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2019/08/22

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  • 京都観光、お西さん(西本願寺)

    京都2日目(10/25)、曇のち雨がパラついた前日と打って変わって快晴となり暑いくらいの日となった。八条口近くのホテルを出て京都駅のコンコースで北側(烏丸口)に出る。京都赴任時代、京都駅に近い東本願寺(お東さん)には何度か入っているが西本願寺(お西さん)は門前の堀川通を車で通るだけだった。七条堀川の交差点を渡ると西本願寺の南隣の「興正寺」。本願寺と同じ浄土真宗の寺であるが、聖徳太子の事績に因む「正しい法を興しさかえさす」をモットーにする真宗興正寺派である。本願寺のミニチュア版とも言える境内をざっと見て「お西さん」へ向かう。興正寺と西本願寺の間、唐門に向かう「北小路通」は築地塀に挟まれ北京の紫禁城(故宮)を思わせる。御影堂門から西本願寺の境内に入る。目隠し塀は賊徒の直進防止か。その背中側、堀川通を挟んで総門...京都観光、お西さん(西本願寺)

  • 京都南区散歩(その4、最終)

    京都南区の散歩、最終回は西大路九条の交差点から国道十条に近い元勤務先までの約2キロである。200mほど行った歩道橋に西国街道の文字が見えるが、矢印の通り西大路を横切る細い道が西国街道。京都の東寺口(羅城門)から下関、あるいは大宰府までの山陽道のことである。ショッピングモール、イオンの先、西大路は45度曲がり「十条通り」となる。その角にあるのが吉祥院天満宮への入口。境内に入る直前に渡るのが西高瀬川。その上流にワコールの本社ビルが見える。早朝、桂川の土手を散歩するとワコールの女子陸上部の練習風景と遭遇することが多い。吉祥院は菅原道真誕生の地とされ、洛陽天満宮二十五社の一つ。道真所縁の鑑の井、胞衣塚などがあるという。社殿前を左折した参道で正面入口に出る。西高瀬川を渡り西大路十条の交差点に戻る。十条通りを東に向か...京都南区散歩(その4、最終)

  • 東寺があれば西寺もあった

    朝刊の確定開票結果を見ると、埼玉県の自民当選の8選挙区中の5選挙区で、立憲と共産の合計得票数が自民候補の得票数を上回る。全国ではもっと多いことだろう。比例復活の関係で全体の当選者数の変化を計算することは難しいが、野党の当選比率がもっと増えたのは間違いない。「政権奪取」を唱えた立憲の野田代表だが、やはり野党共闘すべきだったのではないか。我が埼玉14区で落選した石井公明党代表は辞任を仄めかす。特別国会での首班指名に向け石破自民総裁も苦難の道が待つ。 さて、京都南区散歩(その3)は、九条通りを西へ向かう。東寺南大門から数百メートル、九条通り沿いに「矢取地蔵尊」が立つ。「矢取」の意味はもうちょっと先で。その裏手の小さな公園に「羅城門跡」の碑が立つ。羅城門は平安京の南の入口だったがへ平安末期の暴風雨で倒壊、そのまゝ...東寺があれば西寺もあった

  • 京都南区散歩(2)

    衆院選の最終投票率は不明だが、前回の55%余りを下回るようだ。昨日「投票率上がれ、そうすれば・・・」と書いたが、上がらなくても自公が過半数割れした。我が埼玉14区、公明新代表の石井氏が国民民主、鈴木氏に負けて議席を失う。その国民民主が前回比4倍の躍進。「投票した国民」は、野田立憲と共に右派野党を選択したようだ。 さて、順延した京都南区散歩の紹介、その2である。大宮通りの東門から入ると左手に「東寺と言えば」の五重塔が立ち、外人観光客の御婦人と譲り合いながらカメラを構える。東寺の境内で五重塔を下から全部ながめようとすると有料ゾーンに入らなくてはいけない。それをパスして食堂(ジキドウ)と講堂の間を横切り南大門へと向かう。多くの観光客がいるはずだが、皆有料ゾーンにいるようで広い境内は意外に疎らである。大師堂(...京都南区散歩(2)

