chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
anan
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/01/29

ananさんの人気ランキング

  • IN
  • OUT
  • PV
今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(IN) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,337サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 14,678サイト
仏教 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 385サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(OUT) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,337サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 14,678サイト
仏教 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 385サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(PV) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,337サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 14,678サイト
仏教 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 385サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
  • 心学校 二十の七

    心学校 二十の七

    マゼランの艦隊が、アフリカの喜望峰を回り南米フォークランド諸島の沖を通り、世界一周をしたのは、一五一九年から一五二二年までかかったのです。その後、一八六九年にスエズ運河がフランス人レセップスによって開通し、地球を横さまに容易に乗り超えられるようになったことを考えると、横・竪・出・超のイメージがわいてくるのではないでしょうか。心学校二十の七

  • 心学校 二十の六

    心学校 二十の六

    それに対して念仏とはどのような道かというと、横に如来の力によって超えさせていただく道と表現すればよいのでしょうか。竪は時間軸に、横は空間軸に考えても良いのではないかと思います。自力で竪に進む道は多くの困難と多大な時間が必要です。しかし仏力で横に超えさせていただく道とは、現在の自分のポジションが、すでに如来に包まれて存在している状況を示しているのです。竪を目指す立場では私の彼方に仏があるのですが、横に気づく立場では私とともに仏があるのです。竪をめざす側で使用すると「他力」は他の人の力となります。しかし横に気づく側で使用すると他力は自分のそばにいて下さる仏力になるわけです。心学校二十の六

  • 心学校 二十の五

    心学校 二十の五

    いや自分には出来そうだという場合もあるでしょうが、虫が竹の節を順々に破って進むように菩薩の道は五十一の階段があります。その中には四十六番目に「菩薩の死」と呼ばれる場面があり、それを乗り超えた菩薩はもう後に戻ることはないという不退の位に達したとされ、歓喜地の菩薩と呼ばれます。ところが五十一番の位に達しても、五十二番目の仏の位に至るには自力では到達できず、仏の力を借りなければならないとされています。心学校二十の五

  • 心学校 二十の四

    心学校 二十の四

    一般的な仏教の教義では究極の目標は「成仏」することで、「私」が「如来=仏=さとりを得た存在」に成るということなのです。そのためには自分で出来ることと、自分の微少な力では出来ないことがあるのです。成仏の道は信じて修行することが肝要なのです。そして仏道を修行する人が一定の水準に達したときに「菩薩」と呼ばれるのです。しかしこの世相の中で私たちが修行に没頭できるものなのか、考えてみなければなりません。また修行しようと決心してもそれがしばらく経つとその決心もどこへやら、という私たちの心ではないでしょうか。心学校二十の四

  • 心学校 二十の三

    心学校 二十の三

    考えてみると、私たちは幼いときから「自分で」ものごとをするようしつけを受けてきました。私も幼稚園で園児に話すとき、自分が自主的にやっているかどうかということをうながすように心がけています。人生の社会生活を送るのにはまったく当然なことで、いつまでも両親や年長の家族に手取り足取りの世話をやいてもらえるはずはありません。だから躾の面で私たちが教育してゆくことは「他者依存」の生き方ではダメなのだということなのです。心学校二十の三

  • 心学校 二十の二

    心学校 二十の二

    虫は節を破って「竪(たて)」に進んで最後の節を破って外に「出」るという考え方があります。竪に進むのですから長い時間と、自分の力で前進して行くのですから絶え間ない多くの努力が必要であると推測できます。ところが「横」の壁を破ればいいのではないか、という考えもできるのです。横になら距離も短く、作業も容易ではないでしょうか。さらに壁を自分の力で破るのではなく、自分を「超」えた力で破ってしまったらと、如来の力に頼るのだという論理構造となるのです。心学校二十の二

  • 心学校 二十の一

    心学校 二十の一

    筍の季節です。今年は当たり年とかです。やがて生長した竹にはご承知のように多くの節があります。念仏の教えを例えるのに、この竹の中にいる虫が外に出る場合どのようにするかという横超(おうちょう)・竪出(しゅしゅつ)というものがあるのです。心学校二十の一

