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2019/08/16

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  • 船上山の戦い(鳥取県)

    元弘2年/正慶元年(1332年),鎌倉幕府転覆を企てた後醍醐天皇は隠岐国に配流,同地の守護・佐々木清高に幽閉される。 清高の監視は厳しかったが,翌年,天皇は脱出に成功,船で出雲国を目指すが風に流され伯耆国に漂着してしまう。 ここで,天皇は同地の地頭・名和長年により保護,長年は天皇を奉じて守備に適した船上山にて挙兵する。 一方,天皇に逃げられた清高は奪還のため手勢を率い同山へと攻め寄せる。数に劣る長年であるが,山中の木々に旗をくくりつけて数多くの手勢がいるよう見せ掛け,時折矢を放つという攻撃を繰り返し牽制,その結果,清高方の大将・佐々木昌綱の目に矢が当たり戦死したほか,降伏する武将も現れてしまう…

  • 箕輪城(群馬県)

    群馬県高崎市に存在していた箕輪城は昭和62年(1987年)に国の史跡に指定された平山城である。 同城は永正9年(1512年),同地を支配する長野業尚により築城されたとも,その子・信業により大永6年(1526年)に築城されたとも言われている。 この時代,上野国には関東管領山内上杉氏が存在していたが,永禄元年(1558年),当主・上杉憲政が越後に逃亡すると,北条氏,武田氏,上杉氏(旧長尾氏)が侵攻を繰り返す草刈場であった。 そのような中,長野氏(当主は「上州の黄斑」と呼ばれた長野業正)は上杉氏の後ろ盾のもと,地元の箕輪衆をよくまとめ,長野氏黄金期を築き上げた。 特に,幾度も攻めてくる武田氏を巧みな…

  • 国道4号線(青森県)

    東京都中央区から青森県青森市を結ぶ国道4号線は約836Kmもの長さを誇る国道である。 交通量も多く,それだけ事故が多くなることも関係しているのだが,場所によっては心霊スポットとされていることもあり,それがために「国道死号線」などと呼ばれてしまうこともある。 青森県内においても,そのように呼ばれる区間が存在してるようである。 それは,青森市内にある浅虫温泉付近で,昭和42年(1967年)から同49年(1974年)にかけて交通死亡事故が多発,この区間では幽霊の目撃例が増えたのだという。 また,浅虫水族館付近で和服姿の女性を乗せ,同水族館付近を通るとその女性の姿が消えてしまう・・・という現象を体験し…

  • 藤戸の戦い(岡山県)

    寿永3年/元暦元年(1185年),源範頼(頼朝の弟,義経の兄)は平家追討軍を率い京都より出発する。 特に,舟戦に長けた平家に対し,舟を持たない源氏にとって水軍確保は緊急の課題であったが遅々として進まず,逆に平家の水軍に兵站を断たれてしまうほか,備前国児島半島に城郭まで築かれてしまう。 範頼軍にとり,この城郭を攻略することは重要な問題であり,そこで佐々木盛綱がこの城郭と約500mの海峡を挟んだ藤戸の地に向かう。 盛綱の軍勢に対し,城郭を築いた平行盛は盛綱を盛んに挑発,意を決した盛綱は騎馬で押し渡り行盛を追い落としたといい,平家は讃岐国屋島へと逃走したのだという。 なお,この戦いには一つの伝承があ…

  • 新田金山城(群馬県)

    群馬県太田市の中心部にある標高約235mの金山の上に築城された山城が新田金山城で,関東七名城の一つにも数えられているほか,昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され,現在は公園も整備されている。 同城は,文明元年(1469年),新田一族である岩松家純により築城されたとするが,文献によれば,それ以前である建武3年(1336年)に佐野義綱が新田城を攻めたとする記録があるようで,もしかすると文明元年以前に築城された可能性も否定できないようである。 岩松家純没後,岩松氏では内紛が発生,重臣横瀬氏と岩松氏が対立し,横瀬氏が籠城する新田金山城へ岩松氏が攻め込む事態にまで発展したが,やがて横瀬氏が岩松氏を排…

  • スペース21(青森県)

    青森県にある岩木山の麓には,「スペース21」または「厳鬼山スペース21」と呼ばれるホテルの廃墟が存在している。 この建物は20年以上前に建設された,本館と別館に分かれる建物で,外観は保たれて,廃墟の感じはあまりしないらしい。 一時は大分盛況だったそうであるが,立地条件の悪さ,また,衛生面に問題が生じたそうで,次第に客が減り短期間で経営が破綻,その後廃業したのだという。 また,この手の廃墟によくありがちな話ではあるが,ホテルの経営破綻後,同ホテルでオーナーが自殺した,また,浴槽で高齢者が死亡したとされ,この2人の幽霊が出没するとされている。 そして,現在は,この手の廃墟にありがちなパターンで,心…