  • 投票率上がれ、今日衆院選

    衆院選挙日の明け方、久々江戸川の土手に上がると霧がかかる。幻想的な日の出、天頂には二十五夜の下弦の月。さて、自民党の裏金問題、「政治とカネ」を問う今回の衆院選だが、立憲右派野田代表は野党共闘を拒否。結局「裏金ではなく不記載」と宣(ノタモ)う石破自民、我が埼玉14区から鞍替え立候補した石井新代表の公明の自公共闘が勝つのではないか。願わくば、雨では無さそうな今日、投票率が上がって自公過半数を阻止したいものだが・・・。「京都南区散歩」の続きは順延。投票率上がれ、今日衆院選

  • 京都市南区散歩(1)

    会社OB会で久々の京都へ。東京駅も京都駅も海外からの観光客でごった返し、大きな外人が引く巨大な車輪付きバッグを必死に避けながら歩かねばならない。時間はたっぷり、大好きな京都駅の巨大空間をひとしきり彷徨う。夕方のOB会の会場は、京都駅から南東へ約2キロの勤務先(だった)建物の中なので東寺経由で歩くことにする。京都駅八条口から少し下り(サガリ)、西へ向かう裏道を歩く。衆院選ポスター掲示板の番号が右から左、さすが京都は古風?堀川通り伏見稲荷前の交差点、向こう側に立つカップルは多分、日本人ではない。東寺が面する大宮通り直前の小さな寺、山号寺号は小さな表札型。東寺東門前に着く。7年ぶりにゆっくりと境内を散策しよう。続きは次回。京都市南区散歩(1)

  • 中越地震から20年、長岡の奇跡

    昨日は中越地震から20年。8年前の2016年の同じ10月、十日町から長岡までの信濃川(長野県内は千曲川)沿いを歩いていた。山古志という標識を見てあの中越地震を思っていた。やがて左手に「妙見メモリアルパーク」、前方に上越線の上下線に別れたトンネルの出入口が穿たれた山肌を見る。足下にはゆったりと流れる信濃川の先、妙見堰も見え始めている。それでもここが、母子3人が乗った車が崩れた山肌に潰され、2歳の男児だけが4日後に救出された、あの「長岡の奇跡」の現場であることは気が付かなかった。長岡の街に着き、震災アーカイブセンター「きおくみらい」に入って見た大きな写真パネルに「ああ、あそこだったんだ!」と気が付いた。妙見メモリアルパークの地面に敷かれた細い鉄板の先が千曲川に向かっていた意味。我が子だけでも何とか車から出して...中越地震から20年、長岡の奇跡

  • 善光寺の屋根は撞木(シュモク)造り

    中学の時「歴史研究会」という新しい部活を作り、まず善光寺の本の読み合わせをした。日本で三番目に大きな木造建築、寺院には珍しい妻入りなどを知った。4回目の部活は誰も来なかった。今回、北国街道を歩き久々に善光寺を参拝。中世には今の境内より南側に伽藍があったこと、その南大門あたりが大門という地名の元になったことを知った(昨日のブログ)。そして今日は善光寺の屋根について。今回、善光寺から北国街道に戻ると時に眺めた善光寺の側面である。奥の内陣の上の屋根は左手の正面からの入母屋に直行した入母屋となっている。俯瞰写真で見ると檜皮葺の屋根の稜線(棟)がはっきりと「T」の字を描く。これを「撞木造り」という。撞木は鐘を打つT型の棒のこと。平面図に稜線を書いてみる。下が入口、上が内陣、内々陣である。明日はサラリーマン生活の最後...善光寺の屋根は撞木(シュモク)造り

  • 善光寺に「大門」はあった!

