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古代四方山話 https://blog.goo.ne.jp/kaorio39

古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。

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2020/07/24

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  • 邪馬台国を考える 伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる②

    須玖岡本遺跡は南北2キロ、東西1キロの大きさがあり、おびただしい量の遺物が出土し、鏡・青銅製武器・勾玉の三種の神器様のセットも出土しています。青銅器鋳造工房跡も見つかっています。またガラスの璧が出土しているのは、三雲南小路遺跡とこちらの2例のみのようです。奴国の丘歴史資料館・奴国の丘歴史公園として整備されているこの地が、いにしえの奴国なのでしょうか。奴国がどこかについて考えるにあたっては、志賀島で見つかった金印について気になるところですが、偽印説もあり今回は棚上げしておきます。もし奴国が春日市ならば、東へ百里の不彌国は太宰府あたりになるのでしょうか。不彌国の有力候補地である宇美だと方向が違ってしまいます。しかし、太宰府のような7世紀後半に地方行政機関が置かれる要所が不彌国で良いのか、という思いも…。壱岐から伊都...邪馬台国を考える伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる②

  • 邪馬台国を考える 伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる①

    私の邪馬台国への道程は、末慮国、伊都国の段階で行き詰ってしまったのですが、もうちょっと先に進みたいので強引に話を進めてみます。末慮国の津である呼子に上陸し、末慮国の市街地である唐津に東南に向かって歩き始めましょうか。これなら一旦は東南に進めます。(呼子だと壱岐から千余里には近すぎるぞという心の声は聞こえなかったこととします)東南陸行して糸島=伊都国と仮定し、ひとまず進んでいくこととします。伊都国は不思議な国です。たった千余戸しかないのに、代々王がいたと記されています。帯方郡からやってきた使者が常に滞在するところであり、国家間の公文書や贈り物を伊都国の津で点検し、中国の刺史のような監察官である「一大率」が派遣されていました。邪馬台国でさえ悪字が使用されているのに、伊都は良い字で記されています。どう考えても北部九州...邪馬台国を考える伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる①

  • 邪馬台国を考える 末慮国・伊都国へたどり着けません②

    平原遺跡1号墓は伊都国王墓と考えられている弥生終末期の方形周溝墓です。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数は弥生時代としては日本一で、大量の朱も使用されています。副葬品の中に武器がなく装身具が多いこと、中国で女性が身に着ける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることから女性の墓と目されており、卑弥呼の墓であると考える人もたくさんいらっしゃいます。佐賀方面に伊都国から先を比定する場合、平原に存在していた国が邪馬台国とは関係のない国だったと考えるのでしょうか。糸島平野・福岡平野周辺に、当時の日本列島の中でも先進的な国々が形成されていたことは間違いありません。鏡を副葬品の主体とするのは、弥生時代では三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡だけです。邪馬台国を考える上で、古代遺跡のメッカといえる糸島平野・福岡平野を私...邪馬台国を考える末慮国・伊都国へたどり着けません②

  • 邪馬台国を考える 末慮国・伊都国へたどり着けません①

    日本古代史最大であり永遠の謎である邪馬台国論争。邪馬台国の所在地をめぐり、学者の方からアマチュアに至るまでまさに議論百出です。私も古代史ファンとして邪馬台国関連の書籍を長年に亘って読み続けてきました。そろそろ自分なりの邪馬台国を見つけてみたいと思うのですが、これがまた一向に判りません。偉い学者の方々が一生をかけて研究されても決定打が出ていないのですから、私に判らないのは当然といえば当然なのですが、いい加減「私は邪馬台国〇〇説を支持します」と言ってみたいのです。でも現時点では本当に私にはどこだかわかりません。何がどうわからないのか整理するために、わからない点を思いつくままに綴ってみようかと思います。対馬国、壱岐国までは問題ありません。末慮国から既にわからないのです。末慮国は魏志倭人伝で対馬・壱岐を経由して最初に本...邪馬台国を考える末慮国・伊都国へたどり着けません①

