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  • 残りわずか

    いよいよ今年もあと5時間となりました。あっという間の1年でしたが無事に過ごすことができたことに心から感謝です。みなさまもどうか良いお年をお迎え下さいますように。残りわずか

  • クラシックの名曲

    孫と遊んでいます。お料理上手なお嫁ちゃんに任せて71歳差の遊び友達(笑)✨✨✨✨✨ヨハン・パッヘルベル。(1653-1706)パッヘルベルはドイツのニュルンベルクに生まれました。幼い頃から音楽と学問の分野で着々と力をつけていきます。大学の教授たちはパッヘルベルの学問の才能に感動していました。パッヘルベルにチャンスが訪れたのは1673年。青年時代にウィーンのシュテファン大聖堂の副オルガニストに応募して採用されました。パッヘルベルはプロテスタントの街ニュルンベルクでキャリアをスタートさせました。その後南ドイツやイタリアなどでカトリックの宗教曲に触れる機会があり厳格なルター派とは対照的なカトリックの音楽を学びましたが更にカトリックの大都市ウィーンで修行を重ねることになったのです。又、パッヘルベルはバッハ一族の音...クラシックの名曲

  • 次男は大活躍

    夜になり息子達が帰省しました。孫の声で家が賑やかです。✨✨✨✨✨カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)大バッハの次男として生まれたカール。翌々日には洗礼を受けますがゴッド・ファーザーはテレマンでした。テレマンは当時、ドイツで最も有名な音楽家でした。エマヌエルのミドルネームはゲオルグ・フィリップ・テレマンの名前から名付けられました。はじめての音楽教育は大バッハで長男と同じように英才教育でした。その後、長男と同じくライプツィヒ大学法学部に進学しますがその後、フランクフルト・アン・デア・オーデルの大学に転学します。学生として学びながら鍵盤楽器を教えていました。その評判はプロイセンの王子フリードリヒに届きフルートが得意の王子のチェンバロ伴奏者となりました。王子はプロイセン国王に即位しエマヌエ...次男は大活躍

  • 2023/12/28

    夜になり息子達が帰省しました。孫の声で家が賑やかです。✨✨✨✨✨カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)大バッハの次男として生まれたカール。翌々日には洗礼を受けますがゴッド・ファーザーはテレマンでした。テレマンは当時、ドイツで最も有名な音楽家でした。エマヌエルのミドルネームはゲオルグ・フィリップ・テレマンの名前から名付けられました。はじめての音楽教育は大バッハで長男と同じように英才教育でした。その後、長男と同じくライプツィヒ大学法学部に進学しますがその後、フランクフルト・アン・デア・オーデルの大学に転学します。学生として学びながら鍵盤楽器を教えていました。その評判はプロイセンの王子フリードリヒに届きフルートが得意の王子の伴奏者になりました。王子はプロイセン国王に即位しエマヌエルは正式に...2023/12/28

  • 過保護の果て。

    夜には息子達が帰省します。日頃、私物を部屋中に広げていますので片付けに追われています。間に合うかな。💦💦🥀🥀🥀🥀🥀ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-1784)大バッハの長男として生まれ20人の子供のうちで最も溺愛されます。はじめての音楽教育は父がおこないましたが教科書として≪ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための小曲集≫で楽典の基礎を学んだあとに≪インベンションとシンフォニア≫で鍵盤の技術を学び≪平均律クラヴィーア曲集≫でフ―ガを習います。大バッハによる完璧な英才教育を受けます。10歳になると作曲のレッスンも始まりました。当時のドイツは大変な学歴社会でそのことを思い知っていたバッ...過保護の果て。