  • 心学校 十九の六

    心学校 十九の六

    最初にお話しした幼児期のヤンチャ性でしたが、許されて明るい外に出されたときには何とも言えない、安心した気持ちになったものです。しかしそれでも続いてヤンチャをすることは、そのことによって普段よりもっと目をかけ、もっと手をかけてもらえることのぬくもりを感じていたのだろうと思います。実子である私は、幼稚園の先生として他の多くの園児をまんべんなくかわいがる父や母を取り戻そうと、仲の良い友達さえも憎い存在になるという複雑な感情が支配する幼児期をおくった想い出があります。父も母も、手をかけてやりたいが他の子との関係を考えると、あえて無視することが平等だと思っていた節もあるような気がするのです。しかし行儀の悪い私を捕まえる父の手は、とても温かだったような、心が伝わってくるような気がするものでした。心学校十九の六

  • 心学校 十九の五

    心学校 十九の五

    ところで絶対矛盾的自己同一というのがありました。それは法蔵菩薩が救われざるものをこそ救わずにはおかないという願いを立て、師・世自在王仏の前に誓って修行を成就し上げ、阿弥陀如来となった。ということは私に煩悩があるからこそ、その煩悩が頑強であるが故に、この私こそが如来の救いの目当てであるという論理になるのです。救われない者こそが救われるという「絶対矛盾」は、実にダイナミックな救済の論理となって完全性をもってくるのです。心学校十九の五

  • 心学校 十九の四

    心学校 十九の四

    如来はまさにそのように働く力を成就したわけで、早く救いを完成するためには直接光の輝きを届けたいところなのでしょうが、煩悩の雲が厚く私たちが直接感じ取れないわけです。私たちの煩悩は如来の光を遮るほどの頑強さを持っているしぶといもので、この煩悩を除去できたらさとりを開けるのですが、如来の力に比べたらはるかに小さな私たちの力をもってしては出来ないことなのです。心学校十九の四

  • 心学校 十八の七

    心学校 十八の七

    お釈迦さまは、「愛は愛より生じ、愛より憎しみは生ずる。憎しみより愛は生じ、憎しみより憎しみは生ずる」と言われます。親鸞聖人は九歳で出家得度され、二十九歳まで比叡山で勉学修行を続けられました。だが真実を求める心が愛憎の雲で覆われるのです。「愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑す」と述懐されます。しかし如来はそのような者だからこそ、救い取らずにはおれないのです。心学校十八の七

  • 心学校 十八の六

    心学校 十八の六

    仏教で「愛」を煩悩とするのは、キリスト教でいう愛と違う面を指しているからです。普遍的な他の生命を思いやる心を仏教では「慈悲」と表現します。愛については愛着とか渇愛(かつあい)、愛執(あいしゅう)、愛欲などと、愛にとらわれて自分が思うようにならない様を表現する場合に使います。愛し合うというと聞こえは良いのですが、愛し合う者同士はそれ以外に対して排他性を持ってしまいます。心学校十八の六

  • 心学校 十八の五

    心学校 十八の五

    日本の警察は世界でも優秀な検挙率だといわれてきました。その根底には愛憎の問題が大きく横たわっている私たちの社会状況があります。生命を蹂躙する事件の原因には憎しみが渦巻き、その元には愛を受け入れられなかった怨みがあるという人間の本性があるのではないでしょうか。心学校十八の五

  • 心学校 十八の四

    心学校 十八の四

    四苦八苦とは、「生(しょう)」「老」「病」「死」を四苦と言い、「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとっく)」「五薀盛苦(ごうんじょうく)」の四つを加えて合計八苦とするのです。最後から説明すると、五薀盛苦とは私たちの身心の形成が五つの要素で成立して盛んに苦しめていること。求不得苦とは、求める心は大きいけれども得ることが出来ない苦しみ。怨憎会苦とは、怨み憎しみに思うものと会わなければならない苦しみ。愛別離苦とは、必ず分かれなくてはならない苦しみをいいます。特に「愛」と「憎」しみは私たちの人生や社会での、避けて通ることが出来ない、最も大きな苦しみであるとも言えるでしょう。そして愛と思っていた心は、そっくりそのまま憎しみへと、一瞬のうちに変わって行くこともあるのです。心学校十八の四

