッ守備隊玉砕 〈69〉7月5日、…

  • 太平洋戦争ー昭和17年(1942年)6月8日~昭和17年年末まで

    太平洋戦争昭和17年(1942年)後半をなぞってみる。 ㊳昭和17年(1942年) 6月8日、 陸軍北海支隊ーアッッ島占領、海軍陸戦隊ーキスカ島占領 ㊴ 〃 7月6日、 海軍飛行場設営隊、ガダルカナル島に上陸 ㊵ 〃 7月29日、 南海支隊、東部ニューギニアのココダを占領 ㊶ 〃 8月7日、 米第一海兵師団、ガダルカナル島に上陸、米軍の反攻開始 ㊷ 〃 8月9日、 第1次ソロモン海戦 ㊸ 〃 8月18日、 一木支隊、ガダルカナル島タイポ岬に上陸 ㊹ 〃 8月21日、 一木支隊、ガダルカナル島の飛行場奪回攻撃に失敗全滅 ㊺ 〃 8月24日、 第2次ソロモン海戦 ㊻ 〃 8月31日、 川口支隊主力…

  • 太平洋戦争ー昭和16年(1941年)12月10日⑦マキン・タラワ島占領~昭和17年(1942年)6月6日㉟ミッドウエー海戦まで

    開戦からちょうど半年180日のミッドウエー海戦までをざっと概観する。 昭和16年(1941年) ⑦12月10日マキン・タラワ島占領 ⑧12月10日マレー沖海戦ー飛行機が単独で戦艦を沈めた最初の海戦 ⑨12月20日ミンダナオ島ダバオ占領 ⑩12月22日ルソン島リンガエン湾に上陸 ⑪12月23日海軍陸戦隊、ウェーク島占領 ⑫12月25日弟23軍、香港占領昭和17年(1942年) ⑬1月2日 弟14軍、マニラ占領 ⑭1月11日 海軍陸戦隊、セレベス島メナドに落下傘降下 ⑮1月23日 ニューブリテン島のラバウル占領 ⑯1月24日 第一次バターン半島総攻撃開始(失敗) ⑰2月3日 蘭印のアンボン島占領 …

  • 昭和16年(1941年)12月10日、ルソン島北部の戦いー

    昭和16年(1941年)12月10日、ルソン島北部の戦いー - 戦史ブログ「飢餓の戦場」

  • 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争開戦同日に⑥グアム島空襲を実施ー

    昭和16年(1941年)10月末、日本の陸海軍は、対米英蘭作戦を決定して、海軍のハワイ空襲と合せて、フィリピン、マレー半島を、そうして資源地確保をめざして、蘭印の攻略を企図。これらの主作戦と併行して企図された、グアム、ウェークの攻略、ビスマルク攻略などの中南部太平洋方面の作戦は、南東太平洋の戦いを有利にし、南方侵攻作戦を援護する枝作戦となるのである。 11月下旬にはおおかたの日本軍は、小笠原諸島の母島に集合、12月8日、水上偵察機16機がグアム島の空襲を実施し、小型掃海艇「ペンギン」を撃沈したのである。ただ、この当時、グアムに住んでいた数十人の日本人が、アメリカ軍によって逮捕監禁されてしまった…

  • (5)マレー沖海戦ー戦艦中心主義の終焉、航空機の優位示す

    昭和16年(1941年)12月10日、日本海軍の中型攻撃機84機が、イギリス東洋艦隊の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ゥェールズ」と高速戦艦「レパルス」を撃沈した。

  • 太平洋戦争の勃発と同時に、フィリピンの米軍と戦闘開始(4)フィリピンの戦い

    昭和16年(1941年)12月7日、午後9時35分、日本軍第一天候偵察隊が、そして午後11時30分、第二天候偵察隊がフィリピン上空を飛んだ。 翌昭和16年(1941年)12月8日0時15分、偵察を察知した米軍は、イバ、クラークに全機15分の待機を命じ、その後、日本の偵察機撃墜のため、戦闘機を発進させたのである。 米領フィリピン上空での航空戦の開始である。 ここフィリピンは、スペインの植民地だったものを、米西戦争によって明治32年(1899年)以降、アメリカの植民地になっていたのである。 ときあたかも、日中戦争の最中である。当時日本の植民地だった”台湾”にも近く、連合国軍の中国支援を遮断する意味…