  • 棄てられた銅鐸神②

    さて棄てられた銅鐸神はどの神様なのでしょう。まずは出雲国風土記において「御財を積んでおいた所」と記されている場所から銅鐸が出土した、大国主が考えられます。鉄鐸を作ったとして先代旧事本紀や古語拾遺に名を残しているのが天目一箇命です。この神と同一視されている天御影命の祀られる御上神社のほど近く、野洲市の大岩山からは24個もの銅鐸が出土し、日本最大の銅鐸も含まれています。天御影も銅鐸神でしょうか。また雷神であり稲作の神であるアジスキタカヒコネも銅鐸神だと思われます。雷神=鳴神であることと、銅鐸の農耕絵画から「スキ=鋤」の名を持つアジスキタカヒコネは銅鐸神と解釈されています。イザナギを「サナキ」の神(鉄鐸)と仮定して、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴神をそれぞれ鏡、勾玉、剣の神と仮定するならば、棄てられた銅鐸神は「...棄てられた銅鐸神②

  • 棄てられた銅鐸神①

    銅鐸がどのように使われてきたのか記紀には何も記されていません。使用方法のみならず銅鐸そのものの存在が記されていません。加茂岩倉遺跡出土の銅鐸のうちには、たった2ミリの厚さのものが含まれているそうです。これは現代の技術をもってしても再現できない、ロストテクノロジーだといいます。銅鐸を当時国産していたのは確かなことなので、作っていた工人の青銅器職人としての腕前は相当なものだったと考えられます。鏡についても仿製鏡=質が悪いとは一概には言えなかったと思います。銅鐸は広い地域で一斉に姿を消します。「鰭」を上下にして銅鐸を横たえ、多数を一度に埋納する際には「入れ子」にして…と各地で同じやり方で埋納されています。何故埋められたかについては諸説ありますが、流行りが終わり廃れて消えていく感じではありません。意識的にキッパリと手放...棄てられた銅鐸神①

  • 銅鐸と銅鏡

    銅鐸と銅鏡、見た目にどちらが凄いと思うかと問われれば、悩むまでもなく銅鐸と思うのは私だけでしょうか。故に銅鐸から銅鏡に信仰の対象が変わったなどと、さらりと言われれば違和感を覚えてしまいます。淡路島の松帆銅鐸の発掘により、初期銅鐸は紐で吊りさげて鳴らしていたことが判明しました。銅鐸はキラキラ輝く上に鳴り響きます。「見る銅鐸」の大きさは鏡とは比べものになりません。そんな銅鐸の金属光沢、音響効果、形状・大きさを知るものにとって銅鏡はどれほど魅力的に映ったか疑問に思うのです。銅鐸同様姿を消した銅矛にしても、吉野ケ里遺跡周辺や荒神谷遺跡などから出る綾杉文状に模様をつけた銅矛は、太陽に直接光を当てたとき異常な反射をするといいます。日本列島でしか出土しない三角縁神獣鏡は、3Dプリンターを使い精巧なレプリカを作成したところ、反...銅鐸と銅鏡

  • 褐鉄鉱製鉄②

    長浜浩明氏によると、豊葦原とは貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原であり、豊葦原から生まれるスズより鉄を得、その鉄で農具を作り開墾して瑞穂の国を作るこれが「豊葦原の瑞穂の国」だといいます。原始と変わらないような縄文時代を学校で教わった世代ですが、褐鉄鉱による鉄器を使い、陸稲のみならず水稲栽培でさえも行っていたのが本当の縄文時代であったなら…と想像するとワクワクしてきます。愛知県指定天然記念物の褐鉄鉱を高師小僧(たかしこぞう)といいます。豊橋市の高師が原で多く採れるのでそう名付けられたそうです。この「高師」は越の訛りではないでしょうか。古代の信越間は関わりが深かったと考えています。古代信越では褐鉄鉱製鉄が盛んに行われていたのではないかと思います。ところで出雲国造神賀詞に登場する「賀夜奈流美(加夜奈留美)」(カヤナルミ)。...褐鉄鉱製鉄②

