「聞」は諸橋大漢和辞典によると声耳にいる。「聴」は耳声を待つ。話を聞くという行為は聴こうという気持ちが体を動かして会場へ身体を運ぶ、あるいはわからないことや不思議なことに疑問を持ち、辞書などで調べる、これも真実を聴くという行為でしょう。しかし自分で聴く行動をとったと思っても、それはそうするように仕向けられている、環境や情報に許されているから出来るのではないでしょうか。親鸞聖人は「聴」に許されてきくと解説を加えています。許されてという感性は、自分自身の思いを中心としているのではないのです。もしそうなら許「して」聞く、自分の行動は自分が決定しているという立場です。でも許「されて」は縁起の法則によって、私にかかわるすべての存在のおかげで、という意味ではないでしょうか。一神教を信じる方々には「神」に聴くことを許されて、...聞く聴く
世界の三大宗教は仏教、キリスト教、イスラム教と言われます。信者数だけで並べるとヒンズー教はかなり多くの信者がいる国民宗教です。ユダヤ教は厳格な規律を順守するので信者数は多くないのですが、キリスト教やイスラム教の母体となっています。では三大宗教の特質を一文字で表現すると如何でしょうか?キリスト教は信ぜよされば救われんですから「信」、それは神との約束ですから「約」または「契」でも良さそうですが、根底には信が必要でしょう。イスラム教は日に5回の礼拝が欠かせませんから「礼」でどうでしょうか。仏教はお経の初めに「如是我聞」または(我聞如是)で書き出されています。お釈迦さまは自らの説法を筆記させられませんでした。経典はお釈迦様の滅後(涅槃には入れれてから後)弟子が結集して諳んじていた説法を唱え、聞いていた阿難が承認したもの...初心から見直す
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