  • ショパン・コンク―ル入賞

    ディミトリ―・ショスタコーヴィチ(1906―1975)鉱山技師で音楽愛好家の父とアマチュア・ピアニストの母の間にペテルブルクで生まれました。1919年、13歳でペトログラード音楽院に入学。作曲の勉強を始めました。音楽院時代にはグラズノフから目をかけられ18歳の卒業時には「交響曲1番」を発表。早くも国際的な注目を浴びました。1927年第1回ショパン・コンク―ルに出場するためにワルシャワ入りしましたが盲腸炎を患い手術する時間かないまま投薬で痛みを堪えてコンク―ルに臨みましたが結果はレフ・オボ―リンが1位となりショスタコ―ヴィッチは上位入賞に留まります。当時のソヴィエトはスターリンの独裁時代。言論、思想はもちろん芸術活動に対しても吊るし上げられシベリア送りや処刑などの厳しい懲罰が待っていました。窮地に立たされて...ショパン・コンク―ル入賞

  • タミフル

    玄関がクリスマス・モ―ドになりました。✨✨✨✨✨パウル・ザッハ―(1906―1999)スイスの指揮者で作曲家1906年にバ―ゼルに生まれましたが普通の子供でした。学生の頃はお金がなく小さな子供達にヴァイオリンを教えてなんとか学費を賄っていました。1926年にバ―ゼル室内楽団を設立しましたが彼は世界的な製薬会社エフ・ホフマン・ラ・ロシュの相続人マヤと結婚します。これにより巨万の富を得ることになりました。パウル・ザッハ―↓巨額の資金を手にしたザッハ―はバ―ゼル室内楽団のために著名な作曲家達に次々と新作を依頼するようになります。リヒャルト・シュトラウスストラヴィンスキ―オネゲル、ヒンデミット、ブリテン、バルト―クなど20世紀を代表する作曲家が作品を書いています。武満徹も依頼を受けて書きました。ロシュ社は現在でも...タミフル

  • メリ―クリスマス❗

    「Silentnight」✨✨✨✨✨孫のところにはサンタさんがやってきたようで寝起きの顔でプレゼントを開ける嬉しそうな動画が届きました。私のところにも素敵なプレゼントを届けて頂きました。深紅のゴ―ジャスなアレンジメントに気分はクリスマス全開です。そして更に……。息子達が帰省しますので楽しみに頂きます。普段は家中に私物を広げて自由に生活していますので息子達が生活できるように片付けを頑張ります。(笑)「アデステ・フィデレス」(7‘17")ヴァチカンのミサは今朝、配信されましたが長いので昨年の入祭です。メリ―クリスマス❗

  • 仲違いしても…

    今夜はクリスマス・イブ孫はサンタさんを待ちかねています。(*^^*)🥀🥀🥀🥀🥀1842年に作曲された「英雄ポロネ―ズ」はショパンの作品の中でも人気を誇る名曲です。「英雄」というタイトルはショパンがつけたものではないのですが人知れず「英雄」の名で知れわたるようになりました。この曲は友人であるアウグステ・レオに献呈されます。ムッシュ―・アウグステ・レオに捧げると書かれた自筆譜↓アウグステ・レオはメンデルスゾーン家が経営するメンデルスゾーン銀行パリ支店の代表を務めたあと自身の銀行をパリで開きました。音楽好きのレオのサロンには沢山の音楽家達が集まりました。ショパンとレオはショパンがパリに到着した翌年から晩年までずっと続きましたがレオは...仲違いしても…

  • 年末恒例

    ハレルヤコ―ラスで知られるオラトリオ「メサイア」は年末になると多くの合唱団がとりあげるヘンデル作曲の人気曲。彼はオペラのために王室音楽アカデミーを立上げてヨ―ロッパ中を飛び回っていましたがロンドンに出現した乞食オペラという滑稽な内容のものに人気をさらわれ莫大な負債を抱えて倒産します。更に脳卒中で倒れ右半身麻痺となります。54歳の彼がこの悲嘆の中で書き上げた作品が「メサイア」でした。メサイアの成功を機にお金のかかりすぎるオペラから簡素な舞台装置で上演できるオラトリオに切り替え舞台の合間には得意のオルガンを左手で演奏してロンドンっ子を魅了します。74歳の時コベント・ガ―デン王立歌劇場で指揮した直後ステージで倒れて8日後に安らかに旅立ちました。✨✨✨✨✨メサイアはその後、モ―ツァルトがウィーンで演奏しましたがこ...年末恒例

