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2019/11/23

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  • 10/31 順当な病み期が来ました〜「いけなさ」の根源はどこか?という疑問を添えて〜

    私の中で今病み期が来ている。なぜか急に涙が溢れたり、一日中淀んだ気持ちであったり、とにかくスッキリしない。モヤモヤが永遠胸のあたりにつっかえている。 精神の成熟(怠惰?)につれて、私はもうそこに「なぜ」も「なんの為に」も求めることをやめている。ただそういうものとして、時間が経つのをひたすら待っているだけである。 病んでいる時はただ病んでいれば良いのだ。この思考ができ上がるまでに私は24年もの時間を要してしまった。今まではそれがずっと「許されない、いけないこと」のように思えていたのである。 思うに「許可」という概念の面白さがここにある。「してはいけない」の「いけなさ」はどこから出てくるのか?それ…

  • 10/28(2)「オシャレ〜」のゲシュタルト崩壊にご注意下さい

    今日は代官山に行く用事があったので周辺を色々散策した。辺りをしばらく歩いて私が抱いた感想は「オシャレ〜」、どのお店にも入る勇気を持てなかった。 今回は「オシャレ〜」という、私からは縁遠いものについて考察していきたい。 まず私が最初に疑問に思うのは「「オシャレ〜」とは誰がいつどのような基準で決めているのか?」ということであるが、この発想自体がとてもダサいということはなんとなくもう察している。 「オシャレ〜」とはそのようなものでは無いのだろう。誰が決めるのでもない。流れのようなものが既に出来上がっている。その流れに自然にのれることがつまりオシャレということなのだろう。 次に私が疑問に思うのは「「オ…

  • 10/28 「〜ねばならない」から解き放たれた時、私はまだ存在できるだろうか

    一つのスタンスを保つ苦しさを最近なんとなく感じている。一貫性がなきゃいけない、過去の自分の発言と今の行動が一致してないといけない。なんとなくそんな雰囲気を感じないだろうか。 それが責任という言葉を生んだのではないか、そんな適当な憶測を述べてみる。責任とはいついかなる場合もその人がする言動は全てその人の意志によるものだ、という前提があるからこそ成り立つ概念であるように思う。 だからこそ、その人には常にその人「である」ことの責任がまず求められる。常に「〇〇として」存在することを要求される。それが、社会的動物である人間になる為の最低条件であるのだろう。 しかし、やはり苦しい。この苦しさは偏に私が人間…

  • 10/22 私が私であるのは私が私であるからだ

    最近自分のことばかり書いているので、久しぶりに昔に戻って哲学的なことも書いてみたい。 今回は私が最近考えている仮説「その概念をその概念自体に適用することは出来ない」について考察していきたいと思う。 例えば「意志」 人はあらゆる行動を意志できるが、意志を意志するというのはキリがない話になってしまうだろう。そこには意志を意志する為の「最初の意志」が必要であるにも関わらず、その「最初の意志」を意志する存在もまた必要になってしまうのである。ことは、無限に遡れてしまうが、永遠に「最初」には辿り着けない事態に陥てってしまうのである。 もっと身近なもので言えば「健康」などもそうなのだと思う。たまに「健康すぎ…

  • 10/21 人生で一度は言ってみたいセリフ第13位「全責任は私が負う」

    私の文章を何回か読んでくれている方ならなんとなく思っていることであろう「とにかく読みにくい」。 何が言いたいのかうーん、実は私もよくわかっていない。これは一種の責任放棄であろう。私は自身が書いた文章の意味を引き受ける事ができていない。 言いたいことがはっきりしていないのに、それを世界中の誰もが見られるところに書くのは甘えている感じが否めない。もし、コメントなんかついた日には私は酷く怯えるかもしれない。 ブログを書く人にとって、反応を貰えることは多分普通にはすごく喜ばしいことなのだろうと想像する。自分の書く文章が、名前も知らない誰かの元に届いただけではない、その人から更にリアクションを貰えたり、…

  • 10/18 私は幸運なだけではない、幸運に値する人間なのだ(と思いたい)

    AirPodsproは部屋のベッドの上に寝っ転がってました!よかった!おめでとう私!!! 無事3万円の損失を免れた私はとても上機嫌である。トータルで見ると何もいいことは起きてはいないはずなのに、不思議である。 いや、不思議でもなんでもない。探し物が見つかるというのは普通に喜ばしいことである。だってそれは完全に運のおかげ、つまり私は幸運だったのだ、喜ぶべきことじゃないか。 喜ぶべきことにただ喜んでいればいいものを、何かと考えてしまうのがこの人間の悪いくせである。なぜ喜ばしいのか?という疑問が頭から消えてくれないので、今回はそれを考察していくことにしたい。 幸運なことは喜ばしく、不運なことは嘆くべ…

  • 10/15 あらゆる出来事への対処法は対処しないことである

    突然だが、私は今とても心がモヤモヤしている。なぜなら、3万円もしたAirPodsproがカバンにもポケットにも見当たらないからだ。 えーーーー無理ーーーーっていう心の声を沈めながら、今とても冷静なフリをしてブログを書いています。どうも。 なぜ今すぐ探しに行かないのかというと、私は先程カフェに入り、とても美味しそうなクレープを注文して、腰を下ろしたばかりだからである。 クレープは食べたい、でもAirPodsproも気になる。クレープだって500円はした。それを無駄にして、もしAirPodsproをただ家に忘れただけとかだったらそれこそ損ではないか。しかしこれでもし家になっかったら3万円の損失… …