  • 真珠湾攻撃と同時刻に、イギリス軍機に航空第一撃(3)香港の戦い

    真珠湾攻撃と同時刻、昭和16年(1941年)12月8日朝、第23飛行隊は、香港・九龍半島北東端に位置するイギリス軍の航空基地・啓徳飛行場のイギリス軍機に対して航空第一撃を加えたのである。 ことは、昭和12年(1937年)7月7日、日中全面戦争の原因となったされる盧溝橋事件にさかのぼるのである。満州国建国以来、日本の中国侵略を心由としない英米が、紹介石政権への支援を強化してしてゆくのである。そうした中で、香港経由の中国の輸入量が激増、海外補給総量の8割を占めるまでになってゆくのである。香港、広東が援蒋(蒋介石政権支援)補給路の重要な基地になったのである。 これに対し、日本軍は援蒋ー香港・広東ルー…

  • 太平洋戦争の全戦場を巡るー(2)真珠湾奇襲攻撃

    太平洋戦争の全戦場を巡るー(2)真珠湾奇襲攻撃 - 戦史ブログ「飢餓の戦場」

  • 太平洋戦争の全戦場を巡るー(1) マレー半島作戦

    昭和16年(1941年)12月8日、このイギリス領マレー方面の作戦が、いわゆる太戦争戦争において、すべての作戦に先駆けて行われた南方作戦の一つであり、事実上この攻撃開始によって、太平洋戦争が始まるのである。8日午前2時30分第18師団侘美支隊(たくみしたい)がコタバルへの上陸を開始して火ぶたは切られ、太平洋戦争の第一歩はまさにこの地から始まったのである。 香港、シンガポール、マニラの重要な軍事拠点を壊滅させ、東アジアにおける英米勢力を一掃して、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスそしてマレーなどの重要な資源地帯を確保すること、これが南方作戦の目的なのである。そのために、日本陸軍は、先制急襲を方…

  • 昭和初期の日本が歩んだ「敗戦」への道、迷走を繰り返した大日本帝国が志向したものとは (2021.6.3追記)

    先ずは、齋藤健著「転落の歴史に何を見るか」から紐解いていこうと思う。 ちくま文庫 ¥836 sale by amazon 明治38年(1905年)の日露戦争・奉天の会戦から昭和14年(1939年)のノモンハン事件までの34年の間に、何が起っていたかである。 軍勢は、この間に、ジェネラリストの時代からスペシャリストの時代へ大きく舵を切ったと言うことである。 ジェネラリストとは一般に”広範囲にわたる知識を持つ人”のことである。この時代には、提督と呼ばれる人達(ジェネラリスト)がいた。しかして、次代には、いわゆる学校で学んだ英才が軸になっていくのである。いきおい、兵学が中心になるのである。この34年…

  • なぜこんなにも違う、日米両軍の視点の構え方ー

    情報の入手が甘い、おおむね楽観主義、科学的整合性の欠如など、日本軍の思考法にはいささか危うさが漂うー 日米両軍の戦争に対する構え方には、どのような違いがあったろうか。 いくつかの視点から、比較を試みてみようと思う。 ① ゴールーどう着地させるかー 日本軍ー不明瞭ー成り行き任せであったか? 米軍ー明確 ②志向性 日本軍ー短期決戦ー国力からの判断か。 米軍ー長期決戦ー国力充分 ③ 戦略決定 日本軍ー帰納的(少しずつ積み上げる) 米軍ー演繹的(グランドデザイン) ④ 戦略オプション 日本軍ー狭い(戦略の統合性欠如) 米軍ー幅が広い ⑤ 技術の体系 日本軍ー一点豪華主義 米軍ー標準化(総合戦力) ⑥ …

