2020年4月
愛のカタチは、様々。両方が、同じように思い合うということもあったり、無かったり。片方の「愛」に甘えているもう一方。時に「都合のいい」人になっている。それでもいいと思う。A「自己愛」が、非常に少ない人。それでもいい。その人と関わりあえれば。それが、どのような形であれ。BA、Bが映画の主題と感じた。(あえて言いきれば)Bは、時に非情である。いろいろな人を傷つける。自分も傷つけられるが、他人も傷つける。Cそれでも「愛」から逃れられない。Dそれが「愛」なのか。「愛」がなんだ。E「愛」は、結局自己愛の肥大化したものなのか。Fそんなものは、愛ではないと思うが、それを愛と勘違いしているのか。「愛」でなくていい。GGは、社会的にアウトではないか。アウトの渦巻いている世界に生きている私たち。「愛がなんだ」感想
「いき」とは。やせ我慢と諦めどちらも心の強さが必要追求→自分らしさ、自由が得られる。永井荷風は、妻を持つこと、家庭を「諦め」、「やせ我慢」をして自由に生きたのではないだろうか。私は、そんな荷風先生をみて「らしさ」「自由」な生き方を感じる。自分もそんな風な生き方ができたら、どんなにいいだろうと考える。恋愛の先に進めない、進まない「やせ我慢」「諦め」は、いきというより野暮なのかもしれない。そんな生き方しかできない荷風先生に「らしさ」は感じるが、完全に「自由」ではない。好きな女性と所帯を持つ、思うままの「自由」。その果てに訪れる縛られた「不自由」が見えている。そんな人生に「不自由」」を感じている。それから逃れる人生に対する「諦め」。私の私見であるが、荷風先生は、「自由」に見えたが、「不自由」な人生を「諦め」、やせ我慢...九鬼周三
2020年4月
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