    一昨日の「善光寺と北国街道(2)」で、「『大門』というからには昔は大きな門があったのか思うが仁王門も山門もまだ先である。成田山のような『総門』があったのだろうか。」と書いた。何とか判らないかとネットで探したら「長野市誌第二編中世」のある図版にハタと手を打った。中世の善光寺は今より南にあったという図だ。それは周囲を(土)塀で囲われた細長い伽藍配置で本堂の形は現在と変わらないが今は無い五重塔がある。南(右)の端の門が南大門である。これを今の地図に落とすとこんな感じであろう。まさに大門交差点あたりに「南大門」があったと思われる。そして当時の町割りでも南大門の前に「大門」の町名がある。その大門の南に「後町(ゴチョウ)」の町名。今は無き母校の小学校が「後町」であった。結論は大門に大門があったのである。その大門交差...善光寺に「大門」はあった!

  • 善光寺と北国街道(3)

    「善光寺と北国街道」の最終回。長野えびす講発祥の西宮神社の先で北国街道を一旦離れて善光寺境内に向かうと仁王門の裏手に出る。この道は高校の3年間、毎日々々自転車で通った道。長野県庁東門前の自宅から3キロ半の通学のほゞ中間点。県町、若松町、桜枝町と続いた急坂が終わり善光寺の境内を横切る道は一息つけるところだった。十数年前に平成の大修理が終わった重要文化財の山門、日本で三番目に大きい木造建築の本堂はもちろん国宝。「遠くても一度は詣れ」。本堂脇から城山公園方面への道脇には句碑が並ぶ。小林一茶の二句、春風や牛に引かれて善光寺開帳に逢うや雀も親子連は善光寺への奉納句。城山公園への入口、ここを左へ1キロちょっとで母校の高校である。正面は当時はなかった県立美術館(信濃美術館)には東山魁夷の有名な絵画などが展示される。長野...善光寺と北国街道(3)

  • 善光寺と北国街道(2)

    善光寺への参道(北国街道)も長野駅前の末広町交差点から1キロ半、大きな大門交差点に着く。ここを西へ向かうと信州大学教育学部。昔の長野刑務所跡である。「大門」というからには昔は大きな門があったのか思うが、仁王門も山門もまだ先である。成田山のような「総門」があったのだろうか。この角に長野のNo.1地銀、八十二銀行の大門支店が立つ。大きな対の常夜燈の先も急坂が続く。次の善光寺交差点が善光寺境内の入口で北国街道はここを右折して行くが、篠ノ井宿で合流した善光寺街道(北国街道西往還)はここまで。この手前右側にあるのが本陣である藤屋旅館。アールデコ調のモダンな建物は、昭和初めに仁王門(改修?)も手掛けた宮大工の設計と言う。ずっと現役の旅館(ホテル)だったが最近は結婚式場などに特化したと口碑に書かれる。姪の一人もここで結...善光寺と北国街道(2)

  • 善光寺と北国街道(1)

    高校同期生の物故者法要のあと長野駅前に泊った翌日、北国街道を「少しだけ」歩く。午後からは雨の予報に長くは歩けないだろう。ホテルの部屋で朝ドラ「おむすび」を観てから出発。まずは前回のゴール、長野駅脇の線路に突き当たったところの反対側からスタート。メトロポリタンホテルの奥が線路その逆側、長野駅前からの道が合流する末広町交差点本堂までは約2キロ(十七丁)、やがて右手に「刈萱山西光寺」。通称「かるかやさん」。出家した父(刈萱道心)を追って高野山に入った子の石童丸。息子と判っても名乗れない父。悲恋の物語の寺である。善光寺大地震で五重になった九重石塔、信州最古という芭蕉碑など久しぶりにじっくりと廻ってから先に進む。大きな新田町交差点を西へ行くと長野県庁、奥は裾花川を挟んで旭山。東へ行くと市役所、交差点に近い信越放送ビ...善光寺と北国街道(1)

