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ブログタイトル
日々を考える
ブログURL
https://hanakoria.hatenablog.jp/
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自分の人生観などについてあるがままに記録していきます。
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45回 / 94日(平均3.4回/週)

ブログ村参加:2019/11/23

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ハナコリアさん
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日々を考える
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日々を考える

ハナコリアさんの新着記事

1件〜30件

  • 2/24 「人」は死ぬが…

    人生どう考えても、どう歩んでも、 結局死ぬまで生きている。 どの時代に生まれようが、どの性別に生まれようが、どの人種に生まれようが、絶対に逃れることの出来ないこの「枠」。 これが「人間」の枠である。ところで、この枠を捉えている「私」は果たして人間なのか。 明らかに違う。「今のところ」認識という精神の動きが(一部の)人間の脳にしか宿っていない、と言うだけである。 人間とはホモ・サピエンス以上の言葉ではない。そこに哀愁を漂わせたり、何か動物を指す意味以上で使用するのなら、それは誤りである。 精神と人間とは明らかに別物である。人間が精神を所有しているのではない。精神が人間というものを認識しているので…

  • 2/23 人生という名の実験

    路地裏で毛繕いしている猫、住宅街にひっそり佇むこじんまりとしたスナック、潮がかおる海辺での朝日、クラシックが流れている地元の喫茶店。繁華街で路上ライブしている夢みるバンドの音。 そういうものを思い浮かべると、私は「あぁいいな〜」と思う。心の底から、その思いを堪能する。 ところが、実際にそれらを経験した時、私は「うーん、なんか違う」という気持ちになる。それはそれらが理想的(形式)なものとは違った、という失望からくるものと、そこに実際に「私」がいるということという二点が問題である。 妄想のそれらの場面にも実際に「私」は現れる。だがそれはこの1996年に生まれ、2020年まで生きていて、フリーターを…

  • 2/20 「私」とはドーナッツの穴である

    「私」とはドーナッツの穴である。 最近ミスドでポン・デ・リングをリピートしているせいか、そのような考えがふと頭におりてきた。 ドーナッツがなければ存在しない。ドーナッツが存在することによって初めて「私」は存在する。 はて、そしたらこの場合のドーナッツとは何を指しているのだろうか。意識?認識?言葉?宇宙?様々な単語を当てはめてみたが、一番しっくり来たのは肉体であった。 肉体が個体をつくる。われわれは肉体がなければそも、「全」であった。肉体というものが「全」を「一」にした(ように見える)。 「私」というドーナッツの穴は、ドーナッツによって生まれた幻想である。ドーナッツなしに、ドーナッツの穴は認識で…

  • 2/19 アイデンティティを消してゆけ

    最近とても活用していたアプリをアンインストールした。私は自身の居場所を削除した。 そのアプリはTwitterみたいな自身の思ったことをつぶやけるというものだったが、匿名性が非常に高く、投稿ごとに別人になれるものであった。 私はそのアプリで、主婦になってみたり、彼女もちになってみたり、50代のおじさんになってみたり、同性愛者になってみたり、JKになってみたりした。 なぜ、そんなことをしたかは自分でもよくわからない。というか多分理由なんてなかった。 そこは実に居心地がよかった。2分前の投稿と真逆な言論を唱えても、まず異議を申し立てられることは無い。 そのアプリには、自己の連続性から来る言葉への責任…

  • 2/17(2) 満員電車に思うこと

    このバイトを始めてから、満員電車に乗るようになった。知らない人と知らない人があれだけ密集して、同じ空間に閉じ込められる。 この異様性をもはや大東京で唱えることは出来ない。肌が触れ合い、時には相手の呼吸や心拍ですら感じる距離感にいながら、その人達は私にとっては全くの赤の他人であり、電車を降りたらもう一ミリとて思い出すことは無い存在である。 他人同士がこれだけ平気で物理的距離をつめられるのは、何かおぞましいことではあるまいか。 人が一般に人と近しい距離になる時、それは必然的に相手への安心と親密さを表す。物理的距離感と心的距離感は一致しており、見ていても大変微笑ましいものである。 しかし、満員電車の…

  • 2/17 信頼と裏切り

    信頼、その字の通り、信じて頼る。信じるとは何か。 「あの人は信頼できる」というセリフ、それはつまり、あの人は私の期待を裏切らない、という意味でしかないだろう。相手に何かを期待する、そして自身の期待通りに相手が動いてくれたら、その人は信頼できる。 逆の立場で考えると、少しばかり図々しくは思わないだろうか。勝手に期待されて、勝手に失望されて、そして信頼できないというレッテルを勝手に貼られる。信頼とは本当にこのようなものだろうか。 例えば、何か約束事を交わして、相手がそれを果たさなかったとして、それで失われるような信頼なら、そも人は相手の何を信じていたといえるだろうか。 もし、本当に相手を信じていた…

