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2020/05/15

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  • 2024/02/20

    「ボクボド」情報。日本語版「アクワイア」が発売されるらしい。https://boku-boardgame.net/acquire2024/02/20

  • アウエルシュタット 9

    クラウゼヴィッツ参謀大尉の指摘によると、このときプロイセン軍は即時に攻撃を開始するべきだった。「私は対抗する両軍の兵力を比較した時、敵をすばやく攻撃するのが得策であると考えました。もともと補給線が長すぎるゆえに退却が困難というのが敵軍の弱点でしたから、これを運命のたまものと考えねばなりませんでした。したがってザーレ川下流地域に対し、各種各様の威嚇戦を展開しつつ、兵力を集中し、できるだけ迅速果敢な攻撃を敵の左翼に対して行うことが肝要でした。」しかし、プロイセン軍司令部はそれとはまったく異なる判断をくだしたのである。「プロイセン国王は、私の判断とはまったく別の方途を来るべき決戦でとられることになりました。すなわちブラウンシュヴァイク公軍は1806年10月13日ヴァイマールを出発しました。それはホーエンローエ侯...アウエルシュタット9

  • アウエルシュタット 8

    プロイセン軍はフランス軍の攻撃をおそれて散開した。「全軍の長さはちょうど軍の1日分の行軍距離に達しました。個々の軍団の内訳をみますと、ホーエンローエ侯軍が約40000、ブラウンシュヴァイク公軍が約50000、そしてリュッヘル将軍の部隊が約30000で、それぞれ梯団をつくりました。」「1806年10月12日、全軍は停止しました。その時、フランス軍がナウムブルクを占拠したとの報が伝えられました。いよいよ、今回の戦闘の歴史の中で、事態が統合され、この時点で新作戦計画が必要になるような戦略的状況が生じました。」アウエルシュタット8

  • アウエルシュタット 7

    この不幸な合戦の報に接し、国王はブランケンハインの位置に軍隊を集結させることは、もはや危険であると考えられました。なぜなら、全軍が到達するまでに、敵に攻撃されることを恐れねばならなかったからです。そこでブラウンシュヴァイク公軍を、1806年10月11日、かつての宿営地であるヴァイマールに転進させることが決まりました。バイロイト地方から進撃してきた部隊を率いるタウエンツィーン将軍を自軍に合体させたホーエンローエ侯軍は、この日にはヴァイマールとイエナの中間にあるカペレンドルフにいました。またリュッヘル将軍はヴァイマールとエルフルトの中間に位置しました。アウエルシュタット7

  • アウエルシュタット 7

    「これらすべてのことからして、事情をよく知らない者は、プロイセン側の敵情についての発表以外に、何らはっきりした状況を把握することはできませんでした。そして、フランス軍がその宿営地を出発し、マイン川に沿って集結した時点になって、やっと事情がわかったという有様でした」「この頃プロイセン国王並びにブラウンシュヴァイク公爵の司令部は、ヴァイマールを経て、ブランケンハインへ、すなわちヴァイマールからイエナへ向かう道路上に変更されました。それは軍団を一つの陣地に統合するためでした。1806年10月10日、戦闘が行われ、プロイセンのルートヴィッヒ親王の軍は敗退し、親王は戦死されました。この戦闘の原因と経過については、私は詳述できません。軍にとっても状況が依然として明らかでなかったからです」アウエルシュタット7

  • アウエルシュタット 5

    「ところがヴェストファーレンの軍隊を率いるリュッヘル将軍がブラウンシュヴァイク公の率いる主力に完全に合体する以前に、フランス皇帝ナポレオンの全軍は、ホーフを越え、山岳地帯の主要部分を右側から迂回し、ザールフェルト及びルードルシュタット地域に突入しました」「ブラウンシュヴァイク公の軍隊は、進撃方向を変え、ゴータの高地の左側から左方向に転じ、ザーレ川に向かって進撃しました。(戦略的に)ザーレ川をひかえて、右翼が山岳地帯になるように布陣しました。リュッヘル将軍もまたそれにならいました」「これらすべてのことからして、事情をよく知らない者は、プロイセン側の敵情についての発表以外に、何らはっきりした状況を把握することはできませんでした。そして、フランス軍がその宿営地を出発し、マイン川に沿って集結した時点になって、やっ...アウエルシュタット5

  • アウエルシュタット 4

    プロイセン軍とザクセン軍をあわせた兵力は135000。連合軍は当初、ナポレオンに支配されたライン諸邦の解放をめざした。以下、クラウゼヴィッツ参謀大尉の書簡より抜粋。「ともあれ、プロイセン軍の主力は10月初め、ナウムブルクからエルフルトを経てアイゼナハに向かい、他の軍団もそれに続くことになっていました。ところがこうした経路はチューリンゲンの森の巨大な部分を右側から迂回することであり、それは攻撃作戦をとる以外の何物をも意味しないことになります。おそらく、この際同時にヘッセンとフルダを再び結びつけ、これらの諸邦を開放し、その軍隊をわれらの連合軍に組み入れようとしたのでしょう」アウエルシュタット4

  • アウエルシュタット 3

    プロイセン軍からみたアウエルシュタットについて。以下、この戦闘でフランス軍の捕虜となったクラウゼヴィッツ参謀大尉が1806年12月19日、友人にあてた書簡より抜粋。「(1806年10月)、プロセイン国王はその頃全軍を編成する3軍団の司令官をされました。私の知る限りでは、兵力は50000人です。それとともにザクセン軍はホーエンローエ侯爵の下、ドレスデンを出発し、ザーレ川平地に進出しました。ブラウンシュヴァイク公爵の率いる軍団の兵力は60000人、ナウムブルクの近くに駐留し、リュッヘル将軍麾下の30000人は、ヴェストファーレンから進撃しました。防衛陣地のことは問題になりませんでした。たとえばイギリスの新聞によれば、局地的防衛がなされる陣地などはまったくつくられなかったようです」アウエルシュタット3

  • アウエルシュタット 2

    何度かソロプレイをしてみた。戦力で不利だが指揮官の能力にすぐれるフランスと、戦力で優位だが指揮官の能力におとるプロイセンという、絶妙のゲームバランス。「反撃」カードを相手が持っていた場合(ほぼ持っていないことは無い)、攻撃を仕掛けた側は1回のサイコロ振りで負けてしまう可能性がある。2人プレイでは双方が予備エリアに戦力を配分するだけで戦闘は発生しない。それはそれでよいのだが、もしもアウエルシュタットを再現するのならば、一部のルールを改変しなければならないだろう。アウエルシュタット2

  • アウエルシュタット 1

    ちょっと珍しいアイテムを入手した。隔月刊ゲームジャーナル42号付録、「Battlefield-Auerstadt1806-」。デザイナーは井村正佳氏。アウエルシュタットにおける指揮系統の混乱と、情報の不確実性をカードゲームで再現しようとするもの。ただしカードは切り離せないので自作が必要である。アウエルシュタット1

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