  • 飯綱高原のワイナリーで「お斎」

    高校同期生の物故者法要を終え、チャーターバスでお斎(オトキ)会場に向かう。一旦千曲川を渡り更埴インターから上信越道へ。信州中野で降り、再び千曲川を立ヶ花橋で渡る。その西詰を横切る国道117号は9年前の千曲川ウォークの12日目、豊野から飯山に向かう途中で歩いた道。左の山肌を走る飯山線と足下の千曲川が織りなす風景を楽しんだ。橋を渡って直ぐの蟹沢トンネルを抜けると北信五岳道路。バスはどんどん標高を上げていく。三水(サミズ)小学校前を右折、斑尾川を渡って更に上る。着いたところは斑尾山の南斜面、飯綱山を裏から眺める標高約600mの高原にあるワイナリー、サンクルーゼのレストランである。ぶどう畑越しの絶景を楽しめる特等席が「お斎」会場である。オーナーの久世夫妻は東京から移住しペンションを経営。フランスやイタリアのよう...飯綱高原のワイナリーで「お斎」

  • 喜寿の年、高校同期の物故者が4人に一人

    長野市で高校の同期生の「物故者法要会」があった。喜寿を迎えた今年、判っているだけで20%強の百名の物故者を数えること、及び同期の学年同窓会長が和尚であることもある。団塊世代でひとクラス45~47人、10あったクラス別の物故者数は、3人から15人と5倍の開きがある。逆に言えば15人に一人、3人に一人という差。やはり物故者一番多いクラスからの法要参加者が多かった。連絡のつかない約百名の中にも同様の率で物故者がいるとすれば、凡そ25%、四人に一人ということになる。そんな年になったんだなァと改めて思う。和尚は法要後の説法の中で物故を「もっこ」と言う。さて、長野駅からのチャーターバスで和尚のお寺に初めて行ったが、千曲川に近い長野市篠ノ井の南部。何と、先日の北国街道ウォークの2日目で渡った篠ノ井橋北詰めらすぐであった...喜寿の年、高校同期の物故者が4人に一人

  • 立憲野田の共産排除で野党惨敗か

    自民党の裏金問題を好機と見て、自公半数割れを謳う立憲民主党の野田代表だが、左派、特に共産党との野党共闘には完全に後ろ向き。これに共産党が反発するのも無理なかろう。前回の衆院選、埼玉では共産党が大幅に立候補数を絞って9選挙区で共闘が実現し立憲の議席数を伸ばしたが、今回は野田代表の共産排除に反発、ほゞ全選挙区に立候補を予定している。一方与党の自公は十増十減の埼玉新14区の公明党、石井新代表以外は全て自民に統一して必勝を期す。自民王国埼玉が続きそうである。明日明後日と長野行きでお休みをいただく。 今朝の日の出散歩から立憲野田の共産排除で野党惨敗か

  • 北国街道、丹波島宿なのだが・・・

    北国街道ウォークの3日目は篠ノ井駅から長野駅までの約10キロ。途中、犀川近くに丹波島(タンバジマ)宿がある。JR東日本の5日間フリーパスの最終日、大宮から新幹線で長野に着き、通学の高校生などで満員の松本行きの篠ノ井線(中央本線)に飛び乗る。と書き始めるのだが、実はこの日の写真データが壊れてしまった。カードリーダーをパソコンに挿してすぐ一部画像がファイル化出来ず、何かおかしいとは思っていたが、いろいろあってそのまま挿しっ放しにしておいたら全画像にアクセス出来なくなった。よって今回は、国交省長野国道事務所発行のガイドマップでこの日の行程を紹介するのみである。お気に入りは於佐加神社前から真っすぐ数百メートル伸びる丹波島の宿場通りの趣、昔は旅人が川面に渡した綱を頼りに渡ったという犀川の渡し、今は丹波島橋の橋詰...北国街道、丹波島宿なのだが・・・

