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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた) https://blog.goo.ne.jp/nagusa777

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。<br>隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

名草ぼにまる
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2019/11/23

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  • スサノオと出雲神話・・・出雲大社の謎

    スサノオと出雲神話・・・出雲大社の謎

    今回からは蘇我氏の謎について考えていきます。それは、古事記・日本書紀は蘇我氏の歴史を基に作られていると思うからです。蘇我氏が権力を握った時代、蘇我馬子の時に古代の歴史は変更されている。先ずは、記紀に記載がある「日本神話」の謎についてです。蘇我馬子と聖徳太子が編纂した、蘇我の歴史書と思われる「天皇記」「国記」は、現存する記紀の編纂に大きく影響していると思われるからです。出雲神話は、蘇我氏が作り出した神話である。隅田八幡神社人物画像鏡・・・癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこひとのおおえのみこ、日十大王ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時...スサノオと出雲神話・・・出雲大社の謎

  • 牽牛子塚古墳と益田岩船

    牽牛子塚古墳と益田岩船

    飛鳥にある牽牛子塚古墳が綺麗に復元整備されました。この時代の大王家(天皇家ではない)の陵墓に特徴的な八角墳に造り変えられました。写真のように、八角形を三段重ねた古墳が復元されています。この古墳は、墳丘が多角形(八角形)で、「あさがお」の花びらに似ていたため「あさがお塚」とも呼ばれていたそうです。埋葬施設の構造も知られています。二上山の凝灰岩の巨石をくりぬいて二室を作り出しています。横口式石槨をもつ合葬用の古墳として知られていました。このことからこの古墳は、日本書紀の記述により、合葬され埋葬された真の斉明天皇陵として有力視されています。この八角墳に関して、私には大きな疑問があります。牽牛子塚古墳は、二上山の凝灰岩が墳丘の石組みとして使用されていて、今回復元されたように、築造当初は真っ白な墳墓だったと考えられ...牽牛子塚古墳と益田岩船

  • 壬申の乱と法隆寺、斑鳩寺創建の謎

    壬申の乱と法隆寺、斑鳩寺創建の謎

    法隆寺は、推古天皇15年である607年に創建されたと伝えられています。別称は、斑鳩寺、鵤寺ともいわれます。法隆寺の西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群であるとされます。私は、法隆寺の創建年に関しては、長屋王が大王に即位した、701年であると推測しています。考古学的にも8世紀初頭の創建とされますが、それでも世界最古の木造建築物群です。いままで記述してきましたが、現法隆寺と、斑鳩寺は異なる寺院です。斑鳩寺は蘇我氏が建設したお寺です。そして、斑鳩寺創建は607年ではなく、605年である。現法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた大王家のお寺です。法隆寺建造は、百済復興の白村江の戦や古代の大戦である壬申の乱が大きく関わる。渡来人勢力の脅威がなくなってから本格的に造り始められた大王家のお寺です。法隆寺に関する大...壬申の乱と法隆寺、斑鳩寺創建の謎

  • 推古天皇と、ふたりの太子・・・斑鳩寺創建の謎

    推古天皇と、ふたりの太子・・・斑鳩寺創建の謎

    令和3年(2021年)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、特別展が開催されました。しかし、・・・もう何度も記述してきたところですが、聖徳太子没年は622年ではありません。この622年というのは法隆寺釈迦三尊像光の銘文から導き出したものですが、間違っています。推古天皇条は何故か、記述年代において、二年の間違いがあるのです。銘文の法興元年は、591年ではありません。押坂彦人大王が、大王に即位した593年です。593年から三十一年は623年であり、その翌年の624年に亡くなっていると記述されています。ただしこれは、推古天皇の息子である竹田皇子の命日です。これは、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文や、法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文により明らかです。この混乱は、推古天皇時に本来の大王だった押坂彦人大王が、大王に即位していたことが...推古天皇と、ふたりの太子・・・斑鳩寺創建の謎