  • 2/12 文章とはうんこなり

    はぁぁスッキリしたここ何日かすごく嫌みったらしい文章が続いていたの気づいてくれた人はいますかね。まぁいつも嫌みったらしいんですけどね… 私の文章が嫌みったらしいのは普段溜まってる鬱憤を文章にのせているからです。で、普段何に鬱憤を感じているかといえば、もちろん思考です。楽しさと鬱陶しさはいつも背中合わせ、仕方なし。 考えれば考えるほどに、周りの考えていない人が目につく。そして、あぁ考えていないから行き詰るんだよ、と思ってしまう。だがそれを本人に伝えても何の意味もないということを知っている。 だからこそ、私はこんなところで誰に向けてでもなくねちねち文章を書いているのである。 結局わかる人にしかわか…

  • 2/11 答えが既に自明である問

    〇〇するのっていけない事ですか? 最近巷でよく耳にする言葉である。この問い方私的にはとても面白いなと感じている。だって「〇〇するのってどう思いますか?」ならまだその行為に疑問がある程度の問いかけであるが、「〇〇するのっていけない事ですか?」という問は問以前に答えが出ているではないか。 それなのに、人は問う。つまり自身でもういけないと感じている。おそらくそのいけなさの感じを誰かに否定して欲しくて、問を発するのであろうが、自身の思いを止められる他人など存在しない。よってこれは全くの茶番である。 そして、同じくいけなさを感じてはいるけど、否定したい人が引き寄せられ「いけないことじゃないよ」というお互…

  • 2/10 意識的に無意識に帰る

    これまで沢山の文章、いや独り言をここに書き残して来たれど、実のところ私の生き様はと言うと、全く自身の書いたものと反している笑。 もはや生き様とすら呼べない。普通に悩むし、普通に死にたいし、普通に働きたくないし、普通に後悔もしている。だがそれでええやんけ、とも思っている。正しい言葉は誰が言おうと正しい。 デブが超絶痩せるテクニックを紹介した所で、およそ耳をかす人はいないだろう。しかし痩せていて、プロポーションも抜群の人から同じ方法が語り出される時、人はそれを大いに信じる。 受動的に生きている人は、自己防衛の為(本人は意図せずに)「人」という単位で物事を判断する。その方が楽だからだ。この行為は危険…

  • 2/6 恐怖 恐怖 恐怖

    人間は本質的に孤独である。なぜなら世界にはそも「私」しかいないからだ。そしてその孤独の治癒を求めて、人々は自己を顕示し、理解者を求める。 ミュージシャンは作曲という行為によって、作家は言葉を綴ることによって、「普通」の人々は誰かの悪口を言うことによって、また誰かの好きな物を好きになることによって…… 癒えぬ孤独を抱えた人々は兎角、評価されたい、共感されたい、認められたい。 そしてそれを得られないと知れば、人は自信喪失という手段を使い、自己を閉じ込める。 私は「ダメ」だから認められない、「ダメ」だから評価されない。まるでダメでない自分なら誰もに認められるかのように言い、逃げ道をつくる。 或いは逆…

  • 2/5 クレタ島の嘘つき

    言葉は全て嘘である。なぜなら人は最初から語る必要など少しもないからだ。 言葉とは神の余興にして娯楽である。世界が世界を物語的に語る為のものだ。 語るということは、二次的な行為である。 例えば、人が「〜したい」という。なぜ人は言うのだろうか。〜したいなら、すればいいのである。語る必要性など少しもない。しかし人はそこに一拍おいて、まず語るのである。 〜したいという人ほど、それをしていない。語るという行為は常に現実とは逆の方向を向いている。 「私は嘘なんかつかない。」 本当に嘘をつかない人は、そんなことは言わない。自分が嘘つきか正直者かなど、まずその人は気にしていない。気にしていないという、まさにそ…

  • 2/4 結局自分ってなんなのよ

    結局自分とはなんなのだろうか。 存在は全てが過去形の受動態である。つまりは「存在させられた」。そして意識を所有するものだけがそれを自覚できる。 それなら、存在しているのは明らかに「私」ではないだろう。存在させられた「これ」を認識しているところの存在こそ「私」である。 人は疑いもせずに「自分」が生きていると思う。それは多分身体があるからだ。痛みは感じるし、見るのも聞くのも嗅ぐのも話すのも、そういったこと全部が、この身体を通してなされている。だから人が「私」を示すときには、自分の指で自分の顔を指す仕草をする。 しかし、やはり文法的には「私の身体」なのだ。「私は身体」では無いのである。身体はどこまで…