  • 10/14 「分かる」は時に人をも殺す

    「分かる」という言葉を口にする時、そこにはどれほどの理解が含まれているのだろう。私的にはゼロだと思う。 一般に何かを理解した時、人は「分かった」という。なぜならそれは過去の話だからである。分かったと言う瞬間にはもう分かっているのである。 しかし、人の気持ちに理解を示そうとする時人は「分かった」とは言わずに「分かる」という。 なぜこの時は過去形ではなく現在形なのだろうか?私はこの時制の変化をどうしてもひねくれて考えてしまう。つまり何も分かってないのではないか、と。 「分かる」とは文字通り、分けることができる、つまりは分類することが出来るという意味である。新しく摂取した知識や情報や考え方を自分の頭…

  • 10/12 後悔できるということへの憧れ

    後悔とは常に選択肢があった者にしか許されない贅沢な人生のスパイスである。 選べたと思うからこそ人は後悔をする。後悔できるというその事がその人の自信や能力やはたまた人生の幅をものがたる。 「あれすれば良かった」と言えるのは、あれが実際に自分にできたのだと無根拠に思える人間だけである。 なぜそう思えるのか?とは問うてはならない。まさにこの問を所有しないからこそ、そう思えるのである。 しかし、そうは言っても人生で後悔しない人など恐らくいないだろう。贅沢なスパイスなどと言ったが、それが贅沢足り得るのはやはり、庶民の味と比べた時だけである。 庶民の味での後悔と贅沢としての後悔は端的に区別されるべきである…

  • 10/9 何かを探す旅に出る時、探し物は既に見つかっているということに人は気づかないふりをする

    アイデンティティは誰しもがあるものだ。何も無いという人もその何もなさをアイデンティティにしているという意味では、やはりあるのである。 人にあるものは必ずアイデンティティを所持している。だがこのアイデンティティは決して自覚できるものでは無い。自覚できないというその事がそれを自身のアイデンティティにさせているからである。 自分が何を自分と同一視しているのか知れるなら、それは同一視出来ていないということを示してしまうのである。 我々にできることはせいぜいその自覚できなさを自覚して、確証が絶対に得られない推論をただひたすらに立てるだけである。 このアイデンティティとは即ち自分の生きる意味である。現代の…

  • 10/8 何をしたいのか?より何をしているのか?

    思考を言葉にする運動を私はサボりすぎたように思う。5ヶ月もの間、もちろん普通の意味でのコミュニケーションはしてきたが、自分の頭の中でまさに考えていることを言語化する努力を少しもしてこなかった。 なぜなら伝える必要性がやはりないのだと気づいてしまったからである。誰かに自分の価値観を伝えるということの意味はようするに「分かって欲しい」であろう。つまりは「分かってもらわなければいけない」という強迫観念である。 一度なぜそんな必要がある?と真剣に問うてしまえば、その必要性はあっけなく雲散霧消する。じゃあ今、私はなぜ再び書出したのか?ということを前回からずっと考えているが、ついさっき、おおよその答えが出…

  • 10/7 文章が下手すぎるし自分が何を書きたいのかもすっかり見失ってしまってタイトルまでくそ長い記事

    おかしい。5ヶ月間溜め込んだ言葉を抱えて戻ってきたはずなのに、ブログに向かおうとするとちっとも書けない。なぜだろう。 アウトプットをサボりすぎたせいなのか?長年使われなかったが為にすっかり錆びてしまった排水溝のように、私のアウトプット器官もくたびれてしまったというのだろうか? 排出したい言葉は沢山あるのに、どう排出したらわからない、という状況なのだろうか?それとも私はこの5ヶ月ですっかり排出する気力すら失ってしまったのだろうか? 水浸しでいいじゃないか。排出されない事での不都合なんて自分がちょっとしんどいというそれだけの事ではないか。そう考えている自分の存在もあるような気がする。 しかし、では…

  • 10/4 焦りが消えたらいよいよ焦る(?)

    とにかく私は今も焦っている。何に焦っているかは分からない。分からないのに焦っている。焦っていることだけははっきり分かっている。 未来への焦りだろうか。仮説をたててみる。しかしそんなはずは無い。焦るほど私は将来に期待など抱いてはないのだから。では過去への焦りだろうか。いやそれも無いはずだ。焦る程に本気で生きたことなどやはりないのだから。 じゃあ今への焦りなのだろうか。今に対する焦りとは何を意味するのだろう。今に焦るとは即ち自分に焦る、ということなのであろう?そして、自分に焦るとは、自分をその人生から切り離すことなのではないか?つまり焦っている方こそ自分なのだ、という主張ではないだろうか? ひょっ…

  • 10/3 人生の焦りとともにただいま

    あー帰ってきた。ただいま。 長い間休んで溜まりに溜まった言葉たちを出すところが、やはり私にはここしかないのだった。 5ヶ月くらい休んで、端的に私の人生にやってきたのは焦りだった。何に焦っているのかさっぱり分からないが兎にも角にも焦る焦る焦る。 毎日が不安の膜に覆われている。これ以上どこかにこの焦りを吐き出さなければ、私という存在がゆらいでしまう。そういう思いでここに戻ってきた。 思えば書いていた時の私は信念があった。まっすぐ人生を信じられていた。生き方に疑いを持つことなどなかった。不安や怖さは、その時もあったけれど、それを手の上で転がせる程には余裕があった。 なぜだろう書かなくなってから、どん…

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