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2019/11/23

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  • 12/16 なんで「何かがある」ということを不思議に思う人がこんな少ないねん

    12/16 なんで「何かがある」ということを不思議に思う人がこんな少ないねん

    人生虚しくない?私はただそれの共感が欲しいだけだ。「そうね、本当虚しいわ」と誰かが言ってくれれば途端にその虚しさは和らぐのに。 しかし現実には「どうしたの?何かあった?」と心配される一方である。その心配が私を一層虚しくさせる。何かがなければ、何か悲観的な出来事が起きなければ人生を虚しく思ってはいけないと言われているようである。 人生元から虚しい派の人に私は今まで出会ったことがない。正確に言えば本の向こう側以外では出会ったことがない。学校でも職場でも皆が将来を未来を見据えて、その計画を眩しいくらいの笑顔で語る。 「望んで生まれてきた訳じゃない、だから別に生きたくもない、人生どうでもいい」と言って…

  • 12/2 ロウガイ

    12/2 ロウガイ

    「老害」という言葉がこの世にはある。辞書様によると意味は 組織や社会で幅を利かせすぎて言動が疎まれる高齢者、あるいは、傍若無人な振る舞いによって若者に必要以上の負担や迷惑をかけている高齢者などを指す表現。ひらたく言えば迷惑な老人を侮蔑交じりに指す表現。 「老害(ろうがい)」の意味や使い方 Weblio辞書 だそうだ。 私は一般に「老害」と言われるような人が好きである。なぜなら彼らのあり方こそが人間の本質をそのまま体現しているように思うからだ。 見知らぬ若者に意味もなく説教したり、行列に割り込んだり、理不尽なクレームを企業に入れたり。こういう「他人なんか知るか、私は私の気持ちよさの為だけに生きて…

  • 11/29 ありのままとは何だろうか?

    11/29 ありのままとは何だろうか?

    相手のありのままを見られるというのは嬉しい事だ。それだけ相手が自分を信頼してさらけ出しているという証拠にほかならないからだ。 しかし、この「ありのまま」という概念はとても厄介であるということに最近気がついた。何が厄介かというと、ズバリそれは概念の無内容さである。つまり何を相手のありのままとするのか、どれが「本当の」その人なのか、そこには正解がないのである。 そこを決めるのは、ありのままの「内容」でもなければ、相手自身でもない。自分の偏見がそれを決めるのである。「相手がこの一面を見せてくれたら」という答えが多分自分の中に既にある。そして、それを相手が見事してくれたら、相手は自分に「ありのまま」を…

  • 11/26 凡人には逆向きの哲学(仮)しかできない

    11/26 凡人には逆向きの哲学(仮)しかできない

    哲学。ずっとこれに拘ってきたけれど、私の人生にはそれほど切実なものでは無い。最近そんな気がしてやまない。 これは私が現実を見据えられるようになったのか、単に自信をなくしているのか、或いはその両方であるのかはよく分からない、けれども哲学とわざわざ名前をつけて、それを「するんだ!」と思わないと考えることを始められないのだから、やはり哲学は私とは縁遠いものなのだろうと思う。 考えることと人生を完全に切り放せる私は、多分考える事で考えていない人々の優位に立ちたかっただけだ。くだらない虚栄心が哲学に行き着いてしまっただけの事なのだろう。 人生において本当に考えている人の関心事は多分「ただ知りたい」以外に…

  • 11/20 道徳は精神的通貨なのでは?

    11/20 道徳は精神的通貨なのでは?

    道徳的行為はそれが道徳的に為されたと本人が意識する限りにおいて、その行為で自身が満足することはありえない。満足するならそれは道徳的ではありえず、満足しないというその事がそれが道徳的であるということを示す。 お年寄りに電車で席を譲るという行為は本人がその通りに意識しているのならば、自身は必ずその事によって不満足を被る。なぜならそこには得てして「譲るー譲られる」の構図があり、更に意識によって、それは「譲ってあげてる」に必然的に変化するからである。 だから「あげてる」ということの不満足はどこかで帳尻を合わせなければならない。例えばそのお年寄りに「ありがとう」と言われることによって、或いは連れなどに「…