  • 法隆寺の三つの本尊の謎と「聖徳太子二王子像」

    法隆寺の三つの本尊の謎と「聖徳太子二王子像」

    法隆寺の本尊に関しても大きな謎があります。法隆寺、金堂には、三つの本尊があります。「中の間本尊」、「東の間本尊」、「西の間本尊」です。通常本尊というのは、本来はひとつのはずですよね。これも大きなな謎とされます。法隆寺に安置されている仏像は、多くの不思議な謎に包まれています。法隆寺創建の由緒が刻まれたこれら仏像に関する謎は、最も興味のあるものです。今回は法隆寺西院伽藍、金堂の仏像に関してです。三つの本尊というのは、三人が祀られていたからである。この三人とは、「聖徳太子二王子像」にある聖徳太子と二人の王子の三人です。金堂の仏像も、この「聖徳太子二王子像」と同様の形で安置され祀られていたのです。それが後に怨霊封じがなされ、これら本尊も変更されている。「法隆寺再建の謎、・・・百済観音、救世観世音菩薩、銅造釈迦三尊像」の...法隆寺の三つの本尊の謎と「聖徳太子二王子像」

  • 法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ

    法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ

    法隆寺は七つの不思議があるといわれます。でも、もっと沢山の謎がある寺院です。創建はいつなのか?再建されているのか?という基本的なことに関しても大きな謎になっています。謎だらけの寺院です。これは藤原氏によって由緒が変更され、怨霊封じのお寺になっているからです。怨霊といえば誰でしょう?そう真っ先に思い浮かぶのは、藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王ですよね。どうして法隆寺に怨霊封じが行われたかといいうと、それは長屋大王が関係するのです。この怨霊封じに関しては梅原猛氏による『隠された十字架』によって有名になりました。私も影響を受けた一人です。今回は、多くの謎があるとされる法隆寺の七不思議と、怨霊封じに関わる西院伽藍の中門の謎解きをします(*^▽^*)梅原猛氏は、西院伽藍の中門が、建築上においてもありえない、4間で中央に...法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ

  • 「日出處天子致書日没處天子無恙云云」・・・遣隋使

    「日出處天子致書日没處天子無恙云云」・・・遣隋使

    推古天皇15年(本当は押坂彦人大王15年)である607年に聖徳太子(押坂彦人大王)は、小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送っています。隋書の「東夷傳俀國傳」に記述があります。有名な「日出處天子致書日没處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)の記載があった国書です。この「日出處天子」とは大王だった聖徳太子ことであり、押坂彦人大王のことです。本来、大王と天皇は異なります。これが解らない限り古代の歴史は謎解けません。この国書を見て隋の煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたと記述されています。聖徳太子の事跡を語る上では外せないエピソードです。強大な統一王朝である隋に対して、対等な立場...「日出處天子致書日没處天子無恙云云」・・・遣隋使

  • 四天王寺創建の謎と物部守屋

    四天王寺創建の謎と物部守屋

    四天王寺は聖徳太子建立七大寺の一つとされ、法隆寺とともに確実に聖徳太子が創建に関わったとされています。上宮聖徳法王帝説・・・太子起七寺四天皇寺法隆寺中宮寺橘寺蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池後寺葛木寺(賜葛木臣)しかし、聖徳太子が勝利を祈願して四天王を安置する寺を造ったというのは後の創作である。蜂丘寺(広隆寺)を、秦氏、秦河勝に賜うと記述されているところから推測できますが、「上宮聖徳法王帝説」は、秦氏の王である桓武天皇や藤原氏によって改竄された歴史を基にして作成されたものである。聖徳太子の名のもと、本来の大王たち事跡が消されている。今回は四天王寺創建の謎について考えてみます。法隆寺とともに聖徳太子が関わる四天王寺なのですが、この四天王寺も多くの謎がある不思議な寺院です。四天王寺もまた移築再建されているとされます。こ...四天王寺創建の謎と物部守屋