  • 「蜜蜂と遠雷」に憧れて

    今朝は0度。今年一番の冷えこみで昨日は寒暖差アレルギーでグズグズでした。✨✨✨✨✨夏のある日レッスンに来た中1のお嬢さん。普段は無口ですが突然に「コンク―ルを受けたい」と偶然にもすぐに予選会が見つかり受けたところ本選、全国大会へと進む事になりました。彼女は本が大好きで小学生の時に「蜜蜂と遠雷」を読んでいてコンク―ルに憧れを持っていたようです。学校も部活もレッスンも普段通りのチャレンジでした。落ち着いた演奏でスタインウェイのフルコンサ―トを楽しんだようですが入賞はできませんでした。又、チャレンジしたいと意欲満々ですが中1・中2の部曲のレベルが高くプロコフィエフ・ソナタやラヴェル「水の戯れ」など難曲がズラリ……✨✨✨✨✨遅目のランチはカウンタ―での一人ランチ。今日はコンク―ルの本選会。朝が早いので名神高速に乗...「蜜蜂と遠雷」に憧れて

  • 客席まばら…

    「ピ―タ―と狼」や「3つのオレンジの恋」など多数の作品を書いたセルゲイ・プロコフィエフ(1891−1953)著名なピアニスト、作曲家として活躍しました。1917年ロシア革命の嵐の中シベリア横断鉄道に乗りウラジオストックに到着。汽船に乗り換え5月31日に敦賀港に上陸し6月1日には東京に着いて南米行きの船を探しますがすでに出港したあとなので8月まで日本に滞在することにしました。その間に東京、京都、奈良軽井沢、箱根などを訪れます。音楽評論社の大田黒元雄氏らが彼を訪ねて急遽、帝劇でリサイタル開催となりましたが大正7年の日本ではプロコフィエフの名前を知る人はなく客席に人はまばらだったようです。8月2日横浜港からアメリカに向けて出発しました。ニューヨーク、シカゴ、ロンドン、パリと18年にわたる亡命生活で世界を駆け巡り...客席まばら…

  • うっかり…

    「カルメン」はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼ―が書いたオペラです。兵士ホセがジプシ―のカルメンに恋し結ばれたものの気まぐれな彼女に捨てられ嫉妬に狂ったホセがカルメンを殺す物語。初演後カルメンの歌う「ハバネラ」がビゼ―のオリジナルではないと訴えを起こされたのです。ビゼ―は無断借用の意識はなかったのですがかつてお付き合いした「元カノ」が歌っていた歌とリズムがいつまでも彼の脳裏に残っていたようです。ビゼ―が27歳の時14歳年上の女優兼歌手と逢瀬を重ねていましたが彼女の持ち歌が「アイ・チキ―タ」でした。作者不詳の中南米民謡と思い込んでいたビゼ―は「ハバネラ」として使用したのです。初演直後に気付いたビゼ―は楽譜に借用であることを明記していましたのでお咎め無しにはなりましたがビゼ―自身は事の顛末を見届けることはあり...うっかり…

  • 葉付きのミカン

    きれいな葉付きのミカンを頂きました。✨✨✨✨✨リムスキー・コルサコフ(1844−1908)ペテルブルクの南東ノヴゴロドの貴族の家系に生まれました。幼い頃からピアノを習いましたが12歳の時に海軍兵学校に入学。1862年の秋には士官候補生として世界一周の遠洋航海に出発します。後年、彼はオペラ「サトコ」や交響詩「シェへラザ―ド」などに航海で体験した海の描写などを反映させました。1865年、コンサートで歌手のナデ―ジタ・プルクゴルドと知り合います。彼女はペテルブルク中の画家が競ってモデルにしたがるほどの美人で音楽の才能にも恵まれていました。1871年、27歳の彼はペテルブルク音楽院の作曲家の教授に招聘されましたが教授就任の折に相思相愛のナデ―ジタと結婚し古今の音楽家の中でも屈指の愛情ゆたかな家庭生活を送りました。...葉付きのミカン