  • 11/18 明日には死ねるかもしれないと期待しながら今日を生きる

    11/18 明日には死ねるかもしれないと期待しながら今日を生きる

    ぬわぁぁあ全くもって死にたい。別に何かあった訳ではないが死にたい。とにもかくにも死にたい。 なんでこう、死にたいと思うことに理由がなくちゃいけないのだろう。自殺した人がいれば「何がそんなに辛かったのだろう」。別に辛くないけど死にたくなったらダメなのか?そう言いたくなる。(誰に?) 生まれたことは自分の意志によらない、それなのにどうして誰も彼もが「生きていたい」のだ!?死はいつだって生からの逃走でしか有り得ないんか!? と、まぁぶちまけてみたがやはりそうなのだろうと思う。死を経験した事のない個体が死を望む理由は死の側から語ることは出来ない。 行ったことの無いレストランに行きたい理由は「美味しそう…

  • 11/17 本当に他者を思うにはどうするのがいいのだろう?

    11/17 本当に他者を思うにはどうするのがいいのだろう?

    「他者」それが最近の私の関心事であるようだ。なぜだかは分からないが、何かと気になっている。 他者が気になる時は往々にして二パターンに分かれると思っている。自分に自信が持てないために他者を気にしてしまうか、自信の持て余しで余計なお世話を焼きたいかである。 今の私がどちらなのかは、もっと慎重に考えたいので一旦置いとくとして、まずは二つのパターンについてもっと詳しく見ていきたい。 自信のなさからくるタイプが本当に気にしているのはたぶん他者ではなく、他者に「自分は」どう思われているのだろう?の方である。他者に嫌な思いをさせてはいないか、が彼らの主な関心事であり、つまりそれは「自分は他者に嫌な思いをさせ…

  • 11/11 哲学は暇がないとできないものだろうか?

    11/11 哲学は暇がないとできないものだろうか?

    実生活が忙しいと、哲学をしている暇がなくなる。哲学をするにはまさに暇が必要なのだ、ということに以前の私は否定的だった。そんなことはない、考えることはいつだって出来る、できないというのは単に甘えているのだと思っていた。 でも最近、少しだけ考えが変わった。哲学に暇なんか必要ない、というのは以前と変わらないのだが、アウトプット、要するにきちんと言語化されている理解に昇華させるには、暇が必要なのだと思うようになったのである。 理解には二種類あると思っている。例えて言うなら、泳ぎ方は知っているが、泳げない理解の仕方と、泳げるが泳ぎ方は知らない理解の仕方である。 前者はメソッドはあるが結果が伴わない。後者…

  • 11/8 精神における底辺とは何か

    11/8 精神における底辺とは何か

    自分を底辺に置くことの安心感に私はどっぷり浸かっている。これ以上、さがることのない生活というのはそれだけで心を穏やかにする。 底辺という言葉が誤解を招きそうだが、私は決してフリーターや独身や低収入や六畳ユニットバスのワンルーム賃貸が底辺と言っているのではない。 底辺というのは精神的な話である。精神的な底辺というのは、絶対に論理的に叶わないようなことを思いたい精神のことである。だが、あくまで「思いたい」に停滞しているものに限る。 思いたいけど思えない、自分でそう線引きしておきながら、しかしそれを思えないなら自分の存在意義を見いだせない。そういう「無いもの」ねだりのような精神状態にあることを私は底…

  • 10/31 順当な病み期が来ました〜「いけなさ」の根源はどこか?という疑問を添えて〜

    10/31 順当な病み期が来ました〜「いけなさ」の根源はどこか?という疑問を添えて〜

    私の中で今病み期が来ている。なぜか急に涙が溢れたり、一日中淀んだ気持ちであったり、とにかくスッキリしない。モヤモヤが永遠胸のあたりにつっかえている。 精神の成熟(怠惰?)につれて、私はもうそこに「なぜ」も「なんの為に」も求めることをやめている。ただそういうものとして、時間が経つのをひたすら待っているだけである。 病んでいる時はただ病んでいれば良いのだ。この思考ができ上がるまでに私は24年もの時間を要してしまった。今まではそれがずっと「許されない、いけないこと」のように思えていたのである。 思うに「許可」という概念の面白さがここにある。「してはいけない」の「いけなさ」はどこから出てくるのか?それ…