  • 2/3 気持ちと言動

    気持ちは目には見えない。当たり前である。誰かをこよなく愛していても、愛しているだけでは伝わらない。それは言葉や行動によって示されて初めて相手に伝わるものである。確かにその通りである。しかし、ここで留意していただきたいことがある。それは気持ち=言動ではないということである。 無論、われわれには他人の気持ちを個々の言動から推し量るしかすべはない。その人の心を直接的に覗いたり、テレパシーで伝えてもらうことなど、当然だができはしない。だからこそ、言葉というものが生まれたのであろう。 だが、言葉というものは思いとはリンクしない。時には自身の思いとは真逆の言葉でさえ簡単に口をついて出てしまうものである。「…

  • 1/29 全部どうでもいい

    私の人生はたいていが他力本願である。基本的には自分から〇〇を望む、〇〇に向けて努力する。ということがない。理想的な人生プランもない。 それ故に不満もない。毎日幸せだと思っている。いや幸せかどうかなんてどうでもいいじゃないかと思っている。 毎日ご飯が食べられて、冬は暖かい布団で眠れて、夏は暑さを凌ぐ場所があれば、それで十分。 思惟という行為さえできればなんでもいいのである。考えるというのはこの世で最も自由度の高い行為であろう。極端にいえば「私」さえいればできることである。 ただ、極度の飢餓状態や、極寒や猛暑に耐えながら思惟するというのはとても大変だと思うので、最低限の生活水準は守りたい、というだ…

  • 1/28 類は友を呼ぶ

    前回は情とは強い衝動であり、情の動きとはそのまま、人の動きであるのだと書いた。 今回は、その情についてもっと掘り下げてみたいと思う。 まず情がつく言葉をひたすらにあげてみることにしよう。 愛情、友情、人情、同情、感情、激情、欲情、発情、情念、情熱、情緒、情け…。 全部の情を「激しい衝動」とは言えないのかもしれない。激情や情熱、欲情や発情は何となくそんなイメージがある。ところが友情や人情、同情や情けといったものからはそのような意味は感じられない。ここでの情は何だか静かで、落ち着いている。 友情や人情また愛情には、思いやりという言葉が近いだろう。純粋に何かを思慕する気持ちと訳して差し支えがないよう…

  • 1/27 情とはなんだろうか

    情。愛情、友情、人情、感情、同情。情とは何だろうか。 或いは、情念と言ってもいい。悲しみ、憎しみ、喜び、嫉妬…。これらの存在はいったい何なのだろうか。 何のために情は存在するのか、とは問えない。存在者の目的を問えば最後は必ず不可知なものに衝突する。「宇宙は何のために存在するのか」という問いに答えられるのはおよそ神だけである。 そして同じ理屈で存在理由も問えるものではない。 存在の問い方は必ず「~とはどういうことか?」つまり「A=?」でしかありえない。しかしその言葉がそのもの自体であるのだから、Aは結局Aである。いくら問うても、「AはAだからAである。」という皮肉な答えしか得られない。 だから、…

  • 1/22 めんどくささと戯れる

    生きるのがめんどくさい、と常々私は思っている。それは別にネガティブな意味ではない。ただただめんどくさいのである。 生きるに付帯している生活のあれこれ、食事、家事、国に生きる上での税金などの手続き。 肉体というものはあくまで付帯的である。ご飯を食べなくて済む身体なら、そも誰が食事など望むだろうか。(裏を返せば飢餓に耐えるだけの精神性が私にないだけであるが…まぁまぁ)(美味しいご飯はもちろん幸せであるが、それは飢え故である) 死にたいとは思わない、いや思えないということを私はよく知っている。私はそも生きているのではない、ただ存在しているだけである。正確には存在させられている。だから存在を消される(…

  • 1/20 主観=本当=謎

    前回、見え方に「本当は」などないという話を書いた。今回は見え方だけでなく、全てのものにそれはないのだ、つまり主観と客観など本来はわけられるものでは無いというお話をしていきたいと思う。 例えば、「私にはこの料理がまずく感じられるけど、本当は美味しいはずだ」という文から何か意味を感じとれるだろうか?その「本当は」は一体誰の味覚を指して言っているのか。 科学は言う。その料理にはグルタミン酸という旨み成分がたっぷり入っている。だからまずく感じるのはあなたの味覚が異常であると。 そうして人間は悩むことになる。「美味しく感じられない私がおかしいんだ」と。 本来、「本当は」が意味しているところのものとは、主…