  • 法隆寺再建の謎、・・・百済観音と救世観世音菩薩と銅造釈迦三尊像

    法隆寺再建の謎、・・・百済観音と救世観世音菩薩と銅造釈迦三尊像

    ブラタモリ、奈良編、「法隆寺~なぜ法隆寺に1400年も愛され続けるのか」、「奈良、飛鳥、なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?」が放送されましたので、法隆寺に関してのお話です。もう一度、法隆寺再建の謎について考えてみます。今回は、法隆寺に安置されている釈迦三尊像、薬師如来坐像、百済観音、救世観世音菩薩についても考えてみます(*^▽^*)ブラタモリ内でも説明がされていますが、この本尊ともされる釈迦三尊像は、聖徳太子のお姿を映したものであり、モデルであるとされます。救世観世音菩薩もまた聖徳太子のお姿そのものであるのでは?とされます。すると百済観音もまた誰かモデルがあるのではないのか?法隆寺再建の問題とともに難題であるのですが、もう一度考え直してみます。放映されたブラタモリ内で、法隆寺は誰が造ったのか?」との質問に、こ...法隆寺再建の謎、・・・百済観音と救世観世音菩薩と銅造釈迦三尊像

  • 東大寺創建の謎と孝謙、称徳天皇

    東大寺創建の謎と孝謙、称徳天皇

    今回は奈良の大仏さんについてです。これまで記述してきましたが、聖武天皇は藤原の操る王であり、本来の王ではありません。対立して殺害した大王家の人物を大王に即位していたことを消し去るために系譜を改竄し歴史を変更している。奈良の大仏さん、東大寺は、聖武天皇や皇后である光明皇后が造った寺院ではない。東大寺創建の功績を変更している。少しばかり大胆な推測とも思えるのですが、聖武天皇は本来の王ではないとする私には当然の推測ともいえます。続日本紀は、藤原の時代の藤原の主張する書物に他ならない。歴史を改竄するための偽書である。聖武天皇は、大王家の人物であるのですが、本来の大王を消し去るための人物でもある。そして皇后の光明皇后も同様であるように思う。この本来の大王とは、天武系の大王たち、長屋大王や弟の鈴鹿大王である。そして、この鈴...東大寺創建の謎と孝謙、称徳天皇

  • 古代の悲劇 有間皇子、建皇子暗殺の謎

    古代の悲劇 有間皇子、建皇子暗殺の謎

    今回は、渡来人たちによる孝徳大王やこの有間王子、建王子の殺害についてです。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。許せない(`・ω・´)有間王子は孝徳大王の王子であり、母は阿倍内麻呂の娘である小足媛です。もちろん正統な次の大王候補である。ですので暗殺されている。そして建王子も孝徳大王の王子です。孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。しかし戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。写真は、熊野九十九王子社のひとつであり、塩屋連の本拠地にある塩屋王子神社(和歌山県御坊市塩屋町北塩屋)です。天照大神の御神像が祭られていて別名は「美人王子」といわれます。絶世の美女、かみなが姫こと、藤原宮子(本当は阿部宮子)の出身地です。宮子...古代の悲劇有間皇子、建皇子暗殺の謎

  • 倭国、唐、新羅三国同盟と孝徳大王

    倭国、唐、新羅三国同盟と孝徳大王

    日本書紀は、720年に編纂されたとされ、今年は編纂1300年の記念の年になります。しかしながら今に残る日本書紀は、平安時代のものです。それは、大王家と対立していた渡来人、秦氏の王である桓武天皇時代に、この秦氏や藤原氏の都合により内容を変更したからです。古事記もまた後の時代に改竄されている。古事記・日本書紀は正史とされますが、歴史書は信用できません。この改竄された箇所を暴いてやる(*^▽^*)凸特に大王家との権力争いにより古代から繋がる王座を簒奪したという事実と、自らの正当性を主張するための歴史の改竄である。朝鮮半島の動乱に、唐という巨大な国家が関わることになり、倭国にも大きな影響を及ぼすことになりました。この時代は戦乱の時代です。孝徳政権は、唐と手を結ぶ方針だったのです。強大な唐と敵対する判断をするはずはない。...倭国、唐、新羅三国同盟と孝徳大王