  • 北国街道、篠ノ井追分宿

    「ヒダンキョウ」、理解するまで一瞬間(マ)が開く。ヒバクシャと共に国際語になっているようである。その日本原水爆被害者団体協会がノーベル平和賞を受賞した。唯一(タヒチをいれると唯二)の被爆国でありながら核禁止条約の批准を拒む政府に堂々と「物申せる」団体である。核廃絶に向け、プーチンやイラン、北朝鮮の核脅迫に向けた国際社会の「希望の星」と位置づけられた結果であろう。戦前は、東アジア諸国を侵略し原爆で止めを刺された国の運輸官僚。戦後は止めを刺した国の核の傘の下に入る安保条約の継続に奔走した兄の後継として、その継続のご褒美としての沖縄返還の時期にたまたま総理大臣となった者から50年ぶりの平和賞とは皮肉なものである。さて、信州の北国街道ウォーク2日目は矢代宿から篠ノ井追分宿へ。約1キロの重複となるが屋代駅から北に歩...北国街道、篠ノ井追分宿

  • 北国街道、下戸倉・矢代宿

    久々、江戸川の土手へ日の出散歩。日の出時間はだいぶ遅くなって6時近くなっている。さて、信州の北国街道ウォーク初日、上戸倉宿から下戸倉宿へ国道18号を歩く。2キロで戸倉駅入口の交差点。この一画に本陣(宮本家)、問屋(ローソン)などがあったというが今は何もなし。この少し手前にもう一つの本陣(柳澤家)があったらしいがよく判らなかった。唯一当時から残るのが「下の酒屋」と呼ばれた造り酒屋を本陣跡から眺める。今は蕎麦処「萱」。酒蔵は資料室になっている。坂木宿ー下戸倉宿は数キロだが、坂木宿では両親が眠る禅寺を往復し、ここ戸倉では温泉街近くの両親が人生の後半のほとんどを過ごした実家(今は貸家)に寄り道して同じくらいの距離を歩いている。また凸凹の狭い歩道に難儀したこと、加えて30℃近い暑さにバテ気味であることを理由に、街道...北国街道、下戸倉・矢代宿

  • 北国街道、上戸倉宿

    つい半月前までの猛暑に慣れた体にはいきなりの冷え込みは堪える。石破内閣が最短記録を作って衆院解散となった昨日、日中も17℃までしか気温が上がらず終日石油ストーブを点けた。さて、信濃の北国街道ウォークは坂木(坂城)宿を抜けて千曲川沿いの国道18号となり、しばらく歩道脇にはバラが植えられ目を楽しませてくれる。坂城町はバラ栽培が盛んでトキ色の薔薇は「さかきのバラ」。しなの鉄道のトンネルの出口近く「横吹新道の設計図」が立つ。昔は山裾まで千曲川だったため江戸時代は山肌の細い峠道を超えていたが、往来は厳しく人馬の転落事故も多かった。明治になって地元(坂木村)が千曲川脇に新道を作る願いを県に出して翌年政府が認可。村民総出で岩を穿ち明治10年に完成。これが今の国道18号の元となった。やがて家や小路の度にアップダウンする狭...北国街道、上戸倉宿

  • 北国街道、坂木宿

    先月末のJR東日本「5日間フリーパス」の後半は3日連続日帰りで北陸新幹線を往復し、信州の北国街道ウォークとした。北国街道は小諸市の「追分」で中山道から分去れ(ワカサレ)し長野市の善光寺を通り、越後の高田宿(上越市)までの約140キロ(35里)。広義には京都から高田宿までの北陸道も含み、加賀藩を始め北陸や越後の大名たちが参勤交代で通った街道である。指南役は国交省長野国道事務所発行の「北国街道信濃二十二宿」である。10年近く前の千曲川ウォークで追分宿から矢代宿(千曲市)までは、宿間のルートは多少違っても既に歩いているが、生地である坂木(坂城)宿からスタートし長野駅まで歩いた。初日(9/28)は坂木(坂城)宿~矢代(屋代)宿の約12キロ(3里)。北陸新幹線を上田で降りしなの鉄道(旧信越本線)で3駅、坂城駅へ。駅...北国街道、坂木宿