  • 1/15 見え方の正しさ

    錯視。それは目が対象を間違って見えてしまっているという状況を指す言葉である。 有名なものにミュラー・リヤー錯視というものがあります。気になる人は調べてみてください。 2本の同じ長さの横棒が並んでいるのに、目の錯覚で片方が長く見えてしまうというものである。 錯覚とはその字面通り錯誤の感覚という意味である。錯視の例で言えば、「本当は」同じ長さなのだけれど、間違って片方が長く見えるということである。 こういうふうにするから、人々は勘違いする。 そのものの長さと、その長さの見え方とは本来全く別の話である。そこをごちゃ混ぜにするから、人々は「本当は」という幻想を抱く。 例えば、あなたは今飛行機の窓から富…

  • 1/14 人生の質

    量より質という言葉がある。それはつまり多さや大きさより、高品質なものの方がよいということを意味する。 市場でもまさにそうである、質がそこそこのもので大量に売られているものは安価である。それに対して、品質がよいものは、量も少なく、高値である。 人々はより質が高いものが価値である、と思っている何よりの証拠であろう。 では人生においての量と質ではどうだろうか。 人生の量それは即ち寿命のことであろう。 長寿ということは喜ばしいことだ。長生きは良い事だ。短命であるのは残念だ。若くして死んだ人は可哀想。大抵の人はこう思っているのではなかろうか。 ここに「なぜ?」と問う人はあまり見受けられない。 例えば、1…

  • 1/13 私=宇宙 宇宙=私

    宇宙が存在しなければ、自分も存在しない。これは誰もが認める事実であろう。 宇宙が存在しなければ、当然地球という星もない、そして、そこに誕生するはずの人類もない、だから当たり前であるが、自分という存在も、もちろん存在しない。常識ですね。言うまでもないようなことである。 ところが、逆のこととなると人はそうではないと思うようになる。 つまり自分が存在しなくても、宇宙は存在している、と人々は思うようである。これはなぜなのだろうか。 自分が存在しなくても、厳密には存在しなくなっても(=死?)、宇宙は存在している。とは一体どういうことなのだろうか。自分が存在しなければ、宇宙が存在していると思えるのは誰であ…

  • 1/8 早く迎えに来て

    人生の深淵。 一人で静かにベッドにねそべる時、或いは電車の窓から知らない街の景観が目にとび込んできた時、或いは友人と遊んだ日の帰り道、或いは…。 一日の中で、一度は経験する。 言葉にならない、胸のざわめきと火照り。 「私は一体何をしている?」 「私とはそもそもなんだ?」 「なぜここでこうしている?」 「この感情はなんだ?」 分からない、分からない、分からない。何もかもが分からない。 しかし、分からないとはっきり分かっている。 生きていると生かされているの狭間で、意思と運命の狭間で、揺れて、ぐらつき、傾く。 私がいるこことは即ち宇宙なのだと自覚した瞬間、足はすくみ、真下を覗くと巨大な暗闇が広がっ…

  • 1/7 認識と世界

    色。青色、赤色、白色、黒色。 我々は共通の認識をもって、それらの色を呼ぶ。色の認識が「一般の人」と違う人を色盲と呼ぶそうな。 彼らが見ている世界はどんなだろうか。 その前になぜ我々は色の共通認識を持っていることを確信しているのだろうか。 私の青色が、あなたの赤色かもしれない。あなたの黄色は、私の緑色かもしれない。 そういう可能性は絶対にないとは誰しも言い切ることは出来ないだろう。目の構造がどれだけ同じでも、それはなんの当てにもならない。 だって、脳の構造は皆同じなのに、考えていることは人それぞれで全然違うもの。 それにもかかわらず、われわれは当たり前のように「あのお花赤くて綺麗ね。」と言う。ま…

  • 1/6 あるとない 天才と凡人

    あるはある、ないはない。世の中の一番簡単であるが故にもっとも難しい道理である。 私たちの世はどうしても「ある」しかない。ないは無いのである。そんなの当たり前じゃないか、と人は思うかもしれない。 だが、いかに普段のわれわれがその事を忘れているかということを人々は認知していない。 例えば、今あなたは「何もしていない」とする。ただベットに寝そべって、ボーッとしているとしよう。 これはまさに人々が思い浮かべる「何もしていない」状況ではなかろうか。 しかし、これは本当に「何もしていない」ということなのだろうか。何もしていないことは果たして人間に可能なのだろうか。改めて考えて頂きたい。 そう、われわれには…