  • 長屋大王と吉備天皇 「長屋親王」出土木簡

    長屋大王と吉備天皇 「長屋親王」出土木簡

    正史とされる、古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。記紀は長屋大王が編纂した歴史書です。この功績が変更されている。秦氏、藤原氏が王座を簒奪した時代、秦氏の王である桓武天皇の時代に記紀は改竄されました。なぜにこういう歴史になってしまっているのだろうか・・・日本書紀、古事記、そして続日本紀は、秦氏、藤原氏によって改竄された偽書です。長屋王家とされる場所から多数の木簡が出土しています。今回はこの木簡の話ですが、これら正史とされる歴史書とは矛盾する記述がある木簡が多数出土しています(*^▽^*)いうまでもありませんが、木簡の方が一級資料ともいえ真実を語っています。歴史書とは勝者の歴史であり、勝者の都合で変更されています。もうすでに何度も記述してきたところ...長屋大王と吉備天皇「長屋親王」出土木簡

  • 「親魏倭王」卑弥呼の謎

    「親魏倭王」卑弥呼の謎

    7世紀、隋が滅び、この唐という巨大な統一国家が出現したことで、地続きにある朝鮮半島は戦乱時代になります。この戦乱が倭国にも影響することになります。卑弥呼の時代もそうです。大陸での紛争ですが、島国である倭国にも影響を及ぼしている。景初二年(238年)に、卑弥呼は魏に朝貢します。魏志倭人伝においては、何故この年に朝貢したのかの記述はされていません。主な理由と思われる、魏が建国した年なので、朝貢したわけではありません。卑弥呼が王に即位した年であるので朝貢したということでもありません。何故に卑弥呼は魏に朝貢したのかを推測するのは、魏志倭人伝の謎を解くことにおいては重要なことです。卑弥呼が朝貢した時期は、倭はどういう状況下におかれていたかを考慮しなければ、魏志倭人伝の謎を解くことはできません。この時代、朝鮮半島で勢力を誇...「親魏倭王」卑弥呼の謎

  • 秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎

    秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎

    天皇家とは百済王家である。日本史においての最大のタブーであり問題点です。天智系天皇である桓武天皇は、秦氏、藤原氏の王である。その桓武天皇から繋がるとされる、今の天皇家は、百済王家、百済渡来人である藤原氏と秦氏の王である。平安京はこの秦氏の本拠地である。今回は、もしかしたらですが、・・・いまの天皇家は秦の始皇帝と繋がるという話です(*^▽^*)トンデモ話に思われるでしょうが、古代の文献が真実を語っているのならこうなります。それは、今の天皇家は秦王家だからです。まず、藤原氏。藤原氏の祖である藤原鎌足は百済からの渡来人であるという説は以前からあります。百済最後の王である義慈王の王子とされる豊璋ではないのかという説です。私は豊璋の弟の翹岐の方だと思うのですが?どちらでもいいですが、百済王家の人物だということです。この説...秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎

  • 酒船石と亀形石造物の謎

    酒船石と亀形石造物の謎

    飛鳥には沢山の石造物があります。飛鳥観光ではこの石造物も人気のスポットになっています。用途の不明なものが多く、謎の石造物とされます。一番人気は何といっても亀石でしょうかね?亀かどうかはわかりませんが、なんかカワイイ造形ですよね。この亀石の他にも、今回書くつもりである、酒船石や、亀形石造物、そして橘寺の中にある二面石、吉備姫王のお墓にある猿石も人気です。あと弥勒石、須弥山石など・・・そしてマラ石も(*^▽^*)石造物とはいえないけれども、古墳で使用されていた石舞台古墳や鬼の俎・鬼の雪隠なども石で造られた遺構である。石舞台古墳は飛鳥では一番の観光名所です。これらの石造物を訪れるのもいいですよ。ただ、車で回ると、止めた場所から少し歩かないと行けなくなるところもありますので、季節的に良い気候であれば、飛鳥観光はレンタサ...酒船石と亀形石造物の謎