  • 一気に冬へ。

    昨日は寒い朝。肌を刺すような冷たい強風で震え上がりました。✨✨✨✨✨✨美味しいクッキーでティータイム。休日の夜は「クラシック音楽館」ドイツ音楽です。べ―ト―ヴェンピアノ協奏曲「皇帝」ピアノはレイフ・オヴェ・アンスネス指揮尾高忠明心が浮き立つような明るさで始まりました。ピアニストの端正で美しいいぶし銀のような演奏を聴かせてもらいました。アンコ―ルはブラ―ムス「間奏曲」Op.116−6後半はブラ―ムス交響曲第3番第1番・第2番・第4番に比べてあまり演奏されることがない曲です。どちらかといえば交響曲というよりも室内楽的で3楽章は悲哀に満ちた美しいメロディが印象的です4楽章の最後は静かに終わるので演奏は難しいのです。しかしフランソワーズ・サガンの小説「ブラ―ムスはお好き」を映画化した「さよならをもう一度」で世界的...一気に冬へ。

  • 最古のオペラ

    昨日は雨が降ったり止んだり。風も強くて椋の木は「最後の一葉」状態です。✨✨✨✨✨モンテヴェルディ(1567−1643)は世界で最初のオペラ「オルフェオ」を書きましたモンテヴェルディが仕えたのはヴィンチェンツォ1世でイタリアのマントヴァの巨大なドゥカ―レ宮殿に住んでいました。↓ヴィンチェンツォ公はケチで荒っぽいのですが芸術が好きで自身で詩を作り作曲もしたようです。モンテヴェルディ画家のル―ベンスも雇っていました。ル―ヴェンス作「ヴィンチェンツィオ1世」↓オペラ「オルフェオ」はギリシャ神話に登場する吟遊詩人ですが彼の冥府下りの物語です。ドゥカ―レ宮殿の初演は大好評でヴィンチェンツィオ公も大満足で即座に再演。イタリア各地に噂が広がり上演依頼が相次ぎました。このオペラはモンテヴェルディの死後忘れ去られていましたが...最古のオペラ

  • 文豪と美少年

    1809年、ドイツハンブルクのユダヤ人家庭に生まれたメンデルスゾーンは間もなくベルリンに移ります。父アブラハムと妻のレ―アは熱心に子供達を教育しましたが基礎教育は父親が文学や音楽など芸術は母親が教えました。10歳になるころギリシャ語やラテン語などを教える教師として当時、最高の言語学者がやってきました。又、ピアノは一流の演奏家が教え絵画の訓練も始まりました。↓そんな10代の頃にドイツの文豪ゲーテを訪れます。巻毛で美少年のメンデルスゾーンはバッハやモ―ツァルトの作品に加えて自作のピアノ曲を披露しましたが72歳のゲーテは感動で言葉が出なかったようです。それ以降メンデルスゾーンはゲーテのもとに足しげく通います。ゲーテはべ―ト―ヴェンの音楽に無関心でしたがメンデルスゾーンは60歳以上年上のゲーテに物怖じすることなく...文豪と美少年

  • 保守的な天才

    1835年、パリに生まれたサン・サ―ンス。生後すぐに父を失いピアニストの大叔母に育てられ2歳半からピアノの手ほどきを受け才能を発揮します。3歳になると作曲も始めました。10歳の時にデビュー・リサイタル。パリの聖マドレーヌ教会のオルガニストになり名声を轟かせました。彼が作曲した「交響曲第3番」オルガン付きはパイプオルガンだけではなくピアノ奏者2人を必要とする大がかりな曲でオルガンが壮麗に鳴り響く素晴らしさに聴衆は圧倒されました。オルガンを用いてこれほどの迫力で効果をあげたのはサン・サンサ―スが最初でした。オルガンの名手だった彼らしい着想です。この交響曲は初演直後に世を去ったリストに献呈しています。サン・サンサ―ンスは保守的で後世に名を残すドビュッシーやストラヴィンスキ―を宿敵とみなすくらい近代的な音楽を嫌悪...保守的な天才