  • みちのく古代城巡り、最後は胆沢城

    奈良時代に北に領土を広げようとする朝廷が、行政や軍事拠点として築いたのが多賀城、胆沢(イサワ)、志波(シワ)などの城(城柵)である。現秋田城は出羽柵(イデハノキ)と呼ばれていた。その最後、胆沢城址へのウォーキングは金ヶ崎町の武家屋敷に約1時間寄り道した後、奥州街道(旧4号線)に戻ったところ。今日はこの後仙台経由で埼玉の自宅に帰るだけである。奥州街道の両側には豊かに実った田んぼが広がる。このあたりは北上川流域の肥沃な地、狩猟民族の蝦夷たちも古代から大陸から渡来した稲作を営んでいたという。北上川の支流、胆沢川を渡ると志波城址までは1キロちょっと。胆沢川の流れはかなり早い。これを渡ると奥州市に入る。鎮守府八幡宮への鳥居と胆沢城址の木柱が立つところに着くが、地図を見るとここは未だ広大な胆沢城址の西の端である。こ...みちのく古代城巡り、最後は胆沢城

  • 「金が咲き」町の武家屋敷を歩く

    一昨日(5日)小雨をついて「三郷HanabigaNight」が行われた。昨年より増えた江戸川土手の有料席も雨の影響でぎっしり満員とはならず、花火師へ感謝のスマホライティングもまばらとなった。この花火師への感謝のライティングは長岡花火大会が発祥と言う。フィナーレさて、みちのく古代城巡りの2日目、最後は胆沢(イサワ)城(奥州市)。仙台から下り一番の新幹線で一関へ。東北本線下りに乗り換えて約30分で平泉の先、金ヶ崎に着く。一関寄りの水沢からよりも少し近い。立派な駅舎は武家造り。立派な駅舎にある観光案内所に寄り胆沢城址までの地図を所望すると代わりに「金が咲き宿(武家屋敷)MAP」と「金ヶ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区」のガイドマップををくれる。金ヶ崎は古くからの軍事上の重要地で、伊達藩の時に金ヶ崎城(...「金が咲き」町の武家屋敷を歩く

  • 古代城址の後は東北歴史博物館(多賀城市)

    多賀城址見物を終え2時半に国府多賀城駅に戻る。仙台駅前での飲み会の前にシャワーを浴びたいが東北歴史博物館を訪れる余裕はありそうだ。無機質な外壁に「多賀城1300年」の大きな垂れ幕。案内所で貰ったパンフレットによれば、10月12日から始まる特別展には平安京時代の国宝が奈良や京都の博物館からも集まるようだ。あと半月早ければ・・・。高い天井のワンフロア、100メートルほどの長さの館内は照明を押さえた落ち着いた大人の雰囲気。縄文時代から昭和までの展示がジグザグに配置される。先ほど現地で見て来た多賀城碑のレプリカが置かれる。この博物館から少し東へ離れている多賀城廃寺跡の復元模型。多賀城とほゞ同時に建立された。東北各地での蝦夷との闘いの地図。縦長の楕円は坂上田村麻呂と蝦夷の三度に渡る激戦地である。この戦いについては次...古代城址の後は東北歴史博物館(多賀城市)

  • イシバガダマシ(石破が騙し)

    朝日朝刊「多事奏論」で歴代首相を痛快に皮肉って来た高橋純子編集委員が就任早々の石破首相を皮肉る。決選投票で逆転負けして「今日が安倍総理国葬から2年目の日、いいご報告が出来なくて申し訳なく思う」と語った高市早苗が首相にならなくてホッとした。それだけは言えるとも言えるし、それだけしか言えることはないとも言える。あの9人なら「イシバガマシ」。(しかし、就任後の石破茂の言動に)「野花を摘んで花瓶に挿したら即しおれました」、イシバガマシが「イシバガダマシ」と変わった。 さて、5日間フリーパスの旅、初日(9/26)の午後は盛岡から仙台に移動し東北本線で4つ目、その名も「国府多賀城駅」へ。高架駅の上から北側の多賀城址方向を眺める。真平だった盛岡の志波(シワ)城址値は違い丘陵にある。階段を降りたところに小さな観光案内所。...イシバガダマシ(石破が騙し)