  • 1/3 歳をとること

    最近、歳をとることの面白さに私は目覚めている。 まだ23歳なのに、何言ってるのと言われるかもしれませんが、、、まぁ見ていってくださいな。 歳をとること、即ち老いること。 初老とは40代の別称である。老いはまさに40代から始まるのだと言う意味であろう。それまでは成長と言う名で呼ばれていた身体の流れが、ここに来て退化という名前に変わる。若さと老いとは、はていったいどのタイミングで入れかわったのだろうか。 いや、そもそも入れかわってなどいないのだ。われわれは生まれた瞬間から老け始めているのである。若さとは老いの一通過点でしかない。人生を山のように思うのは「若さ」に価値をおく為に陥る錯覚である。 生き…

  • 12/30 「科学」という物語

    さあ、いよいよお正月、もうすっかり年の瀬である。 年月の単位、それを不思議に思う人は多分あまりいない。ごく当たり前に、一日、一ヶ月、一年と過ぎていき、何十年したら、人間一人の「生」が終わる。 日が昇っては沈み、月が満ちては欠けてゆく、そして輝く星達が消えては戻ってくる。 人間は長い年月をかけ、太陽が回っているのではなく、私たちの星が回っているということに気が付き、月も満ち欠けしているのではなく、光の当たり方で違って見えるだけだと発見した。 これは科学という「物語」である。科学とはフィクションとして楽しまれるべきものであったはずだ。 しかし、科学は現代の我々の前に、「絶対的正しさ」として現れる。…

  • 12/27 お金がない

    お金が無い、最近酷くお金に困っている。でも何故だろう、すごく満たされている。初めてこんな窮地に立ったからだろうか。ここから見える景色に凄まじく興奮する。 お金が無いのは、なんて楽しいことなんだろう。自己の欲望と戦い、自制心と戯れ、日々を送る。あぁなんだかすごく「生きてる!」 生まれて初めて、魂の形をなぞっているようである。つまり「世界に一人だけしか存在していない、1996年に生まれ、2019年現在まで生きている、この私」の形である。 お金がある時には決して気づかれていなかった、「自己性」が顔を出し始めたのである。 魂の癖を垣間見た時、たまらなく嬉しくなってしまうのだ。「あぁ私ってこんな人だった…

  • 12/26 無自己な言葉

    言葉を発する。人はなんの為に言葉を発するのだろうか。 大昔、それはやはり生存の為であろう。その頃は言葉と言うより、音と言った方がいいのかもしれない。人は生きるため、敵から逃れるため、危機であることを仲間に知らせたり、仲間の居場所を確認したりしていたのだろうと想像する。 それは今の動物にも認められるだろう。群れをなす動物は何かしらの音を発し、仲間と連携する。 しかし人間が、精神が所有する言葉の本質がそこにないのは明らかだろう。今日において、特に日本においては生存の為に言葉を発する人はもはやいないと言ってもいい。 人は生存の前提で、生存以上の何らかの目的をもって言葉を発している。目的を持てる、とは…

  • 12/24 死は悲しい?

    死は悲しい。身近な人が亡くなるのは悲しいことだ。そんなの当たり前だ。ここで「なぜ悲しい?」なんて疑問を投げかけようものなら、のけものにされるのは目に見えている。 だが私はやはり問いたいのだ、なぜ人は悲しむのか。そして死とはなんなのか。 人が死ぬ。つまりは冷たくなって、身体が腐敗してゆく。日本ではもうすっかり火葬だけである。死体というのがよっぽど不気味なのであろうか、それとも人は死自体を恐れているのだろうか。とにかく死を遠ざける。この世にいるのは生きている人だけで、死人はあの世なのだ。 今や死とは完全に別世界の話である。死ぬのは果たして誰なのか。自己の死というのを人は上手く考えられない。それは死…

  • 12/23 ないからある、あるからない

    人は往往にして、それがある時にはありがたみを知らず、ない時には「なぜないんだ!理不尽だ!これさえあればうんぬん」と嘆くものである。 ある時はそれが当たり前であり、決して意識されることなく、その存在は水面下に静かに佇んでいる。その水面下の様々な存在が自分を創り、自分に安心感を与え、自分を守ってくれていることなど、人は滅多には気づかない。 人がそれに気づく時はたいてい、それが失われた時である。しかし、人はそれがあったありがたみを思い出すより先、それを失った理不尽さに嘆くのである。 存在とはかくものである。人は「自分」でさえありものであるということをしばしば忘れる。死にたいとはまさにその忘却によって…

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