  • 篠原の戦い(石川県)

    寿永2年(1183年),圧倒的兵力で源義仲軍に迫った平家軍は,倶利伽羅峠において義仲軍の奇襲攻撃を受け大打撃を受けてしまう。 sizyuukara-1979.hateblo.jp そのため,平家軍は北陸道を京都方面へ向かい逃走していたが,義仲軍はすぐさま追撃を開始,ついに,加賀国の篠原の地で平家軍を捉えることに成功する。 倶利伽羅峠の戦いで敗北したとはいえ,数万の軍勢がいた平家軍であるが,すでに交戦能力を失っていたこともあり壊滅的被害を受けることになる。 それは,平家一門である平知度(平清盛の七男)や斎藤実盛(齢70を超える老将で,若々しく戦いたいという理由から髪を黒く染めて戦った。)などが戦…

  • 小幡城(茨城県)

    小幡城は茨城県茨城郡茨城町にある,三方を水田に囲まれ,舌のような形をした台地に築かれた城である。 同城の築城年や築城した人物については,応永24年(1417年),大堟詮幹の三男・義幹が築城したとも,鎌倉時代に小田知重の三男・光重が築城したとも言われているが,詳細は不明である。 あまり詳細な歴史は不明であるが,天文元年(1532年),城主と思われる大堟氏が江戸氏に暗殺された際,小幡城も江戸氏の攻撃を受け落城,その後,小幡城は江戸氏の支配下に組み入れられる。 しかし,江戸氏は,天正18年(1590年),豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず,その後,常陸国の大半を安堵された佐竹氏の攻撃を受け滅亡,その頃に…

  • 仏ヶ浦(青森県)

    仏ヶ浦は陸奥湾口の平舘海峡に面した急峻な海岸沿いに2Kmに渡りなる奇異な形態の断崖や巨岩が連なる場所で,景勝地にも指定されている場所である。 その奇勝は極楽浄土を模して,「如来の首」,「五百羅漢」,「極楽浜」等の名前が付けられており,昭和16年(1941年)には国の天然記念物にも指定されている。 さて,そのように景勝地であり,極楽浄土の名が付けられている場所なのであるが,潮の流れの関係からなのか,よく水死体が流れ着く場所でもあるのだという。 それを裏付けるかのように,昭和29年(1954年)9月,台風15号の影響を発生した青函連絡船洞爺丸転覆事故の際にも,多くの遺体がこの地に流れ着いたのだとい…

  • 倶利伽羅峠の戦い(富山県)

    治承4年(1180年),後白河天皇の第三皇子・以仁王の平家追討の令旨を受け信濃国を出陣した源義仲はその勢力を北陸道に大きく広げていた。 これに対し平家は寿永2年(1183年),平維盛を総大将とし,総勢10万騎と称する大軍を派遣,越前国の火打城では平家が勝利,義仲軍は一時越中国へ退却する。 この後,越中国に進出していた平家軍先遣隊は般若野の地で義仲軍先遣隊の奇襲を受けて敗北,逃走したため,平家軍は改めて能登国志雄山,そして加賀国と越中国の境にある砺波山の二手に陣を敷く。 義仲軍は志雄山に牽制部隊を送るとともに,本隊は砺波山へ,また,一部隊は平家軍の背後に迂回させる戦術を採る。 そして平家軍が寝静…

  • 笠間城(茨城県)

    笠間城は茨城県笠間市にある佐白山に築かれた山城である。 同山に城が築かれることになる経緯であるが,鎌倉時代,この地には,真言宗の正福寺と徳蔵寺という2つの寺が勢力争いを繰り広げていた。 やがて,劣勢となった正福寺は,下野の守護である宇都宮頼綱に援軍を要請,これに対し頼綱は自身の甥である塩谷時朝を派遣した。 時朝は元久2年(1205年),佐白山麓に築城,徳蔵寺を滅ぼすが,時朝の築いた城があまりにも大きいため,今度は正福寺が時朝に敵対,時朝と正福寺も滅ぼしてしまう。 そして承久元年(1219年),時朝はより堅固な城を佐白山に築城,この城が笠間城であり,時朝自身も笠間氏を称し,同城を居城とした。 そ…

  • 日本キャニオン(青森県)

    西津軽郡深浦町にある日本キャニオンは,侵食崩壊により凝灰岩の岩肌がむき出しとなった大断崖で,アメリカ合衆国のグランドキャニオンになぞらえて命名された景勝地である。 周囲をブナ林に囲まれた静かな場所にある日本キャニオンであるが,そんな人の気配のない場所にも関わらず,訪れた者の中には,誰もいないはずなのに背後に人の気配を感じる,また,撮影した写真の全てがブレていたり,謎のもや上のものが写りこむといった現象を体験した者がいるのだという。 なぜそのような現象がこの地で起こるのか,残念ながら不明である。

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