  • 師に恵まれ

    ハンガリーの小さな村で生まれたリスト。父親はハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家の土地管理人と宮廷楽団のチェロ奏者でした。リストが7歳になるとピアノや作曲を教えましたが9歳の時にはコンサートピアニストとしてデビューしましたが貴族達からの奨学金を得て両親とともにウィーンに留学。ピアノの師はカール・チェルニー。リストは毎日14時間ピアノの練習をしました。作曲の師はサリエリ。ハプスブルク家の宮廷楽長としてウィーン楽壇のトップに君臨していたサリエリ経済的に全く心配がなくリストに無料でレッスンした上にウィーンの街に住居を提供して毎日、レッスンに来れるように計らった懐の深い先生だったようです。映画「アマデウス」の怖いイメージとは真逆でリストにとって大恩人でした。✨✨✨✨✨映画「アマデウス」よりサリエリとモーツァルト...師に恵まれ

  • 北欧のセンス

    グリーグは1843年にノルウェーのベルゲンで生まれました。家は海産物商で父親はイギリス領事も兼ねていました。母親は地元で知られたプロのピアニストでした。15歳でドイツのライプツィヒ音楽院に留学します。そこで出会ったピアノの師はシューマンの親友のヴェンツェルでした。この師を通してグリーグはシューマンに傾倒していきます。シューマンのピアノ協奏曲を聴いたのはこの街で独奏は作曲者の妻のクララ・シューマンでした。このシューマンの協奏曲との出会いはグリーグのピアノ協奏曲に大きな意味を持たらしました。2つの協奏曲は共通点が沢山あるのです。いずれもイ短調で冒頭はピアノの下降音型で始まります。すぐにオーボエがメロディを吹くところや2楽章から終楽章まで立て続けに演奏するのも同じです。グリーグがピアノ協奏曲を書いたのは1868...北欧のセンス

  • 高校時代の作品

    1810年、ロシア帝国の支配下にあるポーランドのワルシャワから46キロに位置するジェラゾヴァ・ヴォラで生まれたショパン。父親はフランス語、ドイツ語、ポーランド語を話し文学に造詣が深くヴァイオリンを弾きました。母親はポーランド貴族の末裔でした。幼い頃、ショパンは父親と家庭教師に勉強を教えて貰いました。高等学校から学校に通い始めますがこの父親の教育方針は時間に余裕があったので思う存分ビアノの練習をし作曲の勉強もできたようです。ワルシャワの高等音楽学校在学中のショパンはピアノと管弦楽のための作品を書きます。モーツァルトのオペラ≪ドン・ジョバンニ≫からの二重唱「お手をどうぞ」と歌うとても可愛い曲からテーマをとった変奏曲です。当時ライプツィヒにいたシューマンはこの楽譜を取り寄せて「諸君、天才だ、帽子を脱ぎたまえ」と...高校時代の作品

  • 小春日和

    気持ちの良いお天気が続く12月ですね。今夜はクラシック音楽館。ニルセン(1865ー1931)「アラジン組曲」から抜粋①祝祭行進曲②ヒンドゥーの踊り③イスファハンの市場④黒人の踊りカルル・ニルセンは現代デンマークが生んだ最初の音楽家です。彼ははじめは羊飼いでしたが軍楽隊のトランペット奏者になりなり交響曲の作曲を手掛けました。その後はニルセンと同年生まれのシベリウスの作品。「交響曲第2番」✨✨✨✨✨✨後半は最も心に残ったコンサートよりパスカル・ロジェのピアノサン・サーンス「ピアノ協奏曲第5番」ブロムシュテットマーラー「交響曲第9番」第4楽章やっぱり凄かった!椅子に座り指揮棒無しの小さな手の動きでドラマティックで深く静謐に満ちた音楽が紡ぎ出されました。小春日和

  • 演奏会終了

    昨日の演奏会は沢山のお客さまにお越し頂き無事に終了致しました。ジョスカン・デュ・プレパレストリーナバッハハルモス髙田三郎などルネサンス期から現代までのブログラムでしたが沢山のアンケートには嬉しいコメント、そして「ガザ人道支援」の多くの献金を頂きました。難しいバッハのカンタータ2曲はソプラノのM先生と沢山のやり取りの中で新たな世界が次々と見えてきた本当に楽しい時間。帰宅後は久しぶりにワインを空けて演奏会の余韻を味わうことができました。演奏会終了