  • 心学校 十八の三

    心学校 十八の三

    煩悩の中でも最も厄介なものとして三毒煩悩が説かれるのです。それは貧欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)をいい、一文字ずつで「貧(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」とも言われます。さらにお釈迦さまの法では四苦八苦が説かれます。京都にいるときでした。用務で市内を走行中、ラジオからこんな話が聞こえてきました。それは「お釈迦さまはすごい方ですね」「何で」「だって四苦八苦と言われるでしょう」「そうやね」「百八つの煩悩と言われるでしょう。」「うん」「四九三十六、八九七十二、あわせると百八つになるんですよね」。私は思わず唸ってしまいました。そう言われればそうだが、しかし・・・と。心学校十八の三

  • 心学校 十八の二

    心学校 十八の二

    では除夜の鐘はなぜ百八かというと煩悩の数だからといわれます。たしかに百八の煩悩と言いますが、煩悩の数はそれだけではなく、八万四千とも説かれています。ちなみにお数珠のたまの数は百八で首にかけるほどあったのです。しかしやがてその半分の五十四とか、三分の一の三十六とかになってきました。浄土真宗の念珠は、数にあまりとらわれず球のバランスで手にしっくりとなじむ大きさになるように作られています。心学校十八の二

  • 心学校 十八の一

    心学校 十八の一

    除夜の鐘をつきに行かれたことがありますでしょう。あるいはテレビなどで中継をご覧になったとか。除夜の鐘は百八つということですが、私は金沢別院時代、おいでになった方には出来るだけついていただきました。別院の境内には西別院消防隊の方々に協力願って年越しそばを用意し、鐘をつかれた方には金箔をのせたお餅をプレゼントしていました。幸い今でも続いていています。心学校十八の一

  • 心学校 十七の六

    心学校 十七の六

    とうとう決心して仏教を学んでみたいという気持ちになったのです。それは就職して仏教の本を読み、話を聞くことなどでも出来得たことかもしれません。でもその後、彼は私にとって人生の師匠だったのではないか、と思い当たったのです。彼の死がなかったならば、私は人生を生きる意味や宗教について考えなかっただろうと思います。また考えても自分勝手に理解してしまったかもしれません。まさに私にとっては、お寺から逃げていたのに、如来さまに「おわえとられた」感が強いのです。心学校十七の六

  • 心学校 十七の五

    心学校 十七の五

    真宗篤信者の方々がよく使われる言葉に、「ご催促」というものがあります。それは本来、如来(法蔵菩薩)の大きな願いの中を生きている私たちが、何かのきっかけが来るまで気がつかなかったという意味を込めた使用です。それは何故お寺にお参りして仏前にひざまずいているかというと、そのように仕向けられる働きによったのだ、という受け止め方です。決して、どうせ何をしても成るようにしかならないといった運命論とは違います。「自分がした」と思えたことが、「そう仕向けられた」とか、「させていただいた」という受け止め方に転回するのです。自己中心から(他の)願いに気づく宗教性の発露といってもいいのでしょう。心学校十七の五

  • 心学校 十七の四

    心学校 十七の四

    私は寺院の生まれですが次男だったので、お寺の跡継ぎをする必要がないという考えで育ってきたと、以前書きました。でもせめて仏教に心を寄せていたかというとそうではないのです。私だけではないと思うのですが、残念なことにお寺の子どもは後継者となることが、どうも好きではない人が多いように見えます。私は始めからその必要がないと思っていましたから、自分の人生はまったく勝手に考えていました。ところが以前書いたように、友人の死から人生に対する疑問が起こってきたのです。それが僧籍に入るきっかけとなったのでしたが、その時に心に強くうつった言葉がありました。地元の新聞にも死亡広告欄に掲載される言葉ですが、吉川英治さんの「人生我以外皆我が師なり」というものでした。心学校十七の四

ブログリーダー」を活用して、ananさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ananさん
ブログタイトル
いまになってもまだ初歩を…
フォロー
いまになってもまだ初歩を…

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用