  • 戦争事始ーなぜ、それは「満州」なのかー

    そもそも、満州とはどんな所なのか?”万里の長城”の北側に位置し、西にモンゴル(蒙古)、北はロシア(旧ソ連)、東を朝鮮半島と接している ここには、日本の3倍以上という広大な領土が広がっていた。 ところで、日本軍の満州侵攻には、無論、地政学的な要素が大きく関係しているが、他方で、当時の日本の窮状が満州侵攻を決定づけたと言えるのである。 日清戦争、日露戦争で日本が勢力下にした朝鮮半島に近く、日本陸軍の仮想敵国であるソ連と国境を接している重要な地域がこの満州なのである。 当然のことながら、朝鮮半島、そして日本本土をソ連の攻勢から守るための最前線ということになるのである。ソ連にはもともと、不凍港を求めて…

  • ビルマの戦い、そして「インパール」の悲劇へ

    日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍✕イギリス軍・アメリカ軍・国民革命軍の戦い、「ビルマの戦い」である。 昭和16年(1941年)アジア・太平洋戦争の開始直後から、昭和20年(1945年)の終戦直前まで続いた戦いである。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐる、第二次世界大戦の重大な局面の一つとされる。 日本軍は、ビルマ独立義勇軍の協力を得てイギリス軍を急襲、首都ラングーンを陥落させたのである。ビルマ中北部の戦闘では、連合国軍に蒋介石の遠征軍が加わって激戦が展開されたが、日本軍がビルマ全土を制圧したのである。 すべては、英米による援蒋ルート(蒋介石を支援する)の遮断が目的であった。 イギリスは、ア…

  • ードイツ近世史に見る膨張主義と日本ー

    日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。「日独伊三国同盟」締結の暴挙ー 先ずは、ドイツの近世史を見てみよう。 1814年(文化11年)ー1870年(明治3年)の「ウィーン体制」である。 ナポレオン・ボナパルトの敗北の後、ゥィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成された。これによって、ドイツではオーストリアを盟主とするドイツ連邦が結成されたのである。ウィーン体制下で保守的な政治体制が続くなか、ドイツでも産業革命が急速に進展、ブルジョアが経済活動の拡大を望み、他方、知識人達によって、ドイツ人の一体化が求められるようになっていくのである。そうして、1848年(嘉永…

  • ー米軍の本格反攻開始、ガダルカナル戦で大敗ー

    日本から6,000㌔の距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。 久しぶりに太平洋戦争画集を眺めていた。 昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。 身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後のハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧してゆくのである。こ…

  • ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

    伊江島は東洋一と言われた飛行場が建設されたため、米軍の主要な攻撃目標とされたのである。 沖縄伊江島である。昭和20年(1945年)4月16日、米軍が上陸、すぐさま飛行場は占領されたのである。この伊江島の戦い(~21日)では、一般住民およそ1,500人を含むおよそ3,500人が犠牲になったと言われている。多くの住民が、「斬り込み隊」など組織だった戦闘にかり出されたほか、「集団自決」に追い込まれた人達もいたのである。 米軍の攻撃を受けて、伊江村(いえそん)の建物はことごとく焼き払われたのだが、惨状の中、かろうじて原形をとどめたのが「伊江村公益質屋(跡)」である。 この施設は、昭和4年(1929年)…

  • ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

    昭和19年(1944年)7月のサイパン陥落の後、本土爆撃と本土決戦が、いよいよ現実味をおびてくる。 ことは、「政府中枢機能移転」の問題である。そもそも太平洋戦争の以前から、広大な関東平野の端に位置し、海からも近い首都「東京」は著しく防衛機能が脆弱であると指摘されていたのである。ここに、本土決戦を想定して、海岸から離れた場所への中枢機能の移転計画が進められるのである。 移転先は、長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中である。 ①象山 ②舞鶴山 ③皆神山 の3ヶ所である。ここに地下坑道が掘られたのである。 これが「松代大本営地下壕」である。このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一…

  • ー敵を知らず、己を知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、それがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落の歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連盟…

  • 原点回帰ー日清戦争、満州国、盧溝橋そして日中全面戦争へー

    近代の日本は、「日中15年戦争」と呼ばれるように、常に中国大陸とともにあった。 まさにその中国との関係を原因として、昭和16年(1941年)太平洋戦争に突入するのである。かくして、陸軍は中国大陸、海軍は太平洋戦争という構図になるのである。双方は国家予算を取り合い、それぞれの軍人の誇り(?)を競い合ったのであろうか。いずにしろ、軍人はひたすらに戦うための存在であったのである。 日中戦争は昭和12年(1937年)7月7日以来の8年間だという人もいるそうだが。この説は、中華民国北京(当時は北平=ほくへい)の、その日の盧溝橋事件に端を発するのである。対中国国民党軍との衝突事件である。 この歴史の前段は…