  • 談山神社創建の謎と中臣鎌足

    談山神社創建の謎と中臣鎌足

    今回は、前回からの続きの話です・・・飛鳥京においての渡来人との戦乱についてです。戦乱はこの飛鳥の地から逃亡先まで広がっている。写真を無くしてしまったので、飛鳥まで写真を撮りに行ってきました。談山神社は紅葉の名所として知られます。訪れた時は少し紅葉には早い時期でしたが、談山神社は多武峰の山頂にありますので、少しばかり紅葉を見ることができました。神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺といったとされます。今年、2019年は、669年に亡くなった藤原鎌足公没後1350年にあたるとされます。なんか紅葉期間中には特別展示があるようです。ですが、残念ながら間違っています。ここに祀られているのは本来の中臣鎌足です。偽物である藤原鎌足とは同一人物ではありません。ですので、没後1350年というのは間違っています(+_+)写真は談山...談山神社創建の謎と中臣鎌足

  • 殺戮の時代・・・丙辰の乱

    殺戮の時代・・・丙辰の乱

    あれ・・?丙辰の乱ってなに?・・って思われるでしょう・・・分からないのも当然です。干支の名から勝手に作ちゃった(*^▽^*)古代の大乱は壬申の乱がよく知られています。しかしこの丙辰の年(656年)にも大きな戦乱があったのです。656年は斉明天皇の時代とされます。この時代の大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。孝徳天皇と天智天皇の争いはよく知られています。孝徳天皇の姉は斉明天皇です。蘇我氏と天智天皇との争いである乙巳の変。天武天皇と天智天皇の争い、後の壬申の乱もそうです。すべて大王家と、渡来人である天智(秦氏)、藤原氏との争いである。つまり敵は渡来人である。この争いは、孝徳大王の時代から長屋大王の時代、そして桓武天皇の時代にまで続くことになる。桓武天皇は百済からの渡来人である天智系天皇である。斉明天皇の時...殺戮の時代・・・丙辰の乱

  • かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

    かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

    文武天皇の妃である藤原宮子は、藤原不比等の娘とされますが不思議な話が語られています。宮子は藤原不比等の娘であるということが事実なら、宮子は藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になり藤原氏にとっても重要な人物になります。藤原氏は天皇家と関りを持ち、子供の聖武天皇を天皇に即位させました。この後、藤原氏は天皇家の外戚となることで権力を得ることになります。藤原摂関政治の始まりです。しかし、安珍・清姫で有名な、和歌山県御坊市にある道成寺には、藤原不比等の娘とされ文武天皇の妃となったとされる、不比等の長女であるこの藤原宮子は、実はこの地域の漁師の娘であったとの伝説が今も語り継がれています。今回は、聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと宮子のお話です。かぐや姫のモデルともされる絶世の美女です。梅原猛氏の著書である「海人と...かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

  • 天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

    天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

    ブログのテンプレートを変更しました。すると長文だと読みずらいですよね。この記事も前回の投稿に繋げるつもりでしたが新たな記事として投稿します。ですので、投稿を多くし記事を短くしていきます。写真は明日香村にある、天武天皇とその皇后である持統天皇の陵とされる檜隈大内陵です。野口王墓といわれます。古墳時代終末期の古墳で形状は八角墳です。この時代には、王墓は前方後円墳から八角墳に変わっているとされます。治定が確実な陵墓とされまが、治定には紆余曲折があったようです。天武持統陵は、隣にある見瀬丸山古墳との見解もあったようです。この見瀬丸山は最終期の前方後円墳であり、巨大な古墳が多くあり古代の都である、奈良県でも最大の古墳です。この巨大な古墳の被葬者が、誰かわからないといことは本来あり得ません。天皇より大きな古墳に眠る人物はも...天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

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