  • 10/28(2)「オシャレ〜」のゲシュタルト崩壊にご注意下さい

    10/28(2)「オシャレ〜」のゲシュタルト崩壊にご注意下さい

    今日は代官山に行く用事があったので周辺を色々散策した。辺りをしばらく歩いて私が抱いた感想は「オシャレ〜」、どのお店にも入る勇気を持てなかった。 今回は「オシャレ〜」という、私からは縁遠いものについて考察していきたい。 まず私が最初に疑問に思うのは「「オシャレ〜」とは誰がいつどのような基準で決めているのか?」ということであるが、この発想自体がとてもダサいということはなんとなくもう察している。 「オシャレ〜」とはそのようなものでは無いのだろう。誰が決めるのでもない。流れのようなものが既に出来上がっている。その流れに自然にのれることがつまりオシャレということなのだろう。 次に私が疑問に思うのは「「オ…

  • 10/28 「〜ねばならない」から解き放たれた時、私はまだ存在できるだろうか

    10/28 「〜ねばならない」から解き放たれた時、私はまだ存在できるだろうか

    一つのスタンスを保つ苦しさを最近なんとなく感じている。一貫性がなきゃいけない、過去の自分の発言と今の行動が一致してないといけない。なんとなくそんな雰囲気を感じないだろうか。 それが責任という言葉を生んだのではないか、そんな適当な憶測を述べてみる。責任とはいついかなる場合もその人がする言動は全てその人の意志によるものだ、という前提があるからこそ成り立つ概念であるように思う。 だからこそ、その人には常にその人「である」ことの責任がまず求められる。常に「〇〇として」存在することを要求される。それが、社会的動物である人間になる為の最低条件であるのだろう。 しかし、やはり苦しい。この苦しさは偏に私が人間…

  • 10/22 私が私であるのは私が私であるからだ

    10/22 私が私であるのは私が私であるからだ

    最近自分のことばかり書いているので、久しぶりに昔に戻って哲学的なことも書いてみたい。 今回は私が最近考えている仮説「その概念をその概念自体に適用することは出来ない」について考察していきたいと思う。 例えば「意志」 人はあらゆる行動を意志できるが、意志を意志するというのはキリがない話になってしまうだろう。そこには意志を意志する為の「最初の意志」が必要であるにも関わらず、その「最初の意志」を意志する存在もまた必要になってしまうのである。ことは、無限に遡れてしまうが、永遠に「最初」には辿り着けない事態に陥てってしまうのである。 もっと身近なもので言えば「健康」などもそうなのだと思う。たまに「健康すぎ…

  • 10/21 人生で一度は言ってみたいセリフ第13位「全責任は私が負う」

    10/21 人生で一度は言ってみたいセリフ第13位「全責任は私が負う」

    私の文章を何回か読んでくれている方ならなんとなく思っていることであろう「とにかく読みにくい」。 何が言いたいのかうーん、実は私もよくわかっていない。これは一種の責任放棄であろう。私は自身が書いた文章の意味を引き受ける事ができていない。 言いたいことがはっきりしていないのに、それを世界中の誰もが見られるところに書くのは甘えている感じが否めない。もし、コメントなんかついた日には私は酷く怯えるかもしれない。 ブログを書く人にとって、反応を貰えることは多分普通にはすごく喜ばしいことなのだろうと想像する。自分の書く文章が、名前も知らない誰かの元に届いただけではない、その人から更にリアクションを貰えたり、…

  • 10/18 私は幸運なだけではない、幸運に値する人間なのだ(と思いたい)

    10/18 私は幸運なだけではない、幸運に値する人間なのだ(と思いたい)

    AirPodsproは部屋のベッドの上に寝っ転がってました!よかった!おめでとう私!!! 無事3万円の損失を免れた私はとても上機嫌である。トータルで見ると何もいいことは起きてはいないはずなのに、不思議である。 いや、不思議でもなんでもない。探し物が見つかるというのは普通に喜ばしいことである。だってそれは完全に運のおかげ、つまり私は幸運だったのだ、喜ぶべきことじゃないか。 喜ぶべきことにただ喜んでいればいいものを、何かと考えてしまうのがこの人間の悪いくせである。なぜ喜ばしいのか?という疑問が頭から消えてくれないので、今回はそれを考察していくことにしたい。 幸運なことは喜ばしく、不運なことは嘆くべ…