  • ー日露戦争から大正政変へー

    歴史は、遡ることによって、あるべき現在と未来とを示唆してくれるものである。 日露戦争の前段には、日清戦争があったのである。明治27年(1894年)7月25日から明治28年(1895年)4月17日にわたった日本と清国との朝鮮半島をめぐる戦いである。 この戦争に勝利した日本は、朝鮮を数百年にわたって属国扱いしてきた清国に、朝鮮から手を引かせ、朝鮮を独立国とし、日本はその清に勝ったことで、清国から”アジアの大国”の座を奪ったのである。 当時の清国は、欧米列強からはアジアで最も力のある国と映っていた。 とりわけ、アヘン戦争以来、清国を脅かしていたイギリス、それに東アジアに北方から圧力をかけていたロシア…

  • ー日本と台湾の五十年ー

    日清戦争終了のあと、下関条約に基づいて、清朝(当時の中国)から「台湾」が日本に割譲された。 明治28年(1895年)4月17日のことであった。爾来、日本のアジア・太平洋戦争の敗戦によって終焉を向かえる昭和20年(1945年)10月25日までの50年間、台湾は日本の統治下にあったのである。 この台湾を統治するために台北市に設置されたのが、日本の出先官庁である「台湾総督府」であった。 代表的な総督を列ねてみる。 初代 樺山資紀 海軍大将 明治28年(1895年)5月10日~1年1ヶ月 2代 桂 太郎 陸軍中将 明治29年(1896年)6月2日~4ヶ月 3代 乃木希典 陸軍中将 明治29年(1896…

  • ー仏領インドシナへの日本軍進駐ー

    第二次世界大戦下、日本軍によって、昭和15年(1940年)北部仏印進駐と翌昭和16年(1941年)の南部仏印進駐が行われた。 フランス領インドシナへの日本軍の進駐のことである。とりわけ南部仏印進駐によって、日米関係に抜き差しならぬ決裂をもたらし、これによって、太平洋戦争が不可避となったのである。 昭和15年(1940年)9月、6月フランスがドイツに降伏したことを受けて、大本営政府連絡会議において「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が決定され、米、英、仏などによる中国援助ルート、いわゆる”援蒋ルート”の遮断と東南アジア侵略のための前線基地の獲得を目指して開始されたのが、日本軍による「北部仏印進駐…

  • ー第二次上海事変、そして支那事変へー

    日本軍の北平(北京)攻撃開始が、1937年(昭和12年)7月下旬のことである。 29日には、日本軍が北平を占領、10月12日、北平を北京と改名、12月14日には中華民国臨時政府が誕生する。1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦まで占領は継続する。そして10月10日、故宮太和殿において、日本北支方面軍司令官根本博中将が、降書と軍刀を提示して日本の占領時代が終了する。 この間、1937年(昭和12年)8月13日からの中華民国軍の「日本租界」への攻撃に端を発する第二次上海事変が起こり、この事変の勃発によって北支事変は支那事変へと拡大、日中全面戦争に発展してゆく。 日本租界は、中国(清朝)がアヘ…

  • ービルマのインパール、マリアナのサイパン島ー

    昭和19年(1944年)、3月に大東亜戦争のビルマ戦線において、帝国陸軍の「インパール作戦」が開始された。 インパール駐留の英軍による中国・蒋介石軍を支援するいわゆる”援蒋ルート”遮断を目的として、7月初旬まで続けられた。後年、その無謀な戦いぶりで悪名高い戦いである。移動路に多くの戦死者が横たわり「白骨街道」と呼ばれた悲惨な作戦であった。 その同じころ、6月には、マリアナ諸島・サイパン島に米軍が上陸、マリアナ沖海戦もあって太平洋上に激しい戦いが繰り広げられていたのである。 日本軍は当初目論んだ太平洋戦争の短期決着に失敗して、すでに多くの戦力を失っていたのだがー 日中戦争ー大東亜戦争ー太平洋戦争…