  • 演奏会

    今日はクリスマス・コンサ―ト。良い演奏会になりますように。演奏会

  • 多額の借金

    ツヤツヤに光るミカンが店頭にありました。冬本番ですね。✨✨✨✨✨フランスを代表する音楽出版社デュラン。ドビュッシ―とジャック・デュランはパリ音楽院の作曲科で学んだ同級生です。のちにふたりの女性の自殺未遂事件を起こしたドビュッシー。友人達が離れていきましたがデュランだけは彼を見捨てませんでした。ドビュッシ―は感受性が強く異常なほど神経質だったようです。美しいものセンスの良いものが好きで煙草を立て続けに吸いキャビアが大好物でどんなに貧乏になっても花を飾り上等な版画や書物に囲まれていたようですいつも金銭面の問題を抱えているのでデュランは作曲料の前金や印税の前払いという形で会社から気前よくお金を貸し続けました。ドビュッシーの借金は他にも多数あり一億近くになっていたようです。ジャック・デュランに献呈された交響詩≪海...多額の借金

  • 親子ほどの年齢差

    長年、べ―ト―ヴェンの楽譜で親しんでいたルドルフ大公の名。威厳のある王さまかと勝手な想像を巡らせていましたが、、。✨✨✨✨✨ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアの孫でマリ―・アントワネットの甥のルドルフ大公。20代後半で聖職に就いて大司教、枢機卿の重責を担いました。べ―ト―ヴェンよりも17歳も若かったのですがべ―ト―ヴェンのパトロンであり作曲やピアノも習っていました。ピアノ協奏曲第5番≪皇帝≫はルドルフ大公に献呈されました。ウィーンの私的な演奏会で初演を務めたのはルドルフ大公だったのです。ピアノソナタの≪告別≫はナポレオンのウィーン侵攻によりルドルフがウィーンから退避する時に書かれました。≪ミサ・ソルムニス≫は大公の大司教就任を祝うために書かれたものです。≪大公≫と名がついたピアノ3重奏曲もあり合計14曲...親子ほどの年齢差

  • 3度の結婚

    秋田から美味しい林檎を頂きました。✨✨✨✨✨セルゲイ・ク―セヴィッキー(1874―1951)ユダヤ人音楽家の一家に生まれたク―セヴィッキー。ボリショイ劇場のコントラバス奏者として活躍していました。1902年にボリショイ劇場で働くバレリ―ナと結婚しますが3年後には離婚。すぐに彫刻家の女性と再婚します。彼女はロシア帝国最大のお茶商で巨額の資産を手にしていました。この再婚によって多額の資産を手にしたク―セヴィッキーはベルリンに引っ越し指揮者アルトゥ―ル・ニキシュに指揮を学びます。同時に学生オ―ケストラを雇い自宅で指揮の勉強を続けました。1908年にベルリン・フィルハ―モニ―管弦楽団を雇って指揮者デビューを果たします。(゚∀゚)資金力を用いて指揮者・楽譜出版者新作の委嘱者としてモスクワやパリで大活躍。パリ音楽界の...3度の結婚

  • 200年経って大ヒット

    アントニオ・ヴィヴァルディ(1678―1741)1703年ヴェネツィアの孤児達が暮らす慈善院「ピエタ」で少女オ―ケストラを育て上げながら500曲もの協奏曲を作曲しました。ヴィヴァルディの名声が高まったのは協奏曲曲集≪調和の霊感≫が出版されたことによります。人気作曲家となってヨ―ロッパ各都市を巡りました。≪調和の霊感≫の献呈を受けたのはフィレンツェを長年支配してきたメディチ家の御曹司フェルディナンド・デ・メディチです。音楽に情熱を捧げ著名な音楽家達を庇護しました。≪調和の霊感≫の表紙には「トスカ―ナ公フェルディナンド3世殿下に捧げる」と書かれています。↓その後、ヴィヴァルディの名はほとんど知られることなく埋もれていましたが日の目を見るようになったのは1960年になってからでした。第2次大戦後疲弊した世界経済...200年経って大ヒット

  • ひょっとして雨男?