  • 褐鉄鉱製鉄①

    真弓常忠氏の著作「古代の鉄と神々」によると、褐鉄鉱を原料とした製鉄が弥生時代に始まったといいます。みすずかるは信濃にかかる枕詞です。「みすず」とは鉄の原料であるすずの美称であり、すずとは湿地帯に生える葦や茅などの根に付着した褐鉄鉱のことです。根に付着した褐鉄鉱が成長し、中が空洞になると同時に中に小さな塊が残り振ると音がするようになる、これが「すず」であり、このすずがたくさん根に付着した様子が「すずなり」の語源だそうです。諏訪湖は鉄分含有率が高く、諏訪湖畔では褐鉄鉱がたくさん産出されるようです。すずがたくさん採れる地であるから信濃の枕詞が「みすずかる」になったといいます。この葦の根などに付着した褐鉄鉱、かならず鈴の形状になるわけではありません。形状が筒状のものであれば鉄鐸とそっくりです。諏訪大社のシンボルの鉄鐸は...褐鉄鉱製鉄①

  • 小豆島は塩土島②

    小豆島には応神伝説が残されています。応神紀・二十二年四月条に、応神天皇は淡路島から吉備そして小豆島を周遊したことが記されています。現在も小豆島には応神天皇に因んだ八幡宮が5社あります。その一つ、富岡八幡神社は応神天皇が登った「塩土山」と呼ばれた小高い丘の上に建てられています。応神天皇が来島の際「嶋景色あそぶ魚鳥いつらへの海にかげある塩土の山」という歌を詠まれたという伝承が残っているそうです。小豆島がショウドシマと呼ばれるようになったのは、鎌倉中期以降だとされますが、住吉神の子とされる応神天皇の巡幸地に「塩土山」があることは興味深いことです。住吉神は塩土老翁(しおつちのおじ)と同一視されています。日本書紀において山幸彦に海神の宮へ行く道を教え、神武天皇には東に美しい地があることを教えた神が塩土老翁です。同様に神武...小豆島は塩土島②

  • 小豆島は塩土島①

    瀬戸内海に浮かぶ小豆島は古代には「あずきしま」と呼ばれたといいます。「あずき」といえば、出雲lの「阿須伎(あずき)神社」にアジスキタカヒコネは祀られています。出雲国風土記には三十九社もの阿須伎神社が記されています。アジスキが訛りアズキになるのであれば、妄想は膨らみます。小豆島はアジスキタカヒコネと関係しているのではないでしょうか。しかし現在の小豆島にはアジスキタカヒコネとの関連は見当たりません。小豆島の阿豆枳(あずき)神社は、島の祖神・大野手姫を祀っています。古事記の国産みの段で、伊邪那岐命と伊邪那美命により「小豆島」(あずきしま)、亦の名を「大野手比売」(おおのてひめ)が生まれたと記述されています。大野手姫とは「大鐸姫」(おおぬてひめ)でしょう。島の中には大鐸という地域もあります。小豆島は大きな鐸を司る姫神が...小豆島は塩土島①

  • 鞆と勾玉と応神天皇

    応神天皇は古事記では大鞆和気命(おおともわけのみこと)、またの名を品陀和気命(ほんだわけのみこと)、日本書記においては誉田別尊(ほむたわけのみこと)と記されています。生れたときに、腕に鞆のような筋肉が備わっていたのでそう名付けられたとあります。鞆とは弓射の際に左手首内側につける皮製の武具であり、この誕生譚は胎内に居ながらにして国の統治者となるような神聖な生まれであることを表していると解されています。応神天皇を祀る八幡神社の神紋は巴紋です。巴の起こりは鞆を図案化したもので、元々は鞆絵であるという説があります。巴紋は応神を祀る八幡神社にふさわしい神紋でしょう。また巴の形は勾玉にも似ています。勾玉を図案化したものが巴であるとの説もあります。この応神天皇が鞆のような筋肉を持って生まれたという誕生譚は、応神天皇が勾玉と繋...鞆と勾玉と応神天皇

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