兵庫県加古川市在住の歴史愛好家がボランティアで歴史ガイドを行っております。過去のガイド書を公開しております。 ロマンと風情溢れる加古川の歴史を“風化”させない、そのための一助としたいため、たくさんの方々に楽しんで頂ければ幸いです。
糟谷氏の家紋:三盛り左三つ巴 糟谷武則は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名で12代目加古川城主。生誕や死没年月は不明。糟谷氏は、播磨加古川城を拠点に、鎌倉時代から続く武家で、武則は、三木
風化して久しい“海城”高砂之城。 謎に満ちた歴史秘話を追ってみる。
高砂城を攻略した秀吉軍に完勝した毛利水軍であったが、不可解にも進軍もせず、また高砂に留まることもなく帰国の途に就いた…。
本町2丁目の表通り…高砂コンピューターさん前の東角に郵便ポストがあるが、その足元に、よほど注意して見ないと気付かない“郵政”と彫られた境界石が、遠慮がちにひっそりとたたずんでいる。
1. 日本初の鉄道開設(開業) 日本の鉄道は明治5年9月12日(1872年10月14日)に、新橋駅-横浜駅間で正式開業した。ただし、実際にはその数か月前から品川駅-横浜駅間で仮営業が行われていた。鉄道
加古川町栗津 栗津神社 当神社の『権禰宜(ごんねぎ)』を務める田中氏の言葉を思い浮かべながら、ペダルは、粟津神社へと向かう。ススキの穂先に季節感を感じるにはまだ早いが、今夜は中秋の名月…。見上げる
近年の子供たちの遊びには、三つの「間」が失われているという。即ち「時間」「空間」「仲間」である…。 愛する我が郷土・本町二丁目の近世を訪ねて激動の明治、大正、昭和を懸命に生き抜いた先人の確かな足どり、
五百年余りに亘り春秋を織り成した宿駅 弘安2年(1322)3月12日、隠岐の島に流される後醍醐天皇が『賀古川宿』に泊まる。(常住寺または播磨守護所と思われる。)
西国ロマンチック街道 賀古川宿現存する古き良き時代の面影を楽しみながら、ゆったりと散策してみませんか? 1,700年台の前半(寛永期)に、最も華やいだ宿場町があった。寺家村、加古川村(寺家町・本町)
本町二丁目 長老たちの少年時代(開戦当時前後)去る8月の或る日、「ひだまり会館」で当町の長老三名の方(男性)にいろいろお話を伺う機会を得た。その概要は以下の通り。 『当時は、西谷さんの西隣が空き地で
三木城攻略の緒戦において大敗した秀吉軍は支城から順次攻め落とし、三木城を無援の孤城とすることに戦略を変更した…。 天正六年二月の毛利攻めの軍議(加古川評定)で、別所側が秀吉に反旗を翻したことが発端と
中ニモ原小五郎ハ名誉ノ射手ニテ羽柴の瓢箪馬印ニ當ル矢ヲ秀吉取ラセ見給フニ原小五郎と姓名ヲ書付たる矢多数アリ寄手ノ人々其弓勢ヲ誉メニケリ…。(播磨鑑)御国野(みくにの)町御着春まだ浅き二月ではあったが
『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』志方の地名については、神功皇后が三韓征伐に行かれた時にこの地に上陸され、今の宮山に登られ、たくさんの野鹿が遊び戯れているのをご覧になり、『あなおもしろ、鹿田と名付けま
千二百年にわたり教信上人の威徳を語り伝え今なお衆人とともに歩み続ける・・
~加古川・光念寺と青蘿~
彼我の差は悲劇的ではあったが、神吉勢は勇猛果敢に戦い、天命としてその結末を受け入れた天正五年(1577)秀吉は、加古川・加須屋の館(加古川城)にて毛利討伐の為、播磨諸城主を集め軍議を開いたが、決裂し、
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