  • 10/15 あらゆる出来事への対処法は対処しないことである

    10/15 あらゆる出来事への対処法は対処しないことである

    突然だが、私は今とても心がモヤモヤしている。なぜなら、3万円もしたAirPodsproがカバンにもポケットにも見当たらないからだ。 えーーーー無理ーーーーっていう心の声を沈めながら、今とても冷静なフリをしてブログを書いています。どうも。 なぜ今すぐ探しに行かないのかというと、私は先程カフェに入り、とても美味しそうなクレープを注文して、腰を下ろしたばかりだからである。 クレープは食べたい、でもAirPodsproも気になる。クレープだって500円はした。それを無駄にして、もしAirPodsproをただ家に忘れただけとかだったらそれこそ損ではないか。しかしこれでもし家になっかったら3万円の損失… …

  • 10/14 「分かる」は時に人をも殺す

    10/14 「分かる」は時に人をも殺す

    「分かる」という言葉を口にする時、そこにはどれほどの理解が含まれているのだろう。私的にはゼロだと思う。 一般に何かを理解した時、人は「分かった」という。なぜならそれは過去の話だからである。分かったと言う瞬間にはもう分かっているのである。 しかし、人の気持ちに理解を示そうとする時人は「分かった」とは言わずに「分かる」という。 なぜこの時は過去形ではなく現在形なのだろうか?私はこの時制の変化をどうしてもひねくれて考えてしまう。つまり何も分かってないのではないか、と。 「分かる」とは文字通り、分けることができる、つまりは分類することが出来るという意味である。新しく摂取した知識や情報や考え方を自分の頭…

  • 10/12 後悔できるということへの憧れ

    10/12 後悔できるということへの憧れ

    後悔とは常に選択肢があった者にしか許されない贅沢な人生のスパイスである。 選べたと思うからこそ人は後悔をする。後悔できるというその事がその人の自信や能力やはたまた人生の幅をものがたる。 「あれすれば良かった」と言えるのは、あれが実際に自分にできたのだと無根拠に思える人間だけである。 なぜそう思えるのか?とは問うてはならない。まさにこの問を所有しないからこそ、そう思えるのである。 しかし、そうは言っても人生で後悔しない人など恐らくいないだろう。贅沢なスパイスなどと言ったが、それが贅沢足り得るのはやはり、庶民の味と比べた時だけである。 庶民の味での後悔と贅沢としての後悔は端的に区別されるべきである…

  • 10/9 何かを探す旅に出る時、探し物は既に見つかっているということに人は気づかないふりをする

    10/9 何かを探す旅に出る時、探し物は既に見つかっているということに人は気づかないふりをする

    アイデンティティは誰しもがあるものだ。何も無いという人もその何もなさをアイデンティティにしているという意味では、やはりあるのである。 人にあるものは必ずアイデンティティを所持している。だがこのアイデンティティは決して自覚できるものでは無い。自覚できないというその事がそれを自身のアイデンティティにさせているからである。 自分が何を自分と同一視しているのか知れるなら、それは同一視出来ていないということを示してしまうのである。 我々にできることはせいぜいその自覚できなさを自覚して、確証が絶対に得られない推論をただひたすらに立てるだけである。 このアイデンティティとは即ち自分の生きる意味である。現代の…

  • 10/8 何をしたいのか?より何をしているのか?

    10/8 何をしたいのか?より何をしているのか?

    思考を言葉にする運動を私はサボりすぎたように思う。5ヶ月もの間、もちろん普通の意味でのコミュニケーションはしてきたが、自分の頭の中でまさに考えていることを言語化する努力を少しもしてこなかった。 なぜなら伝える必要性がやはりないのだと気づいてしまったからである。誰かに自分の価値観を伝えるということの意味はようするに「分かって欲しい」であろう。つまりは「分かってもらわなければいけない」という強迫観念である。 一度なぜそんな必要がある?と真剣に問うてしまえば、その必要性はあっけなく雲散霧消する。じゃあ今、私はなぜ再び書出したのか?ということを前回からずっと考えているが、ついさっき、おおよその答えが出…

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