  • ー満州開拓民の悲哀ー

    昭和20年(1945年)ごろの満州国には、およそ155万人の日本人が暮らしていたという。 おおかたは、鉄道沿線の都市部で行政機関の関係者や商売をしている人達で、近代的な生活をしていたそうである。しかし、その一方では北部の奥地に移り住んだ「開拓民」と呼ばれた人達およそ27万人がいたという。 農地の圧倒的不足から、その当時の日本国内が貧しい農村を救うには、過剰な人口を国外に送り出すことが必要だと考えられたのである。そうして満州への大量の移民が国策として実施されたのである。 かれら開拓民にあてがわれた土地は、先住民から強制的に奪われたり、安く買いたたかれた農耕地であったという。 ところで、これら開拓…

  • ーそもそも「満州」とはー

    そもそも満州国があった中国の東北部は、古くから、支配民族の交代が頻繁に行われ、一支配が長期に渡ることがなかったという。 やがて満州人による清王朝がここに軍政を敷いて、東部を満州人、西部をモンゴル人、南部を漢人の居住区と定めて移住を禁止した。ところがこの状態が19世紀末に弱体化、ロシアがこの地域に鉄道の敷設権を獲得する。この鉄道の完成が、沿線農産物の大量販売をもたらし、南部から多くの漢人が流入して人口の大半を占めるようになるのである。 そうして昭和6年(1931年)の満州事変を経て、翌昭和7年(1932年)3月、満州国建国に至るのである。 爾来、清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が満州国のトップに就…

  • ー満州の国づくり、「五族協和」「王道楽土」ー

    昭和10年(1035年)当時の満州国には、3500万人弱の人々が住んでいたらしい。 その人口内訳は、漢人が7割強、満州人が16%強、朝鮮人が2%強、日本人は0.4%程度のようである。モンゴル人は不明のようである。その満州で国づくりの理想とされたのが、「五族協和」「王道楽土」であった。五族はすなわち、漢人、満州人、モンゴル人、朝鮮人、日本人であり、国民として仲良くとのこと、一方、「王道楽土」とは、古代の王が人徳で治めた安楽の地という意味であるらしい。 されば実態はどうであったか。満州国の第一国語は日本語、「国民訓」の中では天照大神への崇敬を義務づけるなど、日本色に染めたのである。 この地には、明…

  • ー一般の人達を見捨てた「関東軍」ー

    アジア・太平洋戦争末期、関東軍は、満州国にいた日系成人男性15万人を根こそぎ戦場にかりたてた。 そうして、女性や子ども、老人だけになったところにソ連軍が突如侵攻、長く抑圧されていた漢人の怒りも爆発して、日本人は略奪や暴行の餌食となって、あまりの絶望から集団自決が頻発したという。くわえて、栄養失調や発疹(はっしん)チフス、酷寒などにも見舞われて、軍人も含めた日本人は、この地で24万5400人が命を落としたという。 終戦の翌年には、軍民あわせておよそ127万人が帰国したが、一方では、中国残留孤児や残留婦人となった人達、そしてソ連軍の捕虜となった多くの男性はシベリアに抑留されたのである。 満州国政府…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー敵を知らず、おのれを知らずー

    流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。 はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。 昭和6年(1931年) 満州事変 昭和7年(1932年) 満州国建国宣言 昭和8年(1933年) 国際連…

  • ー蜂の巣になった本土ー

    島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。 おもな大空襲の跡を見てみよう。 【大空襲】 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5…

  • ー蜂の巣になった本土ー

    島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。 おもな大空襲の跡を見てみよう。 【大空襲】 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5…

  • ー蜂の巣になった本土ー

    島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。 おもな大空襲の跡を見てみよう。 【大空襲】 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5…

  • ー見抜けなかった「ドイツの凋落」

    日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。 昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。 残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。 この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識し…

  • ーヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗ー

    久しぶりに太平洋戦争の画集を眺めている。 日本から6,000キロの距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。 昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。 身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後の、ハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧していくのであ…

  • ■ - 戦史ブログ「飢餓の戦場」

ブログリーダー」を活用して、よっしゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
よっしゃんさん
ブログタイトル
戦史ブログ「飢餓の戦場」
フォロー
戦史ブログ「飢餓の戦場」

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用