    昨日の朝は待降節のミサを弾かせて頂きました。午後はバッハ・カンタ―タの合わせ。指揮者のM先生に聴いて頂きましたが聖堂内は響きが良すぎて音が散るので合わせるのは大変です。✨✨✨✨✨夜はゆったりとクラシック音楽館で反田恭平氏の奈良の大仏殿での演奏会を聴きました。①ショパンアンダンテ・スピアナ―トピアノ・ソロと指揮の弾き振りです。吃驚したのは滝のような大雨が映ったこと。そんな状況なのにppの音がきれいで流石の演奏でした。②ブラ―ムス交響曲第1番ブラ―ムスの演奏の間も滝のような雨は最後までやまず。そんな中、熱演が繰り広げられました。反田恭平氏は雨男?私もブラ―ムスを聴きに伺った時は台風?の大雨の日だったように思います。(*^^*)最後のインタビューで「僕の雨男のせいで、、、」とおっしゃいました。(*^^*)ひょっとして雨男?

  • 改革に着手した二人

    今日から待降節。クリスマスへの準備が始まります。✨✨✨✨✨マリ―・アントワネットの母マリア・テレジアの時代。先帝達の散在によって国庫がほぼ空になっていたオ―ストリアの立て直しに乗り出しました。マリア・テレジアはさまざまな改革を断行し女傑として世にその名を知らしめました。オペラ作曲家のクリストフ・ヴィリバルト・グルックが活躍した時代でしたがグルックも当時のあまりにも歌い手中心で技巧的になりすぎたイタリアオペラを痛烈に批判していました。人気歌手達は劇の進行などお構いなしで自慢の美声を延々と披露し時には全く違うオペラのアリアまで歌ってしまうこともあったようです。グルックは劇の進行を妨げる余計な装飾を廃止してオペラの原点に立ち返りシンプルで見通しの良いオペラを作ることに成功しました。マリア・テレジアはその際だった...改革に着手した二人

  • 鉄道王夫人

    朝、窓を開けると椋の木が黄色に染まっています。寒暖差アレルギーが酷くて歯科検診はパスしました。✨✨✨✨✨鉄道王夫人「ナジェンダ・フォン・メック」16歳の時に彼女はカ―ル・オット―・ゲオルグ・フォン・メックと結婚しました。28歳の夫は運輸省に務める国家公務員でしたが子供が増えて家計が苦しくなり妻の希望で実業家に転身します。当時ロシアは鉄道の黎明期でモスクワ・リャザン鉄道の大きな契約を獲得しカ―ルの手元に莫大なお金が転がり込んできました。彼は54歳で世を去りましたが家族には広大な土地と数十億円の資産が遺されました。妻は会社を継ぎ事業を続けながら音楽家たちを支援するようになります。チャイコフスキ―は年に2100万円の資金援助を受けモスクワ音楽院の教職をやめて作曲に専念するようになり「眠れる森の美女」や「弦楽セレ...鉄道王夫人

  • フィレンツェ全盛期

    早いですね。もう12月になってしまいました。忙しい毎日がやってきます。✨✨✨✨✨イタリア中部の都市フィレンツェ。その中心地に13世紀末に建設が始まったサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は140年かけて完成しました。それはフィレンツェが全盛期を迎えようとしていた15世紀半ばで作曲家ギョ―ム・デュファイ(1397―1471)が大活躍していた時期でした。彼は中世音楽からルネサンス音楽への転換を成し遂げフランス的・イタリア的・イギリス的要素を全て取り込んで高度に洗練させた個性的な作品を遺しました。その才能は3世紀あとに活躍するバッハに匹敵する偉大な作曲家です。デュファイはイタリアの名家サヴォワ家で働いていました。ミサ曲≪もしも私の顔が青いなら≫を作曲しましたがサヴォワ家の令嬢とフランス王ルイ11世の結婚式のた...フィレンツェ全盛期

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