  • 志波城址から盛岡駅へ

    志波(シワ)城址案内所の女性職員Tさんに見送られて盛岡駅までのウォーキングをスタート。しばらくは田園地帯を進む。岩手山はまだ雲の中。岩手山と言えば、最近噴火警戒レベルが2に上がった。国道46号線を志波城址入口の交差点で渡り、その先の交差点で右折すると市街地まで真っすぐ伸びる県道16号となる。曇空からポツポツと雨が落ち始め帽子をかぶる。やがて右手にはアリーナやスケートリンクなどの大きな建物が続く。左手には県立美術館のある中央公園が始まる。盛岡駅方面へ向かう県道を眼鏡橋のような歩行用陸橋が跨ぐ。トンネルを抜けると雫石川を渡る橋に向かって高架になった道下に先人記念館。明治以降の岩手の著名人130人を顕彰しているという。文人では宮沢賢治、石川啄木、野村胡堂etc.政治家では原敬、米内光政etc.教育者の新渡戸稲造...志波城址から盛岡駅へ

  • 盛岡・志波城址での僥倖

    みちのく古代城巡りの最初は一番後(803年)に出来た志波(シワ)城(盛岡市)。盛岡駅の南西約4キロ。午後は仙台の東隣の多賀城、夕方からは飲み会があり「時間が押す」ので往きはタクシーに乗る。未だ朝の渋滞があり15分ほどかかって東北道の脇に広がる志波城址の南端の「案内所(兼展示室)」に着く。28日にここで紹介した「志波城のあらまし」などの展示をざっと見てから城址入口の南大門に向かうが、1キロ四方というその広大さにびっくり。復元された南大門をくぐると政庁に向かって南大路が伸びる。その先に政庁の南門、左手奥の岩手山はあいにく雲がかかるが、右手の姫神山はくっきりと見える。この広場に4,000人の兵士が暮らしたという縄文時代のような竪穴式住居にびっくりだが、寒い北国ゆえ地熱を利用した賢い住まいかも。二重に囲まれた政庁...盛岡・志波城址での僥倖

  • 新幹線60年、貨物専用新幹線も

    1964年10月1日、東京オリンピック直前に東海道新幹線が開業して今年で60年。JR東海は東京駅でのぞみ1号の記念の出発式を行った。一方、JR東日本は北陸、上越、東北の各新幹線1編成に2両程度組み込む「荷物専用の車両」の開発を発表した。将来的には荷物専用の編成も構想しているという。これには前段がある。コロナ禍で新幹線も閑散状態になった時、空席に東北などの「朝採れ野菜、朝獲れ海鮮物」を積み込み、夕方に大宮駅で展示即売会を行い好評を博した。新幹線は揺れが少ないので痛みが少ないのがメリットだが、座席が邪魔で多くは積めなかった。そこで座席の無い荷物専門車両の開発となる訳だが、荷物を出し入れする入口の扉を大きくすると車両の強度が下がり大幅な設計変更となるようだ。物流の働き方改革(2024問題)からも鉄道の貨物輸送が...新幹線60年、貨物専用新幹線も

  • 5日間乗り放題の間に・・・

    5日間乗り放題切符で、東北の古代城巡りと信州の北国街道歩きを楽しんでいるうちに世間では、・自民党総裁選は石破茂が逆転勝ち(今日「石破政権」へ)・初代「50-50クラブ」会員の大谷翔平の3冠はならず・イスラエルとレバノンが「全面戦争」の危機などなど。 先月(9月)最後の5日間(乗り放題の旅)の合計歩数は12万5千歩、一日平均で25,000歩、さすがに疲れた。その結果、月間でも今年最高の一日平均11,000歩となった。伊能ウォーク隊の足跡を辿るバーチャル日本一周の最終Ⅴステージは島根から鳥取に入り倉吉市へ。第Ⅴステージの半分を超えこの年末には京都に入れるだろう。 明日から5日間乗り放題の旅の様子を連載するが、後半は北国街道のウォーキング。今回は歩いていないが善光寺から越後に抜けるあたりは野尻湖のほとり。その近...5日間乗り放題の間に・・・

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