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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた) https://blog.goo.ne.jp/nagusa777

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。<br>隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

名草ぼにまる
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2019/11/23

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  • かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

    文武天皇の妃である藤原宮子は、藤原不比等の娘とされますが不思議な話が語られています。宮子は藤原不比等の娘であるということが事実なら、宮子は藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になり藤原氏にとっても重要な人物になります。藤原氏は天皇家と関りを持ち、子供の聖武天皇を天皇に即位させました。この後、藤原氏は天皇家の外戚となることで権力を得ることになります。藤原摂関政治の始まりです。しかし、安珍・清姫で有名な、和歌山県御坊市にある道成寺には、藤原不比等の娘とされ文武天皇の妃となったとされる、不比等の長女であるこの藤原宮子は、実はこの地域の漁師の娘であったとの伝説が今も語り継がれています。今回は、聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと宮子のお話です。かぐや姫のモデルともされる絶世の美女です。梅原猛氏の著書である「海人と...かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

  • 天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

    ブログのテンプレートを変更しました。すると長文だと読みずらいですよね。この記事も前回の投稿に繋げるつもりでしたが新たな記事として投稿します。ですので、投稿を多くし記事を短くしていきます。写真は明日香村にある、天武天皇とその皇后である持統天皇の陵とされる檜隈大内陵です。野口王墓といわれます。古墳時代終末期の古墳で形状は八角墳です。この時代には、王墓は前方後円墳から八角墳に変わっているとされます。治定が確実な陵墓とされまが、治定には紆余曲折があったようです。天武持統陵は、隣にある見瀬丸山古墳との見解もあったようです。この見瀬丸山は最終期の前方後円墳であり、巨大な古墳が多くあり古代の都である、奈良県でも最大の古墳です。この巨大な古墳の被葬者が、誰かわからないといことは本来あり得ません。天皇より大きな古墳に眠る人物はも...天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

  • 天智天皇と持統天皇の謎

    女系天皇、女性天皇が問題視されていますが、「天皇」は本来女系であり、初代天皇は推古天皇であり、女性です。天皇家は蘇我家のことであり、古代の王家とは繋がりがりません。蘇我馬子により、蘇我氏を大王家に繋ぐ改竄がされていました。この蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」・「国記」を参照し藤原氏もまた自家を大王家に繋げ、都合の悪い箇所は変更している。それが、古事記、日本書紀である。今回は天武の皇后?であるとされる持統天皇の謎から、藤原氏による系譜改竄の謎を考えていきます(*^▽^*)たくさん訪れてくれるようになったのに、しばらくの間記事を投稿しなかったのは、皇統が二千年の間、男系で繋がっているというは事実ではありません・・・という内容だったため、時期が時期なので書き込むのを控えていたという理由があるのですが、・...天智天皇